(一八)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇



   3

 ── そう怒らないで。もうちょっと「亀山郁夫的読書」についてきかせてほしいんですが。

 何だ、まだいたんですか? 冷やかしはもうたくさんなんですよ。
 いいですか、もう一度いいますよ。私の直面している問題は、まず、私のこの一連の文章が批判であるために、拒否反応を引き起こしやすい ── ただのゴシップとしてしか受け入れられない可能性がある ── ということ。次に、亀山郁夫訳の実際を認識しないひとたちには、私がいくらしゃべっても「こういうのは「気持ちはわかる」が、非生産的だ」としか受け取られないかもしれないということ。いまのふたつに絡めて、そもそも世のなかの評判に自分を合わせるばかりで、自分自身でものを判断するということのできないひとが大多数だということがありますね。また、ひとには自分の意見を撤回するのがなかなか難しいということも手伝います。それから、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのあるひとたちのなかでも、ただ読んだというのでなく、あるレヴェル以上で ── といっても、それが本当はそれがふつうのレヴェルなんですが ── 読んだというひとにだけしか私のいっていることが通じないということ。ああ、それと、東京外国語大学学長とただの読者とを肩書きでしか判断しないひともあるかもしれません。いくら何でも東京外国語大学学長がそんなでたらめなわけがない ── それについて何の肩書きもない一般人がどうしていちゃもんをつけるんだ ── という良識が事実を受け入れるのを拒むということですね。後は、翻訳者がどれだけ恐ろしいまでに稚拙な誤読をしていようと、目の前にある原典の一文一文をそのまま訳していって、最後の文にまでたどり着ければ、それで立派な翻訳だと考えているひとが多いのかもしれないということ。これは、作品というものが作者の「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎあい・たたかいの軌跡だということを理解できないひとたちがどれだけ多いかということでもあります。私は、本来ならそんなひとたちなんかどうでもいいと思っているんですが、それでも「ブルータスよ、お前もか」というような例が散見されるのが意外だったんですよ。まあ、そんなひとたちもそもそも「ブルータス」じゃなかったのかもしれませんけれど。しかし、いや、どうして亀山訳の実際を知らないでいられるんだ? と思うわけです。知らないだけなんだろう? 読んでいないだけなんだろう? と。

 ── でも、豊崎由美は読んでいますよね。読んで、「読みやすい」とあれほどまでにいうわけですよね?

 そうですね。彼女の『勝てる読書』の帯には「セコい大人に勝つために! 理不尽な状況に、くじけそうな自分に… 本の中にこそ勝てる言葉と思考がある」という文言があるんですが、いまのままでは彼女すら私にとっての「理不尽な状況」を助長していますよ。で、まったく現在四十六歳の私こそ、よっぽど「セコい大人に勝つ」ことを念願しているわけです。大人げなくも、ね。
 ロシア文学の研究者たちから、マスメディアから、亀山訳の実際を知ろうともせず、拍手を送りつづけている。いや、実際を知って、なお拍手しているでしょう。

 ── ええと、こういう情報もあります。白水社のホームページから。

【イベント】豊崎由美さんが翻訳小説リレー対談を始めます!
翻訳小説新刊リレー対談「豊崎由美アワー 読んでいいとも! ガイブンの輪」のご案内

この二月から隔月(偶数月下旬)に、書評家の豊崎由美さんがゲスト(作家、翻訳家など)を迎え、最近おもしろかった海外小説の新刊について、自由におしゃべりするというもの。またゲストには、某テレビ番組式に次のゲストを紹介していただきます。

