『コレラの時代の愛』

(G・ガルシア=マルケス 木村榮一訳 新潮社)


 いま新潮社から「ガルシア=マルケス全小説」の刊行が始まっていて、すでに『わが悲しき娼婦たちの思い出』(もちろん読みました──そうして、読み終わるとすぐにロバートソン・ディヴィスの『五番目の男』をまたしても読まずにいられなくなりまして、これもよい読書になりました)とこの『コレラの時代の愛』が出ています。この二点はともに木村榮一訳。『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス)の訳者でもあります。
 さて、およそ五〇〇ページにも及ぶ小説で、タイトルが『コレラの時代の愛』──といって、どんな作品を想像・期待しますか? ……しかし、余計なことは考えず、こんなふうな作品であるはずだなどと決めてかからず、ただただ書かれてあるそのままを楽しんでいってほしいと思います。高級・高尚であるようなイメージでの「名作」やら「世界文学」とか、そういう邪魔な先入観はさっぱりと捨てて読んでみてほしいんですね。いや、ほんとに邪魔な先入観だと思いますよ。もしこれをたくさんのひとがきれいさっぱり捨てられて、無造作にドストエフスキートーマス・マンやフォークナーや大西巨人や、このガルシア=マルケスなんかを手に取ることができたら、これまで自分が手軽に気安く、あたりまえに手に取ることのできていた本──月に数十冊も読めてしまう類の本、一度読んだらたくさん、というか、一度すらたくさんという本です──なんかには見向きもせずにいられると思うんですけどね。で、たとえばガルシア=マルケスを読んだからといって、自分が偉くなったような気のするなんてこともなくなってしまった方がいいんです。高尚なものに向き合う自分なんてものを偉そうに考えることからは早く卒業してしまった方がいい。そんなものにとらわれているうちは、まだちゃんとそれに向き合ったことにならないんです。高級・高尚のイメージなんかに遠慮したり、逆にそれを自慢げに思ったりしていてはもったいないです。

 そこで、高級・高尚とはかけ離れて見えるはずの引用をしてみますか? しかも、私はこの部分を、読み始めてしばらくして、もしかするとこの後何年かたっても、『コレラの時代の愛』というと、このくだりをすぐに自動的に思い浮かべるようになるかもしれないなと考えたほど気に入ったんです。とはいえ、こんなところを気に入るのは私だけなのかもしれませんけれど。

 この部分に出てくるのは、結婚生活三十年ほどの夫婦。

 最初は日常的でごくありふれた出来事がきっかけだった。当時、ウルビーノ博士は人の助けを借りずにシャワーを浴びていたが、浴びたあと寝室に戻り、明かりをつけずに服を着はじめた。その時間、彼女はいつも目を閉じて静かに呼吸し、神聖なダンスをするように腕を額の上に載せて、胎児のようにまどろんでいる。いつもそうなのだが、うとうとしているだけで眠ってはいなかったし、夫もそのことに気づいてい た。暗闇の中でがさがさ音を立てて糊のきいたリネンのシャツを着た後、こうつぶやいた。
「この一週間、石鹸を使っていないな」
 その言葉で彼女は目を覚ました。バスルームに石鹸を入れておくのを忘れていたことを思い出して、思わずかっとなって八つ当たりしはじめた。彼女自身三日前に石鹸がないことに気がついたが、そのときはシャワーを浴びていたので、あとで入れておこうと考えた。次の日もうっかりして忘れてしまい、三日目も気がつかなかった。しかし、一週間もたってはいなかった。夫があんなことを言うのは、自分に対するあてつけにちがいないが、三日間忘れていたのは弁明のしようがない。その点を衝かれたせいで、思わず頭に血が上った。そしていつものように、相手を攻撃することで自分を守ろうとした。
「私はシャワーを毎日使っていますけれど」と我を忘れて大声で言った。「石鹸はずっとありましたよ」
 妻の戦術を知り尽くしてはいたが、あのときはさすがの彼も我慢できなくなった。仕事を口実に、以後ミセリコルディア病院内にあるインターン用の宿舎で寝泊りするようになった。午後の往診に行く前に着替えをするときだけ家に戻った。夫が戻ってくる音が聞こえると、彼女はさも用があるようなふりをして台所へ行き、馬車道のひづめの音が通りから聞こえてくるまでそこから動かなかった。三カ月間、夫妻は気まずくなった関係を修復しようとしたが、何をしても事態は悪くなるばかりだった。
 その出来事がきっかけになって、まだ夢から醒め切っていない朝に起こったそれまでの些細なトラブルが次から次へとよみがえってきた。腹立ちがべつの腹立ちを呼び起こし、古傷が口を開いて新しい傷を作り出した。二人は長年夫婦喧嘩を繰り返してきたが、そうして相手に対する恨みがましい感情を養い育ててきたのかと思うと、やりきれない気持ちになった。彼はついに思いあまって、バスルームに石鹸があったかどうかを最終的に判定するのは神の仕事だから、公開告解をしてみたらどうだろうかと持ちかけた。それを聞いて、彼女の抑えてきた感情がついに爆発して、ヒステリックに叫んだ。
大司教なんて、くそっ食らえ!」


