『めぐりあう時間たち』

マイケル・カニンガム 高橋和久訳 集英社

 彼女はあれから何度考えたことだろう、もし自分が彼のもとに留まろうとしたらどうなっただろうかと。もしブリーカー通りとマクドゥーガル通りの角でリチャードのキスを返したら? 彼といっしょにどこかへ(どこへ?)駆け落ちしたら? マリファナの包みも、バラの形をしたボタンがついていたアルパカの上着も買わなかったら? 自分たちはなにかを見出したのではないだろうか、実際に手にいれたものよりも大きくて不思議ななにかを。あの別の未来、あの選ばれなかった未来を想像しないわけにはいかない。それはイタリアかフランスの大きな日当たりのいい部屋か庭園で展開する未来。不貞と大喧嘩に彩られた未来。わたしたちの墓まで、もしかするとその先までわたしたちから離れていかないと思えるほど、激しく胸の奥底まで焦がす友情を塗り込め、いつ果てるともなくどこまでも広がったロマンスとしての未来。自分は別世界に入れたかもしれない、と彼女は思う。文学そのものと同じくらい強く心に訴える危険な人生を持ち得たのかもしれない。


 この引用部分では、ちょっと彼女の想像にあきれてしまいますが──そして、私がそのようにあきれてしまうのはたぶん作者の意図していることでもあるでしょう──、彼女=クラリッサ・ヴォーンは五十過ぎの編集者で、ニューヨークに住んでいます(二〇世紀の終わり)。彼女はある女性と同棲していますが、「ふたりでここで暮らすようになって一五年以上になるけれど、ここの美しさとふたりの思いもよらない幸運にはいまでも驚きを禁じ得ない。ウェストヴィレッジに二フロア―と庭付きの部屋なんて! もちろん私たちにはお金がある。世間の標準で言えば我慢ならないほどのお金持ち。」と自分で思うような暮らしをしているんですね。でも、先の引用部分のつづきで、彼女はこう思い返します。

 いや、やっぱりそうではないかもしれない、と彼女は自分に言い聞かす。あれがわたしだった。あれがわたしなのだ──いい部屋をもち、安定した愛情あふれる結婚生活を送り、パーティを開く品のいい女性が。愛を求めるあまり度を越して大胆な行動に出るなんて──彼女は自分に言い聞かす──みずから作り上げた国の市民権を捨てることになる。結局は、落ち着く先もなく港から港へと旅して終わることになる。



 さて、次はべつの女性ローラ・ブラウン(おそらく三十過ぎ)。彼女は自殺を考えてみます。一九四九年です。

 とても心が慰められるかもしれない、と彼女は考える、大きな自由を感じるかもしれない、あっさりいなくなってしまえば。みんなに言うのだ、わたしの手には余ります、なにも分ってもらえなかった、もう頑張る気がなくなったの、と。そこには恐ろしい美しさがある、と彼女は思う。早朝の氷原か砂漠のような美しさ。その気になれば行くことができるのだ、言ってみればその別の風景へと。みんなを──子供も夫もキティも両親も、全員を──置き去りにして、この虐げられた世界(この世界は二度とまともにはならないだろう、汚れなく清らかになることはないだろう)に。


 ローラは息子リッチーを近所に預け、ひとりで車を運転し、ちょっと高級なホテルに入り、そこで本を読んでいます。本を読むためにホテルに入ったんです。その本はヴァージニア・ウルフの『ミセス・ダロウェイ』。

 ローラは自殺をしませんが、

 それでも分かったことが嬉しい(というのも、なぜかしら、不意に分かったのだ)、生きるのを止めることは可能なのだと。あらゆる選択の幅に正面から向かい合い、自分に与えられた選択権について恐れることなく誠実に考えてみると、心が慰められる。想像するのは、処女性を保ちながら、精神のバランスを欠き、生活と芸術の耐えがたい要求に打ち負かされたヴァージニア・ウルフ。ポケットに石を詰めて、川に足を踏み入れる姿を思い描く。ローラはお腹をさすり続ける。それは簡単なことなのだろう、と彼女は思う、ホテルにチェックインするのと同じくらいに。それくらい簡単なこと。


