(一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九



   4

 さらにつづけます。

 ここで何よりも注目したいのは、イワンとスメルジャコフがめざしたのが完全犯罪であり、イワンに対しては未必の故意の嫌疑がかけられうるという事実です。十九世紀後半のロシアの裁判ないし陪審制という観念のなかで、未必の故意がどこまで法的な裁きの対象として認識されていたかが重要になります。もしも法的概念に当てはまらないのだとすれば、ドストエフスキーはそこにこそ、人間が犯しうる最大の罪を、原罪を見てとったにちがいありません。そしてその「使嗾」(指図してそそのかすこと)にこそ、イワンの説く無神論の最大の論拠があったとみてよいのです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 いったいこれは『カラマーゾフの兄弟』についての文章なんでしょうか?「イワンとスメルジャコフがめざしたのが完全犯罪」って何ですか? 「完全犯罪」? いつ「めざした」んですか? 亀山郁夫はこのテキストの数ページ前でこう書いていたんですよ。

「それなら、申しますが、殺したのは、ほら、そこにいる、あなたですよ」
 つまり、主犯はイワンであり、自分は「あなたの手足」を務めたにすぎない、という答えです。イワンにとっては恐ろしい真実です。「心のうちでは人殺しかもしれない」という認識をもっていたにせよ、それが現実的な意味に波及してくるとは思いもしなかったからです。心のうちであれば、許されるかもしれない、という甘えがあったのです。しかし、ここでにわかに明らかになったのは、これは、「心のうち」の問題では済まない、ということでした。

(同)


 この文章自体にも大いに問題はあるんですが、それはさておき、亀山郁夫自身がそんなふうに語るイワンがいつ「完全犯罪」を「めざした」んですかね?
 そもそもここで「めざした」だの「完全犯罪」とかいうのがおかしいんじゃないでしょうか。私はこれに非常な違和感を覚えます。「イワンとスメルジャコフ」のことを考えるとき、私には「完全犯罪」などということばを彼らにつなげることがどうしてもできないんですね。『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、「完全犯罪」ということばが私に浮かんだことなんかありませんでした。『罪と罰』でも同じです。私にはラスコーリニコフが「完全犯罪」を「めざした」ようには全然思えませんでした。彼がただ殺人の計画を立て実行し自分が犯人であることを隠そうとしたというふうにしか読めなかったんですね。いや、それが「完全犯罪」を「めざした」ということなんだよ、 ── それは本当ですか? 両者は同じものでしょうか? 私は同じでないと思っているんです。登場人物が「完全犯罪」を「めざした」というふうに読者に読まれる小説は、そう読まれるように描かれている・そういうつくりをなしているでしょう(たぶん、この問題にはその作品の倫理性が関係してもいるはずだと私はいっておきましょう)。『カラマーゾフの兄弟』はそういうつくりをなしていないと私は思います。いや、「イワンとスメルジャコフ」が「完全犯罪」を「めざした」というためには、『カラマーゾフの兄弟』という作品の外部 ── 当の作品自体はそんな読み取りを読者に導かない ── から余計な何かを持ち込むことが必要なのじゃないか、それは作品の矮小化だ、と私は疑います。

 ともあれ、せせこましい指摘をするなら、こういうことです。いまの場合にでも、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』における「罪」が人間社会で制定され、成文化された「犯罪」かどうかという視点しかないんです。
 それで、イワンの罪が法的に引っかからないとすれば、ということで亀山郁夫のいいだすのが「ドストエフスキーはそこにこそ、人間が犯しうる最大の罪を、原罪を見てとったにちがいありません」なんですけれど、「人間が犯しうる最大の罪を、原罪を」ってどういうことですか? 亀山郁夫は「原罪」を何だと思っているのか? いいですか、繰り返しますが、人間=罪あるものなんですよ。人間であるからには「原罪」を抱えているんです。亀山郁夫には「原罪」の意味がまるきりわかっていません。だから ── これも繰り返しですが ── 、アリョーシャが「どんなことがあっても、原罪をまぬがれてはいない。アリョーシャのキスはまさに犯罪です」(『ロシア 闇と魂の国家』)なんてことをわざわざいったりすることになるんです。彼は「原罪」を、まるでそれを人間が行為として選択できるもののように考えているんですね。
 さらに、「そしてその「使嗾」にこそ、イワンの説く無神論の最大の論拠があったとみてよいのです」というのは何でしょうか? まったく意味不明です。いや、さすがに私にもお手上げです。何ですか、これは? 「無神論の最大の論拠」── ? 見当もつきません。亀山郁夫にもきっと説明できません。彼が説明したとしても、それがどうして「無神論の最大の論拠」という表現になるのか? とこちらがいいさえすれば、彼はしどろもどろになってしまうのじゃないでしょうか?
 しかし、そのようにまったく意味不明なんですが、これで「なるほど、そうか! いや(私にはわからないけれども)、亀山先生はさすがだ!」と膝を打つような読者もあることでしょう。そういうひとは確実にいますね。自分で考えることを放棄してしまったひとたち、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということしか考えられないひとたち、世のなかにベストセラーを成立させている読者たちですね(こういうひとたちなしに一〇〇万部単位のベストセラーは成立しません)。

