(一四)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その六



   1

 前回(=その四 ── 余計な「その五」が割り込んでしまいましたが、本来はこちらが「その五」になるはずでした)、キリストは個々の「人間の顔」を愛するのだ、彼の愛は「人類全体」に向けられるものではなく、生身のひとりひとりの人間それぞれに向けられるものであって ──『カラマーゾフの兄弟』においては、「人類全体」を愛するのと、生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するのとは全く違うことです ── 、「大審問官=イワン」もそのことを承知していた、と私はいいました。今回もそのつづきです。
 私は「第五編 プロとコントラ」におけるイワンとアリョーシャの会話がどのように「大審問官」へとつながっていったのかを追ってみます。なぜそうするかといえば、いままで私が「大審問官」とそれまでの会話とのつながりを明確に理解していなかったからなんですね(ここでも私は亀山訳に感謝します。こんなでたらめな訳がなければ、私がこのことをこうまで考えることもなかったわけです)。「大審問官」も、それまでの会話も、惹きつけられて読んだくせに、両者がいったいどのようにつながっているのか、私には長いことわかっていませんでした。つまり、両者を別個のものとして読むことしかできなかったんです。しかし、両者のつながりを理解することができれば、なぜイワンが叙事詩「大審問官」を創作したのか(叙事詩「大審問官」は何のためにあるのか)、さらには、『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置や意味までが明らかになる、と私はいまからいっておきます。それが明らかになれば、亀山郁夫の「大審問官」解釈がどれほど荒唐無稽なものであるかがはっきりするでしょう。

 さて、イワンとアリョーシャの会話で、イワンはこんなふうにいって、「大審問官」へとつながっていく話を始めたんでした。

「じゃ、何からはじめるか、言ってくれよ。お前が注文するんだ。神の話からか? 神は存在するか、というところからかい?」
「何でも好きなものから、はじめてください。《反対側》からでもかまいませんよ。だって、兄さんは昨日お父さんのところで、神はいないと断言したんですから」アリョーシャは探るように兄を眺めた。
「俺は昨日、親父のところで食事をしながら、そう言ってお前をわざとからかったんだけど、お前の目がきらきら燃えたのがわかったよ。でも今はお前と話す気は十分あるんだし、とてもまじめに言ってるんだ。俺はお前と親しくなりたいんだよ、アリョーシャ。俺には友達がいないから、試してみたいのさ。だって考えてもみろよ、ひょっとすると俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」イワンは笑いだした。「お前にとっちゃ、思いもかけぬ話だろう、え?」


 まず、イワンはこういいました。

「ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのところを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ」

(同)


 それで、イワンは「なぜ《この世界を認めないか》」の説明にかかりますが、このような断わりを入れるんですね。

「お前に一つ告白しなけりゃならないことがあるんだ」イワンが話しはじめた。「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気に膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務感に命じられた愛情から、みずからに課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信してるよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ
「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」
「ところが今のところ俺はまだそんなことは知らないし、理解もできないね。それに数知れぬほど多くの人たちだって俺と同じことさ。ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起るのか、それとも人間の本性がそういうものだから起るのか、という点なんだ。俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 傍線部のイワンのことばをアリョーシャも理解しています。しかし、アリョーシャは「でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ」というんです。イワンは即座にそれを否定します。それでもイワンは、自分や「数知れぬほど多くの人たち」には持ちえない愛をキリストが持っていたことは認めているんですね。つまり、イワンによれば、キリストになら「相手が姿を隠してくれ」なくても、「相手が顔を見せ」ても「人を愛する」ことができるわけです。そして、こういいます。「俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」。
(会話のこの部分における、キリストはロシア語原典でも「キリスト」と書かれているようです。ここで、「なんだよ、イワンとアリョーシャとの会話のなかには、ちゃんとキリストの名まえが出てくるじゃないか」と、以前の私の主張の不備を指摘する方があるかもしれません。)

 イワンは話を先へ進めます。

「俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それだけでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、《神のごとく》になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところはまだ何の罪もないのだ」

(同)


 イワンは「相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる」ので、ここからは専ら「子供」に限定して話すことになるわけです。

