『マン・オン・ザ・ムーン』

(ボブ・ズムダ マシュー・スコット・ハンセン 塩原通緒訳 角川文庫)

 一九七九年の秋、もしあなたが飛行機のファースト・クラスに座っていたなら、そうとは知らずにカフマンのショーを目にしていた可能性がある。

 ひょっとしてあなたは、初めての飛行機にびくびくしている、眼鏡をかけた長髪の男を見なかっただろうか。彼は不運にも、色の濃いサングラスをかけた、飛行機の安全性と事故の際の生存確率を異常に熟知した男と通路をへだてた席に座っていたことと思う。
「そんなに怖いですか?」とサングラスは言った。「大丈夫。怖がる必要はまったくないと保証しますよ」
「ええ」と不安げな男が言った。「ちょっとどきどきしてるだけです。何しろ飛行機は初めてなもので。これまでずっと飛行機に乗るのが怖かったんですよ」
「いや、わかります」と、サングラスはうなずいた。「だからこそ、教えてさしあげたいんです。もし事故が起こっても、生存できる可能性はけっこうありますよ。たぶん五割がた生き残れますね」


 ──とはじまって、サングラスの男の話はいろんな事故の写真などを取り出しながらエスカレートしていくんですが、「近くのシートにいた人びとまで、気分が悪くなりはじめていた。このサングラスは、これで安心させているつもりなのか?」

「……死ぬのは乗客の半分以下ですから。ラッキーなほうの半分に入ればいいんです」
「入ればいい?」と戦慄した男が震え声で言った。


「ご存知かなあ」とサングラスが言った。「『ライフ』にときどき載るんですけどね。座席の肘掛けの下側に人間の指が埋めこまれていたって。なぜだか、わかりますか?」
 怯えきった男は口を動かしたが、言葉にならなかった。
「それはね」と専門家は説明を始めた。「パニックにおちいった乗客が機体を落とすまいとして必死に肘掛けをつかむあまり、指が切れちゃうんですよ! すごいでしょう?」
 哀れな男の男の忍耐は限界に達しつつあり、その様子に気づいたスチュワーデスが、サングラスに注意した。「お客さま、あまりこちらの方を動揺させないでください」
「とんでもない」とサングラスは怒ったように言った。「この人が怖がっているのは、想像力を働かせすぎているからなんだ。何が怖いのかをしっかり見つめれば、恐怖なんかなくなるものだ」
 スチュワーデスは納得したようには見えなかった。「とにかく、これ以上こちらを脅かさないでくださいませ」
 スチュワーデスが去っていくなり、サングラスは震えている男のほうに向き直った。「ねえ、ちょっとこれを見てくださいよ」と彼は言って、とりわけ壮絶な事故の写真を取り出した。「この木からぶらさがっている死人がいるでしょ? かわいそうにねえ、この人はおそらく二万フィートの高さで座席から投げ出されたんですよ。飛行機は上空で爆発したからね」
「爆発?」男はパンツを濡らしていたかもしれない。少なくとも、目から涙が出ていた。「上空で?」
「そう。よく起こるんですよ」
 これがとどめの一発となり、男はにわかにむせび泣きはじめた。
 サングラスは自らスチュワーデスを呼んだ。「見てくれよ! この人、赤ん坊みたいに泣き出しちまった」。サングラスは泣いている男に向き直り、その腕をパンと叩いた。「あんた、それでも男かい?」
 スチュワーデスは仰天した。「お客さま、もうこちらの方を放っておいてください!」
「放っておきますよ。あんたがこのうるさい泣き声を止めてくれたらね!」
 スチュワーデスは打ちひしがれた男を慰めようとしたが、むせび泣きは止まらなかった。すると見ていた誰もが驚愕したことに、いらだったサングラスはハンカチを取り出し、男の口に詰め込んで黙らせてしまった。スチュワーデスと、残酷な飛行機事故専門家との舌戦がつづく中、こらえきれないおかしさに、わたしの涙は本物に変わりつつあった。


