『バラバ』

(ラーゲルクヴィスト 尾崎義訳 岩波文庫

 どうして苦しみを欲することができるのか? 必要もないのに、またそれを強制もされないのに。これは不可解なことで、そのことを考えただけで、むなくそが悪くなりそうだ。彼はそれを考えると、あのやせ衰えた体、ほとんど体を垂れ支えることもできない腕、それにすこしばかりの飲み水がほしいということも口に出せないほどに乾ききった口をしたあの体が目の前に浮かぶのであった。いやだ、彼はこんなふうにして苦悩を求めた者、自ら十字架についた者が好きになれなかった。バラバはどうしても彼が気に入らなかった!



 イエスが十字架に架けられたとき、処刑の定員は三名。処刑される候補は四名いました。ユダヤではちょうどある祭りにあたっていまして、四名のうち一名は無罪放免とされることになっていました。そうしてイエスが処刑され、代わりに放免された男がいたわけです。それがバラバでした。彼がその後どう生きたか?

 イエスを含めて三人の男が十字架に架けられています。この刑場の丘はゴルゴタと呼ばれていました。自由の身になったバラバはその足でゴルゴタでの処刑を見に行きます。

 磔刑にされた彼の頭は垂れさがっていて、重苦しく呼吸していた。もうあまり長くなかった。それは決してがんじょうな男ではなかった。体はやせていて弱々しかった。腕はこれまで何の仕事にも使われたことがないように細かった。妙な男だ。ひげは薄くまばらで、胸には少年のようにまったく毛がはえていなかった。バラバはこの男に好感がもてなかった。


 この時点でバラバには、中央の十字架上の男、自分の代わりに処刑された男がどういう人間であったのか知りません。ただ、汚らしい刑場の丘までその男を見守りに来たひとたちがいるので、彼らの様子を見もします。なかに男の母と思われる女もいます。やがて十字架上の男は死んでしまい、彼らは遺体を下ろし、運んでいきます。

 彼らがバラバからすこし離れたところをいっしょになって通りすぎ、男たちが布に包んだ遺骸を運び、女たちが悲愴な行列をつくってそのあとに続いていったとき、女の一人が彼の母にそっとささやいた──バラバの方を指しながら。彼女はふと立ち止まって、よるべないやるせなさと非難とにみちた視線で彼を眺めた。そのため彼は、あの視線は一生忘れられないだろう、と思ったほどであった。


 彼はイェルサレムの町に戻り、以前の仲間たちに会います。

 彼らは夢中でバラバにテーブルのそばの席を与え、酒をついでやって、口々にしゃべりたてた。バラバが牢獄から出てこられたことや、放免された話、それにもう一人のほうの男が彼の代りに磔刑になったとは、なんとバラバは運がよかったんだろう、などと!


 ところが、彼の元気がないので

 しまいに彼らは、バラバはどうしたのだろう、なぜあんなふうなんだろう、といぶかりだした。だが、あのでかいふとっちょ女は彼のくびに腕を巻きつけながら、あんなに長いあいだ牢屋の洞穴につながれていたんだし、死んでたも同然だもの。だって死刑を言い渡されたら死んだと同じなんだからね、あとで放免され、許されたといったってやはり一度は死んでしまったのさ……といった。


 一同の会話はべつの話題へと移って

 その男はだいたい貧乏人にむかっておまえたちは神の国へ行けるんだよって約束をしていたんですって。しかも売女にまで同じように約束したんですって。これを聞くと一同は大笑いだった。もしそれが本当ならすばらしいことだとは思ったが。


 こんなふうにイエスのことはただ伝聞の形だけでしか、この小説には書かれません。これは当然そうなのです(このときは、イエスの教えの全体を誰も理解できてなどいませんし、弟子たちによる福音書もまだ書かれてはいないわけです)が、だからこそ、素朴なレヴェルの信仰、誰の頭にも浮かぶ「?」の段階での信仰が描かれます。この本を読むということで考えると、これはキリスト教になじみのない日本人にもとっつきやすいはずなんです。いったい救世主が磔刑にされるとはどういうことなのか?

 あの男はもちろん自分が救世主(メシア)だと信じている部類の人だよ、とひとりの女がいったとき、彼はたっぷりした赤いひげをしごきながら、本当に何事かを考えこんでいるかのように、思いに沈んだ。──救世主だって?……違う、あの男は救世主ではないんだ、と彼はひとりでつぶやいた。


 翌日バラバが日陰を求めて寺院に入ると、何人かの男たちがいて、

 不意に、その死人というのが実は磔刑になったのだ、というのがバラバの耳に聞こえた。そして、それがきのうのことだった、と。きのうだって……?