「お前にはこれがわかるかい。一方じゃ、自分がどんな目に会わされているのか、まだ意味さえ理解できぬ小さな子供が、真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、《神さま》に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのにさ。お前にはこんなばかな話がわかるかい。お前は俺の親しい友だし、弟だ。お前は神に仕える柔和な見習い僧だけれど、いったい何のためにこんなばかな話が必要なのか、何のためにこんなことが創りだされるのか、お前にはわかるかい! これがなければ人間はこの地上に生きてゆくことができない、なぜなら善悪を認識できなくなるだろうから、なんていう連中もいるがね。いったい何のために、これほどの値を払ってまで、そんな下らない善悪を知らにゃならないんだ。だいたい、認識の世界の全部をひっくるめたって、《神さま》に流したこの子供の涙ほどの値打ちなんぞありゃしないんだからな。俺は大人の苦しみに関しては言わんよ。大人は知恵の実を食べてしまったんだから、大人なんぞ知っちゃいない。みんな悪魔にでもさらわれりゃいいさ、しかし、この子供たちはどうなんだ! 俺はお前を苦しめているかな、アリョーシャ、なんだか気分がわるいみたいだな。なんなら、やめようか」
「かまいません、僕も苦しみたいんですから」アリョーシャはつぶやいた。

(同)


 そうしてイワンは、裸にされ、犬に噛み殺された少年の話をするんでした。

「霧のたちこめる、陰鬱な、寒い、猟にはもってこいの秋の日でな。少年を裸にしろという将軍の命令で、男の子は素裸にされてしまう。恐ろしさのあまり、歯の根が合わず、うつけたようになってしまって、泣き叫ぶ勇気もない始末だ……『そいつを追え!』将軍が命令する。『走れ、走れ!』犬番たちがわめくので、少年は走りだす……『襲え!』将軍は絶叫するなり、ボルゾイの群れを一度に放してやる。母親の前で犬に噛み殺させたんだよ。犬どもは少年をずたずたに引きちぎってしまった! ……将軍は後見処分にされたらしいがね。さて……こんな男をどうすればいい? 銃殺か? 道義心を満足させるために、銃殺にすべきだろうか? 言ってみろよ、アリョーシャ!」
「銃殺です!」ゆがんだ蒼白な微笑とともに眼差しを兄にあげて、アリョーシャが低い声で口走った。
「でかしたぞ!」イワンは感激したように叫んだ。「お前がそう言うからには、つまり……いや、たいしたスヒマ僧だよ! つまり、お前の心の中にも小さな悪魔がひそんでいるってわけだ、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」
「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」
「ほら、そのでもってのが問題なんだよ……」イワンが叫んだ。「いいかい、見習い僧君、この地上にはばかなことが、あまりにも必要なんだよ。ばかなことの上にこの世界は成り立っているんだし、ばかなことがなかったら、ひょっとすると、この世界ではまるきり何事も起らなかったかもしれないんだぜ」

(同)


 こうして、アリョーシャの反応から、イワンは自分の論証の正しさを確信します。「この地上にはばかなことが、あまりにも必要なんだよ。ばかなことの上にこの世界は成り立っているんだし、ばかなことがなかったら、ひょっとすると、この世界ではまるきり何事も起らなかったかもしれない」ということが、最初の「俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ」に結ぶことになります。

「ああ、アリョーシャ、俺は神を冒涜してるわけじゃないんだよ! やがて天上のもの、地下のものすべてが一つの賞讃の声に融け合い、生あるもの、かつて生をうけたものすべてが『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ!』と叫ぶとき、この宇宙の感動がどんなものになるはずか、俺にはよくわかる。母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱き合って、三人が涙とともに声を揃えて『主よ、あなたは正しい』と讃えるとき、もちろん認識の栄光が訪れて、すべてが解明されることだろう。しかし、ここでまたコンマが入るんだ。そんなことを俺は認めるわけにはいかないんだよ。だから、この地上にいる間に、俺は自分なりの手を打とうと思っているんだ。わかるかい、アリョーシャ、そりゃことによると、俺自身がその瞬間まで生き永らえるなり、その瞬間を見るためによみがえるなりしたとき、わが子の迫害者と抱擁し合っている母親を眺めながら、この俺自身までみんなといっしょに『主よ、あなたは正しい!』と叫ぶようなことが本当に起るかもしれない。でも俺はそのとき叫びたくないんだよ。まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に否定するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して《神さま》に祈った、あの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!」

(同)


