(二)
書き手は、自分の文章が読者にどう読まれるかを予測して書かなくてはならない ── しかし、読者のために書くのではない ── けれども、そこで彼の想定している読み手の読書レヴェルは一定以上に優れているものでなくてはならない、と私は考えています。このような考えは、書き手が彼の作品においてなしうることの限界 ── 一定以上の読書レヴェルにはある読者とはいえ、書き手は結局そういう、彼にとって現実の、生身の他人のなかに想像しうる・ありうるはずの読者に合わせざるをえない ── を意味するのではないか、という疑問も出るでしょうが、それこそが、その不自由さこそがことばで表現するということです。
たしかに「作品」は読まれなければならないんですが、それは、一定以上に優れた読者に読みうるものならば、それでいいんです。それさえクリアできれば ── といういいかたも変で、それをクリアしていないものは「作品」ではないんですが ── 、書き手は読者よりも、自分よりも「作品」を優先します。ひたすら「作品」に自分を合わせていく、つまり、「作品」に奉仕していくわけです。また、読者は「作品」が自分のレヴェルに合わせて書かれているなどと思ってはいけません。読者が「作品」のレヴェルまで自分を持ち上げていかなくてはならないんです。
(しかし、実は、その「一定以上に優れた読者」というのは、書き手自身に他ならないんですけれど)。
そのような仕事をしている書き手の作品 ── 一定以上の読書レヴェルの読者に訴える ── のなかに、ときおり、もっと低い、あるいは、恐ろしく低いレヴェルの読者たちまでもを動かしてしまうような作品の生まれることがありえます。ベストセラーであって、しかも、優れているという作品 ── こういうことが、ときたま、ありえます。「ときたま」でなく、普段はどうなのかといえば、もちろん、一定以上の読書レヴェルの読者が洟も引っかけない類の「(自称)作品」ばかりがベストセラーになるわけです。ベストセラーというのは基本的には蔑称に他なりません。
こういったところで、ちょっと思い出したのは、ワーグナーにふれてトーマス・マンがニーチェを引きつつ書いた文章からで、ある種の芸術家には次のような本能があるといいます。
……洗練された少数者の欲求を満足させてこれを捉えるとともに、多数者の善良な欲求にも応えてこれを取りこもうとする本能……
(トーマス・マン『非政治的人間の考察』 森川俊夫訳 新潮社)
それで、この種の芸術家にとっての成功とは、
……芸術家のあいだでの成功と同時に市民のあいだでの成功である。
(同)
トーマス・マンはワーグナーがそのような成功をおさめた芸術家だといい、さらに当の自分もそうなのだといいます。
ここで私が、「成功」についてなら経験で、ささやかな経験で物が言えると言い添えても、少々自惚れているなどと思わないでいただきたい! 私は成功を、数ある人生体験のひとつと見ている、そして、成功は成功した者をかなり曖昧な形で性格づけることも知っている。ありていに定義すると、成功とは、この男は馬鹿者たちさえ味方にしたかったのだ、ということを意味している……
(同)
しかし、そのような「成功」とは全然無縁のところで思索する人間があるだろう、そもそもそれを誰にも話したりなんかせず、公的な発表なんかとんでもないという人間があるだろう、と ── やっとここで『ムッシュー・テスト』に戻ることができますが ── ヴァレリーは書きます。
そこでわたしは夢想した、もっとも強靭な頭脳、もっとも明敏な発明家、もっとも正確に思想を認識するひとは、かならずや、無名のひと、おのれを出し惜しむひと、告白することなく死んでゆくひとにちがいない、と。
これは、「もっとも強靭な頭脳、もっとも明敏な発明家、もっとも正確に思想を認識するひと」があるとき自分の考えていることを公表し、そのために有名にまでなってしまうようなことがあれば、彼のそもそも考えていたことが損なわれるだろうということです。彼が自分の「耳もとでぶんぶん唸っていた」ことばを使いはじめる、つまり、「他人の考えの表現形態に従って」話しはじめたとたんに、彼の思考は変質してしまうんです。そうなったら、もう駄目です。彼は恐ろしい不自由にとらわれてしまいます。彼にはもはやそもそもの思考をつづけることができません。
というわけで、
そうした人びとの生き方がわたしに開示されたのは、他でもない、彼らほど志操堅固でもないため名声赫々たる生き方をしている人びとによってなのである。
