ちょうど二十歳になる直前のぎりぎりのところで、私は、ドストエフスキーの最後の長編小説群を『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の順 ── これは書かれた順・制作順でもあります ── で読み、この体験はそれから四半世紀を過ぎようとするいまもなお太く強く尾を引いています(この順で読んだのには、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の影響があるだろうと思います。『悪霊』の次に書かれた『未成年』はいまだに読んでいないんです。それはともかく、「いまもなお太く強く尾をひいてい」ることがすべてよいなんてふうには私は考えてはいません。よくなかったこともある。それでもそうなっちゃったんですよね)。
ドストエフスキーは死ぬまで上昇しつづけた稀有な作家 ── ほとんどの作家はやはりそれぞれの生前のある時期にピークを迎えてしまい、その後はどうしても下降してしまうんです ── だと私は思っていて、私にとって、彼の最後の作品『カラマーゾフの兄弟』は「世界最高の小説」で、数年前に新潮文庫の帯(上・中・下の三巻のそれぞれに)── 書店員に自筆で新潮文庫の帯を書かせる企画(毎月数点。たしか一年くらいつづいていました)があったんですね ── に私はそう書いて、「これを超える小説は今世紀も出ませんよ。断言。きっぱり。」とつづけたんでした。この帯には他にもいろいろなことを書きましたが、今後私が死ぬまでに読み返す回数として、『悪霊』がこの作品を上回ってしまうことへの懸念も含んでいます(現時点でもおそらく『悪霊』の方を多く読み返しているでしょう)。また、「日本最高の小説」が北杜夫の『楡家の人びと』であるとも書きましたっけ。
私はこれまで何度か電車で隣に座った若いひとが『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのに出くわしてもいて(なんてすごい確率なんだろうと自分で思います)、彼らがそのときこの作品のどの箇所にさしかかっているのかまでを横目で確認しながら、「君はいま「世界最高の小説」を読んでいるんだぞ」と心のなかで呼びかけるわけなんでした。
ちょっと村上春樹を引用します。
「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールには口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。
「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろいろなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」という、そのアリョーシャ・カラマーゾフのことですが、たとえば、彼はある婦人の依頼で、ある非常に貧しい男に金を渡そうとするんですね。いったんは金を受け取りそうになった男が最後にこれを拒否して、アリョーシャの仕事は失敗します。その後で、アリョーシャはべつの女性に事の次第を話し、こんなふうにいうんです。
「だってね、リーズ、もしあの人がお金を踏みにじらずに受けとっていたりしたら、家に帰って、一時間かそこら後には、自分の屈辱を泣いたでしょうからね、きっとそういう結果になったにちがいないんです。泣きだして、おそらく明日、夜が明けるか明けないうちに僕のところへ乗りこんできて、たぶん先ほどと同じように札を僕にたたきつけて、踏みにじることになるでしょう。ところが今あの人は《自滅行為をした》と承知してはいても、ひどく誇りにみちて、意気揚々と帰っていったんですよ。とすれば、遅くも明日あの人にこの二百ルーブルを受けとらせるくらい、やさしいことはないわけです、なぜってあの人は自分の潔癖さを立派に示したんですからね、お金をたたきつけて踏みにじったんですもの。踏みにじっているときには、僕が明日また届けにいくなんてことは、わかるはずありませんしね。ところが一方では、このお金は咽喉から手の出るほど必要なんです。たとえ今誇りにみちていたにせよ、やはり今日にもあの人は、なんという援助をふいにしてしまったんだと、考えるようになるでしょうよ。夜になればもっと強くそう思い、夢にまで見て、明日の朝にはおそらく、僕のところへ駆けつけて赦しを乞いかねぬ心境になるでしょう。そこへ僕が現われるという寸法です。『あなたは誇りにみちた方です、あなたは立派にそれを証明なすったのですから、今度は気持よく受けとって、わたしたちを赦してください』こう言えばあの人はきっと受けとりますとも!」
アリョーシャは何か陶然とした口調で、「こう言えばあの人はきっと受けとりますとも」と言った。リーズは手をたたいた。
「ああ、そのとおりね、あたし急におそろしいほどよくわかったわ! ああ、アリョーシャ、どうしてあなたはそんなに何もかもわかってらっしゃるの? そんなに若いのに、もう人の心の動きがわかるなんて……あたしだったら、決して考えつかないでしょうに……」
どうですか? おかしいでしょう? 変わった奴でしょう? それより彼のこのやりかたが、いけすかない、傲慢なふうに思われたでしょうか? しかし、『カラマーゾフの兄弟』の全体を読んでいないひとに納得してもらうのはむずかしいかもしれませんけれど、アリョーシャは真面目に心からこう思っているんですよ。彼は、なんというか、怯まないんですね。で、私のいまいった、この「怯まない」をもし彼が聞いたとして、そのとき彼はこの「怯まない」の意味をちゃんと理解するでしょうね。なにがいいたいかというと、彼は「怯む」ことをちゃんと知っているということなんです。彼は「怯まない」けれど、天真爛漫に「怯まない」のではなくて、自分が「怯む」可能性を大いに自覚しながらも「怯まない」んです。実際に彼がどんなことにどんなふうに「怯む」のか、私にはわかりませんが、それでも、彼は他人が「怯む」ことを知っていて、それは単に知識としてそうであるのではなく、ほんとうにすみずみまでを自分のことのように理解できるんですね(まったくべつの作品を引けば、ワーグナーの描いたジークフリートは恐れを「知らない」から恐れないのであって、知りながら恐れないのではないんです)。