(一八)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇



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 ── いやあ、ずいぶん怒っているみたいじゃないですか?

 もちろん怒っています。あ、私のことですよね、怒っているというのは? まあ、これを読んでいる亀山郁夫も「怒りにうち震え」ているでしょうね。「私の人格を貶めるような誹謗中傷」とかなんとかいいながら。

 ── ああ、それは昨二〇〇八年に出た「週刊新潮」五月二十二日号の……

 そうです。木下豊房らの批判に対しての彼の反応でした。自分では「批判されてもいい。批判を恐れたら、学問に進歩は生まれないでしょう」(亀山郁夫佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書)などといいながら、そんなことをいっているんですからね。彼お得意の「二枚舌」じゃないですか。批判されたなら、堂々と論争すればいいじゃないですか。まあ、彼には無理なんですけれど。それで「同じ土俵に立ってしまう」からとかいいながら、逃げている。あの批判はしごく公正なものですよ。ちゃんと反論を受け入れる用意があります。それをねえ……。しかもですよ、文部科学省の学術研究推進部会での「人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第九回 二〇〇八年二月十五日)」で ── その「配布資料」によれば ── 、彼は文部科学省の役人を前にして自分への批判をごまかそうとしているんですね。あの批判を「アカデミズムの反応→恐るべき閉鎖性」、「読者を持たないアカデミズムの悲惨」なんて呼びながら、「悪意をむきだしにした批判と倫理的視点からの人格攻撃」だの「結局、文学の精神からの批判を提示できない」だのといい、「文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる」とか泣きごとを並べているんです(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/08021902/001.htm)。まるで生徒が先生にいいつけているみたいですよ。それに、「読者を持たないアカデミズムの悲惨」って、彼はでたらめで読者を獲得できるなら、その方がきちんとしたアカデミズムよりましだといっているんですか? 売れさえすれば、どんなでたらめでもいいんですか? 私は本当にこの「売れさえすれば何でもいい」に我慢がならないんですよ。何が「文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる」だ? でも、どうですか、ここまで私のやってきていることは「文学の精神からの批判」じゃないですかね?

 ── まあまあ、そう興奮しないで。

 いまのは「配布資料」ですが、実際の「議事録」がべつにあるんですよ。これがひどい(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/gijiroku/015/08100707.htm)。

 先ほどの「教養知」と最先端的研究という、この一つの実例というのを、自分に照らして提示したいと思うわけです。そこまで君はナルシストかとのそしりを恐れつつも、自分なりにひとつ言いたいことがあるんですね。私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去五、六年です。結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては。問題は、なぜそう自負できるか、という点にあります。私は、ロシア・アヴァンギャルド研究の後に八年間ほどスターリン文化研究に励みましたが、そのスターリン文化研究の構造をそのままドストエフスキー研究に持ち込んでみたわけです。そこでどういう発見があったかというと、例えば一〇代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、五〇代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです。

(学術研究推進部会「議事録」)


 どうですか?「結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては」って大笑いですよ。ある意味では日本随一ですけどね。私はいいますが、「ドストエフスキーのテクストになまで感動」できないのは亀山郁夫自身ですよ。彼はアリョーシャの「あなたじゃない」に感動したことがまるっきりありません。イリューシャの苦悩をわがことのように感じたこともない。イワンの苦悩の読み取りもでたらめだから、これにも感動できない。「テクストの細部から何か新しい真実を見出していく」って、亀山郁夫は「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」なんてことがそうだというんでしょう? あのね、ペレズヴォンがジューチカとはべつの犬で、イリューシャを納得させるためにジューチカそっくりに右目をつぶされ、左耳にはさみを入れられた犬だなんて読みを提出されたら、こっちは何といえばいいんですか? もうこれは馬鹿でしょう? こんなものが「最先端」だそうです。「最先端」って、「大馬鹿」って意味もあるんですか? いや、亀山先生にはぜひともその「最先端」を日本だけでなく世界じゅうに発信してほしいもんだ。世界じゅう大笑い。

 ── ことばに気をつけて。駄目ですよ。……ええと、何でしたっけ、「人格攻撃」ですか?

