『私は「蟻の兵隊」だった』

(奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)


 最近もあるテレビドラマで終戦の場面が流れていて、ヒロインたちが「ああ、ようやく戦争が終わったんだ・もう空襲もない・そのために焼け出されたり、死んだりすることもない」というような感慨を抱くわけなんですが、こうした日本内地での終戦を──たいていは玉音放送とともに──これまでどれだけたくさんのドラマで見てきたかわかりません。いや、実にたくさんなんです(戦後十八年にあたる年に生まれた私はこういうものをほんとうにたくさん観てきました。もしかすると、これは知っておいた方がいいことなんじゃないかと思いますよ)。
 しかし、実際には外地に出ていたひとたちがすぐにも内地に引き揚げてこられたわけではありません。たとえば、中国にいた兵たちの多くがシベリアに送られ、捕虜として労働させられたわけですし、そこで死んでいったひとたち──私の祖父もそのひとりでした──も少なくありません。戦争では死ななくても、過酷な労働や、環境のせいで死んでいく……。これについていいはじめると、大変なことになってしまうでしょうから、ここではごく単純にまとめますが、たくさんのドラマのように、一九四五年(昭和二十年)八月十五日で戦争のなにもかもが終わったわけではないんですね。

 しかし、さらに数年におよんで中国で戦闘を継続していた日本の部隊があったということ、一九四八年(昭和二十三年──もちろん先のドラマのヒロインたちが「戦争は終わったんだ」という思いに打たれて三年後ということです)にも「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった日本兵たちがいたということを私は知りませんでした。中国山西省での話です。彼らは中国の国民軍とともに、毛沢東の共産軍と戦っていたんです。傭兵として、じゃありません。日本軍として、です。どうやら、彼らの上層部(澄田中将を頂点とする)で中国国民軍と密約があったらしいんですね。そのために使われる彼らは命令に従うほかなかったわけです。
 そして、戦後、日本という国は彼らを黙殺します。それはおまえたちが自発的に行なっていたことで、日本軍の命令でそうしていたわけではないと。

 二〇〇一年、その中国山西省で戦闘をつづけた兵士たち(このひとたちの年齢を考えてください)が、国にその事実を認めさせようと裁判を起こしました。二〇〇五年、最高裁でもこの訴えは認められませんでした。

 さて、この『私は「蟻の兵隊」だった』という本は、いまも公開中の映画『蟻の兵隊』をすでに観たひと、これから観ようとするひとのための本だという気がします。映画を抜きにはできない性質の本ですね。この映画がいつまで公開されるのかわかりませんから、いまのうちに映画館に足を運んでください。絶対に観た方がいいといっておきます。

 私が映画『蟻の兵隊』を観たのは、まず朝日新聞の映画評に『戦争はなぜ起こるか』(ポプラ社)の著者佐藤忠男が書いていたということがありますし、そこでも触れられていたんですが、「刺突訓練」(初年兵に度胸をつけさせるという名目で、木に縛りつけた中国人を銃剣で刺し殺させるという訓練──井上俊夫『初めて人を殺す』にも描かれていたことです)が扱われているということ、また、映画が追いつづける奥村和一というひとが八十歳を越えているひとだということもありました。

 八十歳を越えたひと。それで私が思い浮かべるのは、『リトルジョンの静かな一日』(ハワード・オーウェン 早川書房)の主人公ですし、『白い犬とワルツを』(テリー・ケイ 新潮文庫)の主人公ですね。それよりも、大西巨人小島信夫なんですが、ちょっと前に『遥かな地平線』(創英社 三省堂書店)という小説を読んだばかりで、これはやはり戦後ソヴィエトに抑留されていた若い兵士の経験を描いたもので、著者の芦川三十三というひとも八十二歳。

 さて、

酒井 奥村さんたちは、なぜ日本に引き揚げず、ひきつづき中国に残留することになったのですか。
奥村 私たちは軍隊の上層部のことはなかなか知ることができなかったのですが、のちにさまざまな史料を見ることによって、なぜ残留したのかということがわかってきたのです。

(『私は「蟻の兵隊」だった』 奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)


