『動物園 世界の終る場所』

(マイケル・ヴェンチェラ 都甲幸治訳 学研)

「おれは今日も昨日も幸福だった」部屋に向かい、彼は静かに言った。「言葉では言えないほど」

 おれは多くの境界線を越えようとしている。おれはもうすぐお終いかもしれない。そこまでは分かりすぎるほど分かっている。だがもし生き延びられたら、この数日のことは覚えておこう。忘れないようにしよう。

 世界には偉大なる幸福がある。われわれとは、ほとんど無関係に。




 一九九七年に出たこの作品を前にいつ読んだのかおぼえていないんですが、主人公の中年男にずいぶんと共感したのはたしかなので、悲観的なことばかりを考えていたあのころなんだろうなと再読しながら自分をふりかえりましたね。今回は、前回に読んだときのよさは全然損なわれないまま、さらによい読書になりました。しかし、すでに絶版の作品です。もったいない。とはいえ、誤植もいくつかあるし、それを直すだけでなく、同じ訳者にあらためて手を入れてもらって(訳者は今なら必ず手を入れたいはずだと信じます)、どこかから出してくれないかなあと思います。

 主人公は五十歳の医師ジェームズ・アビー。ひとり暮らし。妻のエリザベスは息子のエディを連れて出て行ってしまっています。ジェームズは夜に電気をつけずに裸で庭を見たりして過ごしています。この庭にはアライグマやオポッサムやコヨーテが現れるんですが、ここはロサンゼルスです。

 風にはほとんど音がなかった。木立や茂みのざわめきが、途切れることなく微かに聞こえてくる。近くの通りでスピードを上げるエンジン音や、一キロ半ばかり離れたゴールデン・ステート・フリーウェイから来る低い唸りを越え、気持ちのいい囁きがはっきりと聞こえる。だが、こうしてじっと台所に坐り、冷蔵庫が急に動き、急に止まると──動いている間は、モーターの音が妙にうるさい、修理が必要なのかもしれない。街の音は聞こえなくなる。止まった途端、小さな音の一つ一つが手の届きそうなほど近くなる。男はその瞬間を楽しんでいた。
 自分でもその時を待っているのに気づいた。そしてそれがやって来ると、暗闇に坐り裸で、膝にタオルを乗せ一人でいる自分が、突然説明のしようもなく幸せだと感じた。そう思い、自分でも驚いた。だがそう気づいた瞬間、その感覚は消えていた。まるで気づいたこと自体が、その感覚を押しのけたように思えた。そして、消え去った幸福感は、新しい穴、怖れが入ってくる場所を残していった。それから幸福があったところに恐怖がなだれ込んできた。その素早い動きを感じるのは、とても苦痛だった。


 ──というのがはじまりのあたりなんですが、ちょっと『万延元年のフットボール』(大江健三郎)の冒頭を思い出しました。

 ジェームズは別れた妻とのことを考えます。二人が言い争いをすると、


 勝つのはいつも彼女だ。というのは、彼女は自分の言うことを信じていたからだ。一方彼は、自分の言葉も彼女の言葉も、何も信じてはいなかった。


 こういうところですね、私が初読のときジェームズに強く共感したというのは。

 ではもう一度、

 勝つのはいつも彼女だ。というのは、彼女は自分の言うことを信じていたからだ。一方彼は、自分の言葉も彼女の言葉も、何も信じてはいなかった。


 そして、


「誰のことも何からも守れないんだよ」彼はよく言ったものだ。突然激しく怒りだしたエリザベスと口論になるまでは。その時、エリザベスは怒りそのものの力で、ジェームズが今後二度とそんなことを口にするのを禁じた。そんなのは「言いわけ」だと彼女は言った。彼女は間違っている。彼女は正しい。どちらかと言えば多分、間違っているよりむしろ正しいのだろう。だが彼はそんなこと、いちいち考える気はなかった。彼女の怒りが勝ち、彼は受け入れた。彼には思い出せない。なぜ「誰のことも何からも守れない」のか、その理由を彼女に言ったっけ。それはこういうことだ。ある人が、どんなに守られていようが、その人はいずれある日、彼の、あるいは他の医師のメスの下にやって来る──それでも、そんな人は幸運だ。熟練のメスで助けてもらえるだけの金銭的余裕がある上、何か月か何年か命が繋げる。その間何であれ、人生にしがみつく理由と思えることをやり続けられるのだ。「おれは何でもメスを通して考える」彼は声に出して言い、自分でも驚いた。


