『素晴らしいアメリカ野球』

フィリップ・ロス 中野好夫常盤新平訳 集英社文庫

「ルーク──教えて。あなたがこの世でいちばん愛しているものは何なの? だって、わたしと同じだけ、あなたに愛してもらいたいからなのよ。もっと愛してもらいたいの! 全世界でいちばん愛しているものは何なの?」
「全世界でかい?」
「そうよ」
 ルークがその返事をしたときは、夜が明けていた。
三塁打だよ」


 上のつづきをちらりと──

「そうだね」とおもむろにはじめた。「まずは打つことだね。フェンスぎわや、通路、ライン上や、どこに飛んでいこうと、あのカチーンという音がして飛んでゆく。それから、猛烈に走ることだね。一塁をまわり、二塁へ、すると、コーチがこっちに向かって叫んでいる。『突っ走れ』そこで、こっちは二塁をまわる、そして三塁へ──そのときは、ボールが内野に返ってくるのがわかる、自分のすぐうしろまで来ているんだ。そこで、すべりこむ。二百七十ヤードも走って、そのはずみを利用して、ベースに思いっきりすべりこむ。ベースにぶつかる。脚。腕。土ぼこり。竜巻のなかにはいったみたいだ。すると、塁審の声が聞こえてくる。『セーフ!』それで三塁にいる……でも、それだけじゃない」
「じゃあ、何があるの? すっかり話してよ、ルーク! 何なの?」
「まあ、ある意味では、いちばんいいところなんだ。立ちあがる。ズボンのほこりを払って塁上に立つんだ。いいかい、アンジェラ、ホームランは、そりゃあ立派なものだよ、みんなさわいで喜んでくれる。でも、ホームランを打てば、ベースをまわって、ダッグアウトに消えてしまうだけじゃないか。ところが、三塁打はちがう……わかったかい?」
「ええ、わかりますとも」
「そうなんだ」と言い、ルークは目を閉じ、枕にのせた頭の下で腕を組みながら、このすばらしい冒険を思い描いていた。「大観衆……三塁打をかっとばす……これ以上のものはないよ」


 さてさて、
 ナショナル・リーグアメリカン・リーグ。これが現在のアメリカ大リーグを構成するふたつのリーグですね。

 しかし、第二次大戦中まで実はもうひとつ、第三のリーグ「愛国リーグ」が存在していた。いまでは誰も知らないという。憶えていないというのではなく、そんなものはなかったという。ということは、つまり、歴史から完全に抹殺されてしまったのだ。なぜだ。これはどういうことだ。「愛国リーグ」と、なかでも輝きを放っていたルパート・マンディーズ球団を、ほんとうにみんな知らないというのか、そもそも存在しなかったというのか。おい!

 こんなふうにアメリカ第三の「愛国リーグ」がたしかに存在したといい張り、そしてその歴史を語る語り手が、一方で意識もしているのが「偉大なアメリカ小説」なんですが、この作品の原題こそは──

<THE GREAT AMERICAN NOVEL>

 ──なんですねえ。

 作品のほんの最初の方から長めの紹介をしましょう。そしてこの原稿はほとんどこの引用で終わります。ここでの主な登場人物はグリーンバックス球団所属十九歳の新人投手ギル・ガメシュ(バビロニア系!)と厳正で知られる名審判マイク・マスタースン。ときは一九三三年。

 ギル・ガメシュとは?

 上背があって髪の黒いこの左投手は、破滅的な不況にあえぐアメリカのためにその主治医がまさに待望していた特効薬であった。負けを知らぬ天真爛漫の若者が出てきた。この青年には、はにかみや甘さやつつましさなどみじんもない。


 ……うすら笑いを浮かべて、上体をうしろにそらし、あの右脚を踊り子のように空高く蹴りあげて、あの長い左腕が気の遠くなるほど大きな弧を描くと──ストライク・ワンという結果になる。彼はそのように見事に苦もなく、火の玉のようなボールを三球つづけてストライクをとってしまうと、床屋そっくりの口調で、声をかける。「おつぎのかた!」打者の頭を狙って投球するのでなければ一球もボールを投げなかったし、そうしたボールも遊ぶ球と考えなかった。対戦相手を侮辱するあの手この手を知っていて、たとえば試合の後半になると、相手チームの投手をわざと四球で歩かせ、ボールをマウンドにおいて、走者が一塁から二塁にすすむよう手をふってみせる。「さあ、行った行った、そうでもしなきゃあ、セカンドに行けないんだから」仰天した走者が無事二塁に達すると、ギルは靴の甲でグラヴにボールを蹴りこむ。「いいか、ベースに立ってるんだぞ」とランナーの相手投手に言う。「味方がおれの球を打つところをよく見てろ。勉強になる。でも、おまえの勉強になるかなあ」