 その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他の誰かなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけでなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。


 いや、そんなことでは駄目なんですよ。『カラマーゾフの兄弟』は、あなたが自分で読んで、自分で考えなくちゃならないんです。それがあなたの読書です。他人の読み取りを自分の読み取りにしてしまっちゃいけません。誰の前にもひれ伏さずに、自分の読み取りをしていかなきゃいけません。たとえ「みんな」がひれ伏そうが、あなたは全然そんなことをしなくていいんです。
 亀山郁夫の読書はどうでしょう? 彼は自分の読書をしました。だから、それでいいんじゃないでしょうか? その通りです、それが彼の私的な読書であれば。しかし、彼の読書はいま公的なものです。「翻訳」が「社会的責任を伴う」と彼自身いっているんです。しかも、その「翻訳」について、いろんなところでしゃべったり、書いたりしているわけです。彼は自分の私的な ── 低レヴェルの・でたらめな・とんちんかんな ── 読書を公的なものにしました。
 というわけで、亀山郁夫によるNHKラジオの講座をひとことも聞き漏らさずにいようとするお勉強好きな聴取者の方々にいいますが、こんなでたらめな講座を聞いてもしかたがないですよ。というより、あなたにとっては害悪ですらあります。あなたはあなたで『カラマーゾフの兄弟』を自力で読むより他ないんです。自力で読んでこそ、あなたの読書なんです。「有名無実な先生」の講義なんかに頼っていてはいけません。

 話を戻します。

 イワン・カラマーゾフに悪魔はこういいました。

「ところで問題は、やがてそういう時期の訪れることがありうるか、どうかだと、わが若き思想家は考えた。もし訪れるなら、すべては解決され、人類は最終的に安定するだろう。しかし、人類の根強い愚かさからみても、おそらくまだ今後千年は安定しないだろうから、現在でもすでにこの真理を認識している人間はだれでも、まったく自分の好きなように、この新しい原理にもとづいて安定することが許される。この意味で彼にとっては《すべては許される》のだ。それだけでなく、かりにそういう時期が永久に訪れぬとしても、やはり神や不死は存在しないのだから、新しい人間は、たとえ世界じゅうでたった一人にせよ、人神になることが許されるし、その新しい地位につけば、もちろん、かつての奴隷人間のあらゆる旧来の道徳的障害を、必要とあらば、心も軽くとび越えることが許されるのだ。神にとって、法律は存在しない! 神の立つところが、すなわち神の席なのである! 俺の立つところが、ただちに第一等の席になるのだ……《すべては許される》、それだけの話だ! 何から何まで結構な話ですな。ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね?」

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 私はイワンのためにいっておきますが、イワンの「無神論」── 実は「無神論」なんかじゃないですが ── からすれば、「法律は存在しない!」んですよ。亀山郁夫はイワンの思想をものすごく矮小化しています。イワンの《すべては許される》を、法的にどうかなんてこそこそした視点からしか見ることができていないんです。

 それから、これもいっておきましょう。

 翻って考えるなら、ドストエフスキー、いやイワンに言わせると、この小説の父殺しには、イワンだけでなく、傍聴人も加担していることになるのです。彼は、この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした。その意味で、このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 亀山郁夫がいうのは、この場面のことですね。