 どうですか? 石鹸! これ、とてもすごいと思うんですよ。このエピソードを読んで、もう一度作品全体のタイトル『コレラの時代の愛』を思い出してください。五〇〇ページという分量を思い出してもらってもいいです。
 さて、この夫婦の石鹸をめぐるたたかいがどのように決着したか? ここでは明かしませんが、それもとてもよかったです。

 ──と、まあこんなふうに物語は進行します。全体で語られる時間は半世紀以上。幾人もの登場人物が入り乱れます。その誰ひとりとして、こちらが興味を引かれない人物はいません。ほんのちらっと出てくるだけの人物ですらそうなんです。その人たちが生きている、ちゃんとその場所にいるということがありありと──とはいえ、私の場合、もしかするとどうしてもある一線を越えないように、遠ざけるようにして読んでしまったといえるかもしれません(これが私の弱点であるかもしれません)。というのも、もし彼らをほんとうにこちらが感じてしまうことになれば、ひょっとしてそのあまりの強さに耐え切れなくなるような気がするんです──感じられることになるでしょう。彼らのあまりのおおらかさとか、自由なふるまいに心を動かされるのじゃないでしょうか。
 たとえば「誰かを愛したなら、その一方でこういうことをするはずがない」と思われるようなこと(私はいささか無理やりにこういってみるわけですが)を彼らは平気でします。それは、そもそもこちらが「その一方で」という考えかたをするのが間違っているのだ、そんな小さな常識に縛られていてどうするというふうに・こちらの常識がおかしいのだ、というふうに感じられるわけです。あれもこれもする、しかし、あのただひとりのひとを愛している、そこにはまったく矛盾がないというふうです。そうして、読者がそこに矛盾を感じるだろうということを、もちろん作者は承知していると思われます。それでも、そこに矛盾を感じるだろう読者をはるかに大きく上回るようにして、この作品の全体は語られることになるんですね。ちっぽけで偏狭な常識(たとえば「誰かを愛したなら、その一方でこういうことをするはずがない」)と──その常識からすれば──あまりにも大きくて自由な現実ということを考えさせられます。そのギャップがこの読書の大きい魅力であるかもしれません。しかし、繰り返しますが、ただただ書かれてあるそのままを楽しんでいってほしいんです。

 それにしても、ここでこの作品からの引用をしようと思うと、どうしても長いものになってしまう──もちろん普段から私のする引用は長いんですが、その私の基準からしても──ことに気づきました。しかし、それは私のせいではなくて、作品のせいなんですね。

 たくさんの「未亡人たち」──常識的には彼女たちがどんなふうであるか・あるべきかということを考えてみてください──をこの作品の語りがどんなふうに語るかといえば、もちろん長い引用ですが、

 以前から、自分を幸せにしてくれるかどうかに関わりなく、未亡人を幸せにしなければならない、それが自分の運命だと考えていた。それどころか、彼はそのための心の準備さえしていた。孤独な狩人としての仕事に精を出したせいで多くの未亡人と知り合ったが、おかげでフロレンティーノ・アリーサは、この世に幸せな未亡人が掃いて捨てるほどいることに気がついた。何人もの未亡人が、夫の遺体を前にして悲しみのあまり取り乱し、夫がいなければこの先自分は生きていけないから、どうか夫と一緒に棺に入れて生きたまま埋葬して欲しい、と懇願するのを目にしてきた。ところが、そんな彼女たちも新しい現実になじんでくると、ふたたび活力を取り戻して灰のなかからよみがえってくるのだ。がらんとした広い家で日陰の寄生植物のような暮らしをしているうちに、未亡人たちは女中とすっかり親しくなり、枕を抱いて寝るようになるが、長年不毛な囚われ人の生活を送ってきたせいでほかに何もすることができなかった。有り余った時間をつぶすために、以前は忙しくてほうってあった亡くなった夫の衣服のボタン付けをしたり、いつでも着ることができるように硬いカフスとカラーのついたワイシャツに何度もアイロンがけをしたりした。バスルームに夫用の石鹸を置き、ベッドにはイニシアルの入った枕カバーを並べ、生前はいつもそうだったように、死後も何も言わずに突然戻ってこないとも限らないというので、夫が座っていた場所に料理皿と食器類をそろえておいた。孤独なミサを行っているうちに彼女たちは、名前だけでなくアイデンティティまで捨てたのだから、これからは自分の好きなように生きていいのだと、少しずつ考えるようになった。その代わりに安心感が失われることになったが、考えてみればそれも新婦の時代に抱いた数々の幻想のひとつでしかなかった。狂ったように愛し、相手もおそらくは愛してくれたはずの男性が結局は重荷になり、最後に息を引き取るまでまるで子供のようにお乳を飲ませ、汚れたオムツを替え、朝になると現実と向き合うのがいやだと言って、家の外に出て行きたがらないのを母親よろしくうまく言いくるめて出してやらねばならない、そのようなことを経験上知っているのは彼女たちだけだった。しかし、夫が彼女たちにはげまされて外の世界に出て行ってしまうと、家に取り残された彼女たちはひょっとすると夫はもう帰ってこないのではないだろうかという不安にさいなまれた。それが彼女たちの人生だった。愛がもしあるとすれば、それとはべつのもの、べつの人生だったのだ。
 心安らぐ怠惰な一人暮らしをしているうちに、未亡人たちは後ろ指さされない生活をするには、肉体の命じるままに生きていけばいいのだということに思い当たる。おなかがすいたときだけ食事をし、嘘偽りなく人を愛し、義理でセックスするのがいやさにタヌキ寝入りを決め込む必要もなくぐっすり眠り、シーツの半分を、部屋の空気の半分を、夜の半分を夫に奪われることもなくひとりでベッドを占領し、飽きるまで自分の夢にひたって、たった一人で目を覚ますのだ。フロレンティーノ・アリーサはひめやかな狩人として夜明けを迎えたときに、朝五時のミサを終えて帰っていく未亡人たちをよく見かけた。彼女たちは黒い服に身を包み、その肩には宿命のカラスが止まっていた。夜明けのうす闇の中にたたずんでいる彼の姿を見かけると、彼女たちは通りをわたって反対側の歩道に移った。そして、小鳥を思わせるためらいがちで小さな歩幅で歩いていったが、それというのも男性のそばを通るだけでも名誉が汚されると考えていたからだった。しかし彼は、物悲しげな未亡人のうちに、ほかのどんな女性にも見られない幸せの種子が秘められていると確信していた。


