(一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九



   5

 この文章「その九」も「4」までを書いてきて、これが「5」になるわけですが、正直、私は亀山郁夫のあまりにも馬鹿な読み取りに辟易し、それらをひとつひとつ採りあげてつぶしていくのにうんざりしつつあります。というのも、実は問題は、個々の場面やら人物やらの解釈じゃなくて、それらすべての根っこ ── 亀山郁夫の恐ろしく低レヴェルの読解力 ── にあるんです。以前にもいいましたが、これは構造的な問題なのであって、表層の問題じゃないんです。ところが、それを誰にもわかるように論証しようとすると、結局こちらとしては、彼のでたらめをひとつひとつ地道に採りあげざるをえないわけです。手間と時間のかかる作業です。もっとも、時間のかかっていることにはよい面もあるかもしれません。つまり、亀山郁夫批判がそれだけの時間継続しているということですから。この継続の先に、「日本のどこかで、だれかが、どの時間帯にあっても、つねに切れ目なく、お茶を飲みながら、あるいはワインを傾けながら、それこそ夢中になって」亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』のひどさをもう金輪際このような翻訳の出てはならないことを「話し合うような時代が訪れてほしい」と思います。

 いや、あるいは、この「連絡船」にとっても、これはまたとない機会なのかもしれません。なぜなら、これほど馬鹿な、どれほど罵倒しても足りないような、しかも、はっきり口にしてよいどころか、口にすべき、いや、口にしなくてはならない具体例が他にあるでしょうか? 私はだいぶ前(二〇〇六年春)にこういいました。

 ある作品を「よい」と評価するひとは、必ずそうでない作品を知っています。そのひとは作品を評価するなにがしかの基準をもっています。それで、その基準が埒外にはじき出すものが必ずあります。ここでの「そうでない作品」というのがまだ十分に譲歩した表現だということも断わっておいた方がいいでしょう。なぜなら、それらのほとんどは「作品」にすらなっていないからです。そうして、世のなかには「作品にすらなっていない」ものがゴマンと流通しています。
 そこでまたいいますが、書店員が「手書きPOP」で店頭に並ぶもののなかでのどれかを推すという行為は、べつのどれかを「そうでない」作品であると認識したうえでいっているわけです。そういう認識 ── あれとこれとは確実に違うという認識 ── なしに「手書きPOP」を書いているような無邪気な書店員がもしいるとすれば、そのひとの書くものはまったく信用に値しません。


 そこでの「そうでない作品」について、私はこれまでひとつも具体的な作品名を挙げてきませんでした。作品名を伏せてなら、いくらかはしゃべりましたけれど、しかし、それらのどこがどうおかしいのかということを当の作品内の文章まで採りあげてする、というふうにはしてきませんでした。私は自分で「よい」と評価する作品だけを扱っていけばいいと考えていましたし、「そうでない作品」にはあれこれいう価値もないとも考えていました。しかし、私は自分の「作品を評価するなにがしかの基準」が「埒外にはじき出す」ものが実際にどういうものであるか、いつかは具体的に示すべきだったのじゃないでしょうか。そうしてこそ、私の「基準」が ── その弱点まで含めて ── はっきりと試されることになり、鍛えられもすることになるのじゃないでしょうか。またそれは、「読書案内」をしようとしている私が、いったいどんな読みかたを駄目だと思っているかを具体的に示す機会でもあります。それは私がはっきりと示しておいた方が「連絡船」の読者 ── どれだけ望めるのかわかりませんが ── にも助けになるはずじゃないでしょうか。あるいは、そのひとたちにこの「連絡船」に読む価値があるかどうか決めてもらう、よい機会です。
 ところが、ここで奇妙な事態が持ち上がったんですね。私が「よい」と評価するどころか「世界最高の小説」とまで評価している作品が「新訳」によって「そうでない作品」に貶められてしまったわけです。
 そうです。これはまったく「連絡船」にとってまたとない機会なんです。