「あなたは正気ですか、どうなんです?」思わず裁判長は口走った。
「正気にきまってるじゃありませんか……卑劣にも正気なんです、あんたや、ここにいるあの……豚どもとご同様にね!」突然、彼は傍聴席をふりかえった。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたふりをしてやがるんだ」彼は憎さげな軽蔑を示して歯ぎしりした。「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ! 水はありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」
 ……(中略)……
「証人、あなたの言葉は不可解で、この席では許されぬものです。できるならば気を鎮めて、もし……本当に言うべきことがあるのなら、話してください。そういう証言を、いったい何によって裏付けられるのですか……かりに、うわごとを言っているのでないとしたら?」
「証人がいないのが、問題でしてね。あの犬畜生のスメルジャコフだって、まさかあの世から証言を送ってはよこさないだろうし……封筒に入れてね。あなた方はいつも封筒が必要なんだから。一つありゃ十分でしょうに。僕には証人がいないんです……ただ、あいつだけは別だけど」彼は考えこむように苦笑した。
「だれです、その証人とは?」
「尻尾のあるやつですよ、裁判長閣下、これじゃ型破りでしょうな! 悪魔は存在しないんだから(ル・ディアーブル・ネグジスト・ポワン)! 気にしないでください、やくざなチンピラな悪魔なんです」ふいに笑うのをやめ、秘密めかしく、彼は言い添えた。「あいつはきっと、この法廷のどこかにいますよ。ほら、その証拠物件のテーブルの下に。あいつの居場所はその辺にきまってますよ。いいですか、僕の話をきいてください。僕はあいつに、黙っているのはいやだと言ったんです。そしたらあいつは地質の変動のことなんぞ持ちだして……ばかばかしい! さあ、その無頼漢を釈放してやってください……讃歌なんぞうたいはじめて。そうすりゃ気が楽になるからですよ! 酔いどれの悪党が『ワーニカはピーテルに行っちゃった』とわめき立てるのと同じことなんだ。僕は二秒間の喜びのためになら千兆キロの千兆倍だって捧げますよ。あんた方は、僕って人間を知らないんだ! ああ、何もかも実に愚劣だ! さあ、兄の代りに僕を逮捕してください! 僕は何かをしに来たはずだな……どうして、何もかもこんなに愚劣なんだろう……」


 それで、亀山郁夫は「ドストエフスキー、いやイワン」が、と口をすべらせたふりをしつつ、「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」となんだか力んで・考え深げに・思わせぶりに ── お涙頂戴風に、自ら目頭を押さえつつ(かどうか知りませんが) ── いって、「その意味で、このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」と見得を切った ──「なるほど、そうか! いや、亀山先生はさすがだ!」が聞こえてきそうです ── わけですが、いいんですか、それで?

 この裁判の前日 ──「あなたじゃない」の前 ── にアリョーシャがリーザとこんなふうに話していたんでした。彼女のところにイワンがやって来ているということをアリョーシャはホフラコワ夫人から聞いたばかりでした。

 アリョーシャを何よりもおどろかせたのは、彼女の真剣さだった。以前ならばどんな《真剣な》瞬間にも、朗らかな冗談味を失わなかったのに、今の彼女の顔には、おどけた調子や冗談味は影もなかった。
「人間には犯罪を好む瞬間がありますからね」アリョーシャが考えこむように言った。
「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ。人間は犯罪が好きなのよ。だれだって好きなんだわ。そういう《瞬間》があるどころか、いつだって好きなのよ。ねえ、ことによると、まるでその昔みんなで嘘をつこうと申し合せて、それ以来ずっと嘘をついているみたいね。悪事を好むなんてだれもが言うけれど、内心ではだれだって好きなんだわ」
「相変らずよくない本を読んでいるんですね?」
「読んでいるわ。ママが読んで、枕の下に隠しておくから、失敬してくるの」
「自分を台なしにするようなことをして、よく気が咎めませんね?」
「あたし、自分を台なしにしたいの。この町にいる男の子で、列車が通りすぎる間、レールの間に伏せていた子がいるんですってね。幸せな子だわ! だってね、今あなたのお兄さまは父親殺しの罪で裁かれようとしているでしょう、ところがみんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ」
「父親殺しという点が気に入ってる、ですって?」
「そうよ、みんなが気に入っているわ! 恐ろしいことだなんて、だれもが言ってるけど、内心ではひどく気に入ってるのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ」
「世間の人たちに関するあなたの言葉には、いくぶんかの真実がありますね」アリョーシャが低い声で言った。

(同)


 これは、リーザの自前の考えですか? アリョーシャがこのとき誰のことを考えていましたか? たとえば「よくない本」といいながら、その実、誰を想像していたんですか? この会話はこの後、どうつづきますか? そもそもアリョーシャはなぜここでリーザと話していたんでしたか?
 いや、法廷でのイワンのことばがどのように読者に導かれるかというと、いわば空中分解してしまった彼の思想の残骸が散乱しているだけなんじゃないでしょうか? しかも、「だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ」から「僕は二秒間の喜びのためになら千兆キロの千兆倍だって捧げますよ」までの彼の発言の順番は、彼がこれまでに他人の前で口にしてきたことから、内面にだけ秘めていたものへと次第に移行しているのじゃないでしょうか? 
 イワンについて、私は「その三」でこういいました。

