『ムッシュー・テスト』


(一)

 この作品のことはずっと気にはしていて、だいぶ以前に福武文庫での『テスト氏』(粟津則雄訳 一九九〇年)を読みかけにしたままでした。途中で放り出してしまったんですね。で、こちら、新訳としての『ムッシュー・テスト』(清水徹訳 二〇〇四年)の出たことももちろん知っていました。二〇〇七年三月、この本を私は自分の勤める書店の棚から手に取って、いくらかを立ち読みしてみました。そうすると、やはりどうしても気になる、とても惹かれる ── この作品は必ず私自身とどこかでか・どういう形でか結んでいるだろう、自分はきっとこの作品を必要としているだろう、という ── 箇所があって、購入したんです。それで、読み進めるなかで、旧訳の『テスト氏』をこちらは自宅の本棚から引っぱり出してみると、「やはりどうしても気になる、とても惹かれる」といま私がいったちょうどその同じ箇所に、かつて自分が引いた赤鉛筆の線があるじゃないですか。笑ってしまいました。そこを清水訳で引用すると、

 おかげでわかったのだが、われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺り動かすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである。


 ── です。とはいえ、最後の「 ── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである」には全然反応できずにいたんですが。
 しかし、この部分だけをいきなり読まされてもなんだかわからないですよね。

 これにぴったり当てはまるということでもなく、むしろ的外れだろうとは思いますが、私がこれをどんなふうに読むに至ったかということでの ── ひとつのきっかけ・入口としての、わかりやすい例を ── 私自身の経験から ── 挙げてみますが、ざっとこういうことです。
 ある時期の私 ── 私はもう四十五年近く生きています。その年月のなかのある時期ということです ── に対して何人もの友人が「お前がそんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」といいつづけたということがありまして、それにつづいてのやりとりのなかで、私はその友人たちを切り捨ててしまうということになったんですね。「この先一生、自分はひとりの友人もなしにやっていく」とたしかに私は考えたんです。
 そのときに私の考えていたのが「ことばは通じない」・「ことばには限界がある」ということでした。「お前がそんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」── こういうあまりにも雑で、わかりやすい、ありがちな理解のしかた・図式化が私にはどうしても承服できなかったんですね。「……だからこうなった」・「その理由は……だ」とか、「所詮……だ」とか「結局……だ」とか、相手の「やっぱりねえ」・「なるほどねえ」という反応だけを引き出すためにしか用いられないような思考方法を、私はおかしいと思ったんです。そんなことでなく、もっとべつの、なにか誰の考えたこともない説明のしかたがあるのじゃないか? そう思いました。しかし、ひとはすぐに「あまりにもわかりやすい、ありがちな理解のしかた・図式化」に飛びついてしまう。もちろん、そうしたものに飛びつくこと・割り切ることが、生活をしていくのに楽というか便利というか、ある意味、健康的でありはするだろうとは思いました。しかし、それでも私が「そんなふうになってしまったのは、彼女にふられたからだ」には認め難いなにかがあって、そんな図式化で日々を処理しているような、そういう連中 ── しかし、なにも彼らに悪意があったわけじゃないです。そうやって私をいじることが私の(たとえば回復の)ためにもなるはずだと、自覚はなくても、そう感じていたでしょう。また、それがふつうあたりまえだというふうには私も思っていました ── とはこの先必ず相容れなくなるだろうという気がしていたわけです。だから、実はこれは彼らと私との問題なのではなくて、「ふつう・あたりまえ」と私との問題なんだということにしてもよかったんでしょうか? いや、やはりそれはそうではないでしょう。「ふつう・あたりまえ」の彼らの接しかたに対して、私は ──「ふつう・あたりまえ」的尺度でいうと ── ひどく大人げない態度で応えたのだろうと思いますが、そのときにも彼らと「ふつう・あたりまえ」とを切り離して考えては駄目なんじゃないですか? ともあれ、私は自分がそういう「ふつう・あたりまえ」の説明をされて誰かに「なるほどねえ」などといわれたくなかったし、それとはべつに、自分で自分にそんな説明をしたくなかったんです。その説明は明らかに間違いだから、です。その私は、しかし、自分で彼らに説明することばを持ちませんでした。かりに持っていたとしても、彼らの方にそのことばを受け入れる素地はなかったでしょう。私は彼らを切り捨てましたが ── いまに至るまでわずかな例外を除いて修復はなされていません ──、それは、自分がことばを見つけることができないためだということをはっきり承知していました。いつかは自分もことばを見つけることができるだろう、と当時の私は考えていましたっけ。そうして、

(また、すでに書きとめてもいた)

トーマス・マン『トニオ・クレーガー』野島正城訳 講談社文庫)


 ── のでもあったんですね。

 以前にも引用しましたが、

誰でも、何でもいうことができる。だから、
何をいいうるか、ではない。
何をいいえないか、だ。

長田弘「魂は」 みすず書房『一日の終わりの詩集』所収)