 私は先に引用した文章のつづきでこうもいっていました。

 作品の「よい・悪い」と自分の「好き・嫌い」とをごっちゃにして、「いや、そんなのはひとそれぞれだよ」というひとが(ものすごくたくさん)います。はっきりいいますが、この点に関してその常套句「ひとそれぞれ」を用いることは罪悪ですらあるだろうと私は考えています。それは「すり替え」です。いいですか、作品はあなたのためにあるのじゃありません作品はあなたに合わせませんあなたが作品に合わせるんです。それでこそ「感動」が生じるはずなんです。作品があなたのところに降りてきてしまったら、「感動」は生じないでしょう。作品があなたのところに降りてきてしまっているにもかかわらず、あなたが「感動」したなどと思うなら、あなたは「すり替え」を行なってしまっているんです。あなたが作品のところにまで上がっていってこそ「感動」することができるんです。つまり、ここでは、あなたが変化するということが大事なんです。


 私はいいますが、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』という作品に自分を合わせませんでした。彼は逆に『カラマーゾフの兄弟』という作品を自分に合わせました。彼は『カラマーゾフの兄弟』を自分のところ ── 最低の読解力! ── にまで引き降ろしました。いま私は「なぜこんな男が訳してるんだ!」といっているんですし、「いや、教えてください、この上まだこんな男に『カラマーゾフの兄弟』を汚させておいていいもんでしょうか?」と叫んでいるわけです。

 そうして、これもおさらいですが、

 作家が「なにを」を想定しようとするとき、すでに彼のなかでは、それについての「どのように」がついてまわっています。「どのように」を考えると、「なにを」も決まっている。つまり、「なにを」は自分の生かす「どのように」を求め、「どのように」は自分の生かしてやれる「なにを」を求めるということです。両者は強力に拘束しあいます。この関係の破綻したものを作品などといってはいけません。ということは、作家が書きはじめたとき、彼は自分が「なにを描か(け)ないか」「どのように描か(け)ないか」を知っているということでもあります。最初から大きい断念が生じるはずなんです。作家は全然自由ではなく、非常に不利なところからはじめます。しかし、書き進めながら彼はこの拘束のなかですんなり小さくまとめればいいというのでもない。彼は自分の書いていくなにかしらを、この拘束を脅かすほどに内部から大きく発展させていきます。敢然として拘束に拮抗させていく。そのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが作品なんです。

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)
(<『カンバセイション・ピース』(保坂和志 新潮文庫)>解説)


 もうひとつ、

 ここでいっておきたいんですが、ある小説作品について、その読みかたというのは、その作品 ── 作者じゃありません ── 自体が決定し、読者を導くはずなんです。私はこれまで何度もいっていますが、作品というのは、作者の「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡そのものなんです。そのとき、作品が主で、作者は従の位置にあります。作者は作品に奉仕するんです。逆にいえば、作品においての「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」とがせめぎ合い、拮抗していればいるほど、読者によるその読みかたはますます作品に導かれます。


 ── と、ここまでいってきたところで、私はこういいます。亀山郁夫のやっていることは読書ですらありません。亀山郁夫には日本語であれ、ロシア語であれ、そもそも一般的な意味で作品を読む力がないんです。亀山郁夫には、どんな小説を読んで論じる資格もありません。

 というわけで、先へ進みます。

 しかし、犬いじめの一件は、思いもかけずイリューシャの心の「傷」となり、コーリャとのあいだに決定的な亀裂を生んだ。コーリャは結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。
 こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完璧に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定の持つ重要性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。

亀山郁夫「解題」)


 さて、コーリャ・クラソートキンは、かつての子分であるイリューシャを元気づけるため、どこから連れてきたのか、ペレズヴォンという名前の大型犬を自宅でひそかに飼育しています。外見はジューチカとそっくりですが、それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです。ジューチカは何者かによって片目をつぶされ、耳にははさみで刻んだようなあとがありますが、ペレズヴォンにも、それと同じ特徴があります。
「ごらんよ、じいさん、わかるかな、片目が潰れてて左耳が裂けている、きみがぼくに話してくれたのと、特徴がまるで同じだ。ぼくはね、このふたつの特徴を手がかりにこいつを探しだしたんだ!」
 では、ジューチカとペレズヴォンは同一の犬だと考えてよいのでしょうか。じつはここに、第十一編を考えるうえで、決定的ともいうべき問題がひそんでいるのです。
 そこでにわかに気になってくるのが、ペレズヴォンの存在です。ペレズヴォンの正体はほんとうにジューチカなのでしょうか。ジューチカであれば、なぜ、あそこまで厳しい訓練をほどこす必要があったのでしょう。私はいま少し意地の悪い想像を働かせます。そこで浮かびあがる問題はひとつ ── つまり、ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶしたのはだれか、ということなのです。いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます。コーリャの「社会主義者」としての資質を貶めるために言うのではありません。かつてコーリャとイリューシャのあいだにあった上下・支配関係を思い出してほしいのです。この第十編では、そのような関係が、じつはコーリャとペレズヴォンのあいだにも生じている、ということです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 ── 最低です。

