『カウガール・ブルース』

トム・ロビンズ 上岡伸雄訳 集英社



「わたしは真面目なヒッチハイクは全然やってないの。ただ十一歳の頃から、わたしはいつも二ヵ月に一度は家出して、カウガールになれる場所を探してたんだ。でもいつも誰かに捕まって、カンザスシティーに送り返されちゃう。わたしを置いてくれる牧場は全然なかったし、わたしのことを監禁する牧場もあった。カンザスを出る前に、警察に捕まっちゃうことも多かったしね。でもわたしはずいぶん旅をしたし、だからあなたの噂も聞いたよ。最初はワイオミングでだった。ある保安官がわたしに言ったのさ、『お前は自分を何様だと思ってるんだ──シシー・ハンクショーか?』。わたしは言ったわ、『違うわよ、バカヤロー。わたしはマーガレット・ミードよ』。それで奴はわたしをさんざんひっぱたいたけどさ、でもわたしはシシー・ハンクショーって人への好奇心に駆り立てられたわけ。その後、わたしは監獄やトラックのたまり場で会う人たちから、あなたの話をたくさん聞いた。わたしはあなたの、その、あなたの、あー、素晴らしい親指のことも聞いたし、あなたがジャック・ケルアックの恋人だったってことも……」



 彼女はモデルにうってつけの容貌をしていた。髪は金髪で肌は滑らか、立ち居振る舞いは王侯然としている──口を除いては。「彼女の目は詩人のようで、彼女の鼻は貴族のよう、顎は貴婦人のようで、口はティファナでのストリップショーで尺八をしているストリッパーのようだわ」と伯爵夫人は言った。「彼女は完璧よ」
「しかし考えてもみろよ」とチェース・マンハッタン銀行の副頭取が反論した。伯爵夫人は彼と昼食をともにしていたのだ。「彼女の手はどうなんだい?」


 この「彼女」が主人公のシシー・ハンクショー。で、「完璧」な容貌の彼女の「手」がどんなふうだったのか?

 彼女の両手の親指はでかいのでありました。ものすごく。そういう親指のおかげで彼女は服のボタンをかけることができません。それほどの大きさを想像してみてください。

 学校できみは、人間を他の霊長類と分け隔てているのが、親指であることを学ぶ。親指は進化の勝利だ。親指のおかげで、人間は道具を使うことができる。道具を使えるから、人間は感覚を伸ばし、環境をコントロールし、教養と力を増すことができる。親指は文明の礎石である! きみは無知な小学生だ。文明とはよいものであると思っている。
 親指のおかげで人間は道具を使える、云々、云々。しかし、きみは道具を使えない。うまくは使えない。きみの親指は大きすぎるのだ。親指は人間を他の霊長類と分け隔てている。きみの親指は、きみを他の人間と分け隔てている。きみは自分の親指のまわりに霊気を感じるようになる。そこには魔法があるのではないかと、きみは考える。


 その親指で小学生の彼女はヒッチハイクを始めます。

 それ以降、きみは決して学校へ歩いて行かなくなる。天気がよくてもだ。

 きみの親指が空中を動くときの、生得的な、ほとんど本能的な正確さに、きみは驚かずにはいられない。この活発な付属器の優雅さに、きみは驚嘆する。親指締めなどという拷問道具があることを知り、きみは泣きたい気持ちになる。きみは宙返りや曲芸を発明する。十三歳の夏には、きみは百マイル近くもヒッチハイクする大西洋を見に、ヴァージニア・ビーチまで行く。


 そして彼女は十七歳になっています。

 ……シシー・ハンクショーはサウス・リッチモンドのハル・ストリートの壊れかけた縁石から道路に出て、救急車をヒッチハイクしようとした。実のところ、彼女は救急車を二度も止めようとした──行きと帰りにである。


 そのことで、

 彼女が連行されたとき、警察署では微かなざわめきが起こった。まず第一に、少女の姿は悲壮感を漂わせていた。しかしその一方で、彼女は仏陀のように落ち着いていた。そして警察官の精神構造にとっては、落ち着きというのは軽蔑をほのめかしていた。


 で、

 巡査部長が救急車の邪魔をしないようにと彼女を叱って、婦人警察官に家まで送らせた。


 そうして、

 警察官たちはクルーカットの頭から彼女のことをさっさと忘れ去った。シシーは仕事に戻った。その日の蒸し暑い夕方、タバコ倉庫から火が出て、何億本というボールモールの原料を早まって煙に変えてしまったとき、彼女は再び逮捕された。彼女は消防車をヒッチハイクしようとしたのだ。
 今回は、彼女は調書をとられ、非行青少年短期収容所に二十四時間収容された。とはいえ、このときも当局は、シシーを釈放した方が面倒くさくないということに気がついた。彼女の釈放の少なからぬ理由というのは、指紋を取る係の警察官が、すっかり困ってしまったということだった。


