(四)


 先の東京都知事選(二〇〇七年四月八日 立候補者十四人)で、約一〇二三万の有権者のうち、投票者は約五五六万人(投票率は約五十四パーセント。前回は約四十五パーセント)。当選した石原慎太郎(七十四歳・三選)は約二八一万票を獲得。以下、浅野史郎(五十九歳・約一六九万票)、吉田万三(五十九歳・約六三万票)、黒川紀章(七十三歳・約一六万票)、ドクター・中松(七十八歳・約九万票)……。そして、外山恒一(三十六歳)は ── このひとだけを正確な数字でいうと ── 一五〇五九票を獲得しました。
 私は彼がなんとか一万票を得られないものだろうかと考えていたので、この実際の数字は望外のもの・快挙でした。
 彼がこれだけの票を得られたのは、おそらく政見放送での非常に特異なパフォーマンスによるもので、それは「YouTube」上で膨大なアクセスを記録して、選挙管理委員会から削除要請が出るという、さらなる評判まで勝ち取ったんでした。

 その「政見放送」で彼がどんな発言をしたか? 全文を引用します。

 有権者諸君! 私が外山恒一である。
 諸君、この国は最悪だ! 「政治改革」だとか、「なんとか改革」だとか、私はそんなことには一切興味がない!
 あれこれ「改革」して、問題が解決するような、もはやそんなあまっちょろい段階にはない! こんな国はもう見捨てるしかないんだ! こんな国はもう滅ぼせ!
 私には、建設的な提案なんかひとつもない!
 いまはただ、スクラップ・アンド・スクラップ。すべてをぶち壊すことだ!
 諸君、私は諸君を軽蔑している。このくだらない国を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。
 正確にいえば、諸君のなかの多数派は私の敵だ!
 私は、諸君のなかの少数派に呼びかけている。
 少数派の諸君! いまこそ団結し、立ち上がらなければならない!
 奴ら多数派はやりたい放題だ! われわれ少数派がいよいよもって生きにくい世のなかがつくられようとしている!
 少数派の諸君! 選挙で何かが変わると思ったら大間違いだ! 所詮選挙なんか、多数派のお祭りに過ぎない! われわれ少数派にとって、選挙ほどばかばかしいものはない! 多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!
 じゃあ、どうして立候補してんのか?
 その話は、長くなるから、掲示板のポスターを見てくれ。ポスターは二種類あるから、どちらも見逃さないように。
 私は、この国の、少数派に対する迫害にもう我慢ならない!
 少数派の諸君! 多数派を説得することなどできない! 奴ら多数派は、われわれ少数派の声に耳を傾けることはない! 奴ら多数派が支配する、こんなくだらない国は、もはや滅ぼす以外にない!
 「改革」なんかいくらやったって無駄だ! いま進められている様々の「改革」は、どうせ全部・すべて奴ら多数派のための「改革」じゃないか!
 われわれ少数派は、そんなものに期待しないし、もちろん協力もしない! われわれ少数派は、もうこんな国に何も望まない! われわれ少数派に残された選択肢はただひとつ! こんな国はもう滅ぼすことだ! ぶっちゃけていえば、もはや「政府転覆」しかない!
 少数派の諸君! これを機会に、「政府転覆」の恐ろしい陰謀を共に進めていこうではないか!
 ポスターに連絡先が書いてあるから、選挙期間中でも、終わってからでもかまわない、私に一本電話を入れてくれ。もちろん、選挙権のない未成年の諸君や、東京都以外の諸君でもかまわない。
 われわれ少数派には、選挙なんか、もともと全然関係ないんだから!
 最後に、一応いっておく ── 。
 私が当選したら、── 奴らはビビる。
 私もビビる。
 外山恒一に悪意の一票を!、外山恒一やけっぱちの一票を!
 じゃなきゃ、投票なんか行くな! どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!


