(五)


 筒井康隆の『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋)を読みました。
 ここでは、私はこの作品の全体を紹介するというのでなく、ある部分についてのみしゃべってみようと思います。
 登場人物である作家が文学とそれをめぐる状況について非常に妥協的 ── ということは現実的ということでもあるかもしれません ── な意見を述べるんですが、そこからの引用。

「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけでベストセラーになったことがまたきっかけになって書店員の選ぶ文学賞ができた、という現実もあります。一般的な読書力の低下の中では、書店員さんはプロの文学者ではないものの、あるいは批評家としてならセミプロと言えるのかもしれません。一方では文学と無縁の人が書評をやらされたりする局面も増えているからです。しかも書店員さんは本の販売のプロですから、読者の視点による文学理論にはイーザーやインガルテン受容理論がありますが、作者でも読者でもない書店員の視点が加わった受容理論、無茶かもしれませんが書店員を読者に加えた受容理論で文学が評価されたことは過去に例を見ません。販売意欲を起こさせる本の価値を論じるのは資本主義的であるとか何とか以前に、これだって新たな文学の批評理論として発展させるべきもののひとつじゃないでしょうか。」

筒井康隆『巨船ベラス・レトラス』 文藝春秋


 さて、「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけでベストセラーになったことがまたきっかけになって書店員の選ぶ文学賞ができた、という現実もあります」── これの「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけでベストセラーになったこと」の例のひとつ、そうして最初の大きい一歩であって、それなしに他の例が生まれなかったかもしれない例 ── で当のPOPを書いたのが私なんでした。だから、私はぎょっとするわけです。
 で、また最近に知った新聞の記事(掲載から数か月たって読みました)でも私はぎょっとしていました。私の勤める書店の名前を伏字にして引きますが、

 二〇〇一年、書店の世界に大きな出来事が起きました。それは、ある書店の一枚のPOP(販促用広告表示物)から始まりました。*****副店長の木下和郎さんが、手書きのPOPをある本のそばに添付したところ、それが大変な反響を呼んだのです。
 木下さんは自分が読んで感動した『白い犬とワルツを』(テリー・ケイ著)という本に、手書きのPOPを作って、本のそばにするアイデアを実行しました。それには、次のように書いてありました。
「妻をなくした老人の前にあらわれた白い犬。この犬の姿は老人にしか見えない。それが他の人たちにも見えるようになる場面は鳥肌ものです。何度読んでも肌が粟立ちます。感動の一冊。プレゼントにもぴったりです」。
 書店には、出版社が作った販促ポスターやPOPは掲示されていますが、手書きのPOPというのは珍しかったのです。それがお客さんの目にとまりました。このPOPを見たお客さんが、次々にこの本を買っていってくれたのです。
 出版元の新潮社がこのエピソードを全国書店に紹介し、追従した書店が続出しました。『白い犬とワルツを』はあれよあれよという間に一五〇万部のベストセラーになりました。こうして、書店参加型の販売促進活動が生まれることになったわけです。

ジュンク堂池袋店副店長 田口久美子インタヴュー
日本経済新聞 二〇〇六年十二月)


 ああ、やはりそういう認識か、と思うわけです。
 これもまた最近ですが、あるひとが書店の現在の苦境を思いやるという話のなかで、ミリオンセラーの必要性(それがあれば多くのひとが書店に足を運ぶことになる)に言及したときに、私がミリオンセラー(「みんな」が一斉に同じ本を読むこと)のばからしさ・否定をいい、自分が『白い犬とワルツを』に関わった書店員であることを告げると、その場にいた出版社の営業の女性ふたりが「ええっ」と声をあげましたっけ。そういう認識です。
 断わっておきたいんですが、ここで私は自慢話をしているのじゃないんですよ。そうではなくて、私はそういう認識に自分が耐えなければならないといっているんです。「はじめに」でもいいましたが、私はある編集者に「あなたのやったことに功と罪がある」といわれたんですし、べつのひとには「それはあなたの十字架です」といわれもして、その通りだと思っているんです。「本屋大賞」の第一回での記念雑誌(本の雑誌社)では、たしか「次なる『白い犬とワルツを』がここから生まれることを願う」みたいなことが書かれてもいたと記憶しています。

 またまた私自身の文章からおさらいしますか?