この帰結はじつに容易だった。結論の形成されてゆく過程が、毎秒毎秒、眼にはっきりと見えたほどだ。ふつうの偉人をまず思いうかべ、出発点で彼らが間違いという汚れに染まっていない、というか最初の間違いそのものに寄りかかっていない姿を想像してみるだけで、彼らより一段と高い意識、彼らほど粗雑ではない精神の自由の感覚が何であるかを理解することができた。こうした単純な操作をしてみただけで、まるで海底に降りたったような奇妙なひろがりが、わたしに開けてくるのだった。(同)
つづけて、
それは、透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物を二倍に、三倍に、数倍に偉大にした人物だとわたしには思えた、── 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。
(同)
どうでしょう、それでこの後にようやく次の文章が出てきます。
やがて、そんなことも考えなくなりはじめたころ、わたしはムッシュー・テストと知り合った。
(同)
こうして、ようやくムッシュー・テスト本人が登場することになります。そう、登場することになるんです、なりはするんですが、それでこの人物がどんな活躍をするのかといえば、彼はどんな活躍もしません ── 少なくとも表面上は ──。というのも、彼がどんなに驚くべき活躍をしたとしても、誰にも ── 登場人物たちにも、読者にも ── 理解できないんですよ。この作品は、このような人物が存在しうることをなんとか表現しようとし、そのために手を尽くしたことの記録なんだとでもいえばいいでしょうか。
しかも、この作品の「序」では、ヴァレリー自身がこうもいっているんですね。
この種の人間の生存は現実では数十分以上つづくことはできないだろうと指摘したうえで言うのだが、……
(同)
つまり、現実に生身の人間では「数十分以上つづくことはできない」という状態を数十年間生きてきて、いまなお生きているという人物をヴァレリーは自分の作品の主人公にしたというわけです。それゆえ、ヴァレリーがこの作品でやったことは、まずなにより ── というか結局最後まで ──、この主人公を存在させるということ ── それのみ ── だったはずです。それがこの作品です。だから、主人公がどんな活躍をするかという作品にはなりえないんです。ムッシュー・テストが誰にでもわかるような活躍なんかをしてしまえば、この作品は成立しなくなります。
どのようにして、この主人公を存在させるかというと、ヴァレリーは読者に、これこれの位置に立ってくれ、で、この方向を、この角度から覗いていってくれ、眼をこらしてくれ、と指示するんです。
たとえば、ある一編「マダム・エミリー・テストの手紙」では夫人が夫としてのムッシュー・テストをことばにしようとするんです。最も身近にいる ── 性交の相手でもある ── 人間にこの人物がどのように現われて見えるのかと描くんです。
わたくしども夫婦の暮らしぶりは、あいもかわらず、ご存じのとおりです。わたくしのほうはゼロみたいなもので、それでもけっこう役にたっているようですし、彼のほうはまったく習慣どおりで、いつも放心している。眼が覚めないというのではありません、その気になると、恐ろしいほど生き生きとした姿を現します。そんなあのひとを、わたくし、愛しております。突然、あのひとは大きくなり、恐ろしくなる。単調だった行為の仕組が破裂するのです。あのひとの顔が輝き、いろいろと口にする、たいてい、わたくしには半分くらいしかわかりませんけれど、それでもわたくしの記憶からもうけっして消えません。もちろん、あなたにはなんにもお隠ししたくない、ほとんどなんでもお話ししたいと思っているので申すのですが、あのひと、とても無情になることがありますの。あんなに無情になれるひとがいるなんて、わたくしには考えられません。ただのひと言でこちらの心をたたき壊してしまう、そんなときは、自分がまるで陶工の手で屑のなかに放りこまれる出来損ないの壷みたいな気がしてきます。あのひと、まるで天使みたいに無情なんです。自分で自分の力に気がついていません。たとえば、思いもよらぬときにふとあのひとの口をついて出る言葉があまりにも真実でありすぎるので、その言葉を聴くと、世のなかの人びとがみるみるかたなしになってしまう。世の人びとはなんとも馬鹿な生き方をしている自分の姿に目覚め、ありのままでいる状態と、愚かしさを糧としてじつに自然にしている暮らしぶりにがんじがらめになっているありさまを、われとわが前に突きつけられるのです。
(同)
あるいは、