第一回目は二月二十六日(木)十九時よりジュンク堂書店新宿店で行われます。
ゲストは野崎歓さんです。


 何ですって? 野崎歓

 ── 会場のジュンク堂書店新宿店のホームページによれば、

 海外旅行も洋画も各国料理も好きなのに、外国文学(ガイブン)はなかなか著者名が覚えられないし、登場する人物名も土地名もなじみがないからついつい敬遠してしまうというアナタ! 読んでみたいと思ってはいるけれど、次々出る新刊を前にどれを選んだらいいか途方にくれてしまうというアナタ! あるいは、海外小説についてさらにディープに知りたいというアナタ! とびきりのガイブン目利キストであるふたりが、「これはおもしろい!」「いまが旬!」「読んで損しない!」という新刊をおススメし、魅惑の翻訳小説ワールドへとみなさんをご案内いたします。


 ああ、そうですか。「とびきりのガイブン目利キスト」ねえ。「ゴドキスト」じゃないの? 「魅惑の翻訳小説ワールド」って、「最先端の誤訳ワールド」のことですか? それじゃ、野崎歓は次回ゲストに亀山郁夫を指名するんじゃないですか? 次回=四月のあたりには亀山訳『罪と罰』も完結か、完結間近とかいうことで。まったくどこまでも宣伝だ。で、野崎も亀山も、自分たちへの批判を冗談めかしてしゃべって会場の笑いを取り、世のなかにはうるさいストーカーみたいなのがいるんですねえ、困りましたよ、なんていいながら「それでも負けない野崎先生はすごい!」、「それでも『罪と罰』に手をつけてしまう亀山先生はすごい! ぜひ『悪霊』にも手をつけてください」なんてことにして終わりですね。豊崎由美が「誤訳していいとも!」。それで満場の拍手。目に見えるようだ。
 それでもロシア文学の研究者たちは何もいわない。それどころか、一緒になって拍手するわけです。

 それじゃ、ちょっと引用しましょうか。

 七月、舞鶴に着き、汽車で品川に帰ってきた。一四年ぶりの帰郷。多数の迎えにもかかわらず、日本がこんなに復興している驚きとは別の、大きなショックを受けた。
 迎えの人々のなかに、もと一緒に働いた軍医や看護婦もいた。敗戦後すぐ帰国していた、ある軍医はいった。
「湯浅さん、あんたなんで戦犯なんてことに。あの戦争は正しかったなんて、言い張ったんだろう。ごまかしゃいいのに」
「そうじゃないんだ。君とあれやっただろう」
「え、何を?」
 彼は戦後一一年にして初めて、湯浅さんに言われて生体解剖を思い出したのだった。過去を見つめてきた湯浅医師と、出迎えた医師との間には大きな隔たりがあった。
 これが、北支から帰国した元軍医たちすべての姿勢だった。北支那方面軍三〇万、そこに二〇以上の陸軍病院があった。病院の軍医と野戦の軍医、あわせると数千人の軍医がいたはずだ。さらに衛生兵、看護婦が何千といる。だが、誰も一言も言わなかった。もし誰か一人でも「あんなことをしたのだから、恐ろしいぞ」と言い出す者がいれば、軍医は誰も太原には残らなかったであろう。悪業として認識していない以上、否認する必要もなかった。

(野田正彰『戦争と罪責』 岩波書店


 どうです? この湯浅医師は、戦中に中国で自分の関わった「生体解剖」のためにずっと中国に拘束されて、やっと帰ってきたひとなんですよ。あ、「生体解剖」というのがよくわからないというなら、これを「死体解剖」ということばと対照させてみてください。

 べつの作品から引用しましょう。

 もちろん青木は、日中戦争を日本の中国に対する帝国主義的侵略によってひきおこされたなどとは夢にも考えていない。いまでも日中戦争大東亜共栄圏を打ちたてるための聖戦だったと信じているのだ。おのれが命令した捕虜虐殺事件にしても、ちっとも悪いことをしたとは考えていない。これまた戦争につきものの、やむを得ない処置だったと割り切っているのだ。
 彼は一流商社に定年まで勤めたということだが、そこでの仕事や研修などを通じて、おのれの旧態依然たる戦争観、中国観に修正を加えざるを得ないような場面にぶつかるといったことが、全然なかったのだろうか。不思議といえば不思議であった。
 しかし、元将校や兵士だった日本人の中には、青木のような男が圧倒的に多いのだ。特に戦友会に結集している連中は、ごく少数の例外を除いてほとんどが日中戦争侵略戦争だったとは考えてもいないのだ。しかも「反戦平和」や「日中友好」を唱える輩を白い目で眺めているのだ。