これはすごいことなんです。彼にはキルケゴールのいう「謙遜な勇気」があるんです(『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとは、ぜひキルケゴールの『死に至る病』── 先にいったドストエフスキーの長編小説群の読書の前に、私はこの本を読んでいましたし、ついでにいえば、すでに『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいたニーチェの『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『この人を見よ』なんかも同じ頃に読みましたっけ ── も読んでみてください。しかし、もしそれらの作品を読めば、あなたは確実に深く傷つくことになるともいっておきますけれど)。
さて、もう一度村上春樹。
私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思い出してみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間がいったい世間に何人いるだろう?
もちろん私は「『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間」なんですが(それどころか、この作品に出てくる犬の名前だっていえます)。
それはともかく、今度はカート・ヴォネガット。
あるときローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。SFではないが、これも本の話である。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
その『カラマーゾフの兄弟』で、私がいちばん好きな箇所、そうして、最初の読書からのこの四半世紀ずっと私が考えざるをえなくなってしまった箇所のひとつをここで引用してみます。いろんなことがわかるアリョーシャ・カラマーゾフならではのことばが飛び出します。彼は兄イワンと話しています。
「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。
「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
「だれだ? 例の気のふれた白痴の癲癇病みとやらいう、たわごとか? スメルジャコフ説かい?」
アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。
「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘づけになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
それで、次に同じドストエフスキーの『罪と罰』から。これは数年前に江川卓 ──「はじめに」でもいいましたが、このひとの訳で読むことを薦めます ── の翻訳が岩波文庫から出たときにあらためて読み返したんですが、そのときびっくりしたんですよ。「あっ」と思ったんです。
ラスコーリニコフは、まるで何かに刺しつらぬかれたように、全身をふるわせはじめた。
「じゃ……だれが……殺したんです? ……」彼はいたたまれなくなって、あえぐような声でたずねた。ポルフィーリイは、思いもかけない質問に驚いたように、椅子の背に思わず体をのけぞらせた。
「だれが殺したですって? ……」自分の耳が信じられぬとでもいうように、彼は相手の言葉をおうむ返しにした。「そりゃ、あなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! 殺したのはあなたなんですよ……」彼はほとんどささやくような声で、だがその声に確信をこめて言いたした。
ラスコーリニコフはソファからとびあがり、数秒間じっと立っていたが、また腰をおろした。その間、一言も彼は口にしなかった。こまかい痙攣がふいに彼の顔全体を走った。
「唇がまた、あのときみたいにふるえてますよ」ポルフィーリイは同情の色さえ浮かべてつぶやいた。「あなたは私の言葉を誤解なさったらしい、ロジオン・ロマーヌイチ」しばらく黙ってから、彼はつけ加えた。「それでそんなに驚かれたんですよ。私がうかがったのは、もう何もかも言ってしまって、問題を大っぴらにしようと思ってだったんです」
「あれは、ぼくが殺したんじゃない」ラスコーリニコフは、犯行の現場を押えられてふるえあがった幼児のように、こうささやいた。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたなんですね。ほかのだれにもできやしません」ポルフィーリイはきびしい、確信にあふれた声でささやいた。
どうですか? もう一度、今度は順番を逆に ── つまり、作者の制作順に ── 短く引用しなおしますが、
「だれが殺したですって? ……」自分の耳が信じられぬとでもいうように、彼は相手の言葉をおうむ返しにした。「そりゃ、あなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! 殺したのはあなたなんですよ……」彼はほとんどささやくような声で、だがその声に確信をこめて言いたした。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
というわけで、『カラマーゾフの兄弟』において、ドストエフスキーは『罪と罰』ですでに自分がやっていたことの裏返しをしているんですね(というか、そうなっちゃったんですね)。なんというか、サヨナラ満塁ホームランという感じです。すごい。こうして『罪と罰』再読によって、『カラマーゾフの兄弟』の株が私のなかでさらに上昇したことはいうまでもありません。