 ──というわけで、サングラスの男がアンディ・カフマン。泣き出した男=「わたし」がこの本の著者ボブ・ズムダで、ふたりはこういうことをするのに血道をあげていたんです。飛行機にかぎらず「街角やレストランなど、無数の公共の場で」。「たまたまそれを目撃した人の大半は、パフォーマンスであるとはつゆ知らず、まさか自分が観客になっているとも思わなかった。」

 もっと軽い例をあげると、

「路上コメディ」の実験のために、休みの夜に二人でコニーアイランドへ出かけ、ついでにジェットコースターなどに乗って遊んだことがある。二人が気に入ったギャグの一つは「ローター」で、これは水圧式リフトに取り付けた巨大な輪が回転するものである。まず、何十人かの客が輪の内側に背を向けて立つ。回転がはじまるとすぐに床がはずれるのだが、乗っている人は遠心力で固定されるので振り落とされることはない。機械があまり速く回転するため、なかには気分が悪くなる客もいた。われわれがやったことというのは、乗り物が動きだす前に一人が水を口に含み、もう一人が──動き出してから──いまにも吐きそうな声を出す。「音響効果係」がこらえきれずに吐く音を立てると同時に、「給水係」が水を吐き出し、まわりの客たちに浴びせかける。もちろんゲロしたのが誰かわからない。それだけで気分が悪くなる客もいた。


 小説じゃありません。彼は実在の人物。文庫の裏表紙から引用すると、

 全米に笑いと興奮を振りまき、その芸の過激さゆえに世間から疎んじられてしまった伝説の天才コメディアン……

 わずか三十五歳でこの世を去ったアンディの想像もつかない奇行と誤解にみちた生涯。その栄光と挫折のすべてを、間近でつぶさに見てきた著者が暴露する、涙と笑いの評伝。


 ──です。

 アンディ・カフマン──ほんとうはカウフマンと表記したいんですが、翻訳がそうなっているんでしかたありません。で、たぶんこの表記は映画の字幕に合わせたものなんだろうと思います。映画はカウフマンというよりもカフマンにしてしまった方が日本の観客になじむと判断したんでしょう。でも、映画では彼の名前はちゃんとカウフマンと聞こえましたけどね。その映画は『マン・オン・ザ・ムーン』。私はピーター・ウィアー監督作品をDVDで観つづけていて『トゥルーマン・ショー』へ行き当たり、そこから進路がふたつに分かれまして、こちらは『トゥルーマン・ショー』のジム・キャリー主演作品ということで行き当たった作品です。映画を観て、そのあとこの本を読んだというわけです。

 映画は冒頭でジム・キャリー扮するアンディ・カフマン扮する「ガイコクジン」が告げるように「ボクの人生の大事な出来事がねじ曲げられちゃってる。話を盛り上げるためにね」というつくりになっています。監督は『アマデウス』のミロシュ・フォアマン
 ただ、実際のカフマンを見ていない日本人としては、この映画を観てから本を読むのがいいと思うんです。彼の扮するキャラクター「ガイコクジン」やトニー・クリフトンを知る助けにはなります。

 また長い引用になりますが、「ガイコクジン」というのは、

 ほどなくして、目を大きく見開いた田舎者がスポットライトのなかに現れ、まずいものまね(イミテーション)、本人に言わせれば「エメテーション」をやりはじめた。まずアーチー・バンカー、次にエドサリヴァン、締めくくりはわれらが大統領、寝技師ニクソン。「エメテーション」は進むほどにまずくなるのに、男からは妙に強烈な個性が発散されており、それがしだいにわたしの心をとらえはじめた。とはいえ、それでなくてもお粗末なものまねが、お里の知れない訛りでさらに聞きづらいために……

 男の痛々しい「芸」がつづくうちに、観客のなかには我慢できずに野次を飛ばす者もでてきはじめた。男のやることにたいして笑うのではなく、男を笑っていたのだ。それよりも寛大な客は、笑いの起こったほうに向かって眉をひそめ、気まずい雰囲気に困惑していた。男が、次は「エルビス・プレスリー」をやると告げると、客席全体からうめき声があがった。時は一九七三年、エルビスのものまねがはやる何年も前で、誰もそんなものには鼻もひっかけない時代だった。