 この若者は、ごく少数の、彼以上に考え、彼の考えていることを理解することができ、彼の抱えている問題に精通している相手であって、しかも、彼の問題を「肯定的なほうに」解決する立場の相手には、正直で誠実な敬意を表わすことができます。そうでない大多数の相手に向かっては、彼は自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分を取り出して、偽悪的・断定的にしゃべります。


 そういうわけで、法廷でイワンがしゃべったのは「自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分」から、次第に彼のしがみつこうとしている(「それこそが私なんだ」)部分へと移行していったのじゃないでしょうか? 簡単にいえば、軽いものから重いものへの移行です。だから、「だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ」という発言に、亀山郁夫の考えているような重量はない、と私はいうわけです。そうして、「父殺し」という『カラマーゾフの兄弟』を読み説くためのひとつのテーマを他のどんなものより優先したい亀山郁夫が、ここで無理やり芝居がかった身振りをしつつ、こじつけをし、聴取者・読者をたぶらかそうとしているのじゃないかと私は疑うんです。
 いや、それでも、「みんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ」というリーザのことばがイワンの発言の請売りだなんてどこにも書かれていないじゃないか、だから、いまのは彼女の自前の考えなんだ、イワンは関係ない、といいますか? そうだとして ── そうじゃないですが ── 亀山郁夫は、登場人物がとっくにしゃべっていたのと同じことをイワンが法廷で口にしたのをとらえて、「彼は、この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした。その意味で、このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」なんていうんですか?「いや、亀山先生はさすがだ!」

 ところが、ところが! 亀山郁夫は「解題」にこう書いています。


「あの人がお父さまを殺したことを、みんな喜んでいるの」「口では、恐ろしいとか言いながら、内心ではもう大喜びなの。その一番手が、わたしってわけ」
 ご存じのように、このセリフは、第12編「誤審」でじっさいにイワンが法廷で絶叫する言葉を先どりしている。
 では、この言葉は、リーザが自分から、自分の観察と直感から生み出したものであったのか。つまり、偶然の一致であったのか、それとも、最初の訪問のさい、イワンが口にした言葉を、彼女はたんに繰り返して言ったにすぎないのか、あるいは二人は、同時に人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動を見抜いていたか、ということである。

亀山郁夫「解題」)


 いったい、このひとは何をやっているんですか?

 亀山郁夫はNHKテキストでリーザのことばに全然触れていません。それで、なんだか力んで・考え深げに・思わせぶりに ── お涙頂戴風に、自ら目頭を押さえつつ(かどうか知りませんが) ──「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」なんていうわけです。しかも、これが「ドストエフスキー、いやイワンに言わせると」なんですよ。イワンが「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」と指摘することで、亀山郁夫は、こういう形 ── 「幻覚症」のイワンに託す形 ── でようやく作者ドストエフスキーが自身の個人的な思い(「自伝層」)を作品にぎりぎり吐露したのだ、といいたいんですね。そうして、これが『カラマーゾフの兄弟』における重大なテーマ「父殺し」なんだというわけです。
 その亀山郁夫が、このイワンの台詞の、とっくにリーザによって口にされていることを承知しているわけです。何が「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」ですか? 何が「このセリフは、イワン自身の秘められた内面の告白であり、自己弁護でもあったのです」ですか? 何が「ドストエフスキー、いやイワンに言わせると」ですか? これは一種の詐欺じゃないでしょうか? これはうそ泣きじゃないですか? こういうのを「二枚舌」というのじゃないですか?

 いったい、亀山郁夫は何をやっているんでしょうか?

 NHKの講座のタイトルは「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」なんですよ。となれば、彼は自分の訳した『カラマーゾフの兄弟』および自分の著した「解題」とを、聴取者が読むという前提で講義しなければならないはずです。それなのに、なぜこうも ── この文章の「3」でも指摘したように ── 講座のテキストと「解題」とが食い違うんですか?