しかし、これを読んで、なんのことかと思われたでしょうか? 意味不明でしたか? 「僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」ってなんだ? そんなことをいう奴があるか? しかし、アリョーシャなら、いえるんですよ。この作品において、アリョーシャだけが「ああ、こいつならいうかもしれないよな」と、作中人物にも、読者にも合点のいく人物として描かれているんです。もちろん、彼は周囲からちょっとおかしな奴と思われています。こんなことをいえるアリョーシャ、そうして、彼を存在させたドストエフスキーとが、私にはほとんど奇跡のように思われるんですが……。
いったいなぜ私がこの四半世紀ほども、この「あなたじゃない!」にこだわってきたか、それをいまここで説明することができればいいんですが、どうやらできません。ちらっといえば、ひとは罪の意識について、自分自身のみで決着をつけることができないんですね、たぶん。
イワン・カラマーゾフが罪の意識に苦しむ。それをアリョーシャが否定してやるためには、アリョーシャ自身にイワンの意識がはっきり想像できていなければなりません。彼にはそれができています。単なる気休めで彼は「あなたじゃない!」といったのではありません。そのことがもちろんイワンにもわかる。だからこそ、イワンは激しく動揺するんです(ある意味では、アリョーシャは、この後でイワンが対話することになる「悪魔」と同等の想像力を持っているということになります。これは未読のひとにはわからないでしょうが)。イワンひとりでは断ち切ることのできない罪の意識を、そっくりそのまま理解したうえで否定してくれる存在 ── それがアリョーシャで、このアリョーシャのもっと向こうには、これより以前にイワンが「大審問官」の話をする直前にアリョーシャの口にしたあるひとがいるわけです。そのときイワンはこう返したんでした。
「ああ、それは《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血のことだな! いや、俺は忘れてやしない。むしろ反対に、お前がいつまでもその人を引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていたくらいさ」
(同)
もうひとついえば、私は以前にドストエフスキーの『おかしな人間の夢』を紹介しましたっけ。そのとき私はこういったんでした。「自分のどんなこともさらけ出してかまわないと思える誰か、自分のどんなことも赦して受け入れてくれる誰かの存在は途方もなく貴重です。」
ここで、村上春樹の『海辺のカフカ』なんですが、これは『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとが書いた小説だな、と思ったものです。
すでに『海辺のカフカ』を読んだひとがどう感じるのだかわかりませんが、たとえば、これはどうですか?
「ひょっとすると彼は、人口百万の見知らぬ都会の広場にいきなりただひとり、無一文で置き去りにされても、決して飢えや寒さで滅びたり死んだりすることのない、世界でたった一人の人間かもしれないね。なぜって、あの男ならすぐさま食事や落ちつき場所を与えられるだろうし、かりに与えられないとしても、自分からさっさと落ちつき場所を見つけるだろうよ。しかも、彼にとってはそれが何の努力や屈辱にも値しないのだし、落ちつかせてやった相手のとっても少しも重荷にならぬばかりか、むしろ反対に喜びに感じられるかもしれないんだからね」
で、こうつづきます。
中学で彼は規定の年限を終えなかった。まだまる一年残っているとき、彼はだしぬけに、ふと頭に浮かんだ用事で父のもとに行くと、世話になっている婦人たちに告げたのである。相手はとても彼に目をかけていたので、放したがらなかった。旅費なぞごく知れたものだったため、婦人たちは、彼が恩人の家族から外国旅行の前に贈られた時計を質に入れたりするのを許さず、旅費のほかに、新しい服や肌着など、気前よく買い与えた。だが彼はどうしても三等で行きたいからと言い張って、旅費を半分返した。この町についたあと、「なぜ学校も終えずに、舞い戻ってきたんだ?」という父親の最初のくだくだしい質問に、彼はまったく何も答えず、いつもと違って沈んだ様子だったという。ほどなく、彼が母の墓を探していることが明らかになった。そのとき彼はまさに自分から、それだけが帰郷の目的なのだと打ち明けようとした。だが、はたして帰郷の理由がそれだけに尽きるかどうか、疑わしいものだ。何よりも確かなのは、そもそもいったい何がふいに心の奥から湧き起って、彼を何か新しい未知の、しかし避けられぬ道に否応なしにひきこんだのか、当時は自分でもわからなかったし、絶対に理由を説明できなかったにちがいないということだけだ。
(同)
どうでしょう? すでに『海辺のカフカ』を読まれたひとには、なにかしらの反応が見込めるのではないかと私は考えているんですけれど。
しかし、まあ、それはいいんです。私は『海辺のカフカ』における、田村カフカ少年とナカタさんとの関係を考えているんです。
その前に、またべつの作品について。
ポール・マッカートニーに『Live and let die』という歌があります。私がこの歌を思い浮かべるのは一九八九―九〇年のツアー ── 私は東京ドームに行ったんですね ── の録音(『Tripping the Live Fantastic: Highlights』)です。オリジナルのスタジオ盤のものではなく。
When you were young
And your heart was an open book
You used to say “Live and let live”(Paul McCartney『Live and let die』)
で、この後、こう振り切ることになるんです。
But if this ever-changing world in which we’re livin’
makes you give in and cry
Say “Live and let die”(同)