 というのは、司令官である澄田中将が中国国民軍の閻錫山と密約をかわしていたんですね。澄田というひとにはA級戦犯の容疑がかけられていて、それをなんとかかわそうとして、こういうことをしたらしいんです。で、このひとは奥村さんたちを置いてさっさと帰国して、罪にも問われず生き延びたらしいんです。置き去りにされた奥村さんたちのなかには、さっきも書きましたが、戦後三年という時点でも「天皇陛下万歳」と叫びながら死んでいったひとがいたんです。このへんに向けられた奥村さんの怒りはぜひ映画で確認してください。

 一九四八年(昭和二十三年)、奥村さんは戦闘で重傷を負い、革命軍の捕虜になります。

奥村 そこからさらに、ロバに乗せられて、太行山脈のなかの臨時野戦病院に運ばれていきました。左権の近所だと思います。
 解放軍のまだ二〇歳前の若い兵隊が銃を肩にぶら下げながら、手綱を引いてくれました。
 私は喉が渇いて水がほしくて仕方がないので、「水をくれ、水をくれ」と言うのですが、いっこうにくれません。「水を与えたら死ぬといわれているから、やるわけにはいかない」と言うのです。
 スイカ畑の前に来たら、農民が出て農作業をしていました。その兵隊は農民のところへ行き、お札を出して渡し、スイカをもらっているのです。私はびっくり仰天しました。軍隊というのは、ものを奪いとるのが当たり前なのに、お金を出してものを買っているのですから。
 こうしてもらったスイカを食べようとして、はじめて歯が一本もなくなっていることに気づきました。神経が露出しているので、スイカを口に入れると飛び上がるくらい痛かった。しょうがないからしぼって汁をすすりました。
 それから山の中へ入っていきました。山の中は革命根拠地でしたから、どこもみな三光作戦でやられているのです。ある集落へ入ったら、ひとりのおばあさんが手綱をつかまえて私に食ってかかってきた。おばあさんは「うちの子は殺され、家も焼かれた。この日本鬼子をどうしても通すわけにはいかない。仇をとらなきゃだめだ」と言うのです。若い解放軍兵士は「この人は武器を捨てたのだから、もう敵ではないんだ」と話し、おばあさんを一所懸命に説得しています。これにも驚きました。
「敵ではない」と聞くと、なんだか釈然としないのですが、そのおかげで助かるのかなと思いました。こんな若造のいうことを聞く農民も農民だし、こんな若い兵士がよくも助けてくれるものだと、私は不思議な感覚にとらわれました。


 一九五四年(昭和二十九年)に奥村さんは日本に帰ってきます。日本の敗戦から九年め、彼が捕虜になって六年めということです。

酒井 奥村さんは、解放軍の捕虜になって学習させられたけれども、それには反発する気持ちも強くてあまりいい捕虜ではなかった。ところが、帰国してから、忙しく仕事をしながら、あの戦争が侵略戦争だったというように考えが変わってきたわけですか。
奥村 日本へ帰ってからですね。中国にいるあいだは、やはり天皇制が頭から離れないんですよ。天皇を頂点とした日本の資本主義はどのようにして社会的な矛盾を解消した桃源郷を築けるだろうか、というようなことを考えていたのです。やはり中国の社会主義全体主義のようで受け入れられないという、その枠から出られないのです。日本に帰れば生活はできるのだから、中国で受けた知識と自分の実生活とは違うのだと考えていました。
 ところが帰ってきてみると、自分が考えているような生活ができるわけでもないし、商売に思想なんて関係ないと思っていたら、公安刑事につきまとわれるなど現実は違っていて、それでどうも日本はおかしいんじゃないかと思うようになってしまったんです。