 さらに、

「俺だって赦したい、抱擁したい、ただ俺はあらかじめ断わっておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか! 赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ! もしそうなら、もしその人たちが赦したりできないとしたら、いったいどこに調和があるというんだ? この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいただきつづけているほうが、よっぽどましだよ。それに、あまりにも高い値段を調和につけてしまったから、こんなべらぼうな入場料を払うのはとてもわれわれの懐ろではむりさ。だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。正直な人間であるからには、できるだけ早く切符を返さなけりゃいけないものな。俺はそうしているんだ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」

(同)
(傍線は私・木下による)


 ここまでのところを整理しますよ。
「神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」というイワンがその理由を説明するにあたっての前提は、「まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけ」ということでした。その際、「人間の顔」が愛の妨げとならないのはキリストだけだということを認めています。イワンは、しかし、「相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる」ので、「子供たちの苦悩」に論点を絞ります。どんなことがあっても、「子供たちの苦悩」は償いえない、「この地上にはばかなことが、あまりにも必要」だし、「ばかなことの上にこの世界は成り立っている」んです。「この世界」とは、もちろん「神の創った世界、神の世界なるもの」のことです。「神の創った世界、神の世界なるもの」を認めないので、イワンは「神を認めないわけじゃない」けれど、「ただ謹んで切符をお返しする」というんです。

 さて、ここで、イワンの論証の破れ目があるんです。彼の論証にはまだ一点、欠けている部分があります。
傍線部「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」に、その破れ目・欠如が存在します。イワンはむろん、わざとこの破れ目・欠如をアリョーシャの前に提出したんです。

 先の「ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」のつづきはこうでした。

「それは反逆ですよ」アリョーシャは目を伏せて、小さな声で言った。
「反逆? お前からそんな言葉を聞きたくなかったな」イワンがしみじみした口調で言った。「反逆などで生きていかれるかい、俺は生きていたいんだぜ。ひとつお前自身、率直に言ってみてくれ、お前を名ざしてきくんだから、ちゃんと答えてくれよ。かりにお前自身、究極においては人々を幸福にし、最後には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん、ただそのためにはどうしても必然的に、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在を、たとえば例の小さな拳で胸をたたいて泣いた子供を苦しめなければならない、そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えねばならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承諾するだろうか、答えてくれ、嘘をつかずに!」
「いいえ、承諾しないでしょうね」アリョーシャが低い声で言った。
「それじゃ、お前に建物を作ってもらう人たちが、幼い受難者のいわれなき血の上に築かれた自分たちの幸福を受け入れ、それを受け入れたあと、永久に幸福でありつづけるなんて考えを、お前は認めることができるかい?」
「いいえ、認めることはできません。兄さん」ふいに目をかがやかせて、アリョーシャが言った。「兄さんは今、この世界じゅうに赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうかと、言ったでしょう? でも、そういう存在はあるんですよ、その人ならすべてを赦すことができます。すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げたんですからね。兄さんはその人のことを忘れたんだ、その人を土台にして建物は作られるんだし、『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ』と叫ぶのは、その人に対してなんです」
「ああ、それは《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血のことだな! いや、俺は忘れてやしない。むしろ反対に、お前がいつまでもその人を引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていたくらいさ」

(同)


 それまでのイワンの論証の破れ目・欠如 ──「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」にある ── というのは何でしょうか? 考えてみてほしいんですが、イワンのその問い ──「赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」── に対して「そういう存在はない」という答えが返ってくるなら、イワンの論証は完結するんです。ところが、そうではありません。「そういう存在はある、それはあの《ただ一人の罪なき人》だ」という答えが返ってくるんです。

 先に「銃殺です!」といい、「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」といい、いまも「いいえ、承諾しないでしょうね」、「いいえ、認めることはできません」といったアリョーシャにもなしえないことを、かつてなしえたひとがただひとりだけいたんです。

「ああ、それは《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血のことだな!いや、俺は忘れてやしない。むしろ反対に、お前がいつまでもその人を引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていたくらいさ」

(同)