 家出した彼女はやがて伝説のヒッチハイカーとなります。そして、すでに三十代に入った彼女があるとき精神分析医のもとで薬を打たれて、どんなふうにしゃべったかというと、


「わたしのことを慎みがないとか思わないでください。わたしは本当に最高なんです。わたしの手の調子がよくて、タイミングもよければ、わたしは最高のヒッチハイカーだったし、これからもわたしを上回る人は出ないでしょう。
「もっと若いとき、この活動停止がわたしをだめにしかける前は、わたしは百二十七時間ぶっ続けに、食料も睡眠も取らずに、ヒッチハイクしました。六日間で二度も大陸を横断し、太平洋と大西洋の両方に親指を浸し、深夜過ぎの照明のないハイウェイでも車を拾いました。これがわたしの技術だし、信念だし、リズムでした。わたしは記録を打ち立て、すぐにその記録を破りました。わたしは古今のどんなヒッチハイカーよりも速く、さらに、遠くへ旅をしました。しかし進歩するにつれて、わたしはスタイルの細部やニュアンスに、もっとこだわるようになりました。……(略)……わたしは他の人には理解さえできないような広がりを、ヒッチハイクに与えたのです。自動車の時代には──そして、自動車ほどわれわれの文化の形成に役立ったものはないのですが──偉大なドライヴァーが輩出しましたが、偉大な乗客は一人だけでした。わたしはあらゆる州をヒッチハイクし、世界の半分をヒッチハイクしました。暴風雨を切り抜け、虹の下を通り、砂漠と都市を旅し、後ろ向きに、あるいは横向きに、階上からでも階下からでも、寝室からでもヒッチハイクをしました。わたしの通過を待ちわびない道路はありませんでした。わたしが通り過ぎると、野原のヒナギクはお辞儀をするし、ガソリンのポンプは喉を鳴らしました。牛たちはみんな、わたしに向かって張りつめた乳房を振りました。わたしがヒッチハイクをすると、何か特別なもの、何か深遠なもの、スポットライトを浴びて、方向を指し示すものが訪れるのです。わたしはヒッチハイクの精神そのもの、心そのものです。わたしはヒッチハイクの皮質であり髄質です。わたしはその基盤であり、その頂点です。わたしはヒッチハイクの蓮の中の宝石です。…………」


 あるいは、そのような彼女の自己申告ではないところから引用すれば、


「行かなくちゃいけないのよ、ジュリアン」
「なぜ、どうして行かなくちゃいけないの?」
「親指が痛むからよ」
「それは気の毒だ。よくあることなの? 何かできることはないの?」
「わたしは間違いを犯したのよ。不注意だったわ。わたしは練習をしていないもの。これまでは毎日、どんなことがあっても少しはヒッチハイクをしていたわ。これは音楽家が音階の練習をするようなものなのよ。わたしも練習していないと、タイミングの取り方が衰えるし、親指が堅くなって疼いたりするの」
 それに対して、ジュリアンは返答できなかった。シシー・ハンクショーは、神の恩寵のように──時計仕掛けのように──前触れもなく産み落とされた、地球人には理解できない神秘の一つであった。彼の先祖なら、彼女をどのように扱うべきか知っていたかもしれない。しかしジュリアンは知らなかった。突然彼には、彼女の存在が自分の判断基準から完全に外れているように思われた。彼女が動き回ると、彼のアパートはもはや静止しているように思われなくなった。背が高く、ジャンプスーツを着た彼女──彼女のまわりを回る空気の塊は、音楽を発するバラの惑星のようだった。寝室の鳥たちは元気になり、鳥籠の中を飛び回っていた。数時間前、自分が彼女の心を慰める父親になろうとしていたなんて、ジュリアンには考えられないことだった。