 彼は軍医としてベトナムに行っていたことがあります。

 ベトナム戦争中、外科用手袋が足りなくなることがよくあり、そのうちに彼は外科の「古典的な」手触りと彼が呼ぶものを身につけていった。手袋をしない裸の指で器具を持ち、患者の血液が肌に飛び散り、突っ込んだ手の側面に臓器がつるつる滑るのを感じ取る。そうしていると、自分が何千歳にもなったように思えてくる──それだけの間、人類は外科手術を試み続け、たかだか百年、いや実のところ六十年前にやっとその方法を学んだのだ。彼はその間の人類の努力の成果を分け与え、それを患者が受け取る。


「手袋をしない裸の指で」「突っ込んだ手の側面に臓器がつるつる滑るのを感じ取る。そうしていると、自分が何千歳にもなったように思えてくる」──いかがでしょうか?

 かれこれ十数年前からになりますけれど、私は「一度きりの人生だからちゃんと生きよう」とか「ひとりの命は地球より重い」とか、その手のことばをきくといらいらして、たとえば「人生は使い捨てだ」などといいつづけてきているんですが、「誰のことも何からも守れないんだよ」ということにも大いに共感します。身近にいた何人かが二十代で死んでいて、死というのは突然の激しい暴力だという印象ももっています。二十代で死んでしまう者がいる以上(むろんもっと若い年齢での死もあるわけです)、三十代、四十代、五十代での死について「早すぎる」なんてことはないのじゃないかとも思い、ましてそれ以上の年齢で死を恐れているようでどうする、とも思うんですね。いま、二十歳で死んだ身近な者よりさらに二十年以上も生きてきて、この追加の・余分な・いわば残業のような二十年間に自分が何をしたのかと考えてみると、全然何もしていないのじゃないか、というのはしばしば考えます。もっとも、そういう視点・考えかたをいまでも全面的に肯定しているのではないんですが。しかし、ある時期そんなことばかりを考えていましたっけ。あのころには「そして、消え去った幸福感は、新しい穴、怖れが入ってくる場所を残していった。それから幸福があったところに恐怖がなだれ込んできた。その素早い動きを感じるのは、とても苦痛だった」のように、いろんなことが肉体的な苦痛として感じられることがあったのではなかったか、と思います。いや、いまではさっきも書いたように、「この追加の・余分な・いわば残業のような二十年間に自分が何をしたのかと考えてみると」という問い自体に疑問をもってはいるわけですが。以上、大げさに書いてみました。


 ともあれ、ジェームズ・アビーの状態はとてもよく描かれていると思いました。これがよく描かれていないことには、その先へ進むことができないわけです。私は、前回の読書では、ここまでがちゃんと描かれていたことにもう満足してしまっていたと思います。それで、残りはなんとなく読んだだけだったかもしれません。


 さて、

 五十歳のジェームズ・アビーはあることからひとりで動物園に行くことになります。

 最近ロサンゼルス・タイムズにこんな記事が載っていた。男がライオンの囲い地に飛び込み自殺したと。ライオンたちは喜んだろう。事態は次々と進む。威嚇、攻撃、勝利──そしてむさぼり食う。誰も止められぬ間に。アビーに興味深かったのは、自殺した男が抱えていたはずの空想だった。きっと何週間も、もしかしたら何年も温めていた空想だ。飛び降りる瞬間、獣たちに打ち倒される瞬間、引き裂かれる瞬間。人が見ている。子供が見ている。人に見られるのも自殺の重要な一部だったのだろうか。


 そんなことを考えているジェームズがその日、動物園の虎に話しかけられることになります。


 しかし今、明るい午後の終りに柵を握りしめながら、下にいる虎をじっと見つめ、再び名前がはっきり静かに「ジェームズ」と呼ばれるのが聞こえると──その言葉に脅すような調子などないのに、まるで周りにあるすべてのものが彼を脅しているような気がした。
 しかし今度は、自分自身に驚く番だった。後から自分の人生にとって決定的だったと思い返すことになる、そんな瞬間が訪れたのだ。その時、彼の中にある何者かが答えた。
「え(ホワット)?」


