『善き人のためのソナタ』

(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)

 本ではなく、映画を紹介します(今後も「読書案内」は映画をも扱うことになるでしょう)。

 この映画を最初の公開時の終わりに私は観ているんですが、直前にとった食事でビールを飲みすぎてしまい、途中 ── この映画本編以前にすでに予告編から、この作品のホーネッカーのジョークのあたり ── までを眠ってしまっているんですね(鼾もかいていたようで、隣の妻から何度もつつかれました)。それで、やっと目が覚めてから最後までを観たわけですけれど、作品はそれだけでも非常によかったので、「しまった!」と思いました。それで、DVDを購入し、繰り返し観ることにもなったんですが、幸いなことに、それより先に近所の映画館で ── たしか一週間限定の ── 再映もあって、この作品との再会は映画館のスクリーンでできたんでした。


 一九八四年、主人公は東ドイツの国家保安局「シュタージ」の一員でした。
 ヴィースラー大尉 ── 上半身のこわばってほとんど動かない、ほとんど表情を動かさない、家族や、おそらくひとりの心を許せる友人のいない、笑顔のない、冗談のひとつすらいわない、最低限のことばしか口にしない、目の大きな(その目は、しかし、とても優しい)、頭頂部の禿げた丸刈りの男 ── 彼の暗号名は「HGW XX/7」=ハーゲーヴェー・ツヴァンツィヒ・ズィーベン ── だけを観客の前にしっかりと存在させるべく、この映画の全体がつくられていると思いました。つまり、彼をそのように存在させるために ── そのためにだけに ──、彼の周囲がつくられた・設定された・展開されたでしょう。

 映画の冒頭はヴィースラーによる尋問の描写と、さらにその録音を用いての大学での講義 ── このように尋問を行なえ ── の模様です。西側に逃亡したある人物がいて、それを助けた人間が誰かということを追求するわけです。

「近所に住む君の友人ピルマセンスが ── 九月二十八日に西へ逃亡した。協力者がいるはずだ」
「何も知らない。西へ行くとは夢にも思わなかった」
「九月二十八日の出来事を詳しく話してみろ」
「調書の通りだ」
「話せ」
「子供たちとトレプトウ公園にいたら ── 友達のキルヒナーに会った。彼の家に行って遅くまで音楽を聴いた。彼に電話して確かめればいい」

(『善き人のためのソナタ』(DVD)古田由紀子訳 アルバトロス)


 この尋問の録音を学生たちに聞かせながら、ヴィースラーはこんなふうにいうんです。

「覚えておけ。尋問は忍耐強く四十時間続けること」
「時間が経過すると無実の囚人はイラ立ってくる。不当な扱いに対して大声で怒り出す。その一方で、罪を犯した囚人は泣き出す。尋問の理由を知ってるからだ。白か黒か見分ける一番いい方法は ── 休まずに尋問することだ」

(同)


 で、四十時間以上の尋問 ── 相手を一睡もさせません ── の最後の部分の音声 ── 同じ質問、同じ回答 ── が教室に流れます。彼は学生たちにこういいます。

「一字一句まったく同じだ。真実を話す者は言葉を変えて表現する。だがウソつきは ── 圧力をかけられると、用意した言葉にすがりつく」

(同)


 それで、結局この尋問は成功し、相手は隠していたことをしゃべりはじめます。

 このやりかたを「非人間的」だと非難する学生の名前を彼はチェックします。そうして、どうやら彼は、「人間性」を掲げるそういう学生のようなタイプにことさらななにかをかきたてられるようなんです。

(ちょっとこの映画の翻訳についていいますが、先の「話せ」というヴィースラーのことばは ‘Bitte, noch einmal’ = “Please, once again” なのであって、相手が「調書の通りだ」── そのことはもう話しましたし、調書も作成されたじゃないですか、何度同じことを訊くんですか?── というのを受けて、「もう一度いいなさい・話しなさい・いってみなさい」といっているので、翻訳は意図的に、ヴィースラーの・体制側の・東ドイツ国家の態度を威圧的に・非情に見せようとしています。これはたとえば、終盤での、女優を連行する場面でもそうです。また、終盤の「報告書」の表紙に「ヴィースラー担当」という訳がありますが、そんなことはあそこに記載されていません。それに、この後の場面を考えると、ここでそんな余計な訳を入れる ── なぜそうしたかはたぶんわかります。訳者は観客のレヴェルを考慮したんでしょう ── のはまずかったのじゃないでしょうか?)

