『あなたの人生の物語』

テッド・チャン 浅倉久志 他 訳 ハヤカワ文庫)


 この作家の描く光景はたとえばこういうものです。

 鉱夫たちは登りつづけ、やがてそのうちにある特別な一日がやってきた。斜路の上を見ても、下を見ても、塔がまったく同じように見える日だ。下を見ると、一本柱のような塔がしだいに縮まって、眼下の平原にたどりつく前に見えなくなってしまう。それとおなじように、鉱夫たちはまだまだ塔のてっぺんが見えてこない。見えるのは、塔のまんなかの部分だけだ。見あげるのも、見おろすのも恐ろしい。なぜなら、連続性という保証が消えてしまったからだ。もうここは地上の一部ではない。この塔は空中にうかんだひとすじの糸で、大地にも天にも接していないように思える。

(『バビロンの塔』)


 この塔は実際に天に(天の底部に)接している(鉱夫たちはそこを掘削していく。そして……というのがこの短編の筋になる)んですが、そういうことより私の関心はこの作家の描くこういう光景に向きます。「連続性という保証が消えてしまった」この場所、「もうここは地上の一部ではない」というこの場所の提示。この場所にいることの恐ろしさ。これは単に高い場所にいる、遠い場所にまで来てしまった、ということの恐ろしさではなくて、もといた場所での常識や思考や信念の通用しない、それらでは測りうることのできないべつの世界に入ってしまったということの恐ろしさです。それが、鉱夫たちののぞきこむ光景に具体化されているんですね。
(この構図はたとえばトーマス・マンの『魔の山』にもあって、主人公が平地からアルプスの高地へ「魔の山」へと上がっていくことで、平地では考えられない非常に奇妙で特殊な経験をすることになるんですが、この『バビロンの塔』では、作品が短編ということでもあり、素材が素材だけにはっきり尖鋭化され、その恐ろしさが強調されます。)

 上の引用はこういうふうにつづきます。

 登りのこの段階までくると、ヒラルムはいままでの世界から見知らぬ場所へ移された気分で、何度となく絶望感におそわれた。まるで大地が不信心な彼を追放し、天がまだ彼を受けいれてくれないような気分だった。


 ここでべつの作品──先の鉱夫たちに代わって、今度はある数学者がやはり恐ろしい場所に至り着くことになります──『ゼロで割る』を。

 彼女はカールをさえぎった。「わたしがなんに悩んでいるかを知りたい? わかった、じゃ話すわ」レネーは一枚の白紙をとって、デスクの前にすわった。「待ってて。ほんの一分ですむから」カールはまた口をひらきかけたが、レネーは手まねで彼を黙らせた。大きく息を吸うと、白紙に書きはじめた。
 まず彼女はページの中央に縦線を一本入れ、ふたつの長方形に分割した。その一つの上に〝1〟と数字を入れ、もうひとつの上に〝2〟と書いた。その下にいくつかの記号を走り書きし、その下の行では、それをほかの一連の記号にひきのばした。書きながら歯を食いしばっていた。その記号を書きこむのは、まるで黒板に爪をこすっているような気分なのだ。
 そのページの三分の二ほど下から、レネーは記号の長い一列を縮め、しだいに短い列へと書き換えていった。いよいよとどめの一撃よ、と彼女は考えた。自分が紙を強く押しつけているのに気づき、意識的に鉛筆を握る力をゆるめた。つぎに書きこんだ行では、ふたつの記号列が同一になった。ページの下、センターラインの上に、彼女はしっかりと〝=〟(イコール)の記号を書きたした。
 彼女はその紙をカールに渡した。カールは理解不能という顔つきで彼女を見つめた。
「いちばん上を見て」彼はそうした。「こんどはいちばん下」
 カールは眉をひそめた。「よくわからない」
「わたしの発見した形式的体系では、いかなる数もそれ以外の任意の数に等しいという答えが出るのよ。そのページは、1と2が等しいという証明。どんな数でもいいから、ふたつ選んでみて。そのふたつもやはり等しいことを証明してみせるから」


 やがて、

「きみは自分のまちがいを発見できずにいる。そういう意味か?」
「いいえ、よく聞いてなかったのね。そんなことでわたしがフラストレーションを起こすとでも思う? この証明にまちがいはないわ」
「つまり、公認の体系の中にまちがいがあるというのか?」
「そのとおり」
「まさか──」そこで口を閉ざしたが、もう遅かった。彼女はカールをにらみつけた。もちろん、確信があるからだ。カールは彼女がなにをいおうとしているのだろうかと考えた。
「これでわかった?」とレネーはたずねた。「たったいま、わたしは数学の大部分が誤謬であることを証明してしまったのよ。数学はもう無意味になった」