 私はいいますが ── 、

 では、この言葉は、リーザが自分から、自分の観察と直感から生み出したものであったのか。つまり、偶然の一致であったのか、それとも、最初の訪問のさい、イワンが口にした言葉を、彼女はたんに繰り返して言ったにすぎないのか、あるいは二人は、同時に人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動を見抜いていたか、ということである。

亀山郁夫「解題」)


 ── いっそのこと、亀山郁夫はこういったらよかったんじゃないですか? イワンは自分でもまったく考えつかなかった「父殺し」についての見かたを、リーザから教わったのである。リーザこそドストエフスキーの「自伝層」の代弁者であったのだ! どうですか? この可能性にどうして亀山郁夫は飛びつかないんですかね? 亀山式読解だったら、そうあるべきですよ。もうこれまでもさんざんそうやって『カラマーゾフの兄弟』を読んできたわけですからね。「いや、亀山先生はさすがだ!」

 それにしても、「あの人がお父さまを殺したことを、みんな喜んでいるの」、「口では、恐ろしいとか言いながら、内心ではもう大喜びなの」というリーザの認識を亀山郁夫はどうやらすごいものだ ── これこそ『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」の核心だ! ── と思っているみたいなんですね。でなければ、彼女とイワンとを並べて「二人は、同時に人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動を見抜いていた」なんてことをいうはずがありません。しかし、これがそんなに重要な認識なんですか?

 もう一度、イワン。

「あなたは正気ですか、どうなんです?」思わず裁判長は口走った。
「正気にきまってるじゃありませんか……卑劣にも正気なんです、あんたや、ここにいるあの……豚どもとご同様にね!」突然、彼は傍聴席をふりかえった。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたふりをしてやがるんだ」彼は憎さげな軽蔑を示して歯ぎしりした。「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ!」


 もう一度、リーザ。

「あたし、自分を台なしにしたいの。この町にいる男の子で、列車が通りすぎる間、レールの間に伏せていた子がいるんですってね。幸せな子だわ! だってね、今あなたのお兄さまは父親殺しの罪で裁かれようとしているでしょう、ところがみんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ」
「父親殺しという点が気に入ってる、ですって?」
「そうよ、みんなが気に入っているわ! 恐ろしいことだなんて、だれもが言ってるけど、内心ではひどく気に入ってるのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ」
「世間の人たちに関するあなたの言葉には、いくぶんかの真実がありますね」アリョーシャが低い声で言った。

(同)


 イワンもリーザも「父殺し」についてしゃべっていて、亀山郁夫がそれに飛びつくのはわかりますが、私にはふたりのことばが「父殺し」を扱いつつも、それがたまたま「父殺し」が話題になっているからそうしゃべったのであって、むしろこちらの方 ── イワン、リーザ独自の認識というより、『カラマーゾフの兄弟』全体に染み込んでいる認識 ── に近いと思えるんです。

 一週間後に彼は死んだ。町じゅうの人が彼の柩を墓地まで送った。司祭長がまごころのこもった弔辞を述べた。だれもが彼の人生を断ち切った恐ろしい病気を嘆き悲しんだ。だが、葬儀が終ると、町じゅうが私を白い目で見るようになり、自分の家に招ずることさえやめた。もっとも、最初はごくわずかだったが、彼の自白の真実性を信ずる者もいて、その数はしだいに増えてゆき、わたしを訪ねてきては、たいそうな好奇心と嬉しさを示しながら、あれこれと質問するようになった。それというのも、人間は正しい人の堕落と恥辱を好むからである。

(同)


 また、

 ところが午後に入るとすぐ、ある事態が生じはじめた。出入りする人々は最初のうちもっぱら無言で心ひそかにこれを受けとめ、だれもが心に生れかけた考えを人に告げることを明らかに恐れてさえいる様子だったが、午後三時ころまでには事態はもはや否定しえぬほど明白なものとなったため、この知らせはたちまち僧庵全体や、僧庵を訪れたすべての信者たちの間に広まり、時を移さず修道院にも伝わって、修道院の人々みんなを仰天させ、ついには、ごく短い時間のうちに町にまで達して、信者たると不信者たるとを問わず、町じゅうの人間を興奮させるにいたった。不信者は大喜びしたが、信者たちはどうかと言うと、彼らのうちにも不信者以上に喜んだ連中もいた。それというのも、物故した当の長老がかつてある説教で述べたとおり、『人々は心正しき者の堕落と恥辱を好む』からにほかならない。

(同)


 アリョーシャがリーザとの会話でこういいもするんでした。

「そうだな。何か立派なものを踏みにじりたい、でなければあなたの言ったように、火をつけてみたいという欲求でしょうね。これも往々にしてあるもんですよ」

(同)


 あるいは、

「人間には犯罪を好む瞬間がありますからね」

(同)


 それを受けて、リーザはこういうんでした。

「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ。人間は犯罪が好きなのよ。だれだって好きなんだわ。そういう《瞬間》があるどころか、いつだって好きなのよ。ねえ、ことによると、まるでその昔みんなで嘘をつこうと申し合せて、それ以来ずっと嘘をついているみたいね。悪事を好むなんてだれもが言うけれど、内心ではだれだって好きなんだわ」