 いいですか。あるひとつの作品について、よく「読者の数だけその作品の読み取りがある」だとか「読者の数だけ誤読がある」だとかいいますが、亀山郁夫はその「読者」に含むことすらできません。
 いいですか。あらゆる読者には「想像力」というものがあって、ある作品を読むときにその「想像力」は「自由」に駆使されるべきであって、読者は「ひとそれぞれ」にどんなふうにも作品を読むことができる ── だから、「あなたも自由に想像の翼をはばたかせてごらんなさい」 ── というようなことをいうひとがいますよね。それはそれで正しいと私は認めます。私もそれを奨励します。ただし、私はいいますが、その場合でも、読者に ── 亀山郁夫が行使しようとしているような ── 無際限な「自由」なんかありはしません。
 なぜか?
 作者の ── 互いに拘束しあう ──「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡としての「作品」が、そこに読者を巻き込むからです。先に引用した私自身の文章を敷衍しますが、読者もその作者の「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡に「拘束」されます。作品においての「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」とがせめぎ合い、拮抗していればいるほど、読者によるその読みかたはますます作品に「拘束」されます。しかし、読み進めながら読者はこの拘束のなかですんなり小さくまとめればいいというのでもない。彼は自分の読んでいくなにかしらを、この拘束を脅かすほどに内部から大きく発展させていきます。敢然として拘束に拮抗させていく。そのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが読書なんです。それこそが、読者がどれだけ作品に書かれていることを「真に受ける」ことができるか、ということでもあります。

 亀山郁夫の読書はその「拘束」から遥かに逸脱しています。いい換えれば、でたらめ・屁理屈・わがまま・負け惜しみです。亀山郁夫にしてみれば、自分の「自由」を強調したいところでしょうが、そんな「自由」なんかはありはしないんです。

 私はこの「連絡船」の読者 ── いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたち、いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち、いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたち ── にこういいましょう。

 小説作品を読むときに、あなたはただそこに書いてあることをそのまま読んでください。そこに何か難解なことが書かれているはずだなどと思わないようにしてください。「ああ、何だ、そうか」というほどの単純なことが書かれていると思って読んでください。一見難しそうに見えたが、実はこんな簡単なこと・当たり前・常識的なことが書いてあるだけなのか、というふうに読んでください。また、同じことですが、文中のある一語にむやみやたらと大げさな意味を持たせないようにしてください。その一語およびそれに絡んだ表現が作品の全体に頻出するようなら、もちろんこれは大事なことですが、そういう頻出は意識せずとも、自然にあなたを先へと導いているはずでもあります。一語に引っかかるよりも、前後の文脈の方を大事にしてください。そういう読書において、実は複雑で実り豊かなのは、「ああ、何だ、そうか」の組み合わせ、絡まり具合、その緊張なんです。逆に、そういうふうに読めば、あなたが引っかかったその一語の意味が明瞭になるでしょう。アフォリズムなどというものに期待するのはやめましょう。ある一文だけを警句的な意味で採りあげ、それだけで完結させてしまうことですね。一文一文に何かが表現されていると考えるより、そういう文章の連なり・塊の方に表現されているものを読んでください。作品というのは静止したものではなくて、常に動いているんです。動きを読んでください。
 ざっと、そんなふうに読むことが小説を読むときの基本だと、おおざっぱながら私はいいましょう。しかし、それらの「ああ、何だ、そうか」というのも、実は危険なことで、それらをあなたは自分のすでに持っている何かの観念に落としこむのでなく、できるだけ作中に書かれているそのままの表現でそのまま保持するのがいいです。作品に書かれていることをあなたはできるだけ「まとめ」ようとしないでください。つまり、あなたがある作品について何かいおうとして、思い浮かべるのが、あなた自身の「まとめ」であるよりは、あなたの読んでいる当の文章そのままであるようにしてください。あなたの頭のなかが作品の引用だらけ ── というか作品全文 ── になるように読んでください。それをそのまま何年も時間をかけて熟成させていってほしいんです。あなたの読んだものが素晴らしい作品であるならば、それはあなたに大きな実りをもたらすでしょう。
 また、こういうふうにも思ってください。作者は可能な限り簡単に・明瞭に・わかりやすく書いています。結果として、いかに晦渋な・難解な・とっつきにくい表現になってしまっているとしても、そうなんです。作者は自分の書いたものをそのまま読んでほしいと思っています。作者は、読者が誤解をしないような書きかたを必ずします。誤解されてしまっては困るからです。妙な解釈をされてはかなわないと思っているからです。どうかそんなふうに思ってください。

