『アルネの遺品』

ジークフリート・レンツ 松永美穂訳 新潮社)

 ここまで読んだとき、アルネは突然声を止め、顔をあげて恐ろしいことでもあったかのように表情を歪めた。苦しそうにほほえんだ。震え始めた。体が揺れているようだった。彼が呼吸困難に陥っているのが見てとれるような気がした。というのも、彼の首の筋肉が浮き上がり、唇が喘ぐように動いていたからだ。両手で教卓の端につかまり、どうやら倒れるのを恐れているようだった。驚愕の声が一列目の席から挙がる一方で、後ろに座っている下級生のあいだからは、おもしろがっているようなざわめきが起こった。ああ、アルネ、きみが助けを求めるようにぼくの方を見下ろしていた様子がまだ思い浮かぶ。ドゥデック先生がきみに何度も声をかけ、腕を肩に置いたのにもきみは気づかないようだった。きみはぼくだけを見据え、そのまなざしにぼくは困惑と、切実な、必死の願いを読みとった。





 さて、


 両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。両親はまるまる一か月、何もしないでいた。困惑と、打ち砕かれた希望の一か月。そしてついにある夜、そろそろ彼の遺品を集めて箱に入れてもいいときなんじゃないかとぼくに尋ねたのだが、……


 ──という書き出しです。読者に「困惑と、打ち砕かれた希望の一か月」という意味がわかるのは、ほぼ全体の終わりまで読み進んでからのことになります。

 もういちど、はじめから。

 両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。両親はまるまる一か月、何もしないでいた。困惑と、打ち砕かれた希望の一か月。そしてついにある夜、そろそろ彼の遺品を集めて箱に入れてもいいときなんじゃないかとぼくに尋ねたのだが、その口調は、ぼくへの依頼と理解せざるをえなかった。ぼくはなにも請け合わなかった。ただ黙って夕食を最後まで食べ、最後の一杯のビールに合わせてタバコを吸い、それから自分の部屋に上がっていった。ぼくがあんなにも長いことアルネと共有していた部屋に。ぼくは彼のスツールに腰かけた。彼の傷だらけの小さなトランクやあの当時持ってきた段ボール箱をすぐ隣の物置きから持ち上げる決心をするまで、しばらく時間がかかった。
 段ボールの蓋を上げ、トランクを開いて、そこに剥き出しになっているアルネの持ち物の方に視線をさまよわせているあいだに、ぼくは突然、彼が部屋のなかにいるような気がしてきた。そして、彼がよくそうしたみたいに、迫るような、問いただすような目でこちらを見つめているような感覚に襲われた。


 そうして、

 ああ、アルネ、ぼくはあの晩、きみの遺品をあっさりと集めて静かに片づけ、物置きの暗い片隅にずっと追いやってしまうなんて、最初はとてもできなかった。あまりにも多くのことが浮かんでは心に働きかけてきた。どんなものもなにかを証言していたし、なにかを打ち明け、それは当然のように過去を語るきっかけとなった。
 木製の、赤白に塗られた小さな灯台の模型を眺めるだけで、思い出があらがいがたく甦り、深まっていく。窓が開いている。港にまた冬がやってきた。刺すように寒かったあの曇り空の日、アルネはぼくたちのところに連れてこられた。


 こうして「ぼく」はアルネの遺品をしまいながら思い出したいろんなことを語っていきます。「ぼくたちのところに連れてこられた」ときアルネは十二歳、「ぼく」は十七歳でした。その後ふたりは約三年間部屋を共有していたことになります。

 ぼくたちはアルネのことをあまり知らなかった。ぼくたちはただ、かつては船長で、沿岸ディーゼル船の持ち主でもあった彼のお父さんが、家族全員を道連れに自殺を図ったことだけを聞いていた。海の上ではなくて、ククスハーフェンのはずれにある自宅でのことだ。ただ彼、アルネだけは蘇生術を施されて息を吹き返したのだった。一家の不幸を発見した隣人たちにも、アルネの両親と二人の姉たちの命は助けられなかった。ぼくの父は若いころの友人だったアルネの父の葬儀に出かけていき、家に戻るとぼくたちに、うちに子供が増えるぞ、と告げたのだった。