 そもそも私がPOPを書きはじめたのは、ベストセラーを中心とした本の読まれかたへの反感もあってのことだった(にもかかわらず、自分の書いたPOPの関わった本がベストセラー入りしたというのは皮肉なものだが)。いったい、広告も誇らしげな「一〇〇万部突破!」を歓迎できるか? 一〇〇万人がいっせいに同じ本を読むなどというのは異常な・おかしな・ばかげたことではないだろうか。他にもっと読まれていいはずの、埋もれている本がたくさんある。また、誰にも自分に ── もしかすると自分ひとりだけに ── にぴったりくる本があるはずなのだ。「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」と私は『〈子ども〉のための哲学』(永井均)のPOPに書いているのだが、「自分だけの本」(それは自分だけの感動であって、周囲とお揃いの都合のいい涙なんかではない)というのがあっていいし、そういう本を持たないひとはいつまでも自分で本を選ぶことができないだろう。
 POPは、書店店頭で、いまの主流ではないべつの読書モデルを提出するにすぎない。発行から時間のたってしまった本、読者に背伸びを強いる本(背伸びなしの読書をつづけていても「自分だけの本」に出会うことはない)の負のイメージを軽減し、読書の選択肢を増やす、少なくとも実物を手に取って立ち読みしてもらうために書く。そのページを指定もする。真剣ささえ伝われば、POPの書き手によるコピーの秀逸さなど本当はどうでもいい。いちばん重要なのは、本の重さや厚みごと作品の文章にじかに触れてもらうことだ(そして、多くの書評で私が不思議に思うのは、本文からの引用がほとんどないことだ)。

(「文藝」二〇〇四年秋号 河出書房新社


 それと、もうひとつ。これは先の「そういう認識」を踏まえての文章 ── つまり、「そういう認識」をされているこの私がこのように発言することに意味があると自分で認識しての文章 ── で、ここから多くの書店員の現状を逆に推測してほしいんですが、

 ベストセラー『白い犬とワルツを』の仕掛け人といわれていて、現在一枚のPOPも書いていない私、木下和郎個人から、現在POPを書いている書店員に提言します。
 書店員が自分の読書の感動を「みんな」に伝えるためにPOPを書く ── といいますが、現在のその読みかたには最初から「みんな」が入り込みすぎているのではないか? あなた自身の孤独な読書はどこにあるのか? そもそもあるのか? なければならない ── ということでの提言です。
①「多読」・「速読」・「新刊チェック」の読書をきっぱりやめる。特に、今後三年間は日本人作家の新作を読まない。いまの自分には手に負えないほどの本だけを読む。「みんな」の読んでいる本を読まない。
②出版社がもちこむ新刊のゲラを読まない。もし読んでしまったなら、はっきり自分の意見を告げる。出版社とあなたとは対等です。絶対に卑下した・自信のない回答はしない。駄作は徹底的に駄作といいましょう。
③十年後にもひとに薦められる本や、十歳年長のひとにも薦められる本にしかPOPを書かない。「今年のベスト」なんていう視点は軽蔑(そういう出版社のお手軽なアンケートは拒絶)してください。常にあなたの「オールタイムベスト」です。
④いまの売れすじや「みんな」を離れて、読者が自分ひとりかもしれないという本にこそPOPを書く。偏向と、それにともなう孤独を恐れないでください。新しさ大きい部数でしかものを測れないひとたちを軽蔑してください。「みんな」が動きだしたら、何かが間違っています。「手書きPOPからベストセラー」は矛盾です。あなたがPOPで訴えるのは「みんな」ではないごく僅かなひとたちにです。そしてそれも、なにより、あなたが行動しなければ死んでしまうだろう本のためにそうするんです。
 あなたの根底に核として、まず、そういうPOPが想像されなければなりません。
「それじゃ、POPなんて一枚も書けないよ」というひとは、安心してください、もう全然書かなくていいんですから。