 ふう、いったい彼はどんな形での「批判」ならいいんでしょうかね?
 笑っちゃいますが、それは「すり替え」ですよ。亀山郁夫は批判が怖くてたまらないんですね。いざ批判されると、とたんに「人格攻撃」ですから。「人格攻撃」といえば、逃げられると思っている。
 でも、当人の読みがあまりにも的外れである場合、しかも、その読みが表層的にたまたま的外れになったというのでなく、深層的に・構造的に的外れである場合に、それを批判するってことは、結局、当人の資質を批判することになるんですよ。
 こっちはしかたなくて、どんなふうに読書をしたらいいか、どんな読書が駄目なものなのか、そんなところからいわなくちゃならない羽目になっているんですよ。

 ── いいじゃないですか? だって、あなた自身がそれを「連絡船」の読者にとってよいことだといってますよ。

 そうでした。それはそうなんですけどね。ちょっと、これはあまりに……

 ── 落ち着いて。落ち着いて。

 これはね、この亀山郁夫批判というのは、ある意味とてもやりやすいと同時に、非常に困難でもあるんですよ。やりやすいというのは、彼の読み取りがあまりにも稚拙だからですね。ところが、ちょうど同じ理由が批判を非常に困難にします。

 ── どういうことです?

 これは議論にならないってことなんです。亀山郁夫と彼の批判者と、それぞれの主張があるばかりで、両者の間に議論の生まれようがないんです。なぜかというと、亀山郁夫には批判者が ── たとえば私が ── 何をいっているのか理解できないからです。


 ── 何ですって?

 いや、こっちだって彼が何をいっているのか、どうしてあんな主張ができるのかとわが目・わが耳を疑いますよ。そういう意味では彼のいうことが理解できない。でもね、彼がどういう思考回路を経てああいうことをいいだすのかの見当はつきます。この意味で「亀山郁夫的読書」がどういうものか、私にはわかります。そういう読者はたくさんいますから。もしかすると、手に取るようにわかるといっていいかもしれません。でもね、まさか『カラマーゾフの兄弟』を翻訳する人間がそういう読者だったとは……。
 ちょっと思い出したんで、引用してみましょうか? つまり、私はなぜ「亀山郁夫的読書」をするひとたちがそこから進歩しないでいられるのか・なぜ彼らが自分の読みに納得してしまうのか・なぜ絶えず自分の読書に疑問を持とうとしないのかは理解できませんが、それでも「亀山郁夫的読書」が確実に存在していることを承知しているし、それがどのような思考回路を経るものなのかがわかるということです。それは理屈 ── 形・型 ── としては、こんなふうにわかるんですね。

「なぜ悪が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです。でもぼくは、この差異の感覚がなぜスタヴローギンのような人では摩滅され、失われていくのかはわかるんです」


 もっとも、「亀山郁夫的読書」というものは、何かが「摩滅され、失われ」たのではなくて、はじめから何もないんですけれど。……まあ、これは余談です。
 そんなわけで、こちらが相手についてわかっていることが、向こうにはわからないわけです。「亀山郁夫的読書」をする亀山郁夫には、こちらの主張が ── こちらの思考回路をも含めて ── まるっきり理解できないんです。
 あのね、たとえば私の場合、こうやってかなりの量の文章を書いたりしているわけですけれど、自分の考えを書きながら、それに対してどういう反論がありうるかということを常に考えているわけです。というか、それがそもそも考えるってことでもあるんですが。つまり、いつも自分の考えを検証しているわけです。自分の考えをいつも鍛えている。だから、あることを考えるときに、何を押さえておかなくてはならないか、特に強調しなければならない箇所はどこか、気を遣っています。これこれの反論が予想されるから、これは必ず書いておかなくてはならないな、なんていう判断をしているんです。何というか、自分のなかにいろんな視点があって、それぞれが対話しているんですね。
 それで、いざ反論が出てきたときには、「ああ、やっぱりそこを突いてきたか」とか「あ、それは盲点だった」とか反応できるわけです。
 それが亀山郁夫にはないんです。

 ── え?

 亀山郁夫が自説を展開するとき、彼はそもそも、それに対するどのような反論がありうるかをまったく考えていないんです。彼の主張はまったく無防備なんです。

 ── え?