(この歌詞についてウィキペディアにはこうありました。「The lyrics are sometimes criticized for the strange phrase but if this ever-changing world in which we live in, but that is actually a mis-hearing of the lyric but if this ever-changing world in which we're livin'. The correct lyrics are printed in the booklet for the Paul McCartney CD All the Best!」)
つまり、ずっと「Live and let live」を信条にしてきた者が、やがてついに「Live and let die」といいだすことになるという歌なんですね。これがそのまま村上春樹に当てはまるだろうと、私は『海辺のカフカ』を読んだときに感じたんです。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いたときの村上春樹は「Live and let live」あるいは「Die and let live」じゃなかったかな、と思うんです。これが『ねじまき鳥クロニクル』のあたりで変化してきた。そうして、『海辺のカフカ』では決定的に「Live and let die」になってしまったのじゃないか。これは、直接的に「悪」ないし「邪悪」対「自分」という構図が前面に出てきてこうなってしまった、という気がするんです。
私がここで「悪」ないし「邪悪」というのは、
「僕はあのときから、人間というのを頭からすっかり信用するということができなくなったんです。人間不信とか、そういうものじゃありません。僕には女房もいますし、子供もいます。僕らは家庭を作り、お互いを守りあっています。そういうのは信頼がなければできないことです。でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何かひどく悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家庭やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるかはわからないんだぞって。ある日突然、僕の言うことを、あるいはあなたの言うことを、誰一人として信じてくれなくなるかもしれないんです。そういうことは突然起こるんです。ある日突然やってくるんです。いつもそのことを考えています」
── にあるようなものですね。で、いま引用した文章の先にはこうあります。
「でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりのよい、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です」
(同)
あるいは、さらに数年を遡る作品では、
もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く ── 僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く ── 傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手にさえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。
これに通じるものとして、べつの作家の作品から引用すると、
中佐はそこではじめて、たいていの人間が自覚せずに終わってしまうことを自覚した ── 彼が残酷な運命の犠牲者であるだけでなく、その残酷な運命のいちばん残酷な手先のひとりでもあることを。
もう一度いいますが、私の印象では、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の頃の村上春樹が「Live and let live」あるいは「Die and let live」だったとすれば、『海辺のカフカ』での彼は「Live and let die」じゃないか、と思うんですよ。これは、どうしても受け入れることのできない邪悪なものが、この世にはたしかに存在するのだという認識、それも「let die」に直結するほどの認識からそうなるんだと思うんです。しかし、同時に、もしかすると自分自身さえもがその邪悪なものになりうることまでも知っているわけです。それは自分自身にとって非常に恐ろしいことです。先の「沈黙」がそういう話ですが、それ以上のレヴェルで、ということだと思うんです。
たしかに存在する邪悪なもの ── それに自分は与しない。そうして、自分が無意識にも与しないように自分を見張る、ということ。
そこで、またもべつの作品から引用します。
「僕は、自分が何千という人間の死に間接に同意していたということ、不可避的にそういう死を引起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもしていたということを知った」
ちょっとだけ補足すれば、こういうことです。死刑制度をもつ日本という国の国民 ── あなたです ── は、死刑囚の死に間接的に同意しています。イラク戦争に協力する日本という国の国民 ── あなたです ── は、イラクでの膨大な数の人間の死に間接的に同意しています。あなたは「不可避的にそういう死を引起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもして」います。まだまだ例を挙げることはできるんですが、あなたのごく平穏な日常はそういう死の上に成り立っていると、とりあえずは、そういうことです。