 補足として、別の誌面からの引用もしますが、

池谷 帰国から五〇年近くたって、〇一年にようやく提訴したのはなぜですか?
奥村 引き揚げてきたのは昭和二九年九月ですが、故郷に帰ってまず県庁に行ったら、昭和二一年三月で現地除隊の扱いになっていた。
 といって、そのことに関わっている暇はなかったんです。私は商家の長男で家を継げると思っていたらとんでもない、帰ってみると妹が婿をとって家を継いでいた。やっかいものとなって、どうやって自分で食っていくかしか頭になかった。
池谷 一方で「中共帰り」と言われた。それはどういうことだったんですか?
奥村 帰った翌日から公安が来て、「中共の話を聞きたい」と、囲炉裏端に座ったまま一日中動かないんです。でも我々は日本人だけの収容所にいたから、話す内容なんてない。商店街の真ん中で店に公安が見張っていたら、商売どころじゃないですよ。それに公安は、私に「外へ出るな」と言う。何かと思ったら、出かけた先々で私が何を喋ったかを集めていたんです。もう家にはいられないし、田舎では「中共帰り」なんて雇いませんからね。
池谷 それで奥村さんは東京に出てきた。そういう状況では山西残留問題と向き合うことはできなかった。奥村さんだけでなく、みんなそうだったでしょう。
奥村 だから陳情や請願、提訴と進んだのは、みんな定年退職したのちですよ。
 私は過去と一切手を切って、東京の雑踏の中にポツンと生きようとしてきた。戦友会ができていることすら知らなかったんです。あるとき戦友会が『元第一軍特務団実録』という本を出した。そして、妹に訊いて私にも連絡をよこした。本には元残留兵たちが綴った手記が載っていたが、肝心の、なぜ残留したのかという経緯、つまり軍の命令があったという証拠が出ていないんです。だったら、私がその証拠を探そうと。そこから始まった。
池谷 何のために?
奥村 国の言っていることは嘘なんですから。軍が残留を命じたんです。そうでなかったら、中国語もわからず技術もない人間が、戦勝国の、家族を殺されたりして日本軍に恨みのある人たちのところに何で残りますか。軍隊とは、勝手に残れるものではないんです。どうしてもこれだけははっきりさせたかった。

(「世界」二〇〇六年九月号 岩波書店


 山西省の日本軍残留について奥村さんが調べ始めるのが一九八九年以降のことです。ということは、彼は六十五歳あたりですね。

奥村 それから、家にじっとしているよりも運動をかねてというわけで、毎日史料探しに出かけました。区の図書館を手始めに、東京都立日比谷図書館や東京都立中央図書館に通い、そこから防衛庁にたどり着いて、防衛研究図書館に二年ぐらい毎日のように通いました。防衛庁の場合、コピーはよそで印刷して送ってくるという外注方式なので、料金は振替用紙で送金するのですが、ふつうだと一〇日くらいでできてくるところを、私が頼むと一カ月たっても送られてこないのです。嫌がらせでしょうね。受付の女性に「これをコピーしてくれ」と出すと、その史料を系統的に追っているのは誰かを見ている係官がいて、そこでチェックに引っかかってしまったようなのです。この人間にはちょっと気をつけろということです。

(『私は「蟻の兵隊」だった』)


 で、ここで奥村さんは非常に重要なことをいいます。これがほんとうなら、大変なことです。

酒井 奥村さんがそういう調査を始めるまで、山西残留に関してそんなにしつこく防衛庁に史料請求をした人はいなかったのですか。
奥村 いません。相当しつこくやったから、向こうの注意を引いたでしょうね。その当時は全部コピーを請求すると余計に警戒されるので、手書きで写したものもありました。それが、五年ぐらい前に裁判準備のためにもう一度コピーの請求をしに行ったら、閲覧史料のなかから一部削除されていたのです。いわゆる情報公開法が施行されたあとのことでした。だから、日本という国は恐ろしい国だと思いましたよ。これから公開しなくてはならないのに、逆に全部隠してしまうのですからね。
酒井 その史料がどういう状態になっていたのか、具体的に話してください。
奥村 ふつうだったら削除するのであれば、その史料すべてをシュレッダーか何かで切り裂くわけでしょうが、ところがきちんと製本し直されているのですよ。閲覧させてはいけない部分を全部抜き出して、新しく製本しているわけです。元の史料から抜き出した、隠しておきたい部分はべつに保管しているのでしょう。



 この本は奥村さんと酒井さんとの対談の形でつくられているんですが、最後の部分だけは映画『蟻の兵隊』の監督池谷薫さん(先の「世界」からの引用の池谷というのはこのひとです)が加わっての鼎談になります。