 ともあれ、この尋問中、また、講義中、ヴィースラーは非常にいきいきとしています(彼に「いきいきと」することがあれば、という限定つきにはなるかもしれませんが)。彼がいきいきとするのは、自分の職務 ── 他人を監視し、真実を追求すること ── を徹底的に果たしているときです。彼は正確な仕事をします。彼にとっては、「職務を正確に果たす=事実を明らかにする」ということと「国家・体制に忠実である」こととは同義であったでしょう。
 しかし、ここには問題もあって、たぶん、彼のそのような仕事ぶりは東ドイツ国家が意図しているもの・組織が意図しているものとは、最初からべつのところにあったんですね。つまり、国家の意図が客観的事実の追求とはべつのところにあった場合 ── 国家がAという人物に対して、その罪のあるなしにかかわらず処罰・排除・抹殺を望んでいた場合 ── を考えてみてほしいんですが、その場合にも、おそらく彼は事実としての罪のあるなしをきちんと追求せずにはいられない、そういうふうに仕事をしてきたでしょう。そのために、たぶん彼の出世は遅れているでしょう。しかし、とにかく、無実の人間を有罪に仕立て上げるような事例を除けば、つまり、国家にとっての真に有罪である人間を追求させたなら、彼ほど有能に仕事をする人間はいなかったでしょう。学生時代の彼の友人で、いまは彼の上官に当たるグルビッツ中佐 ── 彼は組織のなかをうまく泳いでいく術を心得ています ── はそういう事情をよくのみ込んでいて、ヴィースラーを重宝しているわけです。そういうことが作品の冒頭からしばらくのうちに読みとられます。ヴィースラーが「シュタージ」という組織についてどのように考え、おそらくは恐れてもいるか、もわかります。
 そうして、この作品は、ほんとうなら、彼がとことん追求し、追い詰めなくてはならなかった事例、国家の意図と彼の仕事の方向性とが完全に一致しているはずの例を前にして、彼が反対のことをしていく様を描いているんです。

 この映画の「つくり」とか、それに伴う「効果」などをいうことはたやすいと思います。ここでこの場面(たとえばエレヴェーターでの少年との会話)のあるために、それ以前にどういう場面(食堂でのジョーク、あるいは冒頭での講義)がなければならなかったか、とか、そんなことはわかります。ヴィースラーにアルコールや娼婦をあてがうことが何を意味するか、とかそういうことです。ステレオタイプの悪役の配置とか、そういう批判のあることも当然わかっています。また、彼が監視することになるドライマンという作家の設定にもいろいろと苦労があっただろうということも。
 それで、私が冒頭からしばらくを眠ってしまって観過ごした初回の鑑賞のときのことですが、後で私は妻にこう訊いたんでした。映画の終盤で、作家がある芝居の上演を観るシーンがあったけれど、同じ芝居を彼が観るシーンが冒頭にもあったのだろうね? 答えはその通りで、私がここでなにがいいたいかというと、この映画はそういう「つくり」をしているのだということです。あらゆるシーンには意味があり、それらは必ず相互に結び合っているんです。だから、終盤に現われる「報告書」に付着している赤い指紋は、タイプライターのインクリボンのものでなければなりません。そうでないと、中盤でのあるシーンがまったく無駄になるんです。あるいは、それを見るドライマンの直前のつぶやきが。そんなふうで、この映画の「つくり」は誰にもわかるものです。とてもわかりやすい(とはいえ、私は、指紋のことは、DVDを繰り返し観ていてようやく納得したというのが本当のところです)。
 そのわかりやすさに私は不満を覚えないではないんです。それはつまらないとさえ思います。もちろん、この「つくり」はとてもきちんとしているので、それはそれで見事ではあるんですが、当の見事さがこの作品を小さくしてしまっているだろう ── もしかすると、この作品はもっと大きなものになりえた ── と思うんです。つまり、ある意味で、この作品は監督の手に負えないものになりはしなかった・監督はこの作品を自分の手で制御しおおせた、と思うんですね。いや、彼は最初からこれを慎ましく小さな作品に仕上げようと思ったでしょう。小説に置き換えれば、これはけっして長編小説になりはしません。
 私はいい過ぎていますか? なにもそんなふうにけちをつけなくてもいいじゃないか、と思われますか? お前はこの作品を褒めているのか、けなしているのか、どっちなんだ、と思われますか?
 本来、私がほんとうに高い評価をする作品というのは、作家自身の手にあまるものであって、しかも ── 奇跡的に・なにかの間違いか偶然のように ── 高度な達成を実現してしまったものなのだ、といえばいいでしょうか? しかし、この『善き人のためのソナタ』に私は結局感動してしまいました。繰り返し観直しても、やはりその感動は損なわれないでいるんです。なぜなのか?(私はいつも自分の感動に対して「なぜなのか? どういうわけなのか?」と問いつづけます。ただ「よかった」だけにしないんですね。この習性がよくないことであるかもしれないと考えることもありますけれど)。