(同)
(傍線は私・木下による)


 さて、この二か月前にイワンとアリョーシャはこういう会話をしていました。

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」
「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」
「ところが今のところ俺はまだそんなことは知らないし、理解もできないね。それに数知れぬほど多くの人たちだって俺と同じことさ。ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起るのか、それとも人間の本性がそういうものだから起るのか、という点なんだ

(同)
(傍線は私・木下による)


 いいですか、リーザもイワンも話す相手はともにアリョーシャです。
 ここで「犯罪を好む」(リーザ)と「相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまう」(イワン)の違いを問わずに、あるネガティヴなことについての「人間」がどういうものかという点で考えることにして、ふたりのことばを混ぜ合わせてこういい換えることができないでしょうか?

 ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起こる(=人間にはそういうことの起こる「瞬間」がある)のか、それとも人間の本性がそういうものだから起こる(=そういうことの起こる「瞬間」があるどころか、人間にはそれが「いつだって」起こっている)のか、という点なんだ。

 そうして、リーザもイワンもアリョーシャに対して、そういうネガティヴなことが人間の本性だから起こる(=「いつだって」起こっている)というんです。リーザは確かにイワンから人間の「本性」についての嘲弄的なことばを聞かされていたでしょう。しかも、フョードル殺害についての言及のなかで。それで、聞いて魅力的だと感じこそすれ、いままでリーザ自身にも曖昧なままだったイワンのことばがアリョーシャとの会話によってはっきりした手応え・確信に導かれたでしょう。だから、「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ」というのは「イワンのいっていたのはそういうことだったんだ! 今こそ私には理解できた!」という意味でもあるでしょう。

 そういうわけで、イワンはなにも法廷で初めて ── しかも「幻覚症」によって ── 「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしてるだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ!」といったのではありません。亀山郁夫の、ドストエフスキーが自身の個人的な思い(「自伝層」)のぎりぎりの吐露を法廷でのイワンに託した「この原罪の持つ意味を、「幻覚症」の状態においてはじめて口にすることができたのでした」などという主張はでたらめです。

 さて、人間の「何か立派なものを踏みにじりたい」(アリョーシャ)という欲求がどこから生じるかというと、これは以前に私がいった「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」という自分自身に対する「嫉視」・「悪意」からですね。そういう自分自身に対する「嫉視」・「悪意」は、他人が「立派」でなければないほど楽になるんですね。他人を引き下ろせば下ろすほど楽になるんです。「どうせあんたたちだって裏じゃこんなふうなんだろう?」、「どうせあんたたちだって叩けば埃の出る身体なんだろう?」、「あんたたちも私も同じ穴のむじなじゃないか」ということですね。そうやって他人の位置を引き下ろすことで、自分を正当化できるわけです。足の引っ張り合いです。それは、自分が「立派」でありたいけれど、そうできない、ということを正当化します。自分自身に対する「嫉視」・「悪意」です。
カラマーゾフの兄弟』は、そういう自分自身に対する「嫉視」・「悪意」と、それを否定するものとの「応答」の小説です。この「応答」が作品内の絶え間ない運動として機能しています。各登場人物が自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を抱え込んで離さないでいること(「罪」)に対して ── 《ただ一人の罪なき人》に遡及することのできる ──「あなたじゃない」が応えるんですね。

 イワン・カラマーゾフはこういっていました。

「早い話、たとえば俺が深刻に苦悩することがあったとしよう、しかし俺がどの程度に苦しんでいるか、他人には決してわからないのだ。なぜならその人は他人であって俺じゃないんだし、そのうえ、人間というやつはめったに他人を苦悩者と見なしたがらないからな(まるでそれが偉い地位ででもあるみたいにさ)。なぜ見なしたがらないのだろう、お前はどう思うね? その理由は、たとえば、俺の身体が臭いとか、ばか面をしているとか、あるいは以前にそいつの足を踏んづけたことがあるとかいうことなんだ。おまけに、苦悩にもいろいろあるから、俺の値打ちを下げるような屈辱的な苦悩、たとえば飢えなんかだったら、俺に恩を施す人もまだ認めてくれるだろうが、それより少しでも高級な苦悩、たとえば思想のための苦悩なぞになると、もうだめさ。そんなものは、ごくまれな場合を除いて認めちゃくれないんだ。それというのも、たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔をしているはずだと想像していたのとは、まるきり違う顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ」

(同)


 人間をこのように軽蔑するイワンに、法廷での傍聴人たちがどのように見えたでしょうか? 

