『初めて人を殺す』

(井上俊夫 岩波現代文庫

(一)

 この本のことは以前(二〇〇五年二月)に、私の勤める書店のホームページで紹介したことがあります。その文章で私は、一月十日に『神聖喜劇大西巨人)を読み終えたことを書いています。さらに、翌十一日に講談社文芸文庫の新刊『五里霧』(大西巨人)が出て、それを購入したこと、同時に『戦争における「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン 安原和見訳 ちくま学芸文庫)──これは現時点(二〇〇六年八月)でもまだ読んでいません──を購入したことを書いています。で、書かなかったことですが、この後、(この本の奥付によれば一月十八日)にこの『初めて人を殺す』が発売になったんですね。で、私は三日後の二十一日にはこれを読み終えているんです。
 それまでにも私は、先のホームページ上で、『聞き書き ある憲兵の記録』(朝日新聞山形支局 朝日文庫)や『戦争と罪責』(野田正彰 岩波書店)、あるいは『戦争はなぜ起こるか』(佐藤忠男 ポプラ社)、『ピエタ』(ジョージ・クライン 小野克彦訳 紀伊國屋書店)などを採りあげていました。それで、こちらのホームページでもそれらを必ず採りあげるつもりでいたんですが──たとえば『ピエタ』を私はこの六月に、おそらくひと月以上かけて再読(これは正確ないいかたではないんですが)しています──、いまこの『初めて人を殺す』を採りあげるというのは、べつにいまが八月だからとかそういうことではないです。八月だから戦争のことを考える(いうまでもないことですが、八月十五日が終戦の日だから)というわけじゃありません。
 しかし、ある映画を観たことが強い後押しになっているということをいっておきます。『蟻の兵隊』(池谷薫監督)です。これについては、ちょうど岩波ジュニア新書に『私は「蟻の兵隊」だった 中国に残された日本兵』(奥村和一・酒井誠 +池谷薫 岩波ジュニア新書)がこの六月に出ています。映画を観た翌々日に購入し、その翌日に読み終えました。

 私がいま思い浮かべているのは、次の三人の描く戦争体験です。『蟻の兵隊』(その映画と『私は「蟻の兵隊」だった 中国に残された日本兵』)の奥村和一、『神聖喜劇』(光文社文庫)の大西巨人、それから『北川はぼくに』(『ポロポロ』所収 河出文庫)などの田中小実昌。しかし、このことはまた後でしゃべりましょう。しゃべることはあまりにもたくさんあって、どうやっていいか困っているんですが、いまは『初めて人を殺す』を中心にしゃべります。

 映画『蟻の兵隊』とこの『初めて人を殺す』との共通点はいろいろありますが、特に大きいのは、初年兵を鍛えるという名目で中国人を刺殺させる訓練「刺突」のあったということなんですね。

 この『初めて人を殺す』巻末の「あとがきに代えて」に「本書に登場してくる部隊名や将兵その他の人々の大部分を仮名とした。その人たちのプライバシーを遺族のことをおもんぱかってのことである」と断わりのあることをいっておきます。
 それから、この井上俊夫というひとが非常によい文章の書き手であることもつけ加えましょう。このひとの文章は巧みです(これはもちろんよい意味でいっています)。どういえばいいか、つまり、ふつうなら本題をずばり切り出すだろうというところを、このひとはそうしません。彼の現在と、彼の過去(本題)とを必ず地続きのものにしてから語るんですね。読者にとって、彼の過去(本題)がただのお話にならないようにする・読者にとっても理解できるようにちゃんと道を整えるという術をわきまえているひとです。かといって、読者に迎合するというのでもありません。彼の語らなければならないことはきちんと語ります。彼が読者に伝えたいことは残らず語ります。誰にも譲れないことを語るんですが、それは必ず聞く耳を持っているひとには伝わることでしょう。
 というわけで、ここで私のすることは、そういう「聞く耳を持っているひと」をこの本に引き合わせるということだけです。

 この本には「あとがきに代えて」を含めて九つの文章が収められています。

 まず、《老兵「バリアフリー2004」へ行く》から。

 「やあ、あんた、長谷玉吉さんやおまへんか」
 「ええ、わたしは長谷でっけど、そういうあんさんは……?。おお、井上さん、井上俊夫さん!」
 「えらい所で会いましたなあ」
 「ほんまに、こんな所であんたに会うとはなあ」
 「伊勢での戦友会以来やなあ」
 「あれはたしか平成二年のことやから、もう十年以上にもなるやないか」
 「あれ以来、あんたとは年賀状のやりとりだけで、顔も見てなかったのやが、お互いえらい歳をとってしもたなあ」
 「とうとう八十の大台を越えてしもたんやさかいなあ」

『初めて人を殺す 老日本兵戦争論』(井上俊夫 岩波現代文庫


 というわけで、このバリアフリーの製品展示会に老人ふたりが鉢合わせします。長谷は妻の乗る車椅子を買い替えるためにこの展示会に来ていました。「私」(井上)も好奇心と自分の高齢ということへの思いとがあって来ていたんです。
 それで、ふたりは話し込むことになるんですが、「私」は平成二年(「もう十年以上にもなるやないか」)の「戦友会」でのことを思い出しています。そのとき四十七年ぶりに長谷に会い、

 「ところで、俺たちの小隊長だった青木少尉はどこにいるんや」
 と私が一番気になる人物の名