(井上俊夫『初めて人を殺す』 岩波現代文庫


 この青木というのは、語り手の元上官で、戦中、中国で彼に「刺突」をやらせた人物なんですね。「刺突」というのは、実戦前の新兵に「肝試し」をさせるんです。中国人を縛りつけておいて、新兵たちに銃剣で刺させる。こうすれば、実戦でも肝が据わるだろうというわけです。

 さらにべつの本から引用しますが、

奥村 そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられて立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼らは、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてたまらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目が開けられず、目をつむったまま、当てずっぽうに刺すものだから、どこを刺しているのかわかりません。そばで見ている古年兵にどやされ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。どのくらい蜂の巣のように刺したかわかりません。しまいに、心臓にスパッと入った。そうしたら「よーし」と言われて「合格」になったのです。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕立て上げられたのでした。

(『私は「蟻の兵隊」だった』奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)


 そういうことです。で、『初めて人を殺す』に戻りますが、戦後何十年もたって、語り手はいまや老人となった青木と話したんですね。

 私は青木とひとしきり思い出話に花を咲かせたあと、わざとさりげないふりをして、私が最も知りたいと思っている話題の中へ彼を引き込んでいった。
「ところで青木さん、私たち初年兵はあんたの命令で、中国兵の捕虜を楠の木に縛りつけて銃剣で突かされたことがありましたね」
 と、私にとって一番大事な質問をすると、とたんに青木のふやけた顔には、さっと警戒の色が浮かんだ。なんでお前はそんなヘンなことを聞くんやと、その顔は言いたげだ。私は、しまった! ここで青木に話をそらされたら、万事休すだと思った。
「いやね、私には忘れられないショッキングな事件だったもんですから、ちょっとおたずねしただけですよ」
 私はわざと頭をかいてみせた。すると、青木はニヤリと笑って、急に私にすりよってきたかと思うと、私の肩に手をかけ、媚びるような口調で、
「そうやがな。そうやがな。お前たちにやらせたあの五人の中国兵(ツンコピン)は、俺が連隊本部でもろてきたんや。お前ら、順番に銃剣で突いたのやったなあ」
 と言った。私が捕虜虐殺の話を持ちだしたとたん、なぜ青木が俄かにかくも卑屈でかくも馴れ馴れしい態度をとったのか、私には見当がつきかねたが、とにかくこれで彼は特別私を警戒しているわけではないことがわかった。