 ── に私が惹きつけられるのも、同じ根っこからですね。しかし、そうであるとはいえ、この詩に私が惹きつけられるのは、それだけのためでもないんですが。

 最近に再読した小説にこういう文章がありました。

「『既往約十二年間の逆行性健忘』に対する僕の『一つの結論』の理由説明は、思うに極めて舌足らずの不明快なものであったようだ。君たちが十分には理解しがたいのは、むしろ当然のことだよ。ある意味で、実は、僕自身が、理論的な・理路整然たる理由説明・根拠闡明を模索中なのだから。」

大西巨人『深淵』 光文社)


「ことばは通じない」・「ことばには限界がある」と考え、「いつかは自分もことばを見つけることができるだろう」と考えた私は、いまだに誰の口からも発せられていない・誰もことばにしたことのないもの・名まえを与えられていないものがたしかにあるといっているんです。それがいつか単純にひとことで・一語で・ひとつの名詞として表現されるだろうなんていっているのじゃないんです。たとえば、それはある作家がひとつの作品全体を通して、やっとその片鱗を示すことが可能になるというくらいのものだと考えているんですね(これは、逆にいうと、そういうことを目指さないものを私は「作品」と呼ばないということです)。

 また、あの当時、私は時間がほしかったんですね。誰かに即答を迫られる・背中をどやされるというのが苦痛でした。頼むから放っておいてくれ、静かにしている時間をくれ、と思っていた。ことばを発するためには時間がいる、あることばに至るためにはふつうに考えられているよりはるかにたくさんの時間が必要だ、と思っていたんです。

 僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。

リルケ『マルテの手記』 大山定一訳 新潮文庫


 まったく時間というものの速度があまりにも速いために、私は防戦一方というふうでした。これはいまでもそうです。私が「多読・速読」を非難するのも、それが時間の速度に迎合した読書だということがありますね。とにかく、私は時間に対して、こんなにも速く進まなくてもいいだろうに、と恨みがましく思うわけです。おそらく「ことばを見つける」ということは「時間を引き延ばす・引き留める・止める」ということに結んでいるだろうと私は思っています。また、小説家が小説を書くということは「時間を引き延ばす・引き留める・止める」という行為でもあるだろうとも思うんです。

 ついでにいえば、私がここでの文章にかなりの引用をする理由には、とにかく実物・原典を提出して、私自身のことばによる「解釈」や「まとめ」を避けたいということがあります。もちろん、引用の選択自体が恣意的なものではあるわけですけれど、私は原典それ自体が持っている広がりを損ないたくないし、私の考えている以上のことをその原典が表現してもいるだろうと思っているんです。つまり、私は「あまりにも雑で、わかりやすい、ありがちな理解のしかた・図式化」を嫌うためにもそうするんです。

 それはともかく、私はこういう私のような読み手 ──「あまりにも雑で、わかりやすい、ありがちな理解のしかた・図式化」を拒む読み手 ── のいることを想定していない書き手の書くことをまったく信用しません。読者の受け取りがステレオタイプのものだと考えて、ステレオタイプの表現をしさえすればいいだろうと考えている書き手です。たくさんいます。
 しかし、どうやら世のなかの大多数の読者はそうではないらしい。書き手の「敢えて書く」なんていう事情が端から見えていないらしい。つまり、書き手が「敢えて」なんてことを全然しなくても、「もちろん、受け取って感動しますとも」という姿勢でいるらしいんです。彼らは真摯な書き手に向かって怪訝な顔をすることになります。──「え、なにかご不満でも?」

「みんな」のよく使うことばで表現しよう、そうすれば、「みんな」によく伝えることができるから。自分が感じたり、考えたりすることを「みんな」のよく使うことばに翻訳してみよう。そうすれば、「みんな」によく伝えることができるから。いやいや、それよりも、最初から「みんな」のよく使うことばに従って感じたり、考えたりしよう。そうすれば、翻訳なんかしなくたって、「みんな」によく伝えることができるから。そうすれば、誰に対しても自分の感じたり、考えたりすることを説明しなくてすむから。自分だけの感じかただの、考えかただののあるはずもないじゃないか。そんなものがあったって、しかたがない。そんなもののことなんか、考えたくもない。もし、考えるとするなら、そのための表現を自分でつくり出さなくちゃならないじゃないか。つくり出せたとして、それが誰にわかってもらえるんだい? わかる奴なんかいないじゃないか! ── と考えている書き手(自称「小説家」)ではない書き手を探すことの方がいまでは困難なのではないですか?

 そこで、もう一度読み返してもらいましょうか?

 おかげでわかったのだが、われわれは自分の考えるところを、何とあまりにも他人の考えの表現形態に従って、判断していることか! そうわかるまでは無数の言葉がわたしの耳もとでぶんぶん唸っていたが、以後、それらの言葉に託された意味がわたしを揺り動かすことはめったになくなった。そしてわたし自身が他人に向かって言葉を口にするたびにわたしの感じたのは、その言葉がどれもこれも、わたし自身の思考とはちがうということだった。── 口に出したとたんに言葉は変えようがなくなるからである。

(二〇〇七年四月の文章を改稿)



ムッシュー・テスト (岩波文庫)一日の終わりの詩集
マルテの手記 (新潮文庫)

マルテの手記 (新潮文庫)