 この小説の魅力はなにより半ばアルネに呼びかけるように語る「ぼく」に発しています。この読書で私が強く感じたのは、小説はなにより語り手がどれだけ読者の信頼をかちうるかどうかが大事なんだなあということでした。これはこの作品のようにはっきりした語り手がいない場合、一人称でなく、三人称で書かれている場合でも同じです。
 読者が見るアルネの姿は「ぼく」のまなざしを通過した姿です。読んでもらえばわかりますが、これが「ぼく」でなく、「ぼく」の妹や弟が語り手であれば、もう作品は全然違うものになってしまうんです。もちろんそれは、違うアルネになってしまうということです。「ぼく」は、たとえば妹がアルネについて話すことをただの自己弁護にすぎないとはっきり認識し、そのように語ることのできる人物です。といって、それはアルネへの思い入れのために妹を悪者にしたいということなのでは全然なくて、公正に判断してそうだといっているんですね。というか、読者にはその判断が公正だと納得できるんです。単にこのことだけでも「ぼく」の語りはすばらしい。「ぼく」の思いやりは、アルネひとりにだけ向けられているのではないです。それは妹にも弟にも、両親にも、その他のひとたちにも向けられています。そういうまなざしでアルネとの「あんなにも長い」時間が語られるんです。

 ちょっとまた引用しますけれど、アルネがはじめて「ぼく」の家にやって来たところで、──

 ……父はときおり、さあ、おいで、と励ますようにアルネの方を向いた。家の前で二人は立ち止まったが、父が静かに警告するように、アルネのまなざしをつとぼくたちのいる窓の方に向けさせたので、ぼくたちはすぐ窓から離れ、過度に関心を持っているように見られないために、リビングのあちこちに散らばった。母も身振りでぼくたちに注意する必要があると思ったようだった。それから母はアルネを歓迎するためにドアのところに行った。ドアの脇に寄るのではなく、入ってくる人の前を塞ぐような立ち方で。


 ──と「ぼく」は語るんですが、アルネを家族として迎え入れる「ぼく」の両親それぞれの思いがよく伝わってくると思います。特に母の「ドアの脇に寄るのではなく、入ってくる人の前を塞ぐような立ち方で」というのは、実によく彼女の決心・覚悟・迷い・動揺・不安をあらわしているだろうと思います。そうして、そういう彼女の「立ち方」の意味を「ぼく」はちゃんと理解している。そうしてこれは、「ぼく」がちゃんと理解しているということを読者にわかるように作者が書いているということです。これは非常に大事なことだと思います。こういうことが随所に見られます。
 いまの母の動作には、この新しい家族の一員となるべき十二歳の少年が直前に経験していた事件の大きさへの恐れももちろん含まれていたはずです。この事件──自殺する自分の父親に母と姉たちともども殺されかかったということ、そして自分だけが助かったということ──への一般的な興味が読者にあることを作者も承知しているはずで、作者はその役を「ぼく」の妹に振ります。彼女は両親に禁じられている質問をアルネに向けてする。そうして彼女が報告してきたことを「ぼく」は語りもします。けれども読者はこの妹と同じように肩すかしをくったような気がすることでしょう。「ぼく」自身はけっしてアルネにそのことを訊きません。関心がないわけではないけれど、訊かないんです。これは、もし「ぼく」がその事件を追求して語るようなことがあれば、作者はまったくべつの「文体」を用意しなくてはならなかったはずだということです。読者がこの作品を読んでみて知るアルネを稀有なすばらしい少年だと感じるならば、それは現にあるこの「ぼく」を語り手とした「文体」のおかげなんです。

 そうして、これはだから本の帯にあるような「十五歳の少年は、なぜ死を選んだのか」という話ではないと思います。「ぼく」の前にやって来たアルネという少年がどんなふうに生きていて、どんなふうにいなくなったかという話です。「ぼく」の語りによって、アルネが非常におとなしい、思慮深い、そうして、「ぼく」をも含めた周囲のひとたちの常識を超えたべつの地面に立っていると思えるような、そういう少年であったことは伝わってきます。それ以上のことはなにも明らかになりません。そもそも「明らか」にするということ自体が「「ぼく」をも含めた周囲のひとたちの常識」に立ったやりかたなので、それでは彼をとらえることができないんです。

 そうやって、アルネ、きみはぼくたちのところに来たのだ。穏やかに、辛抱強く。




(二〇〇五年六月の文章に加修正)