 しばらく私の職場でも、彼の話題で盛り上がるということがあったんですが、やがてひとりが、そろそろ彼にも飽きてきた、やっていることが滅茶苦茶だ、「多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!」も、そもそもそういうものを多数決というんじゃないか、といったので、私は驚いたんですね。それでは、この同僚は私とは全然違う視点で外山恒一を見ていたわけなんだ、彼は外山恒一をまったく理解していないんだということがわかったわけです。

 諸君、私は諸君を軽蔑している。このくだらない国を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。
 正確にいえば、諸君のなかの多数派は私の敵だ!
 私は、諸君のなかの少数派に呼びかけている。

(同)


 これ、まったく同じことを私は考えています。私は「はじめに」でこういいました。

「みんながみんな一斉に同じ本を読む」──「ヨーイ、ドン」── ことなしにこの業界が現状を維持できないだろう・「みんながみんな一斉に同じ本を読む」ことでこの業界が現状に至っているだろう、とも思います。


 そうして、

 私が読書案内をしたいのは、いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたちです。いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち。いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたちです。

「誰も彼も」が私の薦める作品を読まなくてはならないなんてことはないんですが、ごくわずかな数にせよ、ほんとうはその作品を読むべきなのに読んでいないひとがいる、自分がその作品を読むべきなのだということにまだ気づいていないひとがいる、と私は考えています。そういうひとがこのホームページにたどり着くという確率も考えにくいんですが、それでも扉は開けておいた方がいいだろうと思うんです。そのひとにとって機会は多いほうがいいわけです。


 それで、

 奴ら多数派はやりたい放題だ! われわれ少数派がいよいよもって生きにくい世のなかがつくられようとしている!
 少数派の諸君! 選挙で何かが変わると思ったら大間違いだ! 所詮選挙なんか、多数派のお祭りに過ぎない! われわれ少数派にとって、選挙ほどばかばかしいものはない! 多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!


 これを、たとえば「ベストセラー」だとか「本屋大賞」だとかに結びつけて考えてみてください。

 多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!

(同)


 これは ── サーヴィス満点であるにせよ ── ギャグじゃありません。

 これもまた私の「はじめに」からの引用ですが、

 さて、こうしてここまでいいつづけてきて、ようやく、私は「自分のいいたいことをいう」という ── 伝える・理解してもらう、ということももちろんそうですが、まったくそれ以前に、まず「いう」── たったそれだけのことについての困難・苦痛をあらためて認識したということですね。どうも、私は自分が想像するよりはるかに世間の常識にとらわれているようで、自分のひと言ひと言にまず「こんなことをいってしまってもいいんだろうか?」というような抵抗がついてまわり、それらをいちいち取り除けながら ── 逆にその方が、「敢えていう」という確信になるはずですが ── いいつづけなくちゃならないんですね。これは笑っちゃうほどしんどいことかもしれません。私は肩をすくめなくちゃなりません。


 外山恒一の行動の底にはこのしんどさの乗り越えが必ずあります。彼の行動はまったく滅茶苦茶なんかではなく、単に目立とうとして受けを狙ったパフォーマンスなんかでもなく、真摯な叫びです。

 この「政見放送」を実際に見る少し前に、私はネット上に公開されている彼の文章のいくつかを読んでいたんですけれど、「何が死の校門を押させたか」、「子ども自身による反「管理教育」運動なるものはほとんどゲロゲロである」、「ブルーハーツ・コンサート爆砕報告」、「いじめられたらチャンス」など、とてもよいと思いました。そこで、長い引用ですが、