 ここで、キリストは、このイワンとアリョーシャの会話の最初にあったように ── 「人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」── 単純に「神」として片付けられたりはしていません。ここでのキリストは「人間」です。それも、「知恵の実を食べてしまった」人間の大人としての存在でもありません。《ただ一人の罪なき人》なんです。しかも、彼は人間として血を流したのでもありました。
 つまり、イワンはここまでの論証がアリョーシャを含めた「人間」には通用する ── 彼らを論破できる ── ことを承知はしていても、ただひとりキリストにだけは通じないことを知っているんです。「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」にだけは、彼の理屈は通じません。イワンはこのひとにだけは頭が上がらないんです。このひとにだけには単純に「謹んで切符をお返しする」というわけにはいきません。キリストは、イワンのなかでそれほどまでに大きい存在なんです。イワンはキリストを信じています。キリストこそ、「神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」というイワンの前に立ちはだかる唯一の大きな存在なんですよ。
 だから、イワンは今度は、さらにキリストに・キリストだけに向けて、自分なりの回答をしなくてはなりませんでした。それが叙事詩「大審問官」です。「大審問官」はこのためにあります。

 それゆえ、「大審問官」においても、そのキリストの位置や意味は不動です。これは、動かしたら、イワンの回答が無効になってしまいます。イワンは必ず「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」に向けて回答しなくてはなりません。「その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストという存在に回答しなくてはならないんです。これは絶対に動かすことができません。大審問官=イワンは、その不動のキリストに向かって、ただ自分の考えを述べることしかできません。これはもう最初から作者イワンの承知していることでした。

 そういうわけで、私はいいますが、

 この問いに答えるまえに、イワン=ドストエフスキーがとる一つの奇妙な手法について、ふれなくてはならない。つまり、「大審問官」では、いちどとしてエスキリストの固有名詞が用いられていないということだ。もちろん、「彼」がイエスであるとすることは可能でも、そう訳すと、じつはミスを犯すことになる。なぜなら、これはあくまでイワンによって作られた物語詩であって、イワンがあえて「彼」をイエスとして同定しなかったことこそが重要なのである。キリストと書けばキリストに限定されるが、「彼」と呼ぶことにより、ある別人格的なものを付与することができる。いや、その「彼」はキリストのいわゆる僭称者ですらあるかもしれない。

亀山郁夫「解題」)


 ── ありえません。

 イワンは、ただ自分の考えを述べることしかできません
 イワンの論証はここまでキリスト以外の人間を「論破」することができたわけですけれど、もうここからは「論破」云々ということのできないレヴェルに移行することになります。ここからは、叙事詩「大審問官」の読者 ── キリスト以外の人間 ── の共感を得られるかどうかということにはなるでしょうけれど、大審問官=イワンがキリストそのひとに対して「論破」云々などというレヴェルで向き合うことなど絶対にできないんです。なぜかといえば、「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストに、イワンが何をいおうが、その愛を変更させることなどできないからです。「論破」云々の土俵にキリストを引き入れることなんかできません。それでも「論破」云々にこだわって、その視点 ── もはや愚劣・低劣な視点としかいいようがありませんが ── から無理やりいうなら、イワンにキリストを「論破」することはできません。イワンが何をいおうが、キリストには「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」んですし、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することができるんですよ。最初からイワンの負けは決まっています。

 これまた、そういうわけで、私はいいますが、

 問題は、その「キス」の意味するところとは何か、その「キス」をどのような意味として大審問官は受けとめたのか、という点である。「彼」はその「キス」で、キリストみずからの絶大な力を、表明しようとしていたのか。大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言の代替行為だったのだろうか。それとも、歴史は動かせない、だからあなたの好きなようになさるがよいという、承認と、ことによると「祝福」のキスだったのか。

(同)


 ── 亀山郁夫のこの問いは、もはや愚劣・低劣な視点としかいいようがありません。繰り返しますが、大審問官=イワンはキリストを自分の土俵に引き入れることすらできないんです。「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すこと」ができ、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛する《ただ一人の罪なき人》が、いったいどうして顔の見えない「人類全体」をしか愛せないひとりの人間の思想・行為を承認・祝福なんかするんですか? 亀山郁夫がそれを可能だと思った時点で、彼が「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」をまったく理解できなかったことが露呈します。亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』の読者として失格です。

 さて、キリストに向けて、イワンが叙事詩「大審問官」において、どのような論点 ── といっても、キリストはそんなことには答えませんよ ── を持ち出したかというと、こうです。「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストの、その愛は人間にとってあまりにも大きすぎ、高すぎたというんです。

