(六)


 私がときおり思い出すことばに、こういうのがあります。

「ぼくはこの世界で自分が正当に権利を主張しうるものは、なにひとつなくなってしまった、という風に感じていたのさ」

大江健三郎『個人的な体験』 新潮文庫


 この彼のことばを聞いた女性が彼にこういいます。

「そのように、この現実世界にいささかの権利もないと感じはじめた人間が自殺するのよ」

(同)


 私の読書で、この『個人的な体験』が大江作品の上位に来るかというと、そうではないんですが、それでも、いま引用した部分が繰り返し思い出されるんです。そうして、もうずいぶん長いこと、私は自分が「この現実世界にいささかの権利もない」という思いに何度となく、どっぷり浸かってしまうのをどうすることもできないんですね。といって、これは自殺に結びつきはしていないんですけれど。
 このことばを初めて読んだとき、まだ二十代の私はこう感じたんでした。これが、いままでずっと自分が感じつづけていて、しかし、はっきりことばにすることのできていなかった真実なんだ、と。読書というのは、まあ、そういうことでもあると思います。
 この事情をべつの作品から引用してみますか?

 ほんとに、そのとおりだわ! 彼女はクロスワードを放り出して、むさぼるように『意志と表象としての世界』を読んだ。このショーペンハウアーっていう人は天才だわ! どうして誰も教えてくれなかったのよ? 読書は好きで、若いころは苦労して哲学書を読んだこともあったけれど、何のことやらさっぱりだった。なにしろ難しい専門用語が多すぎる。クロスワードでは誰にも負けない自信があるけれど、終末論なんて言葉を出されたんでは、お手上げだ。けれどもショーペンハウアーは、ものごとの核心にずばりと切り込んでいく。人生で本当に大切なことについて語ってくれる。ショーペンハウアーと一緒なら、すぐそこまで迫った死の恐怖からのがれて遠くまで旅することができる。
 ショーペンハウアーの、とりわけ警句と反省に、彼女は深く共鳴した。ショーペンハウアーだけが真実を語ってくれる。それ以外のものは、みんな嘘っぱちの垂れ流しだ!

トム・ジョーンズ「私は生きたい!」 岸本佐知子訳 『拳闘士の休息』所収 新潮社)


 彼女の読んでいる本(『意志と表象としての世界』)の持ち主が、彼女にこういいます。

「真実をありのままに語る勇気をもった人間がいたってことですよ」

(同)


 いま、四十代の私が「この現実世界にいささかの権利もない」と自分に感じるのは、たぶん二十代に感じたそのままなのではないかと思います。しかし、そのように感じるや否や、かつては自分になかったある種の思考の手続きのようなものを私は踏むようになっていて、これが「この現実世界にいささかの権利もない」と私との間に一定の距離感をもたらすことになるんですね。反射的に自分を保護・正当化しているとでもいえばいいんでしょうか。そうして、この手続きを、いまの私はずるいと思ったりはしないんです。

 またべつの例を挙げますが、

「自分の欲しいものが何かわかっていない奴は石になればいいんだ、……(中略)……だって、欲しいものが何かわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることができないだろう? 石と同じだ」


 私は「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」をいまそれほどまでに糾弾しようとは思わないんです。昔は糾弾する側でしたっけ。とはいえ、当の自分が「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」だったためにこそ、そうしていたんですね。
 そうして、いまも私はあいかわらず「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」なんじゃないか? しかし、いまは「自分の欲しいもの」とか「手に入れる」とかいう考えかたを疑うようになってもいるんです。
 こう疑うようになる過程には、

 けれども私は、人生に何か注文を出すという考えになじめませんでした。むしろ、偶然に自分の人生の選択をゆだねるというギリシャ流の考えが気に入っていました。

(ロバートソン・デイヴィス『五番目の男』 行方昭夫訳 福武書店

 私は運命の協力者でして、「運命」の頭にピストルを突きつけてあれこれ要求するような者ではないのです。私にできることは、現在やっていることをやり続け、自分の気まぐれを信用し、聖人と同じく私にとっても、光が見えてくることがあるにしても、それは予期せぬところからさしてくるのだと覚えておくぐらいしかありませんでした。

(同)



 ── という読書も挟まりはしています。



拳闘士の休息コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

五番目の男

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