 この数学者レネーは、自分が発見してしまったこと、しかもそれが間違いでないことを知っています。これに対して、カールは単に、そんなはずはないと思うだけで、ことの意味、この重大さがまるっきりわからないままです。レネーにしてみれば、そんな彼の立場がうらやましいでしょう。しかし、彼女はもう知ってしまったんですね。それを知った彼女に見えているのはいったいどんな光景なんだろうか。それはものすごく恐ろしい光景であるにちがいないと思います。「数学はもう無意味になった」ということは、たとえば「神は死んだ」というようなことです。神が死んだからってそれがなんなんだという感覚のひとには理解できない苦しみと、そういうひとに理解されない苦しみという二重の苦しみが発生してきます。

 最近の彼女は、とりわけカールとのあの口論以来、他人との会話に困難を感じているようすだった。おなじ学部の同僚たちは、彼女を避けるようになった。精神集中も失われ、昨夜などは悪夢を見たらしい。その悪夢の中で、彼女は任意の概念を数学的表現に翻訳する形式的体系を発見した──つぎに、生と死とが等しいことをも証明したという。
 レネーはあるものにおびえていた──自分が正気を失いはじめているという可能性だ。たしかに思考の明晰さは失われつつあり、その可能性はかなり濃かった。


 また、四ページあまりで終わる作品『人類科学の進化』でも、この本の表題作『あなたの人生の物語』でも、私たちがふつうに抱いている常識や思考や信念の通用しない、それらでは測りうることのできないべつの世界が提示されます。いま人間が知らないでいるべつの思考法、世界のべつのとらえかたがある、それによって世界を記述する言語も変わらざるをえない。そういうことが描かれます。

 テッド・チャンというこの作家の考えかたには〝彼〟に通じているところがあります。また引きますが、

「でも来世には、蜘蛛とか、そんなものしかいないとしたら、どうですかね」突然彼が言った。
『この男は気違いだ』とラスコーリニココフは思った。
「たとえば、私たちは永遠というものを理解を絶した観念、なにか途方もなく大きなもの、巨大なものとして考えていますね。しかし、どうしてそう大きなものと決めこまなくちゃならんのです? それよりひとつ、そんな考えはさっぱり捨ててですな、そこにちっぽけな部屋でも考えてみたらどうです。田舎の風呂場みたいな煤だらけの部屋で、四方の壁には蜘蛛が巣を張っている。で、これこそが永遠だ、というわけです。私はね、よくそんなものを目にうかべるんですよ」
「いったいもうすこしはましなものを想像できないんですか、いくらかでも救いのある、まっとうなものを!」病的な感情につき動かされて、ラスコーリニコフは声を高めた。
「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもそうしたいんですよ!」スヴィドリガイロフは、曖昧な微笑をうかべながら答えた。

ドストエフスキー罪と罰』 江川卓訳 岩波文庫


〝彼〟、スヴィドリガイロフですね。「それよりひとつ、そんな考えはさっぱり捨ててですな、そこにちっぽけな部屋でも考えてみたらどうです」という踏み切りようはどうです? これがテッド・チャンにも通じています。そして、チャン自身も言及しているようですが、『あなたの人生の物語』の世界へと通じている『スローターハウス5』(この作品が、たしかに『あなたの人生の物語』を読みながら思い浮かびました)の作者ヴォネガットをまた引用しますが、

「きみたちが出発してから、なにが起こった?」
「なにかのまちがいが起きた」と宇宙のさすらいびとはいった。まるで、打ちつづいた不運が彼自身の責任であるかのような、すまなそうな口ぶりだった。「いろいろなことで、まちがいが起きた」
「きみはこういう可能性を考えてみなかったのかね?」とラムファード。「なにもかもが絶対的にまちがいなく運んだのだ、と?」
「いや」宇宙のさすらいびとは簡潔に答えた。そんな発想に彼はぎくりともしなかったし、またぎくりとするはずもなかった──なぜなら、いま示された発想は、彼の安普請の哲学では手の届かない領域にあったからだ。

カート・ヴォネガットタイタンの妖女』 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫)


「そんな発想」ですね。ここでは、宇宙のさすらいびとには理解できなかったにしても、これまでの出来事をすべてを知っている読者には、これがどんなに残酷な発想であるかわかっているわけです。