「だが、ここでもお前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。なにしろ彼らは、反逆者として創られたとはいえ、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがいい。すでに十五世紀が過ぎ去ったけれど、お前が自分のところまで引きあげてやったのがどんな連中だったか、見てみるがいい。誓ってもいい。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ! その人間にお前と同じことがやりとげられるだろうか? お前は人間を尊ぶあまり、まるで同情することをやめてしまったかのように振舞った。それというのも、人間にあまり多くのものを要求しすぎたからなのだ。しかも、それが誰かと言えば、自分を愛する以上に人間を愛したお前なのだからな! 人間への尊敬がもっと少なければ、人間に対する要求ももっと少なかったにちがいない。それなら、もっと愛に近かったことだろう。なぜって、人間の負担ももっと軽くなっただろうからな。人間は弱くて卑しいものだ」


「われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟神秘権威の上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれることになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ。われわれがこんなふうに教え、実行してきたのは正しかったかどうか、言ってみるがいい。われわれがかくも謙虚に人類の無力を認め、愛情をもってその重荷を軽くしてやり、われわれの許しさえあれば、人類の意気地ない本性に対して、たとえ罪深いことをやったからといって、はたしてそれが人類を愛さなかったことになるだろうか? それに、どうして黙りこくって、そんなに柔和な目でしみじみわしを眺めている? 怒るがいい。わし自身お前を愛していないのだから、お前の愛なぞほしくない」

(同)


 そうして大審問官は、自身としてははっきりキリストの愛を理解しているけれど、「弱く卑しい」人類のために「欺瞞を受け入れ」て、「人々を今度はもはや意識的に死と破滅へ導かねばならない。しかもその際、これらの哀れな盲どもがせめて道中だけでも自己を幸福と見なしていられるようにするため、どこへ連れてゆくかをなんとか気づかせぬよう、途中ずっと彼らを欺きつづけねばならない」というんです。大審問官には「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するなんてことはできませんから、「人類」を軽蔑しつつ愛することになるわけです。

 大審問官の語る ── キリストを前にしての ── 思想・行為の是非は当の大審問官自身がなにもかも承知しているわけです。是非はどうかといえば、非です。大審問官は、その非を承知で、敢えて自分の思想・行為を選択し、それをやりつづけてきたわけです。大審問官は、とにかくキリストに話したいから話すだけです。彼もキリストに自分の思想・行為の是非を問いません。キリストはただ、ひとりの苦悩する人間を前にしているだけだし、大審問官もひとりの苦悩する人間としてキリストの前にいるだけなんです。

 つまり、「大審問官」とは、「謹んで切符をお返しする」というイワンの主張のキリスト向けヴァージョンだということになります。

 くどすぎるのを承知でいいますが、大審問官にキスするキリストは、「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストそのままでなければなりません。そのキスは彼の思想・行為に向けられたものでなく、ただ彼というひとりの苦悩する人間に向けられたものにすぎません。前回(=その四)で私がいったように、キリストが大審問官の話を全然聞いていなかったということにしてもいいわけです。たとえば、大審問官の話しているのがスペイン語だったとして、キリストにはまるっきりスペイン語がわからなかったということにしてもいい、ということになります。イワンがそのつもりで「大審問官」を創作しただろうと私は考えます。



   2

 あなたが『カラマーゾフの兄弟』の「第五編 プロとコントラ」中のイワンとアリョーシャの会話から読み取らなくてはならないのは、何よりもまずこの作品における《ただ一人の罪なき人》イエス・キリストなんだと私はいいます。あなたがキリスト教について何も知らなかったとしても、イワンとアリョーシャの会話から逆に読み取っていってほしいんですね。これはまた、「自由」ということの大きさ・恐ろしさを、あなたが「大審問官」を読むことであらためて(あるいは初めて)認識するのと同じように、そうしてほしいんです。というのも、大審問官はキリストが人間に与えようとした「自由」がどれほど大きく・恐ろしいものであるかを問題にして、人間にはそんなものを受け入れる力がないと主張するからです。大審問官の思想・行為を理解するためには、絶対にキリストの愛がどのようなものであるかを知らなくてはなりません。
 キリストの愛を受け入れることがどれほど困難であるか(キリストがどんなに「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれに向けて手をさしのべつづけているか ── を含んで)、人間にはどれほどこれが理解不能で、「恐ろしい贈り物」だと思われるか、ということがわからないと、「大審問官」を読むことはできません。

