(八)


 最近に大西巨人の『深淵』(光文社 上下二巻)の再読を終えた ── いまは『三位一体の神話』を再読中です ── んですが、上巻の終わりの方に、こういう文章があります。

 ── イプセン作戯曲『民衆の敵』最終第五幕の幕切れで、主人公の医師ストックマンは、「独り立つ者、最も強し。」と断言する。レーニンは、その『民衆の敵』あるいはイプセン作劇詩『ブラント』の「一切か無か。」というような考え方に、語の悪しき意味における『ニイチェ主義』を看取し、そういうイプセンを否定的に批判した。レーニンなりブレヒトなりの尊重・主唱したのが「<連帯>の重要性」であることは、疑いない。
 伊藤弁辯士も、「<連帯>の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、<連帯>とは、断じて<恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)>ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の<連帯>ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の<連帯>とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「<連帯>とは、ただちに<恃衆>または<恃勢>を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。

大西巨人『深淵』 光文社)


 イプセンの作品に見られるような突出した個人、「一切か無か。」を振りかざした強者としての個人 ── とかく誤解を受けがちなニーチェの、とりわけ「超人」に象徴されるような個人 ── を「レーニンなりブレヒトなり」は警戒しました。反対に彼らが「尊重・主唱」したのは「<連帯>の重要性」だったんですね。しかし、その<連帯>とは、誰でも彼でも「みんな」が集まることではないのだ、ということがここでいわれています。<連帯>を構成する全員がそれぞれに「正しいなら、一人でも行く」という者でなくてはならないというわけです。逆にいえば、「「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の<連帯>ではない」。自分ひとりには力も信念もないけれど、「みんな」の集まりに加わってなら、やっていける、なんていうのは駄目なんです。また、自分ひとりの力と信念とでやっていくことはできるけれども、そのときに、「「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者でかまわないから、とにかく参加してくれる者の数が多ければ多いほどよい、なんてのも駄目なわけです。たとえ、その参加者の数によって、自分の企てが実際に大きく進展するはずであるとしても、です(それは結局「本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない」んです)。

 そこでの、

「正しいなら、一人でも行く」

 ── に私はとても感銘を受けたんですね。

 すこし前にようやく刊行された大西巨人のインタヴュー集『未完結の問い』(聞き手 ── 鎌田哲哉 作品社)の帯の背の部分にはこうありました ──「ただ一人でも行くということ」。

 それで、ここしばらく、私は何度も「ただ一人でも行く」ということばを思い起こして自分に力の回復するのを確認するんです。

「ぼくはこの世界で自分が正当に権利を主張しうるものは、なにひとつなくなってしまった、という風に感じていたのさ」

大江健三郎『個人的な体験』 新潮文庫


 ── なんて先月は書いていたんですけれど。

「ただ一人でも行く」を私がどう考えているかというと、これを「ただ一人でも読む」と読み換える、あるいは、その読書経験を「ただ一人でも伝える」と読み換えます。
「もしかすると、この本を読んでいるのは自分だけなのかもしれない」とか「この本をよいと思っているのは自分だけかもしれない」という予感を抱きつつ、「ただ一人でも読む」・「ただ一人でもこの本をよいと思う」ということのできる読者を想定しての「読書案内」というのが、最もよい「読書案内」なんじゃないかと思うんですね。つまり、「みんなが読んでいるから私も読む」・「作品のよしあしの判断は他人に任せる」・「どうせ自分には文学なんかわかりはしないし、わからなくていいと開き直る」・「作品を自分に合わせて読む・自分を作品に合わせないで読む」・「読書に背伸びをしない」のでしかない読者に向けての「読書案内」を私はしない、ということです。

 この「連絡船」という私の企ては、多くのひとたち、「みんな」の反発を買うはずの主張をしつづけています。そのせいで、せっかくこれを読みだしてくれたひとたちがあったにしても、たちまちに遠ざけてしまうことがあるでしょう。しかし、ちょうど同じ理由が、べつの読者を近づけるに違いないと私は信じます。


深淵(上) (光文社文庫)深淵(下) (光文社文庫)未完結の問い