池谷 ロケに入ったのは九月からですが、それまで週に一、二回会って、裁判の経過とか、中国での体験など、いろんなことを聞きました。とにかく話を聞いてみなくてはと思ったわけです。でもまだこの話を複数の元残留兵を取材して映画にするのか、奥村さんにしぼって撮るのか、考えあぐねていました。
 そうしたなかで、直感的に「これは映画になる」と思った瞬間があります。
 一つは、奥村さんが単なる情念で話しているわけではない、ということに気がついたときでした。恨み、つらみというような感情におぼれてやっているのではなく、きちんと史料を収集して論理的にやっている人だ、ということがわかったのです。
 もう一つ決定的だったのは、奥村さんと会って、初年兵教育のことを聞いたときです。「刺突」をやらされたと聞いて、ぼくは奥村さんに「その現場に行ったことはあるのですか」と聞いたのです。史料集めのために山西省に行っているということは知っていましたから。ところが、「行ったことがない」というのです。「それはなぜですか」と聞くと「やっぱりこわかった」と。そこであるとき、ぼくはふっと「そこへ、行ってみませんか」と聞きました。そのとき奥村さんは「行かなければならないところですね」といったのです。その瞬間、ぼくは「ああ、これで映画になる」と確信しました。すでに夏になっていたと思います。
酒井 要するに「奥村和一」という一人の人間を撮ってみようと。


 そうして、奥村さんはかつての「刺突」の現場に立つことになります。そこで、彼は初めて、自分たちが刺し殺した中国人たちが連行された民間人であったのではなく、日本の警備兵としての役割を放棄したひとたちであったことを知るんですね。
 たまたまそこで処刑されるはずだったところを逃げおおせた中国人がいて、そのひと(当人は故人)の息子と孫に奥村さんは話をきくんです。

奥村 ところが、私はこの二人を追及し始めてしまったのです。自分が殺した人たちは罪のない農民だと思っていたのに、じつはそうではなくて、日本軍が管理する炭鉱の警備隊員だった。そのことを知って気が動転してしまったのです。「警備隊員だったら日本軍の規律を知っていたはずだ。八路軍と内通したことが分れば処刑されるのは当たり前だろう。私が殺したことが悪いのではなく、殺されたお前たちのほうが悪いんだ」と思いこんでしまったのです。
 このときの私は昔の日本兵にもどってしまっていました。軍隊の論理で彼らを追及してしまったのです。


 ──というこの部分、映画で実際に観ると凄いです。

酒井 日本兵にもどってしまった、ということはいつ気がついたのですか。話しながら、あれっと思ったのですか。
奥村 話しているうちに、「あっ、これは」と思いました。いまは自分が検察官になって、警備隊員の子供とお孫さんを追及していると。
池谷 でも終わって、車に乗りこんでから、奥村さんはぼくに何と言ったと思います。「興ざめでしたね」と言ったのです。ぞっとしましたよ。だから、そのときは「ああ、おれはいまおかしいぞ」とは思っていたかもしれないけれど、そのことをまだ反省しているということではなかったと思います。
 むしろ気づいたのはその夜になってからではないでしょうか。というのは、ぼくらは毎晩宿舎で、奥村さんのいわば旅の日記を撮るためにインタビューをしていたのです。毎日が修羅場のような現場の連続ですからね。その場ではなかなか言葉にならないので、毎晩、整理してもらっていたのです。そのとき初めて「奥村さん、ひょっとして、さっきは殺されて当然だと思ったのではないですか」と聞いたのです。そうしたら、はたと気づいたようで、サーッと血の気が引いたような顔になって「私は日本兵にもどってしまった」と告白したのです。


 ──これも映画では凄かったですね。ここのところを先の朝日新聞佐藤忠男の評では書いていたんです。

酒井 いまの話では、奥村さんは自分の奥深いところに、かつての戦争での一兵卒として駆り出されたときの亡霊がまだ潜んでいたことに、気づかされることになったわけですね。
池谷 近くで見ていたぼくからすると、この場面は今回の中国の旅のなかで一つの転換点になったのではないかと思います。あの寧武で、昔の日本兵にもどってしまった。それで、当然のようにそのあと奥村さんは自分を責めるわけです。いまだに自分のどこかに軍国主義の思想が根づいていることがたまらなく嫌になって、そのことを憎むわけです。
 それからこんどは、たとえば山西省人民検察院へ行って、かつて戦犯が書いた反省文を読んだり、盂県というところで性暴力の被害に遭ったおばあちゃんに会ったりして、奥村さんは戦争責任とどう向き合っていかなければならないのかという問いを、自分のこれまでの生き方などもふくめて、さらに深めていくわけです。