 彼の内部にはそのたくさんの視点がありません。対話がない。単一の視点、その独白しかないんです。つまり、彼は何も考えていないんです。彼はただ思いつきをしゃべっているだけです。自説の検討すらできません。まったく無防備で、脆弱なままなんです。だから、彼の説を打ち崩すのは造作もないんです。面倒ですけどね。
 彼にあるのは、その思いつきを自分で気に入るかどうかってことだけです。で、気に入ったら、もう後はそのまま突っ走るだけです。その思いつきにしたがって作品を読むだけ。作品を自分に合わせるんです。
 つまり、亀山郁夫には考えるってことができないんです。彼には内省がない。
 とっくに指摘しましたが、「大審問官」について、彼は最初、大審問官と向かい合っているのがキリストだということで論を進めました。キリスト対大審問官=イワンということでね。それで、キリストが大審問官に与えたキスが大審問官の事業の「承認」・「祝福」だといって、大審問官=イワンの勝利みたいな説を展開するんです。ところが、そのまま今度は、原作にはキリストがキリストという名まえで書かれているわけではないといって、それは「僭称者」ではないか、といいだすんです。これ、おかしいでしょう? だったら、さっきまで展開されていた大審問官=イワンの勝利という説はどうなるんですか? そのフォローもない。こんな笑っちゃう理屈を平気で提出できるのは、何も考えていないからですよ。しかも、「僭称者」説をそれ以上展開しようともしない。
 さっきの犬の件にしてもそうです。ペレズヴォンがジューチカの「僭称者」だというわけです。「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」って、キリスト僭称者説とそっくり同じパターンでの思考です。
 本当に単純・無防備なんです。
 そんな「亀山郁夫的読書」をするひとに、いったい、こっちの反論が理解できますか?

 ── ははあ。

 できるわけがない。亀山郁夫には反論できないんですよ。だから、彼には批判が自分に対してのいじめ・人格の否定としてしか受け取りようがないんです。彼に反論ができるくらいなら、最初からあんな説の展開ができません。
 亀山郁夫との議論が成立しないと私のいうのはそういうことです。
 もしこれを読んでいる亀山郁夫が反論してくるなら、私は受けますよ。やってみたらいい。

 ── いいんですか、そんなことをいって?

 かまわないでしょう。そうでなきゃ、この半年間、私は何をしてきたんです?
 また引用しましょうか?

 おれたちが二塁のほうに近づいた時、ちょうどショートのダドリー・シフトが遠く右へ走って、地を這うようなゴロを捕球するのが目にはいった。
 シフトは捕ったボールを二塁手の<作品オーパス>ガンダーネックに投げ、ガンダーネックは二塁ベースを走り抜けながらそれを受けとめた。
 かと見ると、ガンダーネックはもう一度ボールをシフトに投げ返し、シフトはそれを矢のように一塁手の<アッチラ>ハネウェルに送った。
 ルーブはTKO寸前のボクサーのように、両腕を顔の前に上げてくずおれそうになった。
 そしてムースの肘をつかんで態勢をささえた。
 そしていった。ムース、お願いだから、わしが今たしかにこの目で見たことを、本当は見なかったんだといってくれ。
 ムースはいった。そうだな、今あんたが、ショートからセカンドへ、セカンドからまたショートへ、そしてショートからファーストへってダブルプレーをやるのを見たんだったら、あんたは本当にそれを見たんだよ。
 ルーブはオーパス・ガンダーネックをそばに呼び寄せた。
 そして彼の肩に手をかけた。
 そして穏やかな父親みたいな口調で話しかけた。
 なあ、おまえ、わしゃ野球に身を入れるようになってから五十年ぐらいにしかならんので、もしかしたら高級なセオリーなんかでまだ知らんことがあるのかもしれん。だからおまえが今あの小さな丸いものをショートに投げ返すかわりに、まっすぐ一塁へ転送しなかったのはなぜか、わしに教えてくれんかな?
 ぼかあ、左ぎっちょだからですよ、とオーパス・ガンダーネックはいった。
 こないだ、ぼかあダブルプレーをやろうとして旋回投げをして、鎖骨骨折と三重脱腸をやっちまったんです。
 ダドリー・シフトがいった。去年、ここでエギゼビジョン・ゲームのとき、今のプレーをやってもうすこしで成功するところだったんですよ。

(ロス・H・スペンサー『哀愁のストレンジャー・シティ』 田中融二訳 早川文庫)