(井上俊夫『初めて人を殺す』 岩波現代文庫


 このまま長い引用をつづけます。

 ところで、私をふくむ二十三名の初年兵が殺した中国兵捕虜は、青木の言うように五人ではなく、一名だった。では青木はなぜこんな間違ったことを言ったのか。要するに彼の記憶は曖昧なのだ。彼は何度も同じようなやり方で、何人もの中国兵捕虜を部下に殺させているので、どれがどれだかわからなくなっているのだ。
「青木さん、私たちが殺した中国兵捕虜はあなたが連隊本部からもらってきていたということですが、捕虜はみんな本部に集められていたんですか」
「うん、そうや。連隊本部では作戦の都度つかまえてきた捕虜や密偵を取り調べたり、収容したりするところがあったんや。そやけど、建物が狭もうて収容しきれんようになると、こいつらを各中隊に配給して処分させていたんや」
「配給? 処分? つまり手分けをしては殺してしまうんですね」
「まあ、そうや。しかし、ただ無闇に殺すんやなくて、将校になる一歩手前の見習士官には軍刀による斬首訓練を、兵士には銃剣による刺殺訓練を施すために、我が軍としては有効適切に殺していたわけや」
「当時は国際的なとりきめで、捕虜をそういう形で殺してはいけないことになっていたのと違いますか」
「そんなに言うたかて君、われわれ皇軍には、国際条約もへちまもあるかいな。捕虜や密偵を大事に扱こてたら、しまいでこっちがやられてしまうがな」
 と青木は言って、びっくりするような高笑いをしてみせた。
「で、私たち初年兵に捕虜を銃剣で突き殺させた本当の目的は何だったんですか」
「もちろん、君たちを一人前の兵隊にするためやないか。初年兵教育の総仕上げにこれをやって、それから作戦に連れ出すわけや。この特別訓練をやっとくと、兵隊に度胸がついて、敵と遭遇した時に落ちついた行動がとれるようになるんや。俺が教育した初年兵にはみんなこの訓練をほどこしたはずや」
「では、青木さんご自身の初年兵の時は、どうやったんですか」
「もちろん、俺かて初年兵の時、上官の命令で捕虜を銃剣で殺す訓練を受けてるがな」
「うちの部隊だけでなしに、支那派遣軍のどの部隊でも、こうした訓練を兵隊にほどこしていたのでしょうか」
「うん、どこでもやってた。われわれ将校の立場から言うと、第一、この訓練をやらんことには強い兵隊、安心して前線に連れていける兵隊ができへんもんな」

(同)


 それで、語り手は現在の青木を見ながら、先に引用したように、こう思います。

 元将校や兵士だった日本人の中には、青木のような男が圧倒的に多いのだ。特に戦友会に結集している連中は、ごく少数の例外を除いてほとんどが日中戦争侵略戦争だったとは考えてもいないのだ。しかも「反戦平和」や「日中友好」を唱える輩を白い目で眺めているのだ。

(同)


 そうして、

 そして今や経済大国となった日本では、こういう考え方をしていてもめったに非難されることはないし、むしろ「健全な思想の持主」として、社会や企業からも歓迎されることを従軍体験者たちは敏感に嗅ぎとっているのである。

(同)


 どうですか? こういうことが、ロシア文学研究者たちの間にも起こっています。マスメディアにも起こっている。この「え、何を?」がどれほど恐ろしいことなのか、また、「え、何を?」ほどでないにしても、ある程度には自身の罪を自覚しているにもかかわらず、周囲を見回して「安全」と判断するや、もう問題をなかったことにしてしまう・しまえるひとたち。群れたがるひとたち、「誰の前にひれ伏すか」しか頭にないひとたち ……。それですよ、私が危惧しているのは。そのために私は亀山郁夫とその称揚者たちを絶対に許してはならないと考えているんです。

 チリンガ・リーン! このくそったれ!

カート・ヴォネガット『タイムクエイク』 浅倉久志訳 早川文庫)


 ── ははあ。何やら話が大きくなってきましたが……。

 大きくなんかなっていませんよ、そのまま、そのまんまです。これに関して「話が大きくなってきた」ということ自体が非常に危険なことなんです。あなたはまたしても高みの見物をしているんだ。

 ……全国紙の全面広告・全五段広告・半五段広告などで、「二十世紀掉尾を燦然と飾る(日本文学の)傑作」などと鉄面皮なオダを上げて提灯持ちをしているチンケな「書評家」、そういう無責任な超誇大広告と結託する多数「俗情」が結果する「せいぜい中くらいな作物の何十万部突破」ベスト・セラー化現象、── 文芸分野における「ボーダーレス」のいよいよ決定的な「悪平等」ないし「玉石混淆積極的是認」! ……

大西巨人『深淵』 光文社文庫


 ── しかしね、あなたはそうも偉そうにいえる人間ですかね?

