『DUTY〔デューティ〕』

わが父、そして原爆を落とした男の物語

(ボブ・グリーン 山本光伸訳 光文社)

「親父さんは、ゆっくり歩きたくて歩いていたのではない。顔面から倒れたくなかったのだ」ティベッツは言う。「頭にあるのはそのことだけだ。わたし自身もそうだから、断言できる。足元に気持ちを集中させ、ゆっくりと進むのだ。転びたくない。転んだら、うまく起きられない。だからこそ、ゆっくり歩くしかない。速く動けないわけではないのだ。その気になれば速く歩ける。だが、転んで、他人を煩わせるのが嫌なのだ」
「父は一度もそんなことを言いませんでした」
「頭のなかで考えていることを口にするわけがないだろう。転ぶのが怖いと言えるかって? もちろん、言えるわけがない」ティベッツは答えた。




 たとえばこの本のこういう個所に私は惹かれるんです。ちょっと長い引用ですけれども、

 当時父はまだ六十代で、ぼくたちの目から見ても、父の運転に問題はないように思われた。そこでのある日の午後、父と母は食料品店で買い物をするために、山道を走った。
 帰ってきたときの父の口調は明らかに、それまでぼくがあまり聞いたことのない響きがあった。両親の乗ったレンタカーは、狭い山道で、父の車を邪魔に思った地元の騒々しい若者連中の車に追い抜かれたという。
 父という人は、他人に、とりわけ頭に来ている連中に対しては、黙っていられないタイプだった。そのときも、父はレンタカーの窓を開けて顔をつき出し、若者たちをぐいとにらみつけた。おまえたちの運転こそ迷惑だ、と思っていることを示そうとしたのだ。
 すると、向こうの車に乗っていた若者が窓を降ろし、父にどなった。「何をジロジロ見てやがる、このクソジジイ!」
 ほとんどひとけのないコロラドの山道、助手席には母、数にまさる見ず知らずの若者たち……。
「わたしは小さくうなずいて、窓を閉めた」父は言った。「そして、減速して、やつらを先に行かせた」


 分別の勝利だった。当然そうあるべきだった。あの日の父の声は、敗北を認めたというより、嫌々ながらこちらから譲歩してやったのだというように聞こえた。世の中には戦うまでもないいさかいがある。かつてはつばを吐くのさえもったいないと思った連中にさえ、譲歩せねばならない日がやってくる。戦って戦って、戦いの果てに、男はある日突然、自分がもはや戦士でないことに気づかされるのだ。


 いまの引用は、著者ボブ・グリーンの父親の話です。息子は老いてしまった父親を見ています。「戦って戦って、戦いの果てに、男はある日突然、自分がもはや戦士でないことに気づかされるのだ」。

 グリーンの父親は第二次大戦を戦ったひとでした。父親の世代が、その後のどの世代とも異なる特別な印象をもっていることを、息子はたとえばこんなふうに語ります。

 第二次世界大戦世代に対する世間の再評価にもかかわらず、その戦争から帰還したアメリカ人兵士たちは、自分たちの戦いを吹聴して回らない。


 おそらくヴェトナム戦争などはアメリカ社会での評価が高くないのかもしれませんし、そこから帰還したアメリカ人兵士たちは自分たちの経験したものをプラスにもマイナスにも吹聴して回っていたのかもしれません。そんなふうにも読むことができるでしょう。

 さて、八十歳を越えた父はいま死の床にありました。

 父の意識障害は次第にひどくなり、しつこく同じ質問を繰り返すようになった。父は細かいことまで忘れない人間だった。そんな人が突然、全く道理の通らないことを言いだし、母を質問攻めにした。母が説明して落ち着かせると、父はうなずく。そして、数分もしないうちに、また同じ質問を繰り返すのだ。
 そのたびに母は父の手を握り、質問に答えた。苛立つこともなく、静かに、優しく、最初から説明するのだ。
「三階はどうなっている?」と、父はよく質問していた。「三階の掃除は終わっているか? 大切なことなのだ。三階はいつもきちんとしておかなければならない。掃除はもうすんだのか?」
 すると母は穏やかに根気よく、こう答える。「家に三階はないのよ」