「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に我慢して踏ん張って考えつづけなければいけないんだな、これが」と私は言った。
「我慢して踏ん張るって、内田さんいまいくつですか? 四十でしたっけ ── 」
「もうじき四十四」
「げえッ。四十四って、じゃあ内田さんはいったい何年踏ん張ってるんですかぁ。
 おれより内田さんの方がアタマいいんだから、おれより若いときから踏ん張ってたりしたら、もう二十年じゃないですか。
 おれ二十年も踏ん張っていたくないですよ。内田さんはあと何年踏ん張ってるんですか。そういうのって、やっぱりスタートの考え方が間違ってるって言うんじゃないですか? スタートに失敗してたら何十年踏ん張ったってダメですよ」

保坂和志『カンバセイション・ピース』 新潮文庫


 読書についていいますが、何十年も「踏ん張って」ください。その「踏ん張る」というのは、あなたがどれだけその作品を「真に受ける」ことができるかどうか、ということです。いいですか、作品はあなたのためにあるのじゃありません作品はあなたに合わせませんあなたが作品に合わせるんです。作者が奉仕した彼の作品に、読者であるあなたも奉仕しなくてはなりません。『カラマーゾフの兄弟』はあなたが何十年も「踏ん張る」価値のある作品です。私にしたところで、たかだか二十五年「踏ん張って」いる ── のんびりだらだらと ── にすぎません。

 本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出していくこと、だから考えるということというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。
 そんなことは誰も言っていないとしてもそうなのだ。非‐当事者的な態度を捨てれば、書かれていることを真に受けるしかない。言葉では「しかない」と、とても限定的な表現になるが、そこにこそ大海が広がっている。教養や知識としての通りいっぺんの小説なんかではない、生命の一環としての思考を拓く小説がそこに姿をあらわす。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 新潮社)


 亀山郁夫には全然「踏ん張る」ことができていません。繰り返しますが、彼は『カラマーゾフの兄弟』を自分に合わせました。彼は全然『カラマーゾフの兄弟』に奉仕しませんでした。彼は『カラマーゾフの兄弟』を「真に受け」ませんでした。

 ── というところで、ジューチカ=ペレズヴォンの話に戻ります。

 それはごくありふれた雑種犬くらいの大きさのむく毛の犬で、何やら灰色がかった薄紫色の毛並みをしていた。右目がつぶれ、左耳はなぜか裂けていた。


「ジャンプしろ、ペレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後足で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身をまげると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ

(同)
(傍線は私・木下による)


 いいですか、ペレズヴォンはジューチカなんですよ。何が「外見はジューチカとそっくりですが、それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」なもんですか。この場面を他にどんなふうに読めるというんですか? 