 鉄のカーテンの向こう側からやってきた気の毒なコメディアンは、くたびれた小さな旅行鞄をかきまわして櫛を見つけだすと、エルビスのヘア・スタイルにすべく髪をとかしはじめた。それからまた鞄に手をつっこみ、小道具をいくつか引っぱりだす。また髪をとかしはじめる。わたしは気を悪くさせてはいけないと思って笑いをかみころしていた。だが、もう我慢できなかった。なんと、この男は髪を妙な具合にとかす芸をやっていたのだ。この瞬間から、わたしは男を応援する気になりはじめた。ようやく客を笑わせることができた! 不意に会場の照明が落とされ、スポットライト一個だけがステージの男を照らした。……
 さらに何回か髪をくしけずり、観客をしっかりと笑いの渦にまきこんだあと、この変てこな若い外国人は信じがたい変貌をとげた。映画『二〇〇一年宇宙の旅』のオープニングでも使われたリヒャルト・シュトラウスの有名な曲にあわせて、スパンコール付の上着をはおり、大きな襟を立て、アコーステック・ギターを取り上げると、驚いたことに本物のエルビスのように見えるではないか。さらに唇をエルビスそっくりに曲げた。客席は騒然としてきた。
 わたしは思わずつぶやいた。こいつはいったい何者なんだ? 客席全体が一杯くわされたらしい。シュトラウスの音楽はロックに変わり、男はあのエルビス独特の格好でステージをのし歩いた。その歩き方も、何度も頭を下げる様子も完璧で、実際「エルビスの霊」のようなものがとりついたかのように思われた。ステージを何周かしたところで、腕をカラテのように振り回し、威圧するように客席を見据えると、彼はマイクをつかんで話しはじめた。さきほどまでのみじめな外国人、良くも悪しくもよく舞台に立つ気になったと思われた卑屈な小男はすっかり消え去っていた。その声は朗々とし、官能的で……ディープ・サウスの響きがあった。もちろんアメリカの。
「どうもありがとう……俺はひと息いれるから、しばらく俺を見てな……」
 わたしは口をあんぐりと開けた。さきほどの訛りはどこへいったのだろう。エルビスそのものではないか。それから、例の唇のけいれんが止まらなくなり、無表情に言い放った。「俺のくちびるが、おかしい」。ここで観客はどっと笑った。おかしかったからでもあるが、それよりもまだショックが残っていたせいだろう。わたしはとても素晴らしいものを見て満足していた──エルビスのものまねがとてもうまかったので、このうえ本当に歌わなくてもよかった──だから、次に起こったことには度肝を抜かれた。
 にわかにライトが一閃したかと思うと、「トリート・ミー・ライク・ア・フール」が始まったのだ。口パクではなく、本当に歌っていた。しかも、まったくうまかった。つづいて「監獄ロック」をみごとに歌いあげ、満場の拍手を浴びた。最後にこの男は相変わらず正体を明かさぬまま、ていねいに頭を下げると、いたずらっぽい目をしてこう言った。「ありがとうごじゃました」


 このエルビスのものまねはエルビス本人がすごく気に入っていたらしいです。


 さてと……

 ……翌日の夜は、一流レストランに食事に出かけ、ここらでお得意の悪ふざけをしようということになった。われわれのテーブルにウェイターがやってくると、彼はちらっとアンディを見た。そのとたん、アンディの左の鼻孔から巨大な鼻くそがぶらさがっているのに気づき、彼は顔をしかめた。もちろん、きまりが悪くて何も言えなかったので、アンディがサラダを注文するあいだ、彼は目をそらしていた。
 わたしがメニューを下ろすと、俳優志願のその若者は、もう少しで注文票を落としそうになった。キングサイズの鼻くそが、わたしの鼻からのぞいているのを目撃したのだ。彼は青ざめ、何げなくアンディのほうを振り返った。すると、今度は、とてつもない大きさの緑色の粘液の塊が、彼の両方の鼻の穴の下でぶらぶらしているではないか。そこで若者も納得して笑いだし、われわれも鼻くそをはずして、一緒に笑った。アンディは家を出るときはいつも、ポケットに偽の鼻くそを忍ばせていたのである。