 そうして、

 ある晩、ぼくが実家に電話すると、母の声がいつもと違った。涙声だった。二十時間ずっとお父さんが質問していたの、と母は言った。母は父に話しかけ、なだめ、答えた。お父さんが心配して質問していることはみんな現実ではないのよ、と言い聞かせると、父は納得したように見えたという。母に礼さえ言ったのだ。だが、質問攻めの後の静かな時間は長くは続かなかった。父はまたすぐに同じ質問を繰り返したのだ。母は骨の髄まで疲れ、打ちひしがれていた。


 やがて父親は亡くなります。グリーンはちょうどこの頃、父親と同じ世代のある人物の取材をつづけていました。ポール・ティベッツ。この人物はかつて自分の母親の名をつけた爆撃機エノラ・ゲイ)のパイロットとして太平洋上のテニヤン島から広島までの往復をしました。

 彼は二十世紀史でもっとも重要な出来事に関係する人物である。彼のなした行為で世界は変わった。人類の続くかぎり、あまたの哲学者や神学者が、繰り返し論争を戦わせることが間違いないほど徹底的に変えたのだ。〝祖国を勝利に導いた男〟という言い方は的確さに欠ける── 一人の人間によって成し遂げられたのではないのだから。それはまた、事実に照らしても的確ではない──ティベッツは原爆投下という最高機密作戦遂行のための軍事チームの編成を命ぜられ、兵員を集めて訓練した一指揮官だった。そして人類史上未曾有のその瞬間が訪れたとき、敵国まで原爆を運び、それを目標都市に投下することをティベッツは部下任せにせず、自ら操縦桿を握って日本へ出撃したのである。


 グリーンは質問していきます。

 九七〇〇ポンドの爆弾が爆弾倉から投下され、広島市に向かって落下しはじめた瞬間、エノラ・ゲイはどんな状態になったのか? それほどの重量から突然解放されたB29は、一体どんな反応を見せたのだろう?
「シートに尻を蹴りあげられた」ティベッツは答えた。


 しばらくティベッツに語らせて、グリーンはこう書きます。

 注意深く、正確に彼は語った。その声には生気がなかったわけでも、感情が欠落していたわけでもない。ただぼくは、歴史的出来事を語る声は必ずしも劇的に聞こえるものではなく、むしろ隣り近所の人か、行きつけの眼医者とそう変わらない声の持ち主によって語り継がれていくということに感銘を受けていた。


 つづいて、グリーンは

 全兵士のなかから、彼に白羽の矢が立てられたのはなぜなのか、とぼくは質問した。彼は原爆を搭載して日本へ飛んだだけでなく、そのための作戦チームを編成、指揮することになった。ユーザル・G・エント将軍は、当時弱冠二十九歳の中佐ティベッツに、一から作戦部隊を発足させるよう命じたのだ。全権を委任されたティベッツは、原爆が実用段階に至ったとき、ただちに出撃できる態勢づくりに入ったのである。


 ティベッツはこうこたえます。

「なぜわたしが選ばれたのか? わからない。『任務だ』と言われ、敬礼し、『わかりました』と答えた。それだけだ」


 そして彼はその「任務」をきちんと遂行しました。

「地上に目を落とした──街はなくなっていた。周辺部がわずかに跡をとどめているだけだった。われわれが接近していったとき、確かにそこには街が広がっていた。だが、もはや人影はなかった。あったのは……焦土だけだ。こんな言葉ではとてもあの光景を言い表せないことはわかっているが、それしか言えないのだ。一つの都市があれほどまでに焼き尽くされるとは、思ってもみなかった」


 死の床にある父親と、そしてもうひとり、父と同じ歳のティベッツ。グリーンがティベッツ(このひとだって、元気は元気ですが、もうずいぶん身体は弱ってきています)に質問するのは、実は彼が父親に訊いてみたかった質問の数々でもあります。グリーンは彼ら父親の世代の肖像を描こうとしていきます。