「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」急いで二等大尉や、夫人や、アリョーシャをふりかえり、それからふたたびイリューシャに向って、彼は説明した。
「こいつはフェドートフの裏庭にいて、あそこに住みつこうとしかけたんだけど、あの家じゃ食べ物をやらなかったし、こいつは野良犬なんだよ、村から逃げてきたんだ……それを僕が探しだしたってわけさ……あのね、爺さん、こいつはあのとき、君のパンを呑みこまなかったんだよ、呑みこんでたら、もちろん、死んでたろうさ、それなら終りだ! 今ぴんぴんしてるとこを見ると、つまり、すばやく吐きだしたんだよ。ところが君は、吐きだすとこを見なかった。吐きだしはしたものの、やはり舌を刺したんだね、だからあのとききゃんきゃん鳴いたんだよ。逃げながら、きゃんきゃん鳴いたもんで、君はてっきり呑みこんだと思ったのさ。そりゃ悲鳴をあげるのが当然だよ、だって犬は口の中の皮膚がとても柔らかいからね……人間より柔らかいんだ、ずっと柔らかいんだよ!」喜びに顔をかがやかせ、燃えあがらせて、コーリャは興奮しきった口調で叫んだ。
 イリューシャは口をきくこともできなかった。布のように青ざめ、口を開けたまま、大きな目をなにか不気味に見はって、コーリャを見つめていた。何の疑念もいだかなかったコーリャも、病気の少年の容態にこんな瞬間がどれほど苦痛な、致命的な影響を与えうるかを知ってさえいたなら、今やってみせたような愚かな真似は絶対にする気にならなかったにちがいない。だが、部屋の中でそれをわかっていたのは、おそらく、アリョーシャだけだったろう。

(同)
(傍線は私・木下による)


 いいですか、このときイリューシャの心のなかで何が ── どんな恐ろしいことが ── 起こっていたか、彼がどれほどの深淵をのぞきこんでいたか想像してください。ピンの入ったパンをジューチカに与えてしまったイリューシャ。そのために崇拝するコーリャから軽蔑され、絶交されてしまったイリューシャ。「こうなったら僕はどの犬にも全部ピンを入れたパンをまいてやるから。どの犬にもだぞ!」とどなったイリューシャ。そうして父親の一件。コーリャの腿をナイフで刺してしまったイリューシャ。「病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、神さまの罰があたったんだよ」といったイリューシャ。コーリャの名をうわごとでいっていたイリューシャ。そのコーリャが、全然彼を訪ねてこないばかりか、ジューチカを密かに隠していたんですよ。これがどんなに残酷なことなのか、それを知ることがどんなに恐ろしいことなのか、想像してください。しかも、コーリャは犬を部屋に入れる直前まで、ジューチカの名前を出して、彼を苦しめていたんですよ。いいですか、この部屋にいた他のひとたちと同じになっちゃいけません。アリョーシャと同じように理解してください。アリョーシャはイリューシャの気持ちの一端を代弁してもいるでしょう。

「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むだけのために、今までずっと来なかったんですか!」アリョーシャが不満げな非難をこめて叫んだ。
「まさにそのためです」コーリャはいたって無邪気に叫んだ。「完全に仕上がったところを見せたかったんですよ!」

(同)


 右の引用につづくのがこれです。ある意味で、イリューシャはアリョーシャのことばをさえぎってもいるでしょう。

「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」突然イリューシャが細い指を鳴らして、犬を招いた。

(同)


 イリューシャはなぜ犬を「ジューチカ」と呼ばずに「ペレズヴォン」と呼んだのでしょうか? 犬が実はやはりジューチカではなくてペレズヴォンというべつの犬だからですか? 違います。犬がいまやペレズヴォンとして仕込まれているから、そう呼ばないと反応しないと考えたからですか? そうかもしれません。そうかもしれませんが、私はここでべつのことを考えています。私が思い浮かべているのはこれです。

 年とった乳母が兄の部屋に入ってきて「ごめんくださいまし、坊ちゃま。こちらのお部屋にも聖像の前にお燈明をともしましょう」と言っても、以前なら許さずに吹き消したほどだったが、それが今では「ああ、ともしておくれ、婆や。前には禁じたりして僕は悪い人間だったね。燈明をともしながら、婆やは神さまにお祈りするのだし、僕はそんな婆やを見て喜びながらお祈りするよ。つまり、僕たちの祈りをあげる神さまは同じってわけさ」と言うのだった。