 それで、「そんな発想」の底にはなにがあるかというと、自分がこの世界のなかで生きていくための基盤というか核というか理由というか、そういうものをなにかとか誰かとかに置く・依存するという人間の事情があるわけなんですね。その基盤というかなんというかがあればこそ、「いったいもうすこしはましなものを想像できないんですか、いくらかでも救いのある、まっとうなものを!」なんてことがいえるんですし、異常な事態にも「まさか──」なんていっていられるわけです。そして、「たったいま、わたしは数学の大部分が誤謬であることを証明してしまったのよ。数学はもう無意味になった」といってレネーが苦しむのは、その基盤というかなんというかが壊れてしまったから。ということは、それまでずっとその基盤をよりどころとしていたからなんですね。スヴィドリガイロフだってそうです。「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもそうしたいんですよ!」という彼のことばには、裏切られた者の恨みと強情があると思います。この世界はずっと自分の信じてきたようなものじゃなかった、自分は裏切られた、だまされていたんだ、もうこのうえは……ということが彼にはあると思います。「きみはこういう可能性を考えてみなかったのかね? なにもかもが絶対的にまちがいなく運んだのだ、と?」といったラムファードがほんとうに希求しているのは、なにもかもが偶然だった、間違いだった、ということの方です。しかし、裏切られた彼はそんなふうに自分が望むのをもはや許せないんですね。この世界から(あるいは「神」といってもいいし、また「愛」といってもいいかもしれません)裏切られた感じ、不当な扱いを受けている感じがあって、そこからなにも信じない、できるだけ自分が嫌だと思うような方向へ突っ走る、そういう人物を描いた作品は他にもまだまだたくさんありますね。

 そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない。いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、──いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って狂暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、──それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。

キェルケゴール死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫


 ついでながら、こういう問題を考えていたある作家は、裏切られたと感じていながらも、ひねくれずに善戦しつづける態度を書くことにもなりました。
 それはこんなふうです。
「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」という問いに対して、医師はこうこたえます。自分がこの仕事をはじめて、

「……そうして、やがて、死ぬところを見なければならなかった。知っていますか、どうしても死にたがらない人たちがあることを? 聞いたことがありますか── 一人の女が死のうとする瞬間に《いや、いや、死ぬのはいや!》と叫ぶ声を? 僕は聞いたんです。そうして、自分はそういうことに慣れっこにはなれないと、そのとき気がついたんです。僕は、そのころ若かったし、自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていました。その後、僕ももっと謙譲な気持になりました。ただしかし、僕は相変らず、死ぬところを見ることには慣れっこになれないんです。僕はそれ以上はなんにも知りません。しかし、結局……」
 リウーは口をつぐみ、ふたたび腰を下ろした。彼は口のなかがからからになっているのを感じた。
「結局?」
「結局……」と、医師は言葉を続け、そして、なおためらいながら、じいっとタルーの顔を見つめた。「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです。神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持になったようであった。
「つねにね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫


 ともあれ、この短編集『あなたの人生の物語』を書いたテッド・チャンは上のような恨み節の仕組みをよく知っている作家のひとりだといいたいのではなくて、「もうここは地上の一部ではない」ということの危険と、それをうけとめることの覚悟と、おそらくはそれにともなう孤独を描きながらも、この世界のとらえかたにはまだべつの可能性があって、それを探求していくことに積極的な希望を抱いているように思われるということをいいたいんです。ニヒリズムによらずに、世界をべつなふうにとらえ記述していくやりかたがあるだろうと考えているのじゃないかと思えるんですね。もしいまこの世界が不幸だとしたら、それは世界をとらえるいまのやりかたがまちがっているためだとでもいうように。しかし、わかりません。彼が長いものを書いてくれれば、それがどうなのかもっとわかってくるでしょうが。でも、いまのところ、つまりこの短編集は全体にいうと、すばらしい、とてもすばらしいけれど、そのすばらしさは読者を冷たくつき離すようなところにあるような気がします。いったい「もうここは地上の一部ではない」の後で、小説が成り立つのかどうかわかりません。「もうここは地上の一部ではない」の後を描くとしても、結局「地上」との対比を用いることしかできないのじゃないのか、という気がします。つまり、この地上に暮らしながら、「もうここは地上の一部ではない」という認識をもってしまった人間とそうでない人間ということでしか書けないのじゃないか、ということなんですが。ドストエフスキーは「大地から」離れてしまった登場人物をみな自滅させてしまわなくてはならなかったんですが、そうでない書きかたというのがあるのかどうか、わかりません。……とここまで書いてこの短編集の最後の作品『顔の美醜について』を思い出しました。ちょっと引用しますが──

 うーん、よくわかんない。あたしの両親の時代には、こんなことまだ問題じゃなかったのかも。だけど、いまのあたしたちはそれに取り組むしかないんだしね。


(二〇〇四年十二月の文章に加修正)