 さて、この生意気な新人大投手ギル・ガメシュと戦いを演じるのは審判マイク・マスタースン。他の審判ではガメシュに気圧されて甘い判定を下しがちだったからですね。ガメシュに対して厳正な判定を下すことができるのは彼マイク・マスタースンをおいて他にないと思われたわけです。彼は

<拡声器>の異名をもらうほど、よく通る破れ鐘のような声の持ち主だった。


 彼の審判ぶりがどれほど厳正なものかというと、たとえば若いころ(三十五年前)にはこんなことすらありました。

 マイクが、そのシーズンの優勝をかけて争うリーパーズとビジターのラスラーズの試合で審判をつとめるため、球場に出かけようとしていたとき、誘拐犯人がウィスコンシンの彼の家にのりこんできたのだ。侵入者は幼い娘の縮れた金髪に銃を突きつけて、もしリーパーズ球団が午後の試合で負ければメアリー・ジェーンは今夜も親子三人水いらずで食事ができるだろうと、若い審判に言った。しかし、リーパーズが勝つようなことになれば、愛娘の運命はマスタースン自身が責任をとらねばならぬ。……とまれ、試合は周知のように延々とつづき、リーパーズが十七回の裏、二つの四球と当りそこないの安打で3−3の均衡を破り、一点差で勝利をおさめた。その後何週間にもわたって、幼いメアリー・ジェーン・マスタースンのばらばらの肉塊が、愛国リーグの各球場で見つかった。


 どうですか?

<拡声器>マイクがギル・ガメシュの生涯の敵となるには、ただの一球のピッチングで足りたことはいうまでもない。大観衆、微風にはためく球団旗。ギルはワインド・アップし、足を蹴りあげると、あの長い左腕が常夏の赤道経由でふりおろされる。
「ボール」とマイクは叫び、左腕をさっと伸ばした。


 これに文句をつけるガメシュ。退場を命ずるマスタースン。退場しないガメシュ。そのためこの試合が放棄試合になると宣告するマスタースン。マスタースンの勝ち。

 次の試合。

 八回までアケルダマの打者にとって試合はこのように──残酷に、しかしとんとん拍子に──進行していった。「おつぎ!」とガメシュは言って、つぎつぎに客をさばく床屋よろしく各打者を記録的な早さで料理していった。そして九回の表もストライクをつづけて、打者のカウント2−0になった。ファンは狂喜して、アケルダマの打者が打席から退くたびに、さながら人間が集まってできた竪琴をかきならしたかのように、この世ならぬ、まこと天上の声を発した。ガメシュの投球は低すぎた。いや、プレートのうしろに構えて、ボールがよく見えるはずの主審がそう言ったのである。
「ボール!」
 ギル・ガメシュは連続七十七球ストライクを投じたあとで、その一球が<拡声器>マイク・マスタースンからボールと判定された。


 ガメシュと捕手が話し、マイクは試合再開を告げるんですが、それはこんなふう。

「だからはっきりさせてやるよ」とギルの声は耳をつんざくばかりだった。「あんたのうしろに立ってる老いぼれが居眠りしてなかったことを確かめるために、いまのボールを投げたのさ。その老いぼれがまともかどうか見るためだ!
「トゥー・ワン」とマイクは声を張りあげた。「プレイ!」
あの一球のほかはみんなストライクだったことをはっきりさせるためさ!
「プレイ!」
おれはおまえなんかに何もたのんじゃいない! そんな必要もないんだ! おれはギル・ガメシュだ! おまえの気に入ろうと入るまいと、おれは神だ!
プレイ・ボオオオオオオオオオオ!


 しかし、この後ガメシュの投球は乱れてしまいます。マスタースンの勝ち。

 その後、あのうだるような暑さの七月や八月を通じ、また残暑の九月も、ギル・ガメシュは神妙そのものだった。もちろん前非を悔いたわけではないけれども……


 ある試合後、マイク・マスタースンは疲労しきっています。リーグ会長のオークハート将軍というのがいまして、

 オークハート将軍はマイクの肩を叩いたが──それだけでは足りないような気がした。「おめでとう、マイク。よくやった。きみはあの若者を文明人にしてくれた。野球はいつまでもその恩を忘れないだろう」
 マイクは目をしばたたいて、将軍の顔に焦点を合わせた。「いいえ。文明人ではありません。けっしてそうはならないでしょう。偉大すぎます。本人の言うとおりですよ」


 マイクはへとへとになりながら、ガメシュの投球は溶鉱炉をのぞいているようだ、野生の動物の群れに踏まれるようだ、などともらしまします。判定の限界を感じるというようなことまで。