 ──このおばあちゃんというのが実に品のいいひとなんですよ。彼女については、私は『フランスの遺言書』(アンドレイ・マキーヌ 水声社)のシャルロットを思い浮かべました。彼女も自分の強姦されたことを「孫」である語り手に話すんでした。語り手は「祖母」のいうことをきちんと聞き取ります。彼は「祖母」の危惧する聞きかたがどんなものであるかも承知していたでしょう。

奥村 劉さんの場合、驚いたのは、四〇日間監禁され毎日強姦されました。体がボロボロになってしまったので使いものにならないと思ったのでしょう、日本軍の隊長が村に帰そうとしたのですが、その際、父親に「身請けして欲しかったら金をもってこい」と要求しているのです。
 そんなすさまじい被害を受けたにもかかわらず彼女は私に向かって「今のあなたは決して悪い人ではない。戦争が悪いのだ。戦争についてあなたも家族に話してください」といってくれたのです。
 じつは、劉さんは「日本兵と寝た」とうわさされ村人から差別を受けたことがあります。一九九〇年代に入って、性暴力被害者の聞き取りをしていた小学校の先生に説得されて「自分の過去はどうであったか」ということをはじめて告白し、それまで話さなかった家族にも真相を語ったのです。
それで、私が感動したのは、子供たちやお孫さんたちが、おばあちゃんにどのようなことがあっても、「裁判を引き継いでやる」ことを決意しているということなのです。劉さんが語ったことを受け止めて、戦争がもたらした惨禍を子供たちが引き継いで裁判をやりつづけるという話を聞いて、私は感動しました。
 だから、あの戦争中に体験したことが、現在までずっと引き継がれてきているのです。その点が日本と違います。日本では戦争を語らないから、それが引き継がれない。しかし中国では、自分たちが体験したことを子供たちへ伝えているのです。そこから戦争が、どんなに悲惨なものであったか、戦争がないこと、平和であることがどんなに幸せなことか、ということが身をもって伝えられているのです。


 しかし、この劉さんにしても自分の経験を話すことができるようになったのが、一九九〇年代に入ってからのことだ、というのはよく考える必要があるでしょう。


 この本での発言や、映画での姿から、私が奥村さんに見ているのは、このひとが自分のすべきことをきちんと理解しているということです。事実を調べる。そうして、伝える。なにが問題なのか、それと関係のあることはなにか、関係のないことはなにか、理解しています。なにとなにをごっちゃにしてはいけないか、わかっている。また、そうした自分のすることが他人に嫌われることであるかもしれない、自分のすることを嫌う他人のいること、そういうひとたちの考えかたも知っています。大事なことですが、奥村さんと同世代のひとたち──兵士として前の戦争を経験した最後のひとたち──の多くが「あれは昔のことだ・昔のことでもう覚えていない・ああいうことは口にすべきでない・口にしたくない・思い出したくない・あれはいまの自分とは関係がない・自分の子供や孫にも関係がない・私に訊くのはやめてほしい・ほじくり返さないでほしい」と考えているでしょう(それが結局日本の次の戦争に結んでいくでしょう)。それでも、奥村さんはとにかく自分のすべきことをしていくんですね。自分がなにをすべきか、わかっていれば、誰に遠慮してもしかたがない。というか、遠慮なんかしてはいけないんですね。このとき遠慮は罪悪ですらあるでしょう。
 すべてのひとを納得させることができるなどと奥村さんは考えていないはず。そんなことなら、彼の同世代の従軍経験者が「あれは昔のことだから」などとはいいませんしね。しかし、どれだけの数にせよ、確実に自分の声に耳を傾けてくれるひと──しかも、必ずいまの若い世代に──のいることを信じているでしょう。

 引用をもうひとつ。

奥村 最近、同年兵の一人が死んだ。彼は昭和二三年一〇月の激戦で右の大腿部をやられ、破片が体内にいっぱい残っていた。おやじがどういう戦争をやったのか、その証、形見として拾ってもらいたかったんです。ところが、骨に混じって破片があったかと息子に訊くと、知らないと言う。彼は息子に戦争のことを話していなかったから、知らずに捨ててしまったんです。戦争を話さないとは、こういうことなんですよ。些細なようだが、重要な問題ですよ。

(「世界」二〇〇六年九月号 岩波書店


 というわけで、映画も観てほしいし、本も読んでもらいたいんですね。