 ここで私は再びキルケゴールの『死に至る病』から長い引用します。私がこれまで何度かアリョーシャに関して口にした「謙遜な勇気」ということばが出てきます。

 いまここに一人の貧しい日傭取りと史上に類のない程の強大な権力をもった帝王とがいるとする。この無上の権力をもった帝王が突如として使者をこの日傭取りの許に遣わすことを思いついたとしよう。帝王が自分の存在を知っているなどという考えはこの日傭取りの心には夢にも浮かんだことはなかったし、それは「その心未だ思わざりし所」であった。もしも帝王をただの一度でも仰ぎ見ることが許されることでもあればこの男は自分を無上に幸福な人間と感じて、それを彼の生涯の最大の事件として子々孫々に語り伝えることでもあろう。さてこの日傭取りのもとに帝王が使者を遣わして、帝王が彼を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする、── 一体どういうことになるであろうか? 日傭取りは、彼がそれを人間として人間的に受取るものとすれば、きっとすこしばかり戸惑いして(おそらく非常に戸惑いするかもしれぬ)何だか羞ずかしいような困ったような気がすることだろう。彼にはそれが人間的には何かしら非常に奇妙なこと馬鹿げたことに思われる(これが人間的なことである)ので、こんなことは決してほかの人に話してはならないと考える。というのは知人や隣人がそれを聞いたら誰にもすぐ思いつくであろうところの解釈が既に彼の心の底にも頭を擡げてきているのである、── 帝王は自分を馬鹿にしようとしておられるのだ、それで自分は街全体の笑いものになり、自分の漫画が新聞に載せられ、帝王の皇女との結婚話が大市で売られることになるのだ、と。いったい帝王の養子になるというこのことは、むろんすぐにでも外的な現実となりうることなのであり、したがってまたこの日傭取りは、帝王がどの程度までそのことを真剣に考えているのかどうか、それとも帝王は貧乏人をただ馬鹿にしようとしているのか、その結果彼の全生涯を不幸なものにし、結局彼が気狂病院ででも終るようにしむけるつもりなのかどうか(というのは、いまの場合のように度のすぎたことをいうものは、容易にその反対に転化しうるものだから)、を自分の五官でたしかめうるはずもないのである。ところが小さな好意を示されたのであればこの日傭取りにも理解することができるであろうし、小都会に住んでいる人達もそれを理解することができよう、大いに尊敬せられるべき教養ある公衆も、すべての聡明な御婦人達も、要するにかの小都会の五十万の住民の一人一人(一体人口の点でもこの小都会も或いは相当の大都会であるのかもしれぬが、並はずれたものに対する感覚と理解の点ではまことにちっぽけな小都会なのである)がそれを理解しうるであろうが、日傭取りが帝王の養子になるなどということは、これはあまりといえばあまりのことである。ところがいま外面的な事実は全然問題にならないで、ただ内面的な事実だけが問題であるとする、したがって日傭取りを確信に導きうるようないかなる事実も存在せず、信仰のみが唯一の事実であるとする、そこで一切が信仰に委ねられているとする、── その場合でも彼の男にはあえてそれを信ずるだけの十分に謙遜な勇気があるであろうか? というのは厚顔な勇気は信仰にまで導くことはできない。その場合一体それだけの勇気をもっている日傭取りが幾人いるであろうか? そういう勇気をもたぬ者は、躓くであろう、並はずれたことが彼には彼に対する嘲笑のように響くことであろう。おそらくその場合彼は明らさまにまじめにこう告白するであろう、──「そういうことは私にはあまりに高すぎる。私はそれを理解することができない、(腹蔵なくいえば)それは馬鹿げたことのように思われる。」
 さてキリスト教は如何! キリスト教は、この個体的な人間が(したがってすべての個体的な人間、彼が日常どんな人間であろうと問題ではない、── 男・女・下女・大臣・商人・床屋・学生等々)、この個性的な人間が神の前に現存していることを教える。彼がその生涯にたった一度でも帝王と話したことでもあるとすればおそらくそれを誇りとするであろうところのこの個体的な人間、もしも彼が少しばかり高貴な地位にある誰彼と親しい関係にあるとすればそれを少なからずも得意とするであろうところのこの人間、── この人間が神の前に現存していて、彼の欲するいかなる瞬間にも神と語ることができ、そして確実に神から聞かれることができるのである、要するにこの人間に神と最も親しい関係に生きるように申し出られているのである! そればかりではない、この人間のために、ほかならぬこの人間のために神は世に来り、人の子として生れ、苦しみを受け、そして死んだのである、── この受難の神がこの人間に向って、彼に申し出られている救助を受け入れてくれるようにと乞うている、いなほとんど嘆願しているのである! 実に、もし世に気が変になるほどの何物かがあるとすれば、これこそまさにそれである! それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? 彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。その故に彼はそれを取り除き、破壊して、それを気狂いじみた無意味なものであるということにしてしまわなければならない。それはあたかも彼を窒息せしめるものであるかのように思われるのである。
 一体躓きとは何であるか? 躓きとは不幸なる驚嘆である。それ故にそれは嫉視に似ている。けれどもそれは嫉視している者それ自身に向けられたる嫉視である、── そこでひとは(もっと厳密にいうならば)自己自身に対して最も悪意を抱いているのである。自然人は神が彼に与えようとした並はずれたものを自己の狭量の故に受け入れることができない、そこで彼は躓くのである。