 というわけで、自殺したのは『ミセス・ダロウェイ』の作者ヴァージニア・ウルフです。一九四一年のこと。彼女が書きはじめた『ミセス・ダロウェイ』の冒頭は、


 そうね、花はわたしが買ってきましょう、とミセス・ダロウェイは言った。
 ルーシーにはルーシーの仕事があるのだから。ドアは蝶番から外してもらうことになるし、ランプルメイヤー菓子店からも人が来ることになっている。それに、クラリッサ・ダロウェイは思った、なんてすてきな朝──まるで海岸にいる子供たちに吹きよせるみたいな爽やかさだもの。


 そうして、先のクラリッサ・ヴォーンはこの『めぐりあう時間たち』にまずこういうふうに登場するんです。

 まだ花を買う仕事が残っているわ。クラリッサはひどく苛立ったふうを装い(実はこうした用向きが好きなのだが)、サリーが化粧室を掃除しているのにまかせて、部屋を走り出る。三〇分ほどで戻るから、と声をかけながら。
 ニューヨーク。二〇世紀の終わり。
 玄関のドアを開けると、外は晴れ渡り磨き上げられた六月の朝。クラリッサは戸口で立ち止まる。プールの端でよくそうしたように。トルコ石のような色をした水がひたひたとタイルを洗い、細かく並んだタイルにまで届いた陽光が青い水の底で揺らめくのを見ながら。プールの端に立っているみたいに、彼女は一瞬、外へと身を躍らせるのを遅らせる。


 つまり、ふたりのクラリッサ(ヴォーンとダロウェイ)はパーティの準備をしています。で、『ミセス・ダロウェイ』を読むローラ・ブラウンも夫の誕生パーティ(といっても家族三人だけの、ですが)の準備をしているんですね。

 ローラ・ブラウンが登場するのは、彼女が自宅のベッドで『ミセス・ダロウェイ』を読んでいるところからでした。読みながら、

 こうした文章を書けた人、こうした文章に込められているすべてを感じることのできた人が、いったいどうして、とローラは思う、自殺することになったのだろう? 人間のどこがおかしくなっているのか? これから冷たい水に飛び込もうとでもいうように意を決しつつ、ローラはその本を閉じて、ベッドわきのテーブルに置く。子供を嫌っているわけではない、夫を嫌っているわけではない。起きて、機嫌よく振舞わなくては。


 どうでしょう?「これから冷たい水に飛び込もうとでもいうように意を決しつつ」です。

 さて、このつづきで、

 少なくとも、と彼女は思う、わたしはミステリーやロマンスは読まない。少なくとも、自分の精神の向上を続けている。いま読んでいるのはヴァージニア・ウルフヴァージニア・ウルフの全作品を一冊ずつ。


 私はこのローラ・ブラウンのその後について想像します。その後の彼女の読書について。しかし、これは後まわしにしましょう。

 こうしてようやく『めぐりあう時間たち』を読み終えたわけですが、数年前に映画を観ていたので、そちらの印象が邪魔になったような気がします。映画はよかったんですが、しかし、読んでみると原作の方が断然よいと思えます。映画の方は、やはり水のイメージをふんだんに盛り込んでいましたが、音楽がフィリップ・グラスで、これがまたよかった。私はこの作曲家が好きで、『ポワカッツィ』や『ナコイカッツィ』をしょっちゅう聴いていますし、名古屋の「愛・地球博」のコンサートにも足を運んだんですね(この演奏は全体によくなかった。チェロのソロは終曲で自分の入りを間違えたと思います)。この映画のサントラもよく聴きます。小説の作者マイケル・カニンガムも大のグラス好きらしいんですね。話がそれましたが、とにかく、まだどちらにも接していないひとは、映画を観る前にこちらを読むことをお薦めします。
 ちょっと前にカニンガムの最新作『星々の生まれるところ』(集英社)が出まして、これといっしょに有島武郎の『或る女』(新潮文庫大西巨人が推していたので http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/interview.pdf )も買ったんです。で、なにげなく両方の最初のところだけを開いてみると、どちらにもホイットマンの詩句が引用されているじゃないですか(もっとも同じ作品からの引用じゃなかったですが)。びっくりしました。で、そのすこし後で岩波文庫の『美しい夏』(パヴェーゼ)も購入したんですが、よく考えてみると、ヴァージニア・ウルフ有島武郎パヴェーゼも自殺しているじゃないですか。あれあれと思いました。