それにムッシュー・テストは、まわりの人びとを卑下させたり、まるで動物のように単純だと感じさせたりするのに、別に口をきく必要もないのです。どうもあのひとの存在というものが、どんなひとたちでもがたがたにさせてしまうようですし、……
(同)
こんなこと、ムッシュー・テストのために申しているのではございません。ほんとに不思議なんです、あのひとは! じっさい、あのひとについてなにを言っても、言ったその瞬間に不正確なものになってしまうのですから! …… あのひとの思念のなかでは脈絡がつきすぎているのだと思います。あのひとはたえず、ひとをある網の目のなかに迷いこませるのですが、その網の目を織ったり、ほどいたり、また織り直したりするすべは、ただあのひとしか知りません。あのひとは自分の内部に、とても切れやすくて、あのひとの全生命力の援助をうけ、協力をあおぐのでなければ、とてもその繊細さをもちこらえられないような糸をのばしているのです。あのひと自身のうちにひそむ、なにか正体の知れぬ深淵のうえへと、そういう糸をずっと引きのばして、そうやって、きっとあのひとは、日常の時間からずっと遠くはなれて、さまざまな困難をたたえたどこかの深みへと危険を冒して踏み入っているのでしょう。
(同)
神父さまはわたくしにこうおっしゃいました。「あのかたは恐ろしいまでに善から身をひきはなしておいでだが、幸いなことに悪からも身をひきはなしておいでだ…… あのかたのなかには、なにかしらぞっとするような純粋さ、なにかしれぬ超然たるところ、なにかしら議論の余地のない力と光とがある。深く磨きぬかれた知力のなかに、あれほど混乱も疑惑も不在だという例を、わたしはいまだかつて見たことがありません。あのかたの静かなことといったら恐ろしいほどです! 魂の不安という言葉も、内面の影という言葉も、なにひとつあのかたにはあてはまらない、……」
(同)
さらに、
そこでわたくしは神父さまに申しました。主人を見ていると神なき神秘家というものを考えることがとてもよくあります……、と。
──「おみごと!」と、神父さまは言われました。──「なんてみごとな閃きを、女のかたは、ときどき、ご自分の印象の単純さや言葉遣いの不確かさから引きだすことか! ……」
けれどすぐ、そうおっしゃるご自分に、こう答えたのです。
──「神なき神秘家! …… 光かがやく無意味! ……」(同)
どうでしょうか? ヴァレリーがこの作品で試みていることの途方もなさ・とんでもなさがわずかなりと予感できましたでしょうか?
けして忘れてはいけないのは、この作品の主人公ムッシュー・テストが生身の人間であるということです。思考というのが必ず生身の人間によるものだということ、生身の人間がいわば純粋思考(「数十分以上つづくことはできない」 ── 生身の人間としてぎりぎりの)へ向かったときにどうなるかということが、この作品の主題でしょう。ということは、生身の人間になしえないものをヴァレリーはおそらく思考と呼ばないんですね。生身の人間であるという制限のなかでの思考の最大値を求めたんです。思考そのものの可能性を、生身の人間のうえにどうやって最大値として移植しうるかということをヴァレリーは考えているでしょう。
それを考えるために、まずは取り除いておかなければならない障害物として、ごくふつうの、ありきたりの思考とそれをめぐる常識が批判されてもいるでしょう。
「みんな」が使っていることばでどんなものでも表現できる、という無邪気な認識の否定です。「みんな」が使っていることば・「みんな」が考えているようなことばでは表現しえないことがある、「みんな」が考えるような考えかたを離れて、自分ひとりにしか可能でないような考えかたがあるはずだ、いまだに誰も思いつきもしていない・ことばにされたことのないなにかがあるはずだ、それについて思いを巡らす人物が「神なき神秘家! …… 光かがやく無意味! ……」としか呼びようのない存在であったとしても。
これは、ヴァレリーにとって相当に真剣な試みなので、読む方もそのつもりでいなくちゃならないはずなんです。もっといいかげんな、量産型の「(自称)作家」であれば、レヴェルの低い読者に向けてあれこれいろんなステレオタイプのヴァリエーションを提出するはず ──「神なき神秘家! …… 光かがやく無意味! ……」なんて彼らの恰好の素材になりそうじゃないですか ── のところを、彼はそうしません(いや、しかし、ヴァレリー自身として「神なき神秘家! …… 光かがやく無意味! ……」などという思わせぶりなことばは実は満足のいく表現ではなかったのじゃないか、と私は疑っています。とはいえ、それをいうなら、そのことばの含まれる「マダム・エミリー・テストの手紙」自体がそうなのだということになってしまうでしょうが)。生身の人間になしうる思考の限界がどこなのか、彼はずっと探求しつつ、用心深く、自分に責任の負えるぎりぎりの表現を重ねていったのだろうと思います。彼が安易に作品を小出しにしていったろうなどと考えるのはいけません。こういう形でしか、彼は作品を提出しえなかったんです。