 いや、こんなふうに引用しているときりがないんです。

 コロンバスでのこと。『バナナズ』という番組にアンディとズムダが出演しました。

『バナナズ』の撮影が始まると、司会者がわたしを観客に紹介した。観客といっても、六歳から十歳くらいの子供たちだ。
「やあみんな。今日はすごく賢い人をお招きしたよ。ドクター・ズムディは、『精神発生』というじつにおもしろい本を書かれたんだ。ようこそ、ドクター・ズムディ」。彼がそう言うと、わたしが入っていってそこに座った。「では、先生の書かれた本について話してください」


 で、精神発生の話をしはじめるズムダ。「相手は子供の集団なので、わたしの言葉はたちまちのうちに彼らを途方もなく退屈させた」

 すると不思議なことに、舞台の袖から、ショーを救うために遣わされた天使ガブリエルのように、新進の若いテレビスター、アンディ・カフマンが登場した。子供たちからも、司会者からも、スタッフからもどっとため息がもれた。……一〇分もすると、アンディは観客を興奮の渦に巻き込んでいた。一方、ドクター・ズムディは押し黙ったまま座り、精神発生学を説明するまたとない機会を、この突然の出来事に妨害され、むっとしている。


 アンディを退場させるよう要求するドクター・ズムディ。この対立がどんどん深まっていきます。

 子供たちがドクター・ズムディをあざ笑うと、彼はやり返した。彼はステージの向こうでコンガをたたいている生意気な奴のほうに、つかつかと歩いていった。彼にとって重要な会見を台なしにしてくれた男だ(このショーはコロンバス一帯にライブ中継されていたことを、ここで述べておきたい)。ドクター・ズムディはアンディを床に押し倒したが、コメディアンは元気よくはね起き、典型的なレスリングのホールドの姿勢をとった。戦いは小さなローマ人たちの歓声を受けていよいよ激しくなった。


 生放送は突然中断。

 突然、放送局の電話交換機にタイムズ・スクエアのように明かりが灯った。子供向け番組でふたりの男が喧嘩している光景を見て、すっかり頭にきた親が何百人もいたのだが、勝者を見定めないうちに番組が真っ暗になったため、彼らは余計に腹を立てたのだろう。


 ふたりはそのあと五時のニュースで謝罪させられます。

「それでアンディ」。ニュースキャスターの一人が快活に言った。「きみたち二人は、実際には知りあいなのかな?」
「はい」。アンディはいかにも機械的に答えた。「そのとおりです」
「はい、そうです」。わたしはロボット的に同意した。「おたがいに知りあいです」
 ニュースキャスターたちはわれわれの奇妙な態度にどう対応すればいいのかわからず、さらにつづけた。「それで、ドクター・ズムディ? あたなは、本当は博士ではない。そうですか?」
「ノー」。わたしは言った。
 一瞬、相手は戸惑い、もうひとりのキャスターがそのあとを継いだ。「そのノーは、あなたが博士ではないという意味ですか、それとも、そうではないという意味のノーで、実際にはそうなんですか」
「そのとおり」。わたしは言った。
 彼らがまたばかな質問をする前に、アンディとわたしはふいにたがいに襲いかかり、またぞろ喧嘩を始めた。彼らはすぐさまコマーシャルに切り換えた。われわれはデスクにぶつかってはね返り、もう少しで天気図をこわすところだった。警備員が呼びだされ、われわれを建物の外に連れ出した。別々の車が呼ばれて、われわれは空港まで送られた。空港のラウンジでわれわれは再会し、腹が痛くなるほど笑った。