 ガンダーネックの「ぼかあ、左ぎっちょだからですよ」は、彼として非常に切実な返答です。彼はあるレヴェルまでは野球のセオリーを心得ているわけです。笑ってしまいますが、あるレヴェルまでの返答にはなっています。ところが、ガンダーネックすら野球において理解しているレヴェルまでの理解が、亀山郁夫には文学において、ない。
 だから、私には亀山郁夫自身を論破しようなんてつもりが端からありません。あんなひとはどうだっていいんです。私が危惧するのは、そんな彼をもてはやす新聞社やら出版社やらテレヴィ局などの無節操と、それらにコロリと騙される数多くの読者たちですよ。その読者のなかでも、「亀山郁夫的読書」をするひとたちなんかは、これもどうでもいい。そうでない読者 ── せっかく「背伸び」をしたのに、ひどい翻訳に当たってしまった読者 ── がいるはずなんです。そういう数少ないだろう貴重な読者の、今後すくすくと成長していくはずの芽が摘まれることを私は心配しているんです。そういうひとたちが「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」をそのまま鵜呑みしてしまうのを懸念しています。亀山郁夫の「解題」やNHK講座が実に役立ったなどと思ってしまうことを。

 ── ああ、なるほど、そういうことをあなたは考えているんですね。

 つい先日も読売新聞が「魅了する格調・名調子 海外文学 旧訳本相次ぎ刊行」と題する記事(二〇〇九年一月十四日 山内則史)において、書き出しの「『カラマーゾフの兄弟』で火がついた海外文学の新訳ブーム」から亀山郁夫訳をヨイショしているんですね。記者の山内則史は自分の書いていることの意味がわかっているのか? 彼は亀山訳を読んだのか? また、あの「解題」を読んだのか? 読んだうえで共感しつつ記事を書いたのか? 疑いを抱きつつ、それを脇へ置いて書いたのか? いずれにせよ、ひどいです。
 ついでにいえば、毎日新聞ですね。あの翻訳に対して「毎日出版文化賞特別賞」を授賞したというのは、どういうことなのか? 選考委員は本当に読んだのか? 「解題」も読んだのか?
 それと朝日新聞亀山郁夫が「朝日賞」の選考委員ですか? 選考委員を選考したひとはあの翻訳を本当に読んだのか? 「解題」も読んだのか?
 やれやれ、また引用しますよ。


「いいかい、見習い僧君、この地上にはばかなことが、あまりにも必要なんだよ。ばかなことの上にこの世界は成り立っているんだし、ばかなことがなかったら、ひょっとすると、この世界ではまるきり何事も起らなかったかもしれないんだぜ」



 ── しかし、あなたは以前にその三つの新聞から取材を受けていなかったでしょうか? しかも、記事は三つじゃすまないですよね。そうだ、NHKの取材はいったい何回受けたんですか? そのあなたがいま、三紙ともを、またNHKをも悪しざまにいうんですか?

 ああ。読売新聞の山内記者とも話したことがあります。だから、何ですか? ひどいものはひどいんですよ。これはやっぱり、はっきりいわなくてはなりません。やれやれです。もしかすると、亀山郁夫もあの当時(二〇〇一年)の記事 ── これは朝日新聞ですが ── で、私が『カラマーゾフの兄弟』を「世界最高の小説」といっているのを読んだかもしれませんね。どうですか、いま、ふと思ったんですが、もしかすると、その記事も彼が一連のドストエフスキー関係の仕事を始めるに当たっての一因・後押しのひとつになっていたかもしれない。「私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去五、六年です」……いやいや、まさか。それは悪夢ってもんです。
 何がいいたいんです? 私が矛盾している?
 そりゃ、矛盾だらけですよ。私の勤める書店は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』をずっと平積みにしていますしね。原卓也訳も平積みにはしていますけれど。このへんの矛盾に関しては、この「連絡船」の「はじめに」でずいぶんしゃべりましたよ。またそれをここでやれ、と? あそこでもたくさん引用しましたが、いまはふたつだけ。しかも光文社文庫から。