 いまの引用の後半「さてキリスト教は如何!」から最後までをもう一度読み返してみてください。ある意味で、これが『カラマーゾフの兄弟』の全体です。この小説に「躓き」を抱えていない人物がいますか? 自分を「嫉視」していない人物がいますか?「自己自身に対して最も悪意を抱いている」のでない人物がいますか? 全登場人物がそれぞれに「躓き」を抱えています。そうして、この小説の全体に、彼らへさしのべられた《ただ一人の罪なき人》の手が描かれていないでしょうか? さしのべられたその手にそれぞれの登場人物がどのように反応するか、その応答が『カラマーゾフの兄弟』ではないですか? そういう「応答の小説」として『カラマーゾフの兄弟』を読むことを私はあなたに薦めます。

 アリョーシャの「あなたじゃない」も、そのようにさしのべられた手のひとつです。「あなたじゃない」は、イワンの自分自身への「嫉視」・「悪意」の否定です。さらにいえば、実は、イワンだけでなく、この「あなたじゃない」を必要としていない登場人物が『カラマーゾフの兄弟』にいるでしょうか?

 どうでしょう? これでもまだあなたには、キリストのキスが大審問官の思想・行為を承認・祝福するものだなんて考えられますか?



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 というわけで、ここまでのところを理解していただいた方に私がプレゼントするのは、ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談(私はこの対談の全部を読んでいません)からの引用です。

亀山 とすると、つまり、フロマートカ的に解釈すると、キリストは、大審問官の前で自己批判するために降り立ったという理屈になりますね。ドストエフスキーの思想上の真意は、イワンにあった、ということになる。ある意味で、革命肯定の思想です。
佐藤 その通りです。フロマートカは、基本的に革命を肯定的にとらえています。
亀山 そういう文脈で、「大審問官」を読み替えることもできるわけか。たとえば、イワンは、最後にわざわざキリストが大審問官にキスする場面を描いている。前日に、「大審問官」は、百人の異端派を火あぶりにしているわけですよ。その「大審問官」にキリストがキスをするというのは、どういう意味でしょうか。ギリシャ語(コイネー)で言われる「祝福」、あれは、神への賛美や信仰の共有をひとつの絶対的な前提、他人、他者に対して神の恵みをとりなすことを意味するわけですよね。大審問官よ、やめなさい、いずれ神の罰が下ります、という警告でないことは確かです。勝手にどうぞ、私は知りませんよ、ともとれないでしょう。むろん、キリストが自分の無力さの自覚を大審問官に告白しているわけでもない。無神論者のイワンからとらえると、その行為はどうなるのか。ほかでもない、現実に対する肯定であり、許しを意味せざるをえなくなるわけです。許す、ということは、仕方ないという認識につながっています。「仕方がない」は、消極的な肯定をおのずから意味することになる。興味深いのは、「大審問官」の物語詩を語り終えたイワンに、アリョーシャが何も言わずにキスすることです。イワンが「いまのキス、さっきの盗作じゃないか!」と叫ぶように、明らかにアリョーシャのキスは、キリストの大審問官へのキスを反復しています。「大審問官」の作者は、イワンです。ですから、キリストのキスは、イワンの世界観の反映としてあるはずです。逆にアリョーシャのイワンへのキスの場面は、おそらくドストエフスキーの……
 このキスについて、以前から自分なりの解釈をもっていて、ドストエフスキーが果たせなかった『カラマーゾフの兄弟』続編でも、このモチーフは何らかの形で反復されただろうと想像しています。つまり、アリョーシャは、皇帝暗殺をほのめかすコーリャ・クラソートキンに対して、同じキスを反復するのではないかと空想しているんですよ。
佐藤 ここでの「キス」は、理論から実践への質的な転換を表すのではないでしょうか。「おしゃべりはいらない」と口を封じ、あとは行動のみあるという。受肉を象徴的に示しているのだと思います。
亀山 つまり、励ましのキスということですよね。「大審問官」に即していうと、現世の民のパンのためであれば、つまり、パンを分配するシステムを守るためであれば、「火あぶり」を続けるのも仕方ない、という。イワンは、ひょっとするとそう考えていたかもしれませんね。「神がなければ、すべては許される」と考えるぐらいの人ですから。そもそも、イワンは、このキリストのことを、一度としてキリスト呼ばわりしていないんですよ。彼、としか呼んでいない。ということは、非常に怪しい存在であるわけです。でもですよ、「続編」のアリョーシャについては、とうていそこまでは言えません。もっとあいまいなものだと思います。そのあいまいさにすべての文学的真実が含まれているわけですからね。

