『迷宮』

大西巨人 光文社文庫


 やがて旅人は、赤色表紙の小型本一冊を持って、もどって来た。
「これは、中央公論社の『世界の文学』48ローベルト・ムージルヘルマン・ブロッホの巻で、いま私が言うのはブロッホのことだ。この巻に収められているのは『夢遊の人々』の第一部だけだが、私はブロッホの作物を、だいぶん読んでいる。『夢遊の人々』全三部、『誘惑者』、『ウェルギリウスの死』は日本訳で、また『罪なき人々』および若干のエッセイ類はドイツ語で。しかし、私は、ここでブロッホの文学を云々しようとするのではない。……君はこの本を持っているかね。」
「いえ、持ちません。読んでもいません。」
 旅人は、その赤表紙小型本の終わりのほうを開いた。
「ここにブロッホの『年譜』が出ていて、その『一九四八年/六十二歳』の中に、『十月、その各々に、〝七年の仕事〟が必要だろうという未完の大著七冊を計画する。』と記されてある。この『未完の大著七冊』の完成は、単純計算でも一九九八年・ブロッホ百十二歳のときになるはずだ。人は、こういうふうでなくちゃ、いけない。……ブロッホは三年後の一九五一年に六十四歳で亡くなったがね。」


 「旅人」というのは、この作品の登場人物「皆木旅人(みなき・たびひと)」のことなんですが、ここでの彼の問い、「君はこの本を持っているかね。」に対しては、私は「はい。持っています」と答えることができるんですね。「赤色表紙の小型本」──全五十四巻の「世界の文学」の第四十六回配本分で、初版が昭和四十一年。これの八版(昭和四十九年)というのを持っているんです。とはいえ、なぜ私がこれを買ったかをいえば、ヘルマン・ブロッホではなくて、ローベルト・ムージル──彼も大作『特性のない男』の完成を見ずに亡くなっています(このことも当然、作者大西巨人の頭にはあったでしょう)──の方(特に『若いテルレスの惑い』──これは二度読んでいます。とてもよいです)を読みたかったからなんですね。この数年の間に『夢遊の人々』の全体がちくま文庫で出たときには、すぐさま購入もしました(まだ読んでいません)。『ウェルギリウスの死』は集英社の世界文学全集の一巻で、これも持ってはいます(まだ読んでいません)。これらの本を私は古書店で買ったのではなくて、ふつうに新刊書店で買ったんですよ。「赤色表紙の小型本」も年号が平成になってから買ったんじゃないかな。もうこういうことはいまの新刊書店には望めませんね。──余談でありました。

 さて、

 出版社に勤める春田大三が短いイギリス旅行から帰国してみると、(母の従弟の妻の姉の夫であり)故郷では親交のあった皆木旅人の自殺が報道されていました。なぜ報道されていたかというと、この皆木旅人が実は秋野香見という筆名での小説家(代表作に長編『現代神話』など)だったからなんです。記事には「皆木さんが以前に作家秋野香見だったことは、一般世間でも勤め先でも、今回の自殺までは、ほとんど誰も知らなかった。」とあります。もちろん春田はそのことを知っていたんですし、「秋野香見」の作品を読んでもいて、そのうえでの親交があったわけです。しかし、「皆木さんが以前に作家秋野香見だったこと」は秘密でもありました。それが、なぜすぐにも新聞記事になってしまったのか? また、春田は皆木の「自殺」を信じることができません。これは「他殺」ではないかと考えます。そこで、彼はいろいろ調べはじめるんです。
 こうして、この作品で、読者が知らされるのは、春田の知りえた情報がなんであるのか、春田がそれについてどう考えたのか、ということだけです。春田の知りえないこと、春田に考えられないことは読者にもいっさい知らされません。
 なにがいいたいかというと、こうです。よく「小説」には三人称の形で(この『迷宮』も三人称ですが)、個々の登場人物たちの行動を「語り手」が全体を見通しながら(行動だけでなく、人物たちの内面までを)語り、読者が常に全体を──個々の登場人物の誰よりもよく──把握できるようにしているもの──気軽に楽々と読めますし、これは作者にとっても楽なんじゃないでしょうか──がありますけれど、この『迷宮』はそうじゃないんです。三人称で書かれていながら、たったひとりの人物の知りえたこと──それも、ありがちな憶測の羅列もなしに、たしかな事実と認められるものだけを選んで──しか読者は知らされないので、なかなか全体を把握することができず、ちょっと居心地の悪い気のするかもしれないということです。大西巨人がこの方法を用いたのはとても大事なことだと思います。
 読み終えてみると、この「自殺か他殺か」ということは、もっとべつの視点で語られていれば・べつの人物に焦点を当てるように語られていれば、全然ちがった作品になっていたはずだ、もしかすると、安っぽいいわゆる「感動」作品になっていたはずだということがわかるんですが、大西巨人はそうしませんでした。
 しかし、かえってこの春田大三の知りえたことしか読者が知りえないという形にしたことで、実によかったことがあるはずで──いや、実際その方がよかったんですが──、それは、たとえば、皆木旅人という人物に関するいくつもの証言が重ねられることによって、非常に厳格に、そうして、最も皆木旅人にふさわしい形で、この人物が浮かび上がってくるということですね。