 ……私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むにちがいなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数数の愚劣、非合理の一つに過ぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。……だが、違う、これは無条件に不条理ではないか。……虚無主義者に、犬に、条理と不条理の区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声吠えろ。それがいい。 ── 私は、「忘れました」と口に出すのを私自身に許すことができなかった。顔中の皮膚が白壁色に乾上がるような気持ちで、しかし私は相手の目元をまっすぐに見つめ、一語一語を、明瞭に落着いて、発音した。
「東堂は、それを、知らないのであります。東堂たちは、そのことを、まだ教えられていません。」
( ── それが当日私が思ったより以上の事故であり、そのような言明は現場の誰しもの想像を超えていたろうことを、のちのち私は知ったのであるが、その朝も)、言い終わった私は、私の躰が俎板に載ったと感じた。四人の偽証者を、私は必ずしも憎みもさげすみもしなかった。午前半ばの光の中で進行しているこの些事が、あるいは私の人生の一つの象徴なのではあるまいか。


 ……こういうことに私が血眼になっても、それにどんな意味があるのか、あり得るのか。相手が「チチョウ」と読め、と命じるのなら、また上官上級者にはいつでも敬称を付けよ、と求めるのなら、そのとおりに私がしたら、よいではないか(……そうすることが私にできさえしたら……)。要するにあれもこれも蝸角の争いではないのか。本来は味方でなければならぬ(?)わが同年兵たちも、私がしつこく粘って事を長びかせるのに、往生して、嫌気が差しているにちがいなかろう。……私はこんな所でこんなことを言ったり行なったりするのにふさわしい人種ではなく、そういう言行を好き好む人間でもない。……「チチョウ」か「シチョウ」か、敬称付きか敬称なしか、それがどっちに転んでも、広大な客観的現実は右にも左にもかたぶきはしないであろうに。また私が向こうに転んでも、誰も私を責めはしないであろうに。……

(同)


 いや、もうひとつ。

「人は、『精神の、魂の、連絡船』を(大小何艘か)持つべきであるが、とりわけ数年このかた、自分は、まるでそれを持たない(持つことができない)。」という(桜井自身もが、「われながら、取り留めないような」と断わらざるを得なかったところの)感想を述べたのも、そのおりであった。……どこからどこへの、何から何への、連絡船なのか、それは、彼自身にも、ほとんど五里霧中のような事柄である。ただ、もしも彼がその「精神の、魂の、連絡船」を(何艘か確実に)所有し得たならば、彼の内面における「落莫の風」は、たぶん吹き止むのではないか(少なくとも風勢がずいぶん落ちるであろう)、という漠然たる予感のようなものが、彼自身になくはない。……

大西巨人「連絡船」 講談社文芸文庫五里霧』所収)


 で、これも以前にいったことですけれどね。この「連絡船」で私が「読書案内」をしようとする。でも、これは本当はもっと適任のひとがいくらでもいるはずなんですよ。ところが、そういう有能なひとたちはこんな面倒くさい仕事はしないんですね。だから、私がやらざるをえない。亀山郁夫批判も同じです。何だってこの私がこうまでこのことに首を突っ込むのか、自分でも呆れますけれど、木下豊房ら数名を除くと、どうでしょう、もっと適任であるべきひとたちは何にもいいやしません。

 ……一般のまじめな読者からこのような反応が出ている反面、ロシア文学を専門とする研究者の反応はどうだろうか。「検証」をおこなったロシア語を得意とする商社マンのNN氏、商社マンの経歴を持つ翻訳家で著述家の長瀬隆氏を別として、ロシア文学界ではっきりと批判の声を上げているのは、萩原俊治氏と私だけである。実は萩原氏と私は三月十五日付で、日本ロシア文学会の理事、各種委員の役員六〇名に宛てて、今年秋の全国大会で、亀山氏の仕事をめぐる公開討論会を企画するように申しいれた。しかし五月末の理事会で、この要請は却下された。議事録の公開を要求したが、無回答のままである。

(木下豊房「亀山問題の現在」http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm


 いったい、「ロシア文学界」は何をしているんですか? 先の「そこでどういう発見があったかというと、例えば一〇代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、五〇代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです」なんていう亀山郁夫の発言にどうして怒らないんですか? こんなことをいわせておいていいんですか? その「目新しい視点、発想」とやらが……

 ── ジューチカ僭称者説という具合だ、と?

