『月山』

(森敦 『月山・鳥海山』所収 文春文庫)

「だども、カイコは天の虫いうての。蛹を見ればおかしげなものだども、あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」
「天の夢?」



 もうだいぶ以前──二十年以上前じゃないでしょうか──からいつかは読みたいと思っていた作品をようやく読んだんです。私にはずっと、月山というと森敦、森敦というと『月山』というふうに思い浮かんでいたものでした(私は月山という山を実際に見たことがありません)。そうして、いざこの作品を読みはじめ、あちらの方言に阻まれる感じをなんとかしのいでいきながら、「ああこれはこういう作品だったのか」と驚いたんですね。そこでこの二十年のうちに読んでしまわなくてよかったと思いもしたんです。いま初めて読んで、ちょうどよかったと思ったわけです。

 ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危うく行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいたのです。しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、月山がなお彼方に月のように見えるのを不思議に思ったばかりではありません。これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、いつとはなくまどかに拡がる雪のスロープに導くと言うのをほとんど夢心地で聞いたのです。


「わたし」は寺のじさまのやっかいになります。
 やがて秋になり、冬が訪れます。

 しかも、その紅葉は次第に山の頂に及んで、あたりいちめん紅葉になってきました。なんの木の実が紅くなるのか、黄色くなるのか、またおなじ実でも紅くもなり、黄色くもなるのかわたしにはわかりませんでしたが、その紅も黄色も驚くほど鮮やかで、なにかこう、音響を感じさせるばかりではありません。僅かな日ざしの動きや違いに、その音響は微妙に変化して、酔い痴れる心地にさせるのです。しかし、紅葉はいつとなく潮のように退いて行き、散り遅れた数葉をまばらに残して、裸になった木々の間から、渓をつくる明るい斜面が遠く近く透けて見えるようになりました。散り敷いた落葉を踏んで行きながらその一枚を拾うと、蝕まれて繊細なレース編みのように葉脈だけになった葉にも、まだいくらかの紅や黄色の部分があって、心地よい残響にも似たものが感じられるのであります。
「すばらしい紅葉でしたね。紅葉がこんなものとは、夢にも思っていませんでしたよ」


 秋を描いた次のページではもう、

 その雨もビショビショとして冷たく、もう瞬時に山々を掃き渓や山襞に霧を這わせて、キラめきながら去って行くあの爽やかな驟雨とは違うのであります。たまたま上がっても、どんよりとした空にたえず不穏な雲が低く走ってすぐまた雨になるばかりか、激しく庫裏のトタン屋根を打つ音がすると思うとみぞれ、氷雨になって、かいま見る月山も白くなってきました。


 そして雷が鳴り、

「近いですね」
 思わずわたしがそう言うと、寺のじさまは汁椀を抱えたまま、紐で結んだ老眼鏡をガラス窓のほうに向け、
「近いの。おらほうだば、こげだ雷を雪おこしというなだて。こん夜あたり、ここらの山も白くなるんであんめえか」
 果たして、雷は山々に木霊させながら遠ざかり、トタンを打つ氷雨の音もなくなって、ガラス窓の闇に白いものがスジを引きはじめました。
「いや、もう降って来ましたよ。バスもこれでダメかな」


 バスが山を登って来られなくなるということは、「わたし」が帰れなくなること、ここで冬を越さなくてはならなくなるということでもあって、「わたし」は気にします。この「わたし」が何者か、どういう経歴の者なのか、ということはほとんど明かされません。そして、この作品はそういう謎解きの話ではありません。「わたし」はどうやら一種世捨て人のように放浪していたんですね。しかし、世間とのつながりがまったくないかというと、それは細々としたものながら、あるんです。でも、本人にはそう断言することもできないかもしれません。そうして、「わたし」は月山の山ふところの住人たちと交わっていく──奇妙な交わりかたです──ことにもなります。それはさておき、

「わたし」の暮らしている庫裏の二階はどんなところかというと、

 ……いまはただ中央と両側の腰高の窓にそった廊下や敷居、鴨居を残すだけで、天井もなく、棟木も梁もまる見えの百畳ほどの広間になってい、わたしはそのいちばん奥の、境内を見晴らす片隅に寝起きしていたのです。

 階上は暗いなかにも粉雪で、畳がいちめん白く見え、歩けば足跡がつくほどです。


 ここに「わたし」は古い祈祷簿を利用して、八畳ほどの和紙の蚊帳をつくります。そこで寝起きするわけです。

 どうやら今夜も月夜のようです。わたしが独鈷ノ山で見たこれらの渓谷をつくる山々や、彼方に聳えて臥した牛のように横たわる月山も、おぼろげながら吹きの上に銀燻しに浮き立っているであろう。そんなことを思っていると、わたし自身が吹きとともに吹いて来て、吹いて行くような気もすれば、もはやひとつの天地ともいうべき広大な山ふところが、僅か八畳にも満たぬこの蚊帳の中にもあるような気もするのですが、眠りを誘う単調なまでの吹きのざわめきに、うつらうつらして来たようです。しかし、これもひとり繭の中にある者の、いわば冬眠の夢といったものかもしれません。


「お前さま、和紙の蚊帳つくっているというんでろ。どげなもんだかや」
「どうって、まァ繭の中にいるようなものかな」
「繭の中……」
 女がそう呟くと、じさまはまたひとりごとのように、
「そういえば、どの家もカイコを飼うて、二階三階はカイコ棚にしとったんども、いまは桑の木もすっかりのうなってしもうての。変わったもんだて」
 と、言うのを受けて頷いたのは、首振りのばさまであります。
「だども、カイコは天の虫いうての。蛹を見ればおかしげなものだども、あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」
「天の夢?」


 これは、月山という山を単にあたりまえの山として、ひとが山といって思い浮かべる山のイメージを借りるだけの山として、また、日本地図のどこかにある山を単に舞台として(すでに出来上がったものとして、道具として、前提として)描いた作品なのではなくて、この山をあらためて存在させるための作品なんだという気がしました。そこでの出来事を語るために月山が用意されたのではなくて、月山という山を描くために出来事が描かれたのだ、という感じです。というか、語られる出来事までひっくるめてこの作品のすべてが月山なのだという、そういう感じですね。
 そう考えると、いい作品というものはみな、こうしたものだという気もします。作家にとってこの月山にあたるもののない作品というのは、どれもつまらないものじゃないでしょうか。出来事の部分部分がただその部分部分だけのためにあって、いちいち完結してしまう、それぞれに「ここはこういう意味、それはこういうこと」と都合のいい解釈を羅列したような作品ではなく、全体を読んでみないと部分の意味がわからないというほどの懐の深い作品、これがわからないのは作品のせいではなく、読者の非力のせい、とでもいうほどの作品を読みたいものだと思います。
 こんなふうにいってしまうと、未読のひとからこの作品を遠ざけてしまうようでもありますが、そうじゃないだろうと思います。むしろ近づけると私は考えます。

(二〇〇四年七月の文章に加修正)