 しばらくしてバラバは男たちのひとりと話すことになります。

 しかし、おまえさんの師匠がどうしても磔刑にならなけゃならなかった、というのはどうしてなんだ、またいったいそれがなんの役に立つというのだ? とにかくおかしいじゃないか──うん……わしもそう思うんだ。あのおかたが死ぬ必要のある理由がわからないのだよ。しかもこんなむざんな死にかたで。だがそのおかたの予言どおりにならなけゃならなかったのだ。すべては決められたとおりになる。いく度もおっしゃっていたように、あのおかたはわしらのために苦しみ死なねばならなかったわけさ、と彼はいい加えると大きい頭をかしげた。
 バラバは彼のほうに目をやった──わしらのために死ぬって?──そうよ。わしらの身代わりに。わしらに代わって罪もないのに苦しみ、死ぬということ。だってわしらもこれだけは認めなけゃならんのだ、罪深いのはわしらのことなんで、あのおかたじゃないってことだけはな。


 バラバはイエスを信じているひとたちの間をかぎまわるようになります。

 バラバの身になって考えると、自分の代わりに磔刑になった者があるというだけでなにかとんでもない負担を感じることがあるかもしれません。ただでさえそうかもしれないのに、彼の場合はもっと特殊な条件がありました。代わりに死んだ者がこういうとんでもない男であったために、彼はもっと特別な何かを背負ってあとの一生を送らなくてはならなくなりました。

 どうして苦しみを欲することができるのか? 必要もないのに、またそれを強制もされないのに。これは不可解なことで、そのことを考えただけで、むなくそが悪くなりそうだ。彼はそれを考えると、あのやせ衰えた体、ほとんど体を垂れ支えることもできない腕、それにすこしばかりの飲み水がほしいということも口に出せないほどに乾ききった口をしたあの体が目の前に浮かぶのであった。いやだ、彼はこんなふうにして苦悩を求めた者、自ら十字架についた者が好きになれなかった。バラバはどうしても彼が気に入らなかった! しかし、人たちは十字架に架けられた人、彼の苦悩、彼のみじめな死を礼賛した。その死は人たちにとっては決してみじめなものではなかったようだった。


 しかし、やがて──

 ところがある日のできごとであった。信心家の住んでいる裏町という裏町じゅうに、野火のようにそれが一瞬にひろがってしまったのだ。たちまちにしてそのことを知らない者はひとりもなくなったのだ。あいつだ! あいつだ! 師匠の代わりに放免されたやつだ! 救世主の、神の子の代わりに! あれがバラバなんだ! 放免された男バラバだ!
 敵意の視線が彼を追いまくった。怒りに燃えた目から憎悪が光った。それはバラバが彼らの視界から消え去り、再びそこへ姿を見せなくなってからもしずまらないほどの激昂であった。
 ──放免された男バラバ! 放免された男バラバ!


 このへんから彼のその後の人生が語られていくことになります。

 この作品、いま私の手元には以前の版があって、奥付のページには「1978.3.21読了」と書いてあります。さらに「1979.4.11」とも。その後も読み返しているはずだとは思うんですが、いままたおそらくは二十年ぶりといえるくらいの通読をしました。やっぱりよい読書となりました。べつのいいかたをすると、こうです──初読が十五歳のときのものを、四十歳になったいままた読み返し、そしてやはりすばらしいと思った……。十五歳で読み、十六歳でも読んでいますから、よほど気になっていたんでしょう。もちろん、当時といまとではまたべつの読みかたをしているのではあると思います。それにしても、四十歳になって読み返すことのできる作品を十五歳で選択していたことになんだか感慨をおぼえます。『カラマーゾフの兄弟』を読んだのが二十歳になる数日前で、この作品を超えるものをそれ以後読んでいません(それから二十年間の読書は、ある意味では「カラマーゾフの兄弟」がどれほどすごいのかを確認するためのものにしかなっていません。←大げさにいってみました)。そういうわけで、十五歳から二十歳までの読書を私は非常に大事だと思うんです。この年齢のひとたちには常にちょっと背伸びをするくらいの感じでの選書をしたらいいとも思います。自分におもしろいと感じられないようなものを読んだってしかたがないんですけれど、でも、一度きりしか読めないような本にばかり次々に手をつけていくのじゃない方がいいような気がします。

(二〇〇三年二月の文章に加修正)



バラバ (岩波文庫)

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