 ……きりがありません。

 カフマンは日々こういうことをやりつづけたようなんですが、読んでいてそれを素直に笑えるのは、読者がタネを明かされている──またまた彼がなにかいたずらをやらかしているな、と了解している──安全地帯にいるからです。しかし、実際にはたとえば飛行機の乗客たちもスチュワーデスも、「ローター」の客たちも、ニュースキャスターも(鼻くそを見せられたウェイターを除くと)全員それがいたずらだ、そういうことがおもしろいんだということがわからないまま放っておかれ、おもしろがるどころか、かんかんに怒ったりもすることになるんです。一九八四年に亡くなったカフマンについての本を二〇〇四年に読み、彼を非常に魅力的な人間だと思い、彼を理解することのできなかった世のなかをつまらないと考えたりできるのは、自分がもはや彼の「被害者」にはなりえないところにいるから──それだけだ、というひともいるでしょう。しかし、本当にそれだけなんだろうか、それだけというのじゃないだろう、と思います。

 ともあれ、カフマンが仕掛けつづけたということ、それが実にものすごいエネルギーを必要としたことはなんとなく想像できます。普通じゃないエネルギーです。はねのけなくてはならない重圧だって相当のものだったでしょう。

「前にも話したよな」とアンディは言った。「俺が子供のとき、どんなふうにショーをやったか。俺は本当に怖かった。何年も地下室で練習して、初めて他人に見せられるようになったんだ。そのときだって、客は近所の、俺よりも小さいガキにした。大人には絶対に見せなかった。つまらないと言われるのが怖かったからさ」


「これは誰にも話したことがないけれど、実はいまだって怖い。だから瞑想してるんだ。瞑想すれば、怖くなくなる」
 アンディは契約条項のなかに、つねに瞑想のことを入れていた。ステージやセットに出ていく前に、緊張をほぐす時間をかならずもらうようにしていた。アンディ・カフマンを雇いたかったら、これを認めないわけにはいかないのだ。しかし、怖いからだったとは初めて聞いた。ひょっとしてわたしを安心させるために言っているのだろうか。「おまえが? 怖いって?」わたしは笑った。「まさか」
「いや、本当だよ。超越瞑想法と出会って、やっと恐怖を消し去ることができたんだ。批判される恐怖を頭からなくせば、もう安心していられる」
「でまかせじゃないのか」
「とんでもない。俺だって怖くなるのさ。ただ、誰にも言わないだけだ。おまえにも。俺の場合は、怖くなったら瞑想すれば消える。いったん集中すれば、あとはなんだってできる。おまえだって同じだよ」


 さて、カフマンの持つ重要なキャラクター「トニー・クリフトン」についても触れるべきなんでしょうけれど、もうずいぶん長いおしゃべりをしてしまったので、このへんでやめます。というか、あとはもう実際にこの本を読んでほしいんです。私はここまで映画『マン・オン・ザ・ムーン』からあまりはみ出さない感じのことだけを引用しています。しかし、ボブ・ズムダのこの本にはもっとたくさんのことが書かれています。ズムダがこの引っ掛け屋のカフマンを動揺させ、うろたえさせもしてきたというのもすごいですね。そういう人間だからカフマンともやっていけたわけです。

 絶版ですが、簡単に入手できる本です。こんなことを書店員がいうと、顔をしかめる業界人がいそうですが、私は105円でこの本を買いましたからね。むしろ、私はこの本を絶版にした出版社に不満があります。おそらく映画の公開に合わせるだけのことしか考えなかったんでしょう。そのときだけ売れればいいや、売り逃げできればいいや、ということだったと思います。映画の公開が終わっても、なんとかフォローしよう、なんとか映画とは独立した本として生き長らえさせようとしなかったんじゃないでしょうか。これは書店も同じことで、やっぱりそのときだけ売っておけばいい本として扱ったことだろうと思います。
 以前から思っていることですが、映画化ということで売られる作品は実に不幸です(しかし、映画化ということなしにはそもそも出版されないという作品も多いわけです)。たいてい映画は原作よりはるかに劣っています。そして、映画のイメージで原作が評価されてしまいます。映画が古くなると、原作はさらにも古びて感じられるようになります。映画は映画でしかできないことをやっていればよく、小説は(この本は小説じゃないですが)小説でしかできないことをやるべきだと私は思います。なんでも映画化できると思うひとは「文体」について理解していないんですね。つまり、そのひとは「出来事」だけで小説を読むひとです。「次になにが起こるか」でしか、小説を読むことのできないひとです。