 さて、ローラ・ブラウンのその後について、彼女の読書について、ですが、「少なくとも、と彼女は思う、わたしはミステリーやロマンスは読まない。少なくとも、自分の精神の向上を続けている。」でいわれている「ミステリーやロマンス」というのには軽蔑の意味が込められているでしょう。そのうえで、彼女が読むものは「自分の精神の向上」につながるはずのものだといっているわけです。「自分の精神の向上」なんていわれると、ちょっと首をひねりますが、まあ、彼女はまだ三十そこそこです、若いんですね。私には彼女の考えていることがわかります。私は以前に私の勤める書店のホームページにこういうことを書いたことがあるんです。

 数日前にこれを読み終えると、最後のページに日付のメモが残っていて、それがこの作品を初めて読んだときのものなのでした。一九八〇年八月三十一日。今回の読書がそれ以来初めてのものというのではなく、これは折りにふれて何回かは読み返しているし、ある部分に関してはそれこそしょっちゅう開いてもいたんですけど、これまでとはなんだかべつの読みかたになったような気がします。こういうことってあるんですよね、いうまでもないことかもしれませんが。こんなふうに、いつでも、たとえ長い年月を置いても、何度でも読むことのできるような、そういう本をこそ「よい本」と呼びたいと思うんです。
 これは私が高校生の時分に読んだものを、四十歳を目前にして読み返したということでもありますが、中年になっても味わえる作品をすでに高校時代に読んでいたということでもあるわけです。考えてみると、私はそういう本ばかりを読んできたような気がします。若いときでなければ読めない、あるいは、一度きりしか読むに値しないという類の本を私は最初から手に取らずにきました。

(二〇〇二年四月)


 また、

 読書の話をしていると、たいていのひとが描かれた人物とか出来事がおもしろかったかどうかを問題にするのを、私はずっと気にしています。それがまずどういう文体で、それがどう活かされているか、ということをまったく問わないんです。つまり、それが作品として成立しているかどうかを問わない。それを問わないでいて、どういう人物がいて、何が起こるか、ということばかり口にして、いいとかわるいとかいうんです。好きとか嫌いとか。文体がしっかりしていなくては、人物も出来事も描かれていないんです。描かれていないものを評価のしようがありません。が、どうやらそう読まない。そして、そのことには気がつかないんです。そのまま〝感動〟して〝泣いてしまう〟なんてことになる。私はこんなふうにいわなくてはならなくなります。「この場合、主人公がいいとかわるいとかは問題にならないんだよ。これは作品じゃないんだから」。もし私が作品内の人物や出来事がおもしろいというふうにしゃべるなら、それはまず当の小説がきちんとした文体をもっており、作品として成立しているものについてそうなんですが、これを理解してもらうことは滅多にありません。そうしてこの無理解について困るのは、作品になっていないものまでを作品としてよいと評価してしまうひとたちが、ほんとうに作品として成立しているよいものまでよいと評価してしまうことです。なお困るのは……。

(二〇〇三年六月)


(特に「これを理解してもらうことは滅多にありません」は、最近痛感しています。ひどいものです。状況は絶望的です。この文章を書いたとき、私が思い浮かべていた「作品」以前の代物──いまけっこう売れているんですよ──のタイトルが、喉まで出かかっています。これを推薦している***を私は読む力のないひとだと思うし、解説を書いている+++がどうして文芸評論家をやっていられるのか理解できません。というより、文芸評論家なんてそんなものかと思います。これをいいはじめると、また、おまえは自分が特別だと思っているのか、なんて話になりそうなんですが、そうじゃない、***や+++が特別なんだと思いたいです。彼らの名前を伏字にしていますが、明かす必要もないでしょう。ある作品を推すということの意味と責任とを私はいいたいだけです。)

 私は始終「背伸びする読書」といっていますが、おそらくローラ・ブラウンは同じことを考えているでしょう。三十そこそこでそう考えている彼女がその後の数十年の間にどういう読書をしつづけたかということに私は関心があります。彼女の読書の質は必ず変化したでしょう。というのは、つまり、かなりの読み手になったことでしょう、ということです。その彼女が「二〇世紀の終わり」にリチャード・ブラウン(誰ですか? と思いますか?)の小説を読む。そして、それを素晴らしいとわかる。それならば、リチャード・ブラウンの小説は、クラリッサ・ヴォーンの考えているよりはるかに素晴らしい作品なんだということです。これがなにをいっているのかわからないひとは、とにかく『めぐりあう時間たち』を読んでください。