「こういう形でしか自分は作品を提出しえない」ということが表現者には必ず求められなくてはなりません。そうしてヴァレリーは、自分に責任の負えない表現を拒みつづけたんです。とにかくいま自分に示しうる極限の地点はここまでだ、という表現で通したんだと思うんです。あらゆる小説家はこうあるべきだと私は考えます。
さて、しかし、いまのところ、私にはこれ以上の紹介ができません。今後もできないのだろうと思います。私はこの作品で描かれている、誰も試みたことのない形で考える、というその可能性だけに惹かれたわけです。世のなかのひとたちのいまだ知りえていない思考方法がある、世のなかのひとたちの使っていることばには限界がある、世のなかのひとたちがどう理解するのかということを ── 横目にはしつつも ── おかまいなしにした思考がありうる、他人に伝えられない思考がありうる、という私自身の漠然とした予感を、この作品が後押ししてくれているような気がしただけなのだというより他ありません。さらに、そういうことを、しかし、ことばによって表現しようと試みつづけたヴァレリーに感心するのでもあります。
それと、この作品を読みながら、私の思い浮かべていた他の作家の作品に、J・D・サリンジャーの「シーモア ─ 序章 ─」(井上謙治訳 新潮文庫『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』所収)とポール・オースターの『孤独の発明』(柴田元幸訳 新潮文庫)があります。それぞれ、もうだいぶ以前に読んだので、私の思ったように『ムッシュー・テスト』としっかり照応するかどうか自信がありませんけれど。あ、それから、田中小実昌の「北川はぼくに」(河出文庫『ポロポロ』所収)も読んでもらえるといいかもしれませんね。どれも、それぞれの語り手が、誰かのことをことばで表現しようとして、自分のことばを素朴に信じることのできないために、苦しむんですね。そろって口ごもります。その口ごもりこそ、語り手の誠実さを示します。覚えておいてほしいんですが、口ごもる語り手こそが信頼できる語り手です。
それぞれに少しずつだけ引用してみますが、
ここで断わっておくが、これからわたしの傍白はやたらと多くなるばかりでなく(実際、脚注まで一、二つけるようになるかもしれない)、時としては本来の筋から外れたものでも、刺激的で面白くそのほうへ話を進めてゆく価値があると思えば、自分としては遠慮なく読者に負担をかけるつもりである。この際、スピードなどということは、神よ、アメリカ人としてのわが身の安全を守りたまえ、わたしには何の意味もないのだ。しかし読者の中にはもっとも抑制のきいた、もっとも古典的な、おそらくはもっとも巧妙な方法で関心を惹いてほしいと、真面目に要求する人たちもいるので、わたしとしては ── 一人の作家としてこうしたことが言えるかぎり、できるだけ正直に申し上げるが ── そうした読者は立ち去ったほうがいいと申し上げておく。
何かが私を妨げているような、呪いをかけているような気がする。書こうという気持ちはあるのに、どうにも集中できないのだ。自分の思考が眼前の問題から離れていってしまうのを私は何度も、なすすべもなく眺めてきた。ある事柄を思いついたとたん、それが別の事柄を喚起し、さらにまた別の事柄につながってゆく。やがておそろしく濃密なディテールの蓄積ができ上がり、ほとんど息が詰まりそうになる。考えることと書くこととのあいだの裂け目を、これほど痛感させられたのははじめてだ。実際、ここ数日、自分が語ろうとしている物語は、実は言語とは両立しえないのではないか、そんな気さえしてきている。おそらく、物語が言語に抗えば抗うほど、それは私が何か大切なことを言いうる地点に近づいた証しにほかならない。だが、まさに唯一真に大切なことを(かりにそんなものがあるとして)言うべき瞬間に達したとき、私はそれを言うことができないだろう ── そんな気がするのである。
だが、こんな物語は北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。
いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。