 例をあげれば、

 ──〝いま皆木さんのエッセイについて話しているうちに、ふいと思い出したことが、二つある。どちらも、大いに君〔大三〕の役に立つだろう。一つは、皆木さんの代表作長篇『現代神話』関係のことだ。周知のように、あれ〔『現代神話』〕は、ずいぶん長い歳月を、十余年を、費やして、ようやく出来上がった。六部作約三千枚〔四〇〇字詰め原稿用紙〕は、B6判4巻本として刊行された。
 〝……カヴァーの袖や帯、新聞広告なんかに小説家、評論家、学者その他の文章が掲載されるのは、出版界・文芸ジャーナリズム界の恒例だ。皆木さんの、すなわち秋野香見の、著書は少なく、『現代神話』の出版社筑紫書館は、秋野香見の作品を初めて手がけるのだった。筑紫書館の担当編集員は、皆木さんの人柄を知らず、出版界・文芸ジャーナリズム界の常識というか慣行に従い、そういう広告的文章の筆者に関して、著者(秋野香見すなわち皆木さん)の意向──つまり誰々が著者の意に叶った(著者の作物を必ず称揚するはずの)筆者であるか──を問うた。そういうふうにしないと、しばしばたいてい出版社は、各著者の不興を買うらしい。……
 〝皆木さんは、「それは、出版社の仕事で、著作者私は、原則として干渉干与しない。あまり本を出したことはないが、従前すべて、私は、そうしてきた。もっとも、どうにも見当違いの人物、たとえばたいそう人気のある流行歌手だのアナウンサーだのスポーツ選手だの映画俳優だのタレントだのに商売上の着意だけから執筆を頼む、とか、その種の文章を用いる、とかいう場合には、極力その中止を求める。キャッチ・フレーズの場合でも、これは、ある下等な小説の謳い文句で、その低級な筋書きには似合わしいのかもしれぬが、それにしても、『四十四歳の女、仕事も、不倫も、いまが旬。』などは、まっぴらだね。」と答えた。……。
 〝……さらに続けて、皆木さんは、「出版社の仕事に干渉干与するつもりは原則として私にはないが、聞かれたから、あえて私の考えを述べておけば、私としては、私と知り合いの小説家とか批評家とかは、なるたけ除外してもらいたい。この人物に執筆を依頼したら、その人は、かなり点の辛い・きびしい・批判的な文章を物するのじゃなかろうかと思われるような文筆家に注文するのが、むしろよろしかろう、と私は考える。」と言った。〟


 あるいは、

「『現代神話』全六部のうち、第一部と第二部、計千百五十枚は、月刊『日本民衆文芸』に連載された。」鶴島は、秋野香見の名における往年の皆木旅人について伝聞をも交えて語った。「予定は、毎号六十枚ないし八十枚ということだったが、実際は、多くて三十枚・少なくて二十枚足らずというペースだった。ある月などは、九枚でね。そのとき皆木さんの編集部員に言ったことが、傑作だった。どんな言葉か、君、わかりますか。」
「さぁ?」
「もちろん原稿の出来が少ないのを『相済まぬ』と詫びた上でだが、皆木さんは、『前号の締め切りから今号の締め切りまで、つまり今朝まで、懸命に努力してきたので、決して怠けたのじゃない。ほかの何かの原稿を一枚でも書いたのでもない。月産千枚だの千何百枚だのという作家も、いる。それにしても、懸命に努力して一カ月に九枚書くのは、とてもむずかしいことで、ほかの誰も、まずできないだろうよ。』と大真面目に告げた。僕が思うに、それは、まったくそのとおりだろう。編集部員は、気圧されるか鼻白むかして、一言もなかったそうだ。」


 ──すごいでしょう?
 こういうことが、もし「もっとべつの視点で語られていれば・べつの人物に焦点を当てるように語られていれば」、全然生きてこないはずなんですよ。

 もちろん、この作品の語りは、春田が最終的にたどり着いた結論がなにか、その結論に達したうえで、では、これまでの経緯からすると、これこれのことをこの順番で語っておく必要があるだろうということでのものです。だから、皆木旅人がどのように一貫した考えをもっていたか、身近な者もそれをどのように理解し、実践してきたかということが語られずにはいないんです。しかし、その語りようは、まず「結論」=実際彼はどのように死んだのか、というふうではなくて、「根拠」の方に力点を置いたものなんですね。つまり、皆木旅人がどのように死んだかではなくて、どのように存在していたか・どのような信念をもって生きていたか、ということが大事だというふうな語りなんですよ。
 ちょっと思い出しましたけれど、あの映画『ヴァージン・スーサイズ』(観ていません)の原作『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』(ジェフリー・ユージェニデス 佐々田雅子訳 早川epi文庫)について、私はこう考えているんです。あれは五人姉妹がなぜ自殺したか、という話じゃないんです。彼女たちがどう生きていたかという話なんです。これは間違えちゃいけないことなんです。

 それにしても、作品の完成を前に死ななくてはならない作家ということをとても考えさせられました。