 すると、「動くな」と虎はいったのでした。

 二匹目の虎に気づいたのはその時だった。
 確かに前にはそこにはいなかったし、見えなかった。囲い地の奥の方、大きな丸い岩の後ろ、とても大きく張り出した枝の葉陰にそいつはいた。そこに四角い入口があり、暗い空間に続いていた。人工の洞窟のようなものだった。そこで虎は休み、涼むことができるのだ。彼は思った。きっと囲い地の裏から飼育係の出入りできる通路があって、虎に餌をやったり世話をしたりしているのだろう。そして、今そこに二匹目の虎が寝ている。大きな頭をもたげ、まっすぐ彼を見据えていた。


 さて、彼は動かずにここにいる。それはとても奇妙な感覚だった。どうしても立ち去りたかったのだが、できなかった。彼は感じた。自分はここを動かぬことに同意したのだと。口では言わなかったし、考えもしなかったが。
 誰と? 何を同意したのか?
 二匹目の虎とだ。それだけははっきりしている。
 彼のある部分は、こんなことは起こるはずもなく起こるべきことでもないと知っていた。これじゃ本当に頭がおかしいみたいじゃないか。(「あなた、大丈夫?」エリザベスは言った。「頭がおかしいのよ」エリザベスは言った)。だが別のある部分は、確かに二匹目の虎の声を聞き、虎の意志に従っているのだと感じていた──他のどんなことより確実に。そしてさらに他の部分は、自分のこの二つの部分、抵抗している部分と降伏した部分を眺め、それらが共に並び立ち、そのどちらもが何一つ欠けることなく彼自身であることに驚いていた。
 そして今、彼は二匹目の虎に守られているのだと感じた。

 彼はその獣を見た。囲い地の奥行きはかなり深いので、硬貨を入れる双眼鏡が立てかけてあった。二五セント硬貨を二枚入れると、三分間見られる。親が子供を次々と抱きかかえ(大人用だったのだ)、覗かせては虎についてしゃべっていた。一頭は日陰に休んでいて、もう一頭は壁の穴からこっちを見ている、と。そんなことを言う英語やスペイン語の調子は楽しげで特に意味もなく、その様々な訛もさっきとは違い、穏やかな、どこか遠くで起こっている、心が和むような響きに聞こえた。だが自分で双眼鏡を覗こうとは思わなかった。
 それより虎が彼を見ているのと同じ条件で、こっちも虎を見ていたかった。柵の上に両腕を重ね、その上に顎を乗せて、何も考えずに虎を眺めた。時折視線を動かし、一匹目の虎も見た。そしてまた二匹目。まったく何も考えず、指示を待っているわけでもなく、虎がまた話しかけてくるだろうかとも思わず、自分が狂っているのではないかという心配もせず、次にどうしようとも考えなかった。心の中には何の悩みもなかった。その中心にはすさまじいほどの幸福感があった。彼は虎から虎へ視線を移していた。そして今まで彼が知っていた世界など、どんどんどうでもよくなっていった。その奇妙な幸福感を通じて、彼は何が一番彼のためになるのか、その獣が知っているのだと感じた。だって「ここから動くな」って言葉は、本当にいい忠告だったじゃないか。


 そして、


 閉園時間になり、係員が客を追い立て始めると、虎は彼にもう一言しゃべった。
また来い


 虎のいうとおりに、ジェームズ・アビーは再びひとりで動物園に戻ってきます。
 彼はたとえばゲレヌク(「羚羊の一種だ。……彼らの一歩一歩、首の動き一つ一つがまるでダンスだった。澄んだ静かな音で奏でられた軽い陽気な音楽に合わせて動いているようだ。そして突然、深い沈黙が訪れる。彼らはじっと動かない。わずかに先っぽに暗い色の房のある小振りの尾をさっさっと動かして、肛門から蝿を払っている」)の前に立ちます。