 繰り返しますが、この作品のすべては、ただひたすらこの主人公ヴィースラーを描くためだけに ── 他の登場人物たちを含み込んで、つまりはストーリーまでも ── 捧げられています。いままで私のいってきた「わかりやすさ」を「単純化」(「省力」といってもいいです)といいかえてみますが、この「単純化(省力)」がひたすら主人公のためのものなのだということです。そうして、主人公だけがこの「単純化(省力)」からはみ出ています。べつのいいかた ── うまいいいかたではないですが ── をすれば、他の登場人物たちやストーリーが実は主人公自身なのだということです。だから、主人公が私たちの前にどのように立ち現われてくるか、がこの作品の成否を決めることになります。

 ヴィースラーの監視する作家ドライマンはヴィースラー自身の奥底にある希望です。そもそもドライマンを監視することをいいだしたのがヴィースラー自身であること ── ヴィースラーがそういいだしていなければ、彼の上司グルビッツが大臣の依頼をその場であのように承諾していたわけがありません ── また、彼がそういいだしたのには、あの「人間性」を掲げる学生とドライマンとに同じ匂いを嗅ぎとっていたからです ── はとても重要です。そうして、ヴィースラーはドライマンを監視することによって、初めてドライマンが自分自身の希望であることを知っていくことになります。ドライマンの恋人である女優が大臣の車で帰宅したときに、ヴィースラーが「これは見ものだぞ」とほくそえんで、わざわざドライマンにそれを見せること、それを見たドライマンの反応から逆に自分が動揺することになるのは、とても重要です。ドラマの進展には必ずヴィースラー自身が絡むことになります。これは、彼が自分自身に復讐されているんだ、といえばいいでしょうか? やがて彼はグルビッツに提出すべく携えていった報告書を自分で握りつぶすようになっていきます。彼が自分自身のせいでこれまでの自分の軌道からどんどんどうしようもなく逸れていくことになる=これまでの自分が押し殺していたものにどうしようもなく近づいていく ── それは彼が思ってもみなかったことです ── ことになる様が描かれます(トーマス・マンの『ヴェニスに死す』が ── もっと複雑で巧みでしたが ── こういう「つくり」でした。主人公はそもそも仕事を中断してヴェニスに行こうとしていたはずなのに、さまざまな迂回をします。また、当のヴェニスに着いた後も、自分の待っているものがなになのかを自分で認めるまでに迂回をしつづけるんです。その過程が「どうしようもなく」描かれることになります)。「どうしようもなく」は、非常に重要です。素晴らしい作品は、必ずこの「どうしようもなく」があると思います。

 その「どうしようもなく」をヴィースラーが引き受けざるをえないこと、引き受けた彼がどうならなくてはならなかったか。というか、この「引き受けざるをえない」とか「どうならなくてはならなかったか」とか、そういうことの全体が「彼=ヴィースラー自身」なんですね。