(同)


 もちろん、父親の連れてきた子犬について「繊細なデリケートな心づかいから、この贈り物を喜んでいるような顔をしてみせた」イリューシャではありますが、彼はさらに一歩 ──とてつもない一歩 ── を踏み出したんじゃないでしょうか? つまり、このごく短い時間の間にイリューシャはコーリャを赦したんですよ。彼はコーリャを思いやったんですよ、ジューチカを「ペレズヴォン」と呼ぶことで。そう私は考えます。それができるだけの変化がイリューシャに起こっていたんです。これがどんなに大変なことであるか、想像してみてください。ついさっきまでのイリューシャを思い出してみてください。

「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明になるのも当然だよ」コーリャは無慈悲に言い放ったが、その実、当人もなぜか息をはずませはじめたかのようだった。「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ……スラブ的な名前だろ……君のところへ連れてきてやったよ……」
「いらないよ!」突然、イリューシャが口走った。
「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ……気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの……あれと同じように、むく毛でさ……奥さん、ここへ犬を呼んでもかまいませんか?」だしぬけに彼は、何かもうまったく理解できぬ興奮にかられて、スネギリョフ夫人に声をかけた。
「いらない、いらないってば!」悲しみに声をつまらせて、イリューシャが叫んだ。その目に非難が燃えあがった。

(同)


 どう思いますか? ところが、いまやイリューシャはこちらの側にいます。

「やさしい親愛なあなた方に愛してもらえるなんて、そんな値打ちが僕にあるでしょうか。こんな僕のどこがよくて、愛してくださるんですか。それにどうして今まで僕はそれに気づかず、ありがたいと思わなかったんだろう」

(同)


 それほどのドラマが展開されているにもかかわらず、これはどうですか?

 犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。

亀山郁夫「解題」)


 ペレズヴォンの正体はほんとうにジューチカなのでしょうか。ジューチカであれば、なぜ、あそこまで厳しい訓練をほどこす必要があったのでしょう。私はいま少し意地の悪い想像を働かせます。そこで浮かびあがる問題はひとつ ── つまり、ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶしたのはだれか、ということなのです。いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 亀山郁夫の愚劣きわまりない「連想」は、イリューシャの苦悩をそのままに読んでいません。亀山郁夫にはイリューシャの苦悩なんかどうだっていいんですよ。彼にはアリョーシャがイワンにいったようにいうことができません。

「俺はお前を苦しめているかな、アリョーシャ、なんだか気分がわるいみたいだな。なんなら、やめようか」
「かまいません、僕も苦しみたいんですから」アリョーシャはつぶやいた。


 いいですか、『カラマーゾフの兄弟』という作品を読む読者は、この作品に対して常に「かまいません、僕も苦しみたいんですから」といいつづけなくてはならないんですよ。『カラマーゾフの兄弟』はそういう作品です。亀山郁夫には「僕も苦しみたい」なんて思いもよりません。そうして、「僕も苦しみたい」といえる人間だけが、誰かに対して「あなたじゃない」をいいうるんです。

 まったく愚劣きわまりないことをここでしゃべらなくてはなりませんが、亀山郁夫がジューチカとペレズヴォンがべつの犬だというならば、それはこういうことになります。イリューシャが「これは……ジューチカだ!」といったとき、彼はその時点で「これはジューチカではない」と認識していたということになります。それなのに「ジューチカだ!」というのは、もうそのとき彼がコーリャを思いやってそういったということになります。亀山郁夫なら、それほどまでにイリューシャがコーリャに服従していたのだ、というのかもしれません。いや、彼はそんなことまで考えていませんね。彼はただコーリャのことだけしか頭にありません。それも『カラマーゾフの兄弟』の「続編」の主要人物としてのコーリャです。イリューシャなんかどうだっていいんです。ともあれ、犬がジューチカでないにもかかわらず、「これは……ジューチカだ!」などという余裕がこの時点でのイリューシャにありはしませんよ。それとも、イリューシャでさえもうジューチカを見きわめられないでいたというんでしょうか?