 彼は再び強い驚きを感じた。神のように何ぴとも逆らえぬほど巨大な力がなぜ、ゲレヌクのように繊細でか弱い生き物を創り出せたのだろう。動物園の門をくぐり抜け、彼が、おれの狂気、と名づけたものの居場所であり容器であるここに立つと、彼にはゲレヌクが神の創り出したものというより、神の言葉そのものであるように思えた。
「創り出したものと言葉じゃ違うよな」彼は静かに言った。
 まるで催眠術にでもかけられたように、彼の目はゲレヌクの上を動き回った。そして、自分の視線は彼らに触れているのだ、本当に触れていると感じた──視線を通し、まるで目に見えぬ光線で探るように、短く刈り込まれた細かい毛皮の手触りや筋肉のしなやかさ、柔かさを知った。ゲレヌクの方も彼の視線を、この上なく優しく触れてくるものとして受け取っていることが彼には分かった。だから彼らも身を竦めたりしない。
「おれは今、何を考えていたんだっけ?」打ちとけた口調で彼は言った。「あ、そうだ」


 彼が何を考えていたかというと、

 ゲレヌクは神の創り出したものというより、神の言葉そのものだ、そんなことを考えていたのだ。例えば芸術家は何かを創り出しているのだろうか、それとも何か言葉を語っているのだろうか? 二つのことは同じではない。ジェームズ・アビーはそう思った。創る人と創られた物とは分離している。創られた物はわが道を行き、自分の元いた場所との繋がりを断つ──ちょうど子供が大人になるように。だが、語る者と言葉とは離れることがない。言葉、表現とは、話される最中の言葉、叫ばれる最中の悲鳴、歌われる最中の歌だ。だからそこに表現がある時、その表現は終ってはおらず、完成も創り上げられもしていない。そうではなくて、たった今生み出されているその途中なのだ──おれのしゃべっている言葉、その意味、それはおれの口の中で生きている。おれと言葉との間に切れ目などない。だからもし、ゲレヌクが神の歌なら、ゲレヌクが生きている間ずっとその歌は歌われている。神の口は息の中で生きているのだ。おれと同じように、あなたと同じように。おれたちは一人ぼっちで忘却に追いやられてしまうような創造物ではない。神の息の中で生きる言葉なのだ。おれでさえも。あなたでさえも。ゲレヌクさえも。


 そのときジェームズ・アビーは自分では気づかぬまま涙を流しています。
 たぶん、あることをはっきり理解するということは、自分がそれまでいったい何を問題にしていたのかが明らかになる、ということでもあるでしょう。

 彼は再び虎の囲い地の前に立ちます。そして、動物に歌いかける若い女性(彼より三十歳ほど年下の)と出会うことになります。彼女の名前はリー。

 リーが立ち去った後、虎が彼にいいます。「彼女の後をつけろ」。そして「私が助けだ。縋りつけ。さもないと、おまえは終りだ」。

 ──と、まあ、この作品の最初の方だけをざっと紹介してみました。

虎が外科医にしゃべった! 女の子について行けと行った! ……(略)……大抵の男の人は、そんなこと虎に言われなくたって分かるのよ、先生」


 ──というのは、もっとずっと後のページでの話です。

 さて、初読から何年かがたっていたので、私はこの作品がジェームズ・アビーの一人称の語りじゃなかったかと思い違いをしながら読み返したんですが、それは当時私がこの作品の最初のあたりにばかり共感をしていたせいなんですね、きっと。さっきも書きましたが、ジェームズの行き場のなくなった感じばかりを読んでいたわけです。だから再読してみて、前回よりも全体を見渡せるようになり、むしろ後半の方に惹かれました。「虎が外科医にしゃべった! 女の子について行けと行った!」という、常識的な見地からすると荒唐無稽なストーリーが、そうでなく読めました。この作品は語るべきことを語っていると思います。荒唐無稽がどうのなんてどうでもいいことです。この「文体」は成功しているし、作者は大いに、しかもきわめてすばらしく「文体」と格闘しています(老婆心でいいますが、もしこの「文体」が成功していなかったら、荒唐無稽というのは致命傷になっているということです。これは大事なこと。勘違いしてもらっては困ります)。

(二〇〇五年八月の文章に加修正)



動物園―世界の終る場所