「それ以来、僕の考えは変らなかった。それからずいぶん長い間、僕は恥ずかしく思っていたものだ。たといきわめて間接的であったにしろ、また善意の意図からにせよ、今度は自分が殺害者の側にまわっていたということが、死ぬほど恥ずかしかった。時がたつにつれて、僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、こんにちでは人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理に含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえないのだ。まったく、僕は恥ずかしく思いつづけていたし、僕ははっきりそれを知った ── われわれはみんなペストの中にいるのだ、と」
(同)
「僕は確実な知識によって知っているんだが(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽くしている、それは君の目にも明らかだろう)、誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。なぜかといえば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、ひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの ── 健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためにはそれこそよっぽどの意志と緊張とをもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ」
(同)
で、こういうことにすると、自意識のひどい悪循環 ──自分自身への際限のない問いかけと否定 ── のなかに取り込まれてしまうのじゃないかと私は思うんです。自力での脱出は不可能と思われるくらいの悪循環です。
そこで、アリョーシャ・カラマーゾフなんですね。父親殺しの犯人が自分以外の誰でもないと考えて苦しむ兄イワンに向かって、そのことを指摘もし、しかも「あなたじゃない」と断言してやれるような、恐ろしく貴重な存在です。思い出してください、「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」。
もし自分自身を邪悪なものと区別できなくなってしまうようなら、「Live and let die」ということはできなくなってしまうんですよ。いったん邪悪なものの存在を認識した者は、それと自分とをはっきり区別できるような強さと感性を持ち合わせていなくちゃならないんです。そうでないと「Die and let die」になってしまうんです。
だから、『海辺のカフカ』では、田村カフカ少年とナカタさんとがペアにならざるをえないんですよ。もっといいましょうか? 田村カフカの父親を殺したのは誰ですか? ジョニー・ウォーカーさんを殺したのは誰ですか? こういい換えてみましょうか? 殺していないのは誰ですか? 田村カフカ少年は、この作品において、父親を殺したのはこの自分ではない、と確信する必要が絶対にあった ── つまり、それは彼にとって非常に困難であったということです ── んです。この構造は村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』の読者だから設けることのできたものなんだと私は考えます。『カラマーゾフの兄弟』なしにこの構造はありえません。そう考えます。
ややこしかったでしょうか?(もうこれは、少なくとも『海辺のカフカ』を読んだひとにでなければ、通じない話になってしまいました。)
この文章は、『海辺のカフカ』出版当時(二〇〇二年)に私の書いた文章をもとにしています。私はこの作品を発売前に新潮社から渡されたバウンドプルーフで読んでいたんですね。それで、読後感を書き送ったわけです。新潮社の営業によれば、こうしてバウンドプルーフを読んだ書店員たちの文章は作者本人が必ず目を通すということでしたっけ。
このときからいままで私は『海辺のカフカ』を読み返していません。
なぜ、いまここでこんなことをまたいうかというと、ちょっと前にある出版社の営業(入社からまだ数か月)としゃべっていて、たまたま話題が村上春樹に及んだときに、簡単にこのことを説明しようとして、できなかったからなんですね。それで、いま一度、ほぼ五年前の自分の考えていたことを確認しようと思ったわけです。
さて、それで、『海辺のカフカ』で、この村上春樹の試みは成功したかどうかというと ── 彼もヴォネガットと同様に『カラマーゾフの兄弟』を「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」と考えているとは思いますが ──、どうだろう、といまの私 ── 当時はもっとよい評価をしていたんですけれど ── は首をかしげるんですね。おそらく、私のいちばん大きい疑問は「責任」の扱いですね。ここでは説明しませんが。
そのことと関係がなくはないと思いますが、なんというか、ある時点から村上春樹は「読者のために」書くようになってしまったんじゃないでしょうか? 「作品それ自体のために」書かなくなったのじゃないでしょうか?
で、ついでですが、もうひとつ。この作品についての論評ではよく『オイディプス王』(ソポクレス)が引き合いに出されるんですけれど、まあ、それはそうだろうとは思いながら、私にはむしろ『選ばれた人』(トーマス・マン)の方が思い浮かんでいましたね。これは当時からそうでした。もうちょっというと、同じ村上春樹の『アフターダーク』の「語り手」を問題にする論評のなかに『魔の山』(トーマス・マン)への言及の見当たらない ── 私が見つけていないだけかもしれませんが ── のも私には不思議なんです。
追記。ポール・マッカートニーの『Live and let die』ですが、邦題は『死ぬのは奴らだ』です。ジェームズ・ボンド=007の映画の主題歌だったんです。映画のタイトルとしてはともかく、この訳はよくないですね。「死ぬのは奴らだ」というつもりで、私のここで書いたことを読むと、たぶんわかりづらくなるでしょう。