(一三)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その五



 今回はちょっと寄り道をします。とりあえず、ひとこといっておきたいんです。これについてはまた今後いろいろしゃべっていくつもりです。

 NHKテキスト(カルチャーアワー 文学の世界)「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」が発売になりました。番組は、NHKラジオ第二放送で十月から十二月までの三か月間の放送予定。講師はもちろん亀山郁夫です。
「『カラマーゾフの兄弟』を読む」ではなくて、「新訳」の冠つきなんですね。呆れました。

 さて、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』第五巻の「解題」でこう書いていました。

 ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる。ゾシマは、傲慢が生みだす悲劇を身をもって体験した。決闘のエピソードが示すように、彼自身ジラールの「三角形的欲望」のとりこだったことは疑いようがない。「三角形的欲望」の源にあるものこそ、傲慢である。その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、もちろんそれは、みずからの「傲慢」を最終的に克服するための第一歩にすぎなかった。ともあれ、この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもない、「謎の訪問客」である。

亀山郁夫「解題」)
(傍線は私・木下による)


 傍線部を採りあげて私が書いたのはこうでした(二〇〇八年八月七日付け)。ここを木下豊房も彼のページで引用しています(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm 八月二十一日)。

「その彼」というのはゾシマなんですが、彼が修道院への道を踏み出したのは、「謎の訪問客」に出会う以前なんですよ。「謎の訪問客」は、決闘を放棄して、軍籍を離れ、修道僧になろうとしている奇妙な人物ゾシマの評判を聞きつけてやって来たひとたちのひとりなんです。それなのに、なぜ亀山郁夫は「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんて書くんでしょうか? もうこれが理解できない。めちゃくちゃです。あまりに杜撰です。雑に過ぎる。わざとやっているのか? それとも、彼は本当にこの小説を訳したのか? でなければ、「解題」を誰かべつの無能な人物に代筆させているのか? 最悪なのが、小説を訳した人物と「解題」を書いた人物とが同一である場合です。最悪なのか? 最悪なんだろうなあ。 ── とまあ、こういうことです。


 そうして、出たばかりのNHKテキスト「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」がどうなっているか?

「ああ、これがはたして嘘だというのだろうか? 泣きながらわたしは思った。もしかすると、このわたしこそ、すべての人々に対してほかのだれよりも罪深く、地上のだれにもまして悪い人間なのではないか?」
 決闘場に立った彼は、相手に向かって銃を放つことを拒否します。それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした
 第六編「ロシアの修道僧」には、この回心のエピソードにつづいて、もう一つの魅力的なエピソード「謎の訪問客」が記されています。長編小説のなかにエピソードが入れ子細工のように挟まれる構造は、ドストエフスキー文学の魅力のひとつですが、この「謎の訪問客」はたんなる余興としての面白さを超えて、『カラマーゾフの兄弟』全体のテーマに迫る強烈な問題性をはらんでいるように私には思えます。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」)
(傍線は私・木下による)


 なんですか、この「最初のきっかけとなった経験」というのは? そういうからには、次の「きっかけとなった経験」があるんですよね? ところが、このNHKテキストでは「謎の訪問客」のエピソードが語られるものの、それが ── 「解題」にあるように ── ゾシマの修道院入りのきっかけだとは断わっていません。では、どこに次の「きっかけとなった経験」が書いてあるかというと、書いてないんですね。その他には、この文章になりますか。

 そしてここで私は、ひとつの思いを記しておきたい誘惑にかられます。それは、この訪問者こそ、ゾシマ長老の分身ではなかったのか、という思いです。
 ゾシマ長老があれほど傲慢の罪の意味するところにこだわったのは、アリョーシャが残した「伝記」にはついに書き加えられることのなかった罪が、彼を長く苦しめつづけていたからではないのか、とさえ思うのです。

(同)


 いい加減にしてくれ、と私は思いますが、これは「解題」のこの部分に対応します。

 では、この長老に果たして「偉大な罪人」と呼べるだけの試練はあったのだろうか。長老の残した「談話」は、むしろ長老の経験の欠落を示していないか。彼はどのような「穢れ」をまとうことにより、今の聖性の高みに到達することができたのか。
 兄マルケルから受けた印象、従卒アファーナシーへの殴打、決闘事件……しかし、ほかのだれにもましてゾシマ長老に近い存在とは、あの「謎の訪問者」ではなかったろうか。ゾシマは彼の苦悩を、さながら自分のことのように引き受けようとしていた。

亀山郁夫「解題」)


 ここで、いっておきたいんですが、私は八月七日付けの記述の時点で、上の「解題」中の文章を読んでいませんでした(私が「解題」の全体を読んだのは八月七日付けの文章を書きあげてから、八月二十四日付けの文章を書くまでの間でした。そのことはそれぞれの文章に書いています)。しかし、もし八月七日付けの文章を書く前にここを読んでいたら、もっとひどく亀山批判をしていたでしょう。それというのも、上の引用が何を前提にしているかというと、これなんですから。

 人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できるというゾシマ長老の考え方は、現代社会ではとうてい受け入れがたい、ほとんど不可能に近い信念ではないだろうか。とりわけ競争のはげしい現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られる。

(同)


 あのねえ、と思います。ゾシマ長老の「信念」が「人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できる」だなんて、どこからそんなことを引き出してこれたんですか、このひとは?

 いやいや、話が逸れました。私が疑っているのは、「それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした」という一文が、私の文章およびそれを引用した木下豊房の文章を受けてのものじゃないか、ということです。
 これがもし、「そうして、ゾシマは修道院にはいる決心をします」という表現であれば、私も疑いませんでしたが、「最初のきっかけとなった経験でした」というのは怪しいのじゃないでしょうか?

 因みに、七月は十七、十八、二十八日、八月は十四、十八、二十七日、九月は二、三、八、九、十、十六、十八、二十二、二十四日と、この「連絡船」へのnhk.or.jpからのアクセスが記録されています。この間に、NHKテキストの編集者と亀山郁夫とがどういうやりとりをしたのか、知りたいものです。そこで編集者がどう考えたかを知りたい。彼の内心の揺れがどのようなものであったかを知りたいんです。私はそこに希望を見出したく思います。つまり、彼が亀山郁夫に呆れたのであればいいと思うわけです。もうこんなひとに仕事を頼まない、と考えたのであればいいなと思うんです。

 他の箇所も指摘しましょうか?

 私はいいたいんですが、もし私の想像が正しいなら、こんな鬼ごっこみたいなことをしたってしかたがないんですよ。そもそも『カラマーゾフの兄弟』を訳していた時点での亀山郁夫の読み取りが問題なんですから。根本が駄目だから、枝葉のつじつま合わせをしても駄目なんです。だから、仮に亀山郁夫が今度は本家の「解題」にまで修正を加えはじめることがあったとしても、駄目なんですよ。
 さらにまた、こうもいいましょう。もし亀山郁夫がもう一度最初から『カラマーゾフの兄弟』を訳し直すということをしたとしても、駄目です。彼には無理だから。私は彼の個々の誤訳が正されればいいと考えているのじゃありません。彼の訳がなくなればいいと考えているんです。これは構造的な問題なのであって、表層の問題じゃないんです。