 そうそう。わかってるじゃないですか。
 もう一度亀山郁夫の文章を引きますよ。

 さて、コーリャ・クラソートキンは、かつての子分であるイリューシャを元気づけるため、どこから連れてきたのか、ペレズヴォンという名前の大型犬を自宅でひそかに飼育しています。外見はジューチカとそっくりですが、それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです。ジューチカは何者かによって片目をつぶされ、耳にははさみで刻んだようなあとがありますが、ペレズヴォンにも、それと同じ特徴があります。
「ごらんよ、じいさん、わかるかな、片目が潰れてて左耳が裂けている、きみがぼくに話してくれたのと、特徴がまるで同じだ。ぼくはね、このふたつの特徴を手がかりにこいつを探しだしたんだ!」
 では、ジューチカとペレズヴォンは同一の犬だと考えてよいのでしょうか。じつはここに、第十一編を考えるうえで、決定的ともいうべき問題がひそんでいるのです。
 そこでにわかに気になってくるのが、ペレズヴォンの存在です。ペレズヴォンの正体はほんとうにジューチカなのでしょうか。ジューチカであれば、なぜ、あそこまで厳しい訓練をほどこす必要があったのでしょう。私はいま少し意地の悪い想像を働かせます。そこで浮かびあがる問題はひとつ ── つまり、ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶしたのはだれか、ということなのです。いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます。コーリャの「社会主義者」としての資質を貶めるために言うのではありません。かつてコーリャとイリューシャのあいだにあった上下・支配関係を思い出してほしいのです。この第十編では、そのような関係が、じつはコーリャとペレズヴォンのあいだにも生じている、ということです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 で、ジューチカ=ペレズヴォンということはもういいました。そのとき、私は亀山郁夫がなぜ「ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶした」のが誰なのかをいわないのかと非難しました。彼の考えているのはコーリャなんでしょうが、こうしたものいいが彼の特徴的な詐術なんですね。彼の方から純真で理解の乏しい読者に向けてわけのわからない問いかけをするんです。「そこでにわかに気になってくるのが」って、気になりませんよ。この問いかけ自体があまりに馬鹿馬鹿しいものなんですが、純真で理解の乏しい読者にはそんなことは思いもよりません。そこにかぶせるようにして「いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます」── 働きませんて ── なんていうんですね。純真で理解の乏しい読者は怯えます。で、いつの間にか「ペレズヴォンの正体はほんとうにジューチカなのでしょうか」なんて問いがあたかも権威ある問いであるかのように読者の前に居座ることになってしまうんです。
 同じことを、亀山郁夫はここでもやっています。

 問題は、その「キス」の意味するところとは何か、その「キス」をどのような意味として大審問官は受けとめたのか、という点である。「彼」はその「キス」で、キリストみずからの絶大な力を、表明しようとしていたのか。大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言の代替行為だったのだろうか。それとも、歴史は動かせない、だからあなたの好きなようになさるがよいという、承認と、ことによると「祝福」のキスだったのか。
 何よりも、この物語詩がイワンによる創作であるとの前提をふまえなくてはならない。言い換えるなら、これは無神論者イワンがみずからの世界観を補強する物語詩なのである。そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる。

亀山郁夫「解題」)


「そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる」って、こう何やら意味ありげで思わせぶりなサインを送られると、純真で理解の乏しい読者はとたんに自分が試されていると思い、怯えます。ああ、亀山先生、それはどういう意味なんですか? で、たちまち亀山郁夫の与えてくれる答えをありがたがって受け取ってしまうんですよ。
 詐欺的レトリックですね。まあ、騙される方も騙される方なんですけれど。
 おそらく亀山郁夫はもうずいぶん長い年月そのやりかたで学生たちをへこませていたんじゃないですか?
 いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます。まともな読みのできる学生が亀山郁夫の授業を受けてですよ、「あのねえ、君、ドストエフスキーはペレズヴォンがジューチカかどうかをあいまいにしたままなんだよ。これは疑わなくちゃ駄目でしょう。こんな読み取りも君にはできないのかね? そんなことじゃ、ロシア文学研究の最先端には到底行き着けないよ。もっと勉強しなさい」なんていわれつづけたら、ノイローゼになってしまいますよ。その学生には、まさか自分より遥かに低レヴェルの読みしかできない人物が自分の指導教授だなんて思いもよらないでしょうからね。そうして、亀山郁夫の読みに「その通りですね。やっぱりペレズヴォンはジューチカじゃないんですよね」とか「アリョーシャのキスは犯罪ですよね」なんていうような学生たちが、彼の斡旋によってどんどん大学に職を得ていき、「ロシア文学界」を形成してしまっているのが実状なんじゃないですか?
 ここで、カート・ヴォネガットを引用します。