 さて、それでもまだ最後に触れておきたいことがあります。「ミスターX」のことなんです。武田泰淳の『富士』に「嘘言症患者の手記」という章がありまして、これはものすごくおもしろいんですが、しかし、手記の筆者が「嘘言症」であるわけで、書かれていることがどこまで本当なのか、まるきりでたらめなのか、そういう判断ができないつくりになっているんですね。ズムダはこう書きます。

 以下はアンディ・カフマンの物語からの脱線のように聞こえるかもしれないが、これから話すある男をめぐる出来事は、わたしとアンディを結びつけるうえで直接かかわりがあっただけでなく、のちにわれわれがつくりだすことになるコメディにかなり深い影響を及ぼしたのだ。この男のことはミスターX、もしくは単にXと呼ぶことにしよう。そうするには深いわけがある。わたしはミスターXがまだ生きていると信じているし、あれから二五年たったいまでも、彼を恐れているからだ。ここで実名を出せば、追跡してくるかもしれない。なぜか? 彼は掛け値なしの、いや正真正銘の異常者だったからだ。


 で、ミスターXの話になるんですが、これが異様におもしろいんです。どうおもしろいのかは、さっきもいいましたが、実際に読んでみてください。いや、ええい、ちらっとだけ引用しちゃいますか、ちらっとだけ。

 Xとの冒険は朝に始まる(三日も四日もぶっつづけで走りまわった翌日──そういうことは実際にあった──は除く)。まずはリモ(リムジン)で鞄屋に向かう。そこで毎日、安い鞄を買う。同じ店で、同じものを。毎朝だ。
 それから銀行に向かい、二万ドルから五万ドルの範囲で現金を引き出す。金を鞄にしまう。同じ銀行で、毎日。それから電器店で、パナソニックの電池式テープレコーダーを三台買う。同じ店で、同じレコーダーを三台と新しい電池。毎日だ。
 三台のレコーダーに三本のテープをセットする。一本のテープには日がわりの音楽が入っており、スーザや何かのマーチが多かったが、Xの気分によってロックのこともあった。もう一つのテープは生だ。レコーダーにセットして、「録音」ボタンを押す。三本目のテープには、前日の録音が入っている。これが一番奇妙だった。Xはそれを今日の時刻と完全にシンクロするように再生して、ちょうど二四時間前に何が起こったかを聞けるようにしていた。わたしはいくつも時計をつけさせられ、その針がみな異なる時刻を指していた。それによって、いつテープを交換すべきかがわかるようになっていた。一度、思いきって聞いたことがあった。「ミスターX、どうして二四時間前の音を再生するんですか?」
 Xはにわかに目を細め、最低ののろまを相手にしているかのように頭を振った。「わしの頭が二四時間前よりも成長したかどうか知りたいからだよ、ばかめ」。頭が成長するって? そのとき、わたしは自分が鏡の世界に落ちこんでしまったことに気づいた。


 ……という具合です。ここから一日がはじまり、とんでもない異常事態へと突き進んでいくことになります。ドストエフスキーの作品を地でいくような、激しい事態へです。

 ……というミスターXの話がこの本全体にどれだけの役割を果たしているかというと、もうこれがあるのとないのとでは全体の締りが全然変わることになるでしょう。この強烈な話が本の全体をくまなく照らしているというふうです。

 で、しかし、ミスターXは実在しているのか? とも思うんです。ひょっとしたら、ズムダはここでも読者を引っ掛けているのではないのか?
 それでも、つまり、Xが架空の人物であるとしても、それがこれほどよく書けていて、しかも本の全体にこれほどの役割を果たしていると思うと、驚嘆します。後の方で、もう一度だけXが登場してきますが、この部分もすごい。

(二〇〇四年十月の文章に加修正)