『初めて人を殺す』

(井上俊夫 岩波現代文庫

(二)

 私はいま自分のしゃべりかたがまちがっているのじゃないかと危惧しています。しかし、このままつづけましょう。
「刺突」という訓練が強制的に行われたということ。それは、ごくふつうのひとが──戦闘でもないのに──木にくくりつけられた人間を銃剣で突き殺していくという訓練なんです。井上さんの場合は、ひとりの中国人を多数の初年兵で順番に刺していくというものでした。
 そのときのことを先の長谷さんはこんなふうに述懐しています。

 「あの時は怖かったなあ。今から思うと可哀想なことをしたもんや。俺たちが銃剣で突き殺したあの若い中国兵の顔が、俺の従兄弟そっくりやったんや」
 長谷が殺した相手の顔を覚えていたとは意外だった。私は血まみれになって死んだ相手の様子は覚えていても、顔まで覚えていなかった。

(『初めて人を殺す』井上俊夫 岩波現代文庫


蟻の兵隊』の奥村さんはこんなふうにいいます。

奥村 そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられて立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼らは、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてたまらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目が開けられず、目をつむったまま、当てずっぽうに刺すものだから、どこを刺しているのかわかりません。そばで見ている古年兵にどやされ、「突け、抜け」「突け、抜け」と掛け声をかけられる。どのくらい蜂の巣のように刺したかわかりません。しまいに、心臓にスパッと入った。そうしたら「よーし」と言われて「合格」になったのです。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕立て上げられたのでした。

(『私は「蟻の兵隊」だった』奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)


蟻の兵隊』の奥村さんの場合では、このとき「刺突訓練」のために用意された中国人は五十四人もいました。『初めて人を殺す』の井上さんの場合はたったひとりです。

 このような訓練のために中国人の数をそろえるということは、井上さんの元上官のいうように「うん、どこでもやってた」というわけにはいかなかったのじゃないかと思います。かといって、これが非常に稀であったとも思わないんですけれど。この人数の調達にはどうしても「口実」が必要とされたはずだと思われるんです。いざというとき(それがどんなときかわかりませんが)に理由を挙げられるような何かがなくて、無作為に誰でも彼でもを引っぱってこれたわけがないと思うんですね。でたらめにせよ「口実」は必要だったと私が思うのは、希望的観測にすぎず、あとは、そのとき初年兵を指導する上官が誰であったかということだけが重要だったのかもしれません。

 とにかく、こういうことを強制的にやらされた初年兵が多くいたということです。こういうことをやらされて、その後復員し、平和な日本で見かけはふつうに暮らしてきたということです。誰かの父親になり、祖父になり、ということになったんです。

 話が一段落した時に、またもや車内販売の売り子がやってきたので、今度は私が缶ビールを買い、青木に渡した。
「ところで青木さんは、昭和五十七年に戦友会のメンバーとともに中国へ行き、往年の中支那の駐屯地や戦場を見てこられたようですが、いかがでしたか」
「うん、俺は昭和十九年六月の××作戦の時、××で九名もの部下を失ったんやが、三十八年ぶりにそこへ行った時は、泣けて泣けて仕方がなかったよ。線香をあげて合掌しながら、ああ、これで俺の戦後もやっと終ったと思うたもんや」
「私が初年兵の時にいた××の駐屯地へも行ったんですね」
「行かいでか。むろん行ってきたよ」
「で、あなたがた元日本兵の一行を見て、現地の中国人はどんな反応を示しましたか」
「バスを降りたわれわれのまわりに村の連中が、ようけ集まってきてね、大歓迎してくれたよ。もっとも子供が多かったが……」
「その中にむかし日本軍にひどい目にあわされた年寄なんかがまじっていて、日本鬼子(リーベンクイズ)! なんて恨みの言葉を投げつけたりするといったことはなかったですか」
「それはなかったな。われわれが中国におった時は、むこうの軍隊とは戦争をしたが、一般住民は大事にしていたからな」
「しかし、私が××の駐屯地にいた時、あんたの命令で、月に何度も三八式歩兵銃に実弾を込め、銃剣をつけて、中隊周辺の村落に乗り込み、寝込みを襲う傍若無人な家宅捜索をやらされたことを覚えていますよ」
「うん。あれは定期的に密偵やゲリラ探しをやってたわけや。そやけど今の中国人はもうそんな昔のこと、なんとも思っとらん。すっかり忘れとるみたいや」
「中国人はそんなに簡単に日本軍がやったことを忘れているでしょうか」
「もともと中国人という人種はなにかにつけて程度が低く、彼らはその日その日をなんとか過ごすための粗末な食いもんと衣服と家さえあれば満足している民族やからな。われわれ日本軍が中国にいた頃も、共産党が天下をとってる今でも、それだけはちっとも変わらんわけや」
「それは、ちょっと違うんはないかと思いますが……」
「いや、将校やったわしの言うことに間違いがない」
 列車が伊勢に着く頃には、私は青木から聞き出すべきことはほとんど聞き出してしまっていた。それにしても青木はなんでもペラペラとよくしゃべってくれたものだ。彼はもうなにをやべっても、今の生活にちっとも差支えがないと判断したからだろう。
 青木がたまさかに逢った私に、胸襟を開いてしゃべってくれたことは、なによりも有難く嬉しかった。しかし、この青木という人物が、戦後四十年という長い時間を生きてきながら、こと中国や中国人に対する考え方となると、戦前、戦中のそれといささかも変わっていないのをみて、私はあいた口がふさがらなかった。
 もちろん青木は、日中戦争を日本の中国に対する帝国主義的侵略によってひきおこされたなどとは夢にも考えていない。いまでも日中戦争大東亜共栄圏を打ちたてるための聖戦だったと信じているのだ。おのれが命令した捕虜虐殺事件にしても、ちっとも悪いことをしたとは考えていない。これまた戦争につきものの、やむを得ない処置だったと割り切っているのだ。
 彼は一流商社に定年まで勤めたということだが、そこでの仕事や研修などを通じて、おのれの旧態依然たる戦争観、中国観に修正を加えざるを得ないような場面にぶつかるといったことが、全然なかったのだろうか。不思議といえば不思議であった。
 しかし、元将校や兵士だった日本人の中には、青木のような男が圧倒的に多いのだ。特に戦友会に結集している連中は、ごく少数の例外を除いてほとんどが日中戦争侵略戦争だったとは考えてもいないのだ。しかも「反戦平和」や「日中友好」を唱える輩を白い目で眺めているのだ。
 そして今や経済大国となった日本では、こういう考え方をしていてもめったに非難されることはないし、むしろ「健全な思想の持主」として、社会や企業からも歓迎されることを従軍体験者たちは敏感に嗅ぎとっているのである。

(『初めて人を殺す』井上俊夫 岩波現代文庫