「ところで問題は、やがてそういう時期の訪れることがありうるか、どうかだと、わが若き思想家は考えた。もし訪れるなら、すべては解決され、人類は最終的に安定するだろう。しかし、人類の根強い愚かさからみても、おそらくまだ今後千年は安定しないだろうから、現在でもすでにこの真理を認識している人間はだれでも、まったく自分の好きなように、この新しい原理にもとづいて安定することが許される。この意味で彼にとっては《すべては許される》のだ。それだけでなく、かりにそういう時期が永久に訪れぬとしても、やはり神や不死は存在しないのだから、新しい人間は、たとえ世界じゅうでたった一人にせよ、人神になることが許されるし、その新しい地位につけば、もちろん、かつての奴隷人間のあらゆる旧来の道徳的障害を、必要とあらば、心も軽くとび越えることが許されるのだ。神にとって、法律は存在しない! 神の立つところが、すなわち神の席なのである! 俺の立つところが、ただちに第一等の席になるのだ……《すべては許される》、それだけの話だ! 何から何まで結構な話ですな。ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね?」

(同)


 イワンには自分だけの知っている ── 愚かな人間たちの知らない ──「真理」=《すべては許される》があったわけです。それがこの法廷でどんな目で見られているか、どんな扱いを受けているかというと、『パンと見世物』── もちろん「大審問官」が想起されなくてはなりません ── にされてしまっているんですね。「とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも、俺だって立派なもんだ!」。イワンにとって、これは恐ろしい屈辱ですよ。なにしろイワンは「真実の裁可」を必要とする人間なんですから。彼は自分が大事にしてきた思想がこうも愚劣な、ちっぽけな、まるで尊敬を受けないものになるだろうとは考えられなかったんですね。傍聴人たちの「本性」を刺激し、満足させるためだけの ── 欲情の ── 対象にされてしまったんです。これはイワンにとってたまらないことです。前夜、彼は悪魔としゃべった後、アリョーシャにこういっていました。

「いや、あいつは自分が何を言ってるか、承知しているんだ。だってこう言うんだぜ、君が行くのはプライドからさ、君は立ってこう言うだろうよ。『殺したのは僕だ、どうしてあなた方は恐怖に縮みあがっているんです。あなた方は嘘をついてる! 僕はあなた方の意見を軽蔑する、あなた方の恐怖を軽蔑します』俺のことをこう言うかと思うと、今度はいきなり、『あのね、君はみんなにほめてもらいたいのさ。あいつは犯人で、人殺しだけど、なんて高潔な感情の持主だろう、兄を救おうとして自白したんだ、って!』なんて言いやがる。そんなの嘘だよ、アリョーシャ!」突然イワンが目をぎらぎらさせて、叫んだ。「あんな百姓どもにほめてなんぞもらいたくないよ! あいつは嘘をついたんだ、アリョーシャ、嘘をついたのさ、誓ってもいい! だから俺はあいつにコップをぶつけてやったよ、あいつの面に当って粉々に砕けたっけ」

(同)


 法廷でのイワンの発言にはそういう意味しかないだろうと私は思います。そこにはイワン自身の抱えている苦悩のあらわれ ── 彼の軽蔑する他人・社会を前にした ── があるだけで、苦悩そのものはありません。
 つまり、私がいいたいのは、亀山郁夫の主張するイワンとリーザの認識は『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」についてのただの・ほとんど表層の一側面にすぎない、ということです。これをこの作品における「父殺し」の正面に据えるのには無理がある ── 亀山郁夫はこれを針小棒大に扱っている ── ということです。

 またも引用しますが、

 二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」が、いったい何を意味し、どのような経緯によって生じたか、イワンはこの時点で気づいている。「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。

亀山郁夫「解題」)


 この文章について、私は以前「その二」でこういいました。

「二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」」って、それ、本当にそう思っているんですか? 本当にそう思っているんだろうなあ。でなければ、「「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。」なんて書かないものなあ。それ、『カラマーゾフの兄弟』ではなくて、もしかすると単純にフロイトなんじゃないですか? イワンはそんなことを考えていたんじゃありません。イワンはそんな悠長な、抽象的な、他人事のような理解なんかしている場合じゃなかったと思いますよ。彼は自分の全存在の存亡のかかった、ぎりぎりの、ひどく具体的・即物的な危機にあったでしょう。