 さて、想像できますか ── ある人物が、被害妄想のソビエト連邦のために水素爆弾を開発し、それがちゃんと機能するように念を入れ、そのあとでノーベル平和賞をもらった! キルゴア・トラウトの小説に出てきてもおかしくないこの実在のキャラクターは、物理学者の故アンドレイ・サハロフである。
 彼が一九七五年にノーベル賞をもらったのは、核実験に反対した功績によるものだ。もちろん、彼の核実験はすでに終わっていた。サハロフの妻は小児科医だった! 子供の病気を治す専門家と結婚しながら、水素爆弾を完成させることができるのは、どういう人間なのか? それほど頭のおかしい夫と連れそっていられるのは、どういう医者なのか?
「ねえ、あなた、きょうはなにかおもしろいことがあった?」
「ああ。わたしの爆弾はうまくいきそうだよ。ところで、きみのほうは? あの水ぼうそうの子はよくなったかい?」

カート・ヴォネガット『タイムクエイク』 浅倉久志訳 早川文庫)


 もうひとつ、同じ作品から。

 チリンガ・リーン! このくそったれ!

(同)


 ── でも、「ロシア文学界」がどうあろうと、あなたは「ただ一人でも行く」んでしょう?

 それはその通りです。でも、次から次へと亀山称揚の発言が出てくる現状には暗澹としますよ。まったくきりがない。
 出たばかりの『勝てる読書』(豊崎由美 河出書房新社)中の「新訳座」という章にも暗澹としましたね。

 で、なかでもとりわけおすすめしたいのが、ドストエフスキー亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟』。
 ……(中略)……
 ただ、惜しいことにこれまでの原卓也訳は堅くて、重厚すぎた。中高生読者を威嚇するかのような強面の訳業だったのです。ところが、今回の亀山訳を読んで驚嘆。易しいんですよ、面白いんですよ。カラマーゾフ家のダメ男どもの言動がおかしくて笑えるんですよ。ドストエフスキーで笑える日がこようとは……。感無量とはこのことです。難しい言葉をできるだけ排した訳文が、フョードルが殺される事件を軸にしたミステリーや、リーガル・サスペンス法曹界を舞台にしたサスペンス)としての娯楽的な読みごたえも備えたこの作品本来の魅力を取り戻す。これぞ、新訳、新しく訳し直す道理にかなった意義深い仕事というべきです。

豊崎由美『勝てる読書』 河出書房新社


 豊崎ってひとはもっとまともな読み手であり、伝え手だと思っていたんですがねえ。本当にがっかりしました。
 とにかく、私は河出書房新社のサイトにあるこの本の感想投稿欄に書き込みましたよ。

はじめまして。木下和郎と申します。
「新訳座」に異議があります。
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はでたらめだらけです。
こんなものを誰かに薦めることなどできません。
豊崎さんはそれがわかっていますか?
私はもうこの半年間、亀山批判を書きつづけています。
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf
http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/

かなりの分量に膨れあがっていますが、お読みいただければ幸いです。


 ── はあ、そんなことまでしたんですか?

 したんですねえ。中高生が『カラマーゾフの兄弟』を読もうとして、原卓也訳が強面すぎて跳ね返されるというなら、彼らにはまだ早いんですよ。それでいいじゃないですか? 亀山訳なら読みやすいからお薦めなんてのは言語道断です。だいたい亀山郁夫の訳文は読みやすくなんかないはずです。それに、彼らがジューチカ僭称者説を鵜呑みにしてしまったら、どうするんですか? だから、異議申し立てをしたんです。どう思います? 彼女から反応がありますかね?