 たとえば、この本ではこういうことがしきりに繰り返されます。

「そのとき、あなたは二十九歳だった」ぼくは言った。
「他にも同じ歳の者は大勢いた。あの年、二十九歳はそれほど若くなかった」彼は答えた。

「おそらくわれわれには、重々しくならざるをえない理由が多々あったのだ。大恐慌から抜けだしたときには戦争が始まっていた。われわれは、入隊する前から老成していたのかもしれない」

「困難の少ない時代に育った者とは、われわれは違っている。われわれは違う人間だ。そして、それにはもっともな理由があったのだ」

「こんなふうに言えるかもしれない」ティベッツは語を継いだ。「軍役についているとき、われわれにふざけている暇はなかった。大人になるための時間はわずかしかなかったから、大急ぎで成長したのだ。
 われわれは非常な速さで大人になった。あれこれ考える余裕はなかった。命が懸かっていたのだ」


 いったいなぜ父の世代は他と違っているのだろう? なぜ特別なのだろう? この世代は第二次大戦後のアメリカをどう生きてきて、どんなふうに見ているのだろう? 彼が理解できなかった父の言動の意味はどうだったのだろう? こんなふうにグリーンは問いつづけます。

 ほとんど引用に終始しましたけれど、これは、原爆の話だというふうに読まない方がいいと思うんですよね。父親の世代を子供たちがどう見るのか、というふうに読んでいったらいいと思うんです。父親の世代と私ということです。もっとも、グリーンだって若くはないんです。それでも、彼の書いていることを自分の身に引きつけて読む──それは若いひとたちにもできるでしょう。そしてまた、老いについての本でもあります。いや、老人が語るという形式に目のない私のおすすめです。

 とはいえ、原爆の話として読むならば──いや、もちろんこれを避けることはできないんですが──、ここにはたとえば、『ヒロシマ わが罪と罰』(G・アンデルス C・イーザリー 篠原正瑛訳 ちくま文庫)のパイロット(C・イーザリー。そのとき広島上空にいた別機の、です。彼は後に核兵器反対の運動をします)への言及は一切ありませんでした(あちらにはもちろんちゃんとティベッツの名が出てきます)。こういうことには引っかかりを覚えます。そうではあるんですが、しかし、これは原爆を広島に投下した人間がその後半世紀を生きてきて、なおどうであるかの記録ではあるわけです。
 むろん、私はこういうことを考えはします。つまり、もし当時のドイツがアメリカに原爆を投下し、しかも、あの戦争にやはり敗れていたなら、その指揮官はどういうことになっていたか、です。

「『任務だ』と言われ、敬礼し、『わかりました』と答えた。それだけだ」


 アドルフ・アイヒマンが同じことをいったらどうですか? 現にいっているわけですけれど。


 また、『ソフィーの選択』の作家ウィリアム・スタイロンカート・ヴォネガットにむかって、もし広島への原爆投下がなかったら、自分はおそらく沖縄戦で死んでいただろう、と言ったらしいということなんかも思い出しながら読みました。ヴォネガットの『タイムクエイク』には、原爆の爆撃機が飛び立ち、その直後に任務を拒否して戻ってくるという作中作(ということはキルゴア・トラウト作の。ちなみにタイトルは「笑いごとではない」)がありました。

 そして、いま一度、ティベッツのことばを引用します。

 困難の少ない時代に育った者とは、われわれは違っている。われわれは違う人間だ。そして、それにはもっともな理由があったのだ。


 それとともに、

 迫害と差別、全体主義、あるいは外国による占領を経験したことのない世代は、人間は基本的に善良なものであり、こんなにひどい残虐行為を犯すことは不可能だと信じたがるものだ。

ジョージ・クライン『ピエタ ─死をめぐる随想─』 小野克彦訳 紀伊國屋書店


(二〇〇二年十月の文章に加修正)



DUTY(デューティ)―わが父、そして原爆を落とした男の物語タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)

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ピエタ―死をめぐる随想

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