 ──そんなふうです。

 この作品は、もうだいぶ以前に買ってありながら、ずっと手をつけずにいる我が家の本の山のなかのひとつでした。どうしたものかひと月ほど前にふと読んでみる気になり、無事に読み終えることができました。これまで手をつけずにいた理由のたぶん最たるものは、この作品が、ある種のアメリカ小説に属しているということでした。この「ある種のアメリカ小説」と私がいって思い浮かべているのは、自分の読んだもののなかでは、たとえば『ヴィトゲンシュタインの箒』(D.F.ウォレス)とか、『素晴らしいアメリカ野球』(フィリップ・ロス)とか、『V.』(トマス・ピンチョン──『カウガール・ブルース』のあとがきと帯でこの作品を推しているのがこのひと)とか、『黒い時計の旅』(スティーヴ・エリクソン)などです。どれもあまりにエネルギッシュで、あまりに長く、あまりに常識からはずれていて、あまりに複雑で、どうしても作品に自分がなじむまでに大きい抵抗を感じざるをえず、そこまでに時間のかかることがわかってしまっている、スケールの大きい作品です。
 その、実際にはどういうことかというと、読みはじめてある程度のところまで進むまでは、そこに書かれていることがどういうことなのか、どこまでを本気にしていいのか、ほんとうにこれを最後まで読む必要があるのかどうか、皆目見当もつかないような気分におちいりっぱなしになるということです。これは私の非力を物語っているかもしれません。私はつまり、上に引用したジュリアンという男のようなもので、『カウガール・ブルース』というこの作品を彼にとってのシシー・ハンクショーだと思ってもらえばいいんです。《彼には、彼女の存在が自分の判断基準から完全に外れているように思われた。》私は自分がついていけるかどうか全然自信のないまま読みはじめたわけですし、しばらくの間、ずっとその感じを抱いたままでした。
 だから五十二章(一八八ページ! そして、この本は二段組の体裁。全体では三九五ページ)あたりから、急に自分がその抵抗感なしに読めるようになっていたのには驚き、そして警戒しました。疑いを抱き、失望の予感にとらわれました。ここまでずっと読み通す自信のなかった作品、なにがなんだかわからなかった作品が、不意にそうでなくなったというのは、これは実はよくないこと、作品が破綻してきた・弱体化してきた・こちらに折れてきた・妥協してきたということではないのか、と思ったわけです。作者がとんでもないジャンプ──どこへ行くのだかわからないような、大きい、見事な、こちらが「なんだ、これは?」と唸るような──をしていながら、突然に彼の企ての着地点を明らかにしたように見えるとき、私はきまってこういう思いにとらわれます。読者=自分としては、ようやく作品の全体を見渡せるようになって安心していいところですけれど、それは反面、失望の予感でもあるわけです。いや、失望といっていいのか、いまも私にはわかりません。ちょうど私がそのように感じた場所で、読書の強い喜びを感じるひとがいるだろうことはわかりますけれど。
 彼女シシー・ハンクショーの親指の異様な大きさ、その力。それがこの作品です。幼いころから彼女がどんなふうに生きてきたか? 彼女がずっと抱えてきて、いまも抱えている問題はなにか? それを何人かの登場人物たちが読みとろうとします。彼らの読みとりかたはシシーの影響を受けますし、彼らの読みとりかたがシシーが影響を与えもします。ふつうのひとが常識としている範囲内で読みとろうとする者もあれば、そういう常識をひっくり返すような新しい読みかたをする者もあります。そうして、それらにシシーがどう反応できるのか? 彼女はどこへ行くのか? ジュリアンという先に引用した人物の視点からは「彼女の存在が自分の判断基準から完全に外れているように思われた」わけですが、彼の判断基準というのが世間の・読者の・つまりあなたの・そして私の判断基準で、作品はそういう判断基準を粉砕しようとします。いまだ誰も知らない判断基準・世界のとらえかた・思考方法というのを作品はもたらそうとします。それをもたらそうとするとき、いったい作者はどこまで読者のところへ降りてくるのか。それがこの作品の弱点にもなりうるのじゃないか、と私は心配するわけです。

 しかし、こんな説明では、なんだか私がこの作品をあまりよくないといっているみたいじゃないですか。そうじゃありません。作品は最後までパワフルで、希望に満ちています。すごいです。……ただ、私の疑念がなくなるというのでもないんです。


 おそらく失敗は、われわれフランケンシュタイン博士が、「時」を三つ頭の怪物として創造したことにあるのだろう。三つ頭とは「過去」「現在」「未来」である。そうだとしたら、設計図に戻ろう!「現在」についてはいいだろう。「現在」は鋭敏で清潔だ。「現在」にはこれまで通り、上から身体への指令を出させよう。しかし「過去」については、何か別の構造上の機能を持つ器官に移管しよう。たとえば過去は、尻の穴としては最高だろう。「未来」については、そうだなあ、「未来」は「時」の……
 親指だ。



 いまだ誰も知らない判断基準・世界のとらえかた・思考方法で読みとりをする人物に、チンクがいます。

「きみは強くて利口で、俺たちにいろいろと教えてくれた。俺たちと一緒に行って、運動に加わろう」
「きみたちの運動だけど、それにはスローガンがあるのかい?」とチンクは訊ねた。
「そのとおり!」と彼らは叫んで、いくつかを彼に聞かせてやった。
「きみたちの運動だけど、それには旗があるのかい?」とチンクは訊ねた。
「もちろん!」。そして彼らはその旗の印を説明した。
「きみたちの運動にはリーダーがいるのかい?」
「偉大なリーダーたちがいる」
「それじゃあ、くそくらえだ」とチンクは言った。「きみたちはぼくから何も学んではいないよ」。


 ──いまの引用がどんな意味だか想像してみてください。
 彼は中国人ではなく、日本人。ヴォネガット作品でのキルゴア・トラウトみたいなところもあります。彼は笑います。こんなふうに──

 ハッハッ、ホーホー、ヒーヒー



(二〇〇五年九月の文章)