 ギルにとって(そしてマイクにとっても)たいへんな一年だった! その年の最終試合を迎えたとき、この新人投手は一シーズン最多勝(四一)のタイ記録をつくったばかりか、一九〇四年にループ・ウォデルが樹立した最多三振奪取(三四九)、一九一六年にグローヴァー・アレクザンダーがつくった最多完封試合(一六)の二つの記録を破り、与えた得点も六点以下におさえて、ガメシュが生まれた年にダッチ・レナードがつくった防御率一・〇一の記録をも更新した。愛国リーグの記録から見れば、ガメシュはリーグ史上最多完投記録を残し、与えた四球と安打も史上最少で、九イニング最多三振奪取を記録した。そして、不思議なことに、この新人投手が九月下旬インデペンデンスとの試合で無安打に封じたあと(彼としては四〇勝目。負けは9−0の放棄試合一つ)、<拡声器>マイクは更衣室で一種の麻痺状態におちいり、二十四時間近く元気がなかった。盲人のように眼を見ひらき、うつけたようによだれをたらした。


 そして、ガメシュの所属するグリーンバックス球団の最終試合。

 ガメシュが対決したタイクーンズの二十六人の打者はいずれも三振に倒れた。七十八球連続ストライクである。ファウル・ティップすらなかった──ストライクを見逃すか、やみくもにバットを振って、空を切ったのだ。こうして九回二死、バッターのカウント、2ストライク(ギルバート・ガメシュなら、こうなる)で、この左投手が捕手のミットに投げこんだ快速球は、グリーンバックス球場を埋めて陶酔した六万二千三百四十二人のファンばかりか、まるで手の出ない打者にとっても一九三三年度愛国リーグ最後の投球になったかと思われた。バッターは泣き言も言わずにホーム・プレートからペンシルバニア州ウィクルス=バリーの家に帰りかけた。二十七個の三振奪取。四十二勝。三連続無安打試合。大リーグ史上、いや人間が考えうる最高の完全試合の達成。グリーンバックス球団はペナントを獲得した。お見事! セネスターズでもジャイアンツでもかかってこい!
 てっきりそう思われたのに、<拡声器>マイク・マスタースンは両チームの監督に、まだ最後のアウトを宣言していないと伝えた。投球のとき、プレートに背を向けていたからだという。


 それはなぜか?

 将軍は、胸のプロテクターに帽子をおいて、となりに立つマイク・マスタースンにそっと尋ねた。「どうしたのかね?」
 マイクは言った。「私──奴を見たんですよ」
 将軍は動揺していたけれども、不動の姿勢をとりつつ、星条旗を凝視していた。「だれのことだ? いつ?」
「あれですよ」とマイクは答えた。
「あれって何だ?」
「私がさがしていたやつですよ。あそこです! タイクーンズのダッグアウトの奥の出口にむかったんです。耳と顎のかたちで奴だとわかったんですよ」すると、嗚咽がこみあげてきた。「奴だ。誘拐犯人ですよ。私の娘を殺した覆面の男です」
「マイク!」と将軍は叱った。「マイク、きみは幻覚を見てる! きみの想像だよ!」
「彼でしたよ!」
「マイク、あれは三十五年前のことだ。そんな年月がたっているのに、耳ぐらいで見分けがつくはずがないだろう!」
「そうでしょうか?」マイクは泣いていた。「私は毎夜、夢のなかで彼に会ってました、一八九八年九月一二日から」


 そしてギル・ガメシュはどうしたか? マイク・マスタースンはどうなったか?

 いや、結局とびとびながら重要な部分をここまで引用しちゃいましたよ。どうですか? しかも、ギル・ガメシュとマイク・マスタースンの話なんかはほんの序の口なんです。それに、この作品の主役となる球団はルパート・マンディーズで、ガメシュのグリーンバックスじゃないんです。

 こうして、アメリカ第三のリーグ=愛国リーグが存在した! といい張る男(その名はワード・スミス、スミティ)によって、このリーグの破滅までが語られることになります。そして、もしかするとこんなふうにいわれかねない作品──

 親愛なるスミス様
 貴下の小説を通読して不愉快になりました。世にも唾棄すべきたぐいの邪悪なサディステックな小説であり、しかも、肉体や精神の障害者はもとより黒人やユダヤ人、女性の扱い方が無礼きわまりないものです。一言でいえば、むかむかする。


 大作です。大笑いしながら読める作品。それなのに、これが現在絶版になっているというのは、かつてこの本が流通していたころに大笑いしたひとの数があまりにも少なかったということなんでしょう。そうなると、かつてこの本を大笑いしながら読んだ少数のひとたちは、いま流通している本のなかでいったいなにを読んだらいいんでしょうか?

(二〇〇三年九月の文章に加修正)