 いかがですか?

 もちろんガルシア=マルケスのことですから、次のような文章がいくつもこの作品に盛り込まれてもいます。

 人形のタグを見ると、マルティニック島で購入したものだと分かった。素敵な衣装をつけていて、ウェーブのかかった髪の毛を金の糸で留め、寝かせると目を閉じた。フェルミーナ・ダーサは人形がすっかり気に入ってしまったので、何の疑いも抱かずに受け取り、昼間は自分の枕の上に寝かせた。そして、一緒に寝るようになった。しばらくたったある日、ひどく疲れる夢を見たあと、ふと見ると人形が大きくなっていることに気がついた。届けられたときに着ていたきれいな服から太ももがはみ出し、足が大きくなっていて靴が裂けていた。


 ある夜、発電所のボイラーがすさまじい音を立てて爆発し、新しく建てられた家々の上を跳び越して町の中心部まで飛んで行き、サン・フリアン看護騎士修道院の古い僧院の大回廊を破壊した。古い僧院はすでに崩れていて、その年のはじめに無住になっていた。夜の早い時間に町の刑務所から逃走し、礼拝堂に隠れていた四人の囚人が飛んできたボイラーの下敷きになって死亡した。


 彼らは結局、沼沢地が海とつながるところにあるプエブロ・ビエホまでラバの背に揺られて行くことにした。フェルミーナ・ダーサは幼い頃、母親と一緒に何頭かの牛にひかせた荷車に乗ってそのあたりを通った記憶があった。大きくなってから父親に何度かその話をしたが、父親は最後まで、お前がそんなことを覚えているはずがないと言いつづけた。
「あのときの旅行のことは今でもよく覚えているし、たしかにお前の言う通りだ」と父は言った。「しかし、あれはお前が生まれる五年前のことだよ」



 この作品を読みながら、私は最後までフロレンティーノ・アリーサ(と、フェルミーナ・ダーサ)が主人公である・彼(ら)に自分の気持ちが強く引き込まれ、彼(ら)がどうなってしまうのかを読みたくてページをめくっていく、というふうににはなりませんでした。こんなことをいうと、それじゃあ、読まないよ、といわれてしまいそうで、それも困るんですけれど。
 私は、この作品に描かれていることのなにからなにまでがとても豊かで、ただひたすらその全体を追っていくというふうだったんですね。ある意味、その「全体」のなかに彼(ら)もいるんだな、いたな、というふうに感じられたんです。といって、それでもやはり、彼(ら)の強烈さをほんとうに感じてしまうことが怖くもあったんですが。いや、私が恐れていたのは、登場人物を感じるというより、彼らのいるその世界全体を感じるということだったでしょう。私は自分の全部をこの作品に委ねてしまう・自分の全部がこの作品の世界に引き込まれてしまうことが怖かった──そんな恐れをおぼえる作品を他にいえるかというと、いまとっさには思い浮かびません。そういう作品なんですね。この作品を読んでいる最中の私は、いわば夢を見ているような状態で、夢の世界に圧倒されながら、その強さを恐れてもいて、これは夢なんだ・現実じゃないんだと常にどこか頭の片隅で自分にいいきかせている、といったふうでした。
 それなら、「ただただ書かれてあることをそのまま読む」ことになっていないじゃないか、といわれそうです。私の感じていた恐れなしにこの作品世界に頭から飛び込んでいける、そういう読者がきっとあるでしょう。幸運を祈ります。そのひとはこちらにちゃんと戻って来ることができるんでしょうか?



コレラの時代の愛