亀山郁夫佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書)


 はいはい、「文学的真実」ね。

佐藤 大審問官の物語においては、「臭い」が舞台装置として有効に使われていると思います。結局、キスによって、これまでの大審問官の行ないは何も変らないけれど、「励み」になっている。
亀山 繰り返すようですが、大審問官を「励ました」のがキリストであり、そうするようにキリストをそそのかしているのが、物語詩「大審問官」の作者であるイワンであり、イワンをそそのかしたのが、『カラマーゾフの兄弟』の作者ドストエフスキーという構造になる。言い換えると、大審問官をそそのかすのは、キリストであり、ドストエフスキーでもあるという、これも一種のポリフォニー(多声形式)ですかね。
佐藤 そう思います。そこからイワンの「すべてが許される」という発言が、彼の単独の思想ではなく、重層的なイデオロギーとして浮かび上がってくるのだと思います。
亀山 そうなんです。そのひと言が、父フョードル殺害を下男スメルジャコフにそそのかす。そういう意味では、父親殺しの犯人はスメルジャコフでもあり、イワンでもあり、イワンにキスするアリョーシャでもある。原罪のレベルでいけば、結局アリョーシャにまで辿りつくわけです。アリョーシャはじっさいに、子どもを猟犬に噛み殺させた元将軍の地主を、「銃殺にすべきだ」と言っているくらいですから。彼は、どんなことがあっても、原罪をまぬがれてはいない。アリョーシャのキスはまさに犯罪です。

(同)


 はいはい、そうですか、「アリョーシャのキスはまさに犯罪」なんですね?

亀山 それって、ある意味でものすごく内向的な論理ですよね。たいがいは、現実の悪を是認するところで終わってしまう。現世とはそのようなものでしょう。ただ、「大審問官」に立ち返っていうと、大審問官の前に現われたのは本当にキリストだったのか、という問題があるわけです。さっき、佐藤さんは、ドストエフスキーの真意は「大審問官」の側にある、というフロマートカの意見を参照なさってましたが、それとも関連して、僭称者という問題がここでも出てきているような気がしているんです。最近、斎藤美奈子さんが、今回の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳の成功は、ここの部分を、キリストと明示しなかったことだ、というようなことをおっしゃってくださっているんですが、さっきも少し言いましたように、実際にイワンはいちども彼を、キリストとは呼んでいないのです。ぼくの訳以外はすべて「キリスト」と名指している。じつは、これは変なんです。ぼくのなかには、これは、もしかすると、キリストの名を騙る悪魔ではないのか、という予感めいたものがあるからです。第一、イワンとアリョーシャの関係というのが、悪魔とキリストの関係であるわけですよね。

(同)


 斎藤美奈子が実際に何といったか知りませんが、亀山郁夫はそれを褒めことばだと思っていていいんでしょうか?

佐藤 ただ、いくら「大審問官」が多義的に読める文章になっているにしても、「彼」を「偽キリスト」で読むと、物語の枠が狭くなりすぎませんか。ニセモノを排して、ホンモノを探せという結論が容易に導き出されます。これでは底が浅すぎると思います。
亀山 そうですね。底が見えてしまう。ですから、さっきも言いましたが、キリストか、悪魔か、わからないあいまいさに文学的真実があるということです。

(同)


 ありません。