 私自身は「セコい大人」ですよ。恐ろしく弱い人間です。恐ろしく弱いまま四十六年も生きてきました。これでさえ私には長すぎるでしょう。やれやれ、私は去年、この「連絡船」を「今後二十五年間の仕事」ということにしたんですね。二十五年後、「生きていれば七十歳」ということでね。まったく私は俗情にまみれているので、何が「今後二十五年間の仕事」だ? ともいいうるでしょう。私にも無数の「え、何が?」がある。呆れ返るほどあるでしょう。しかし、私はことこのことに関しては、絶対に譲歩してはならないと自分にいいきかせているんです。これについて譲ってしまったら、もう私は終わりですね。

 ── またしても平行線ですね。ともあれ、話をつづけましょうか。「亀山郁夫的読書」についてですが、あなたは亀山郁夫ともども世のなかの大半の読者を罵倒しているんじゃないですか?

 もちろん、その通りです。私は「世のなかの大半の読者」を、先の「え、何が?」のひとたちと同じに考えていますね。でも、このへんの事情に関してはもうこの「連絡船」でさんざんしゃべってきたことじゃないですか。亀山郁夫の訳文も、彼自身の「解題」での文章も、文章力のない者の文章ですよ。あれらを「読みやすい」などというひとのレヴェルの低さを私は罵倒するんです。

 ── 偉そうにねえ。

 だから、いっているでしょう。それを「偉そうに」などという愚劣な輩がはびこりすぎなんですよ。ね、ラキーチン。

 ── けっ、いいたい放題だ。

 いいたい放題ですよ、もちろん。でも、あなたにいいますが、これを「いいたい放題」などというのが、もうそれだけで駄目だっていうんです。私のやっていることと「いいたい放題」との区別のつかないひとにはけっしてアリョーシャの「あなたじゃない」の意味がわかりません。私はいいますが、アリョーシャになら、私のやっていることと「いいたい放題」との明確な差を理解することができるでしょう。
 いいですか、あなたがちゃんとした読書をすることができるなら、私がここでいっていることは全然問題にもなりゃしないんだ。「そうですよねえ、そんな馬鹿な読みをする奴がいるんですよねえ」という共感で、そのまま終わりなんですよ。

 ── なんて傲慢な奴なんだ!

 これはどうですか?

大西 ── 今の問題に必ずしも即してないと思われるかもしれないが、最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。「AでもないBでもない」と言っておく方がいい。本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。ところが今は、どうもみんな「AでもなければBでもない」というようなことを言う。わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる。そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。

大西巨人『未完結の問い』 作品社)


 あのね、『カラマーゾフの兄弟』を、亀山郁夫のように稚拙にでたらめに歪曲したものについて、世間の趨勢に合わせて称揚する ──「文学」をそのように歪める ── なんてことは、実は「人間」に対する大きな冒涜なんですよ。文学者 ── たとえばロシア文学研究者 ── こそ「人間」に奉仕すべきなのに、いまや「人間」を貶めることを仕事にしているんです。文学者が自分の処世のために「人間」を侮辱している。文学者がこんな体たらくでは ── 私はいいますが ── 日本は近い将来、本当に戦争を始めることになるでしょうね。亀山郁夫のやっていることは、ある意味、「アウシュヴィッツはなかった」、「南京虐殺はなかった」に等しいと私は断言します。そんなものを絶対に許してはなりません。それは「歴史の偽造」(大西巨人)です。いいですか、これ、真面目にいっているんですよ。「文学」に携わる者が絶対に「人間」を売ってはなりません。

 もうひとつ、XTC のアルバム『Nonsuch』の終曲から引用します。

Books are burning
In the main square, and I saw there
The fire eating the text
Books are burning
In the still air
And you know where they burn books
People are next

Andy Partridge (XTC) « Books Are Burning »


 この歌詞ですが、XTC の公式サイト(http://www.xtcidearecords.co.uk/)では、三行めが「The first eating the text」となっているんですね。でも、実際に曲を聴けば、どうしてもこれは「The fire eating the text」です。それで、そのように引用表記しました。



Nonsuch

Nonsuch




 こちら(ページのいちばん下)にも動画を追加しました。http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080806