「ああ、こういうわけにはいかないかしらね」ふいにスムーロフが足をとめた。「だってイリューシャの話だと、ジューチカもむく毛で、やっぱりペレズヴォンみたいに灰色で、煙ったような色をしてたそうだもの。これがジューチカだよって言うわけにはいかないかな、ひょっとしたら信ずるんじゃないかしらね?」

(同)


 いやいや。信じません。

 さらに、いっそう愚劣きわまりないことをいいますが ── これは亀山郁夫の解釈を読んではじめて私が考えざるをえなくなったので、これからいうことなしでも、もちろんジューチカ=ペレズヴォンですよ。そう読み取れない方がおかしい。仮にジューチカがペレズヴォンでなかった場合、ジューチカの「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのをですよ、現実的にこのひと月の間にどうやってべつの犬に再現できるというんですか? 実際に誰かが ── いったい何だって亀山郁夫はそれを誰といわないんですかね。こういうものいい亀山郁夫の文章の特徴で、彼の小ささ・せこさ・薄っぺらさをよく示しています。翻訳者、専門家、研究者が一般読者(の啓蒙)に向けてこんな思わせぶりなものいいをしてはいけません ── 「ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶした」としたって、それはまだ生傷ですよ。そんなことは見ればすぐにわかります。で、ジューチカの同じ特徴がまだ新しかったのかどうか、そんなことは書かれていません。そもそも、「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのは、実際にはどういうふうだったんでしょう? どんなものであれ、それをそのままべつの犬に再現することなど誰にも不可能ですよ。しかも、どこからか連れてきたその犬に傷の再現もし、さらになつかせるわけでしょう、ひと月の間に。まったく何を考えているのか。
 繰り返しますが、そんなふうに考えずとも ── 考えるだけでも愚劣です ── 、ただ作品をそのまま読みさえすれば、ジューチカ=ペレズヴォンなんですよ。

 たしかに読者は作品のこのあたりを読みながら、「え? ペレズヴォンはやっぱりジューチカなのか?」と最初はとまどうとは思いますよ。でも、それはそこまでです(これは作品の登場人物たちと同じです)。ふつうに読めば、ジューチカ=ペレズヴォンということがすぐに読者に納得されます。そのようにドストエフスキーは書いているんです。それがどうして「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」なんてことになるんですか? 笑ってしまうというより、怒りをおぼえます。この作品はそんな読みかたを読者に導きません。
 もしジューチカ=ペレズヴォンでないなら、ドストエフスキーは必ずそのように書きますよ。だから、亀山郁夫にはこの作品のつくりがまったくわかっていないというんです。

 亀山郁夫はイリューシャを愚弄していますよ。これまでにも私は、亀山郁夫がアリョーシャやイワンを馬鹿にしている・過小評価している・見くびっていると再三いってきましたが、ここで、亀山郁夫の読みかたを「亀山郁夫的読書」とこれからは呼ぶことにして、いくらか特徴をまとめてみましょう。

亀山郁夫的読書」は作品にまともに向き合うことができないことから生じます。
亀山郁夫的読書」は作品のつくりを理解できないことから生じます。
亀山郁夫的読書」は作品を「真に受け」られないことから生じます。
亀山郁夫的読書」は作品に自分を合わせるのでなく、自分に作品を合わせる ── 自分のところにまで作品を引き降ろす ── ことによって生じます。
亀山郁夫的読書」は作品に読者として奉仕しないことによって生じます。
亀山郁夫的読書」は作品を正視する勇気のない読書です。
亀山郁夫的読書」は作中人物たちを見くびり、過小評価し、愚弄します。彼らに自分がついていけないからです。
亀山郁夫的読書」は自分が作品をまともに読み取れないことへの怨恨であり、負け惜しみです。それははたから見ていて滑稽で不愉快な屁理屈にすぎません。
亀山郁夫的読書」は作品を自分の貧弱な想像力に見合ったものに変えようとします。それはないものねだりの読書になります。



 PDFファイルもこの稿の分を追加しました。もし、これまでに印刷されている方があれば、244ページ以降だけを印刷されるといいでしょう。ただ、すみません、「その九」の各章それぞれの末尾に日付を書き加えたため、数行のずれが生じています。
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.html