 私は亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンにとっての「父殺し」を「物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望」── 「原罪」を絡めて ── などというところに落ち着けてしまうことに呆れています。ここまでイワンの叙事詩「大審問官」でのキリストが偽者であるとか、キリストのキスが大審問官の思想・行為への承認・祝福であるとか大風呂敷 ── 穴だらけの、ですが ── を広げていたひとが、結局この叙事詩作者イワンの末路をこんな薄っぺらな・どうでもいいところへ落ち着けてしまうんですか? そもそもイワンという人間をまったく読み取れていないひとだから無理もないですが、笑っちゃいますよ。まったく不愉快な大笑いで、やりきれなくなります。

 亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」を過大に扱いがたいために、また、それを作者ドストエフスキーの個人的体験と結びつけたいがために、さらに、それを自分の「発見」── これは、「発見」といえばいうほど彼自身の馬鹿さ加減がどんどん露呈するんですけれど、本人には全然わかっていません ── だと主張したいがために、実はこの問題を矮小化しているんですよ。

 亀山郁夫のいう「物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望」なんてことはイワン・カラマーゾフの内心じゃありません。なぜ彼はイワンをイワンとして読まないのか? 亀山式読解にしたがえば、ここでイワンはべつにイワンでなくてもよくなってしまいます。イワンという人間が突然、普遍化・一般化された「人間」に還元されてしまいます。イワンが「人間」の典型的な一例に落とし込められてしまうんです。もしここで普遍化・一般化を行なうならば、それは普遍化・一般化された「人間」がイワンの位置にまで上がっていかなくてはならないんです。

 これはイワンについてのことばではありませんが、

 なぜなら、奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており、同時代のほかの人たちはみな、突風か何かで、なぜか一時その奇人から引き離された、という場合がままあるからだ……


 ── と『カラマーゾフの兄弟』の語り手がいうとき、語られる奇人の行動はやはり読者にとっても奇行であるはずなんですよ。読者には、この奇人がなぜそのような行動に及ぶのか理解しがたいはずなんです。ところが、よくよく考えてみると、その奇行に「全体の核心」(「普遍的な意味」)が読み取られるんですね。しかし、当の奇人本人にとってみれば、彼はなにも読者の読み取る「全体の核心」(「普遍的な意味」)のために行動しているわけじゃないんですよ。彼には彼の苦悩があり、喜びがあるんです。読者はまず、描かれているそれをそのまま読まなくてはなりません。そのまま読んでこそ、読者はそこから「全体の核心」(「普遍的な意味」)を読み取ることになるでしょう。
 亀山郁夫はこの奇人本人に読者の読み取る「全体の核心」(「普遍的な意味」)を押しつけています。

 読者はイワン・カラマーゾフだけに目を向けなくてはいけません。イワンもミーチャ同様にフョードルについて「こんな男がなぜ生きているんだ!」と思っていたでしょう。フョードルが殺されてもかまわないと思っていたでしょう。そのフョードルは彼の父親でもありました。フョードルが自分の父親だからこそ、余計にその思いが募りもしたでしょう。しかし、これはいま私のいった順番で考えられるべきことなんですよ。そうして、『カラマーゾフの兄弟』の読者は、まず何よりもフョードルとイワンとの個別の・独自の関係だけを読まなくてはなりません。
カラマーゾフの兄弟』で描かれているのは、教訓的な意味での普遍化・一般化された父と息子の関係ではありません。小説作品を読むとは、そういうことです。それを後で普遍化・一般化してフロイト ──「まさしくフロイト的である」── のようなことを考えるのは自由です。しかし、まず『カラマーゾフの兄弟』に書かれていることだけを読まなくてはいけないんです。読者はイワンの内心だけを読み取らなくてはいけません。イワンの認識が「「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている」ですって? まったく、亀山郁夫はどれだけ自分の読解力のなさを披露してくれたら気がすむんですか? イワンという人物が平板に、ちっぽけに、書割のように存在感のないふうに描かれている駄目な作品になら、そういう読み取りでもかまいませんよ。そうじゃないでしょう? イワンの苦悩はイワンの苦悩として読まなくちゃいけません。
 私はいいますが、『カラマーゾフの兄弟』は「人間の欲望の根源にひそむ「父殺し」の衝動」のことを描いた小説ではありません。



 PDFファイルもこの稿の分を追加しました。もし、これまでに印刷されている方があれば、233ページ以降だけを印刷されるといいでしょう。
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.html

 このファイルの全体もとうとう文庫本の字詰めに換算して400ページを超えてしまいました。とっくに亀山訳『カラマーゾフの兄弟』第五巻の分量を上回ってしまっていたということです。大笑いです。