(「しゅっぱんフォーラム」二〇〇七年五月号 トーハン


 いかがですか?
 ついでにいえば、「今後三年間は日本人作家の新作を読まない」とか「「今年のベスト」なんていう視点は軽蔑してください」などが実行されれば、「本屋大賞」は成立しなくなります。

『巨船ベラス・レトラス』に戻ります。「一般的な読書力の低下の中では、書店員さんはプロの文学者ではないものの、あるいは批評家としてならセミプロと言えるのかもしれません」ということばが書店員を持ち上げているのかといえば、そうでもなくて、このあとには「一方では文学と無縁の人が書評をやらされたりする局面も増えているからです」がつづきます。この「文学と無縁の人」がどんなひとかといえば、おそらく、

 ……どうにも見当違いの人物、たとえばたいそう人気のある流行歌手だのアナウンサーだのスポーツ選手だの映画俳優だのタレントだのに商売上の着意だけから執筆を頼む、とか、その種の文章を用いる、とかいう場合には、極力その中止を求める。

大西巨人『迷宮』 光文社文庫


 ── で、いわれているようなひとたちなんでしょう。そんなひとたちより書店員はまだましだということじゃないですか。実際そうなのかどうかわかりません。それに、あくまで「一般的な読書力の低下の中では」という限定を忘れちゃいけません。ともあれ、書店員だけを問題にすると、これも私は「はじめに」でいいました。

 このごろは書店員を「本読みのプロ」なんてふれこみで宣伝に使う出版社も少なくありませんが、書店員が「本読みのプロ」のわけがないでしょう。いや、そもそも「本読みのプロ」っていったいなんなんですか? こういう安易な形で書店員を称揚するメディアを信じてはいけません。
 結局のところ、本を読むことのできるひとと、できないひととがいるというだけじゃないでしょうか? 書店員のなかにも本を読むことのできるひとと、できないひととがいる、というだけのことです。


 たぶん、私はこうした「書店員」という括りに疑問・不満を抱いているんです。ここでいわれている「書店員」に私は入らない、といいたいんですね。「書店員」なんてどうでもいいんですが、そういう「書店員」の企ての成功例として私が採りあげられることにいらだつんです。一緒にしないでくれ、と思っている。だから、自分で「一本の葱」(ドストエフスキー)とか『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)とかいいだす羽目になる。そうして、おそらく私をそういう「書店員」とは違うと認識しているひとたちのなかにも、「書店員」として採りあげた方が一般受けするなどと考えて記事にする ── 悪用ですね ── ひとがあるでしょう。
 かといって、私は自分が「本読みのプロ」だなんてこれっぽっちも考えていない。というか、「本読みのプロ」なんてものそれ自体を考えていないんですね。「なんだ、それは?」です。
 ただ、こうは考えます。書店員の責任は重いはずです。彼らが店頭になにをどう並べるかによって、たしかに読者は影響を受けるからです。そうして、書店員の仕事は、ただ出版されたものを店頭に並べていればそれでいいというものではありません。『白い犬とワルツを』の騒ぎのなかで、「書店員にこういうことができるとは思わなかった。こういうことのできるものとしてこれまで書店員を考えたことがなかった」という意味の発言をした出版社のひともいましたけれど、彼がそれまでの考えをあらためるということは必要であったし、その意味では「書店員が発言する」という機会を得たことはよかったんです。しかし、結局のところ、当の書店員たちがこの機会の意味をまったく理解していなかった、彼らはせっかくの機会を誤用・濫用・乱用・悪用してしまった、と私は考えているんです。
 書店員であってしかも本を読む力のある者たちのしなくてはならない・してはならないことを私は考えていたのであって、書店員であっても本を読む力のない者たち ── 前者よりこちらの方に商業的な力があります ── のことはできるだけ考えないようにしていたと思います。しかし、当時から悲観的な想像はしていました。まあ、こうなると思っていましたよ。
 本を読める書店員とそうでない書店員がいるんですよ。それをひと括りにして、とにかく「やる気」だの「善意」だのを ── 読者の味方というような意味合いで ── 強調するのはいい加減にしたらいいと思います。同様に、本を読める文芸評論家とそうでない文芸評論家がいるんです。本を読める作家とそうでない作家がいるんです。本を読める編集者とそうでない編集者がいるんです。
 口を酸っぱくしていいますが、「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない」というのが私の考えです。いまもてはやされている「書店員」はこの「ごっちゃ」を扇動する役を見事に果たしているんですね。

 ……もちろん〝純文芸作物と通俗・大衆・エンターテインメント作物との間に境界・差別はない〟ということ は、〝文芸作物に、上等下等の区分なり優劣の開きなりはない〟ということではない。ところが、「ボーダーレス」は、「現今人間多数の精神態様・俗情」との 関係によって、その「マイナスの面」において活動し、「悪平等」ないし「玉石混淆積極的是認」すなわち〝文芸作物に、上等下等の区分なり優劣の開きなりは ない〟という命題の横行を指向・発現しつつある。……

大西巨人『深淵』 光文社)


 繰り返しますけれど、私は自慢話をしているのじゃありません。私はたしかに自分が本を読む力のある書店員だといっているんですが、これは自慢なんかではなくて、事実です。こういうと、ものすごい反発を買いそうですけれど、しかたがないでしょう。それとも、あなたは、自ら本を読む力のないことを宣言した者の自信なさげに薦める本を読もうと思うんですか? しかも、私はあなたに「背伸び」をしろといっているんです。「背伸び」して、これこれの本を読めと薦めるんです。その私が自分で本を読む力がないなどといってどうするんです?

 筒井康隆についていえば、私は「はじめに」でこういう話をしました。

 それで、思い出しましたが、しばらく前(二〇〇五年)に、ある折込紙から「お薦めの本」を紹介してほしいといわれて、私はすぐに回答したんですが、編集者がその本を購入しようとして数軒の書店を回る羽目になり、それほどまでにふつうの書店に置いていないもの・そういうマイナーなものでは困る、簡単にどこでも手に入る本にしてほしい、といってきたことがありました。私はすぐにその仕事を断わりました。ちなみに私の紹介した本は『旅のラゴス』(筒井康隆 新潮文庫)でした。


『旅のラゴス』を「それほどまでにふつうの書店に置いていないもの・そういうマイナーなもの」としてしか考えないでいる、そういう ── 大部数の出版物の ── 編集者の考えかた。私はつづけて、こうもいいました。

 このひとは、たとえば二〇〇一年の異常な売れ行き以前に私が『白い犬とワルツを』と回答しても、同じことをいってきたでしょうね。


 私が『白い犬とワルツを』でやったことは、その編集者のような考えかたを否定・打破する ── 「みんな」の読んでいない=「ベストセラー」でない、どこの書店にも並べてあるのでない本のなかにも「よい」ものがあることを指示する ── ことだったはずでした。つまりは「みんな」の否定、「てんでんばらばら」の推奨だったはずなんですが、それがどうなったかというと、とどのつまり、「みんな」が「みんな」の都合のよいようにこれを取り込んだわけです。「書店員」たちも「みんな」に屈服・迎合しました。自身が主張しているふりをして、実は「みんな」に媚びを売るのでしかないことをしている。商売です。売れればいいと思っている。「すり替え」を行なっている。
 いま、こういう文言のPOPを書けば売れ残った在庫を一掃できるなんていうことを書いているハウツー本(これは、書店向けというのでなく、小売店一般を対象にしています)も出ていますけれど、もう笑うしかありません。その売れ残った商品が「よい」ものであって、売り手がたしかに「よい」と思っているのならいいんですよ。しかし、そうじゃないでしょう。そういう本のなかには『白い犬とワルツを』を例に引いているものもあるんです。

 もう一度、外山恒一

 諸君、私は諸君を軽蔑している。このくだらない国を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。
 正確にいえば、諸君のなかの多数派は私の敵だ!
 私は、諸君のなかの少数派に呼びかけている。

 多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!

(同)


 あるいは、ドストエフスキー

 しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。


 私がここでやろうとしていることの主題のひとつが「ひれ伏すな」でもあるでしょう。「「みんな」と同じになるな」ということでもあります。





巨船ベラス・レトラスカラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)深淵(上) (光文社文庫)深淵(下) (光文社文庫)白い犬とワルツを (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

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迷宮 (光文社文庫)

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