 ── でも、亀山郁夫の訳文が読みやすいという声は本当に多いですよ。

 そこなんですよ。私が不思議でしようがないのが。
 木下豊房のサイトで、森井友人は読みにくいといっていますよね。

 ところが、読み始めてみると、すいすい読めるという評判に相反して、これが読みにくい。訳文が頭に入ってこない、言い換えれば、文脈が読み取りにくいのです。最初は、こちらの頭の調子が悪いのかと思ったのですが、途中でいくらなんでもこれはおかしいと思い、原訳・江川訳を引っ張り出して確認したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。それまでも引っかかりながら読んでいたので、ここで私は改めて初めから読み直すことにしました。さて、その気になって読んでみると、あちこちに誤訳・悪訳が目に付きます。これまでも誤訳に気づいた訳書はあります。しかし、今回はその数がちょっと多すぎます。正直なところ、唖然としました。

(森井友人「点検者の前書き」http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120c.htm


 お断わりしているように、私自身は亀山訳を読んでいません。「あなたじゃない」のあたりは読みましたけれど。他にも部分的に、ね。しかし、それだけでも首をかしげましたがね。
 たぶん、こういうことなんですよ。亀山郁夫の訳文を読みづらいというひとは、自身に文章を書く力、文章力があるんですよ。読みやすいなんていうひとには文章力がない。そういうことだろうと思っています。そうして、世のなかの大多数のひとたちには文章力がありません。

 ── え、え、え?

 世のなかの大多数のひとたちには文章を書く力がありません。これは断言します。文章を書く力のあるひとたちは、実は少数派です。でも、私がここで文章力といっているのは、べつに大したレヴェルを考えているわけでもありません。いわゆる美文・名文なんてものを書く力じゃありませんよ。何といえばいいのか、わかりませんが、ことばに使う筋力とでもいえばいいんですかね。その筋力のついているひとには、ある文章を読みながら、なぜこう書かないのか、こう書くべきだろうに、などという判断をすることができるんですね。こういうひとは、いろんな本を読んで誤字を次々に見つけたりもするでしょうね。それは、ふだんから文章を書く、それも「背伸び」して書く ── いまよりもっとよい文章を書こうとして書く ── 習慣があるからだと思います。
 うまい説明じゃないですが、亀山訳を読みづらいと感じるかどうかというのは、いまいったことが必ず関係しています。

 ── 亀山訳を読みやすいと感じるひとには文章力がない。

 そうです。いってみれば「雰囲気読み」のひとたちですよ。で、このひとたちはいつも「何が書かれているか」しか読もうとしない。それが「どのように」書かれているかなんて思いもよりません。そうして、そのことによって実は「何が書かれているか」も読めない。だから、実はなんにも読めないんです。「どのように書く」を知らないひとには読書ができません。それで、往々にしてこの読書のできないひとが年間三百六十五冊の本を読破したりする……「本屋大賞」に参加したりする。

 ── それはいいすぎでしょう?

 全然。

 ── そういうあなたには、じゃあ、文章力があるし、読む力もある?

 その通りです。何度いわせるんですか? そりゃ、私だって以前は「その通りです」なんていうことを自分で傲慢だとか、そんなことはいっちゃいけない、いうものじゃない、なんて考えていましたよ。でも、それはもうやめたんです。事実だからしかたがないんです。もし私がここで、自分には文章力もないし、読む力もないなんていいだしたら、この亀山批判も無効じゃないですか。

 ── ああ、なるほど。

 そういう覚悟で私はこれをつづけているんです。

 ── このことであなたと言い争っても無駄ですね。

 無駄です。

 ── あなたのいうことは絶対正しい?

 誰がそんなことをいいましたか? 私はいつも自分の正しさを疑っています。そのうえで、私が正しいと判断したことを口にしているんです。誤りがあれば、それを認めますよ。

 ── 亀山郁夫だって同じことをいうんじゃないですか?

 あんな「最先端」なんかと一緒にしないでほしいな。レヴェルが全然違う。あのね、あなたのそのものいいがそもそもおかしいんですよ。あなたはこれを他人事のようにしか考えていないでしょう? 冷やかしでしかないでしょう? あなた自身の判断はどこにあるんですか? あなたは『カラマーゾフの兄弟』をちゃんと読んだんですか? 感動したんですか? 原卓也訳を読んだんですか? 読み返したことがありますか? あなたは亀山訳をどう判断しているんですか? ジューチカ僭称者説をどう思うんですか? いえないでしょう? 高みの見物だ。そんなひとに私がいくら話したって無駄なんですけどね。自分のない奴に聞かせることばなんかひとつもありゃしない。