 今、現に君が受けている「いじめ」に関してだ。
 はっきり云う。
「いじめ」は仕方がない。
 もちろんこれは、「いじめ」を受けている君に、何らかの落ち度があるという意味ではまったくない。君には何の落ち度もない。
 君が「いじめ」の標的にされているのはまったくの偶然で、君が「いじめ」を受け始めたきっかけも、取るに足らない些細なことだろう。誰にでもあるようなちょっとしたミスとか……(中略)……その程度のことなのだ。誰だって「いじめ」の標的にされるきっかけになるような要素というのは多かれ少なかれ持っていて、君の要素がそうなったことには、何の必然性もない。本当に「運が悪かった」としか云いようのないことだ。あるいは、君が「いじめ」を受け始めるきっかけになった「あの事件」があった時に、君はちょっと間の悪い対応をしてしまったのだろう。それだけのことだ。
 アホな親や教師に「いじめ」のことを相談しても、「いじめられている側にも何か問題があるんじゃないか」などと云われたりするが、そんな言葉を気にしてウジウジ悩む必要はない。そんなことを云う奴らは、「いじめ」について何も分かっちゃいないのだ。「いじめ」がどういうものかなんてことは、自分が「いじめ」を受けてみるか、あるいは何か他の事情でやたらと感性が鋭くなってしまった人間(たまーにいるが滅多にいない)にしか分からない。
 誰もが「いじめ」の標的にされる可能性を持っているといっても、いったん特定の人間にその標的の役割が定まると、もうそいつはオシマイだ。あと戻りはまず効かない。いじめられている奴は、卒業するまでずっといじめられ続けている他ない。最初のうちは軽い「いじめ」でも、卒業するまでの間にはどんどんエスカレートして、より陰湿な、より残虐な「いじめ」になる。
 これはもう、運命だと思ってあきらめるしかない。
 親や教師に相談したってダメだ。百パーセント絶対にダメということはないが、ほとんど99パーセントの親や教師は、「いじめ」のことなんかまるで分かっちゃいないから、トンチンカンな対応をして、ますます「いじめ」をエスカレートさせる可能性の方が高い。
 はっきり云って、「自殺」もダメである。一発で死ねればまだいいが、運悪く失敗したりして、それがパレたりした日には、今度は「自殺未遂」なんてアダ名をつけられて、もっとヒドい「いじめ」に遭うことになる。うまく死ねたとしても、君に妹や弟がいたりすると最悪だ。君の自殺をネタに、今度は妹や弟が「いじめ」に遭うだろう。
 これは推測だが、例の愛知の中学生の自殺が大きく報道されたことで、「オマエも自殺しろ」なんて云われている「いじめられっ子」は全国にたくさんいるはずだ。
 もし、「いじめっ子」たちを反省させようとか、あるいは罪の意識にさいなまさせて復讐しようとかいうつもりで君が自殺を考えているとすれば、やめた方がいい。君が死んだところで、「いじめっ子」の9割は反省しない。オモテ向き反省したような顔をされ、カゲで君の自殺は格好の冗談のネタにされるのだ。もともとはフツーの奴らだった「いじめっ子」たちも、君をいじめているうちに完全に感性がマヒしているものだ。そんな連中に何も期待してはいけない。もし本気で自殺する気なら、何も期待しないで、ただ死ぬことだ。君が自殺するということは、単に君がこの世界からいなくなって人口が一人減るということで、それ以上でもそれ以下でもない。もっともぼくは、どうせ自殺する気があるんなら、「いじめっ子」をまず最低2、3人は殺してからにすることを勧めるが(仮にそれで警察に捕まっても、自殺ぐらい留置場でも刑務所でもできる)。
 というふうに、いったん「いじめ」の標的にされるともうオシマイ、八方ふさがりで手のうちようがない。いかんともしがたい。かつて「いじめ」を苦にして自殺した中学生・鹿川君の遺書にあった言葉、「このままじゃ生きジゴク」というのはまったく正しい。
 ように見える。だが違う。
 さっき、「いじめ」を受けている君には、まったく何の落ち度もない、と書いた。しかしそれはウソである。
 たった一つ、いじめられている君にも「落ち度」がある。
 それは、「学校」なんてくだらない場所にいつまでも未練タラタラ通っていることだ。
 まったくアホか君は。
 耐えがたい「いじめ」に耐えてまで「学校」なんかに通わなきゃならない理由がどこにある?

外山恒一「いじめられたらチャンス」http://www.warewaredan.com/contents/b94-1.html


 どうですか?

 とはいえ、私は彼のいま望んでいるような「組織」とかそれの「運動」とかを端から望みません。私を中心にそういうひとたちが集まったってしかたがありません。私の考えているのは、あくまで「てんでんばらばらに」なんです。「てんでんばらばらに」を理解し、実践するひとの数が「てんでんばらばらに」増えればよいと思っているだけです。
 だから、外山恒一がこの先どうなるのか気にはなりますが、彼が逆に「組織」とか「運動」に足を取られなければいいなと思うんです。

「きみは強くて利口で、俺たちにいろいろと教えてくれた。俺たちと一緒に行って、運動に加わろう」
「きみたちの運動だけど、それにはスローガンがあるのかい?」とチンクは訊ねた。
「そのとおり!」と彼らは叫んで、いくつかを彼に聞かせてやった。
「きみたちの運動だけど、それには旗があるのかい?」とチンクは訊ねた。
「もちろん!」。そして彼らはその旗の印を説明した。
「きみたちの運動にはリーダーがいるのかい?」
「偉大なリーダーたちがいる」
「それじゃあ、くそくらえだ」とチンクは言った。「きみたちはぼくから何も学んではいないよ」。

トム・ロビンズ『カウガール・ブルース』 上岡伸雄訳 集英社

カウガール・ブルース