 さらに、この作品では、描かれる主要な時間(作家ドライマンと女優とが動きまわっている時間)があって、その後にエピローグとして、「四年七か月後」、さらにその「二年後」、そうしてさらにその「二年後」が描かれます。この、合わせて八年七か月間のヴィースラーの毎日。「どうしようもなく」。

 ……傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような……

(大西巨人『神聖喜劇』 光文社文庫)


 そこから遡って考えると、それ以前の、作家と女優が動きまわっているこの映画の主要な時間 ── いや、実は「主要な時間」はエピローグの方なんでしょう。それ以前の時間はひたすら主人公を存在させるためだけにあるでしょう ── でも、観客のずっと見ているのは、ヴィースラーの顔なんですね。彼の表情のわずかな動きばかりをずっと見ている・のぞき込んでいるはずなんです。あまりに抑制された表情なので、作中ただ一度、自分の失言に拳を握りしめてしまうときの彼の顔にびっくりしてしまうほどなんです。ヴィースラーの顔がこの作品のすべてだといっていいのじゃないでしょうか?

 最後に彼の顔のこわばりが少しばかり溶けだします。そこでの彼のひと言がとても素晴らしい。

 なんだか我田引水みたいですが、自分がなぜこの作品に感動したのかを考えていて、ふと思い当たったのが、ヴィースラーの行為が「連絡船」に他ならないということでした。

「人は、『精神の、魂の、連絡船』を(大小何艘か)持つべきであるが、とりわけ数年このかた、自分は、まるでそれを持たない(持つことができない)。」という(桜井自身もが、「われながら、取り留めないような」と断わらざるを得なかったところの)感想を述べたのも、そのおりであった。……どこからどこへの、何から何への、連絡船なのか、それは、彼自身にも、ほとんど五里霧中のような事柄である。ただ、もしも彼がその「精神の、魂の、連絡船」を(何艘か確実に)所有し得たならば、彼の内面における「落莫の風」は、たぶん吹き止むのではないか(少なくとも風勢がずいぶん落ちるであろう)、という漠然たる予感のようなものが、彼自身になくはない。……

(大西巨人「連絡船」 講談社文芸文庫『五里霧』所収)

 こんな所業は、結局無意味なセンティメンタリズムでしかない、とあなたは思うかもしれない。あなたが思うだけでなく、それは、客観的にそうでしかないのかもしれない。しかし、自分としては、それが一つの小さな「精神の、魂の、連絡船」であ(り得)るかもしれないと考える。……

(同)


 どうでしょうか? これがヴィースラーじゃないでしょうか? そうして、彼が「どうしようもなく」この選択をしたときに、彼の人生が劇的にものすごく晴れやかで輝くものに変化したかというと、そうではなく、あのようなものになったわけです。そこに私は惹かれるんですね。そうして、エピローグでの「八年七か月後」を経てさえ、外面的に彼の生活が好転するわけでもないはずなんです。彼はただあることを知ったというだけなんですよ。そこにものすごく惹かれます。

 そうして、これはもっと大きなものに結びます。先に引いた文章の全体を引き直せば、

 ……広大な客観的現実の様相は当面さもあればあれ、「微塵モ積モリテ山ヲ成ス」こともいつの日かたしかにあり得るのではないか、── もしも圧倒的な否定的現実に抗して、あちらこちらのどこかの片隅で、それぞれに、一つの微塵、一つの個、一つの主体が、その自立と存続と(ひいては、あるいは果ては、おそらくそれ以上の何物かと)のための、傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような格闘を持続するに耐えつづけるならば。

(大西巨人『神聖喜劇』 光文社文庫)


 おそらく「「微塵モ積モリテ山ヲ成ス」こと」が「いつの日かたしかにあり得」たとしても、「傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような格闘」は終わらないでしょう。
 ヴィースラーの場合もそうです。彼がある一点においてわずかに慰められるという ── こういってよければ ── それだけでしかないことに、この映画の全体が捧げられているということ。それが先に私のいったこの作品の「小ささ」に結ぶわけなんですが、この「小ささ」が成功しているんです。私にとって、とても大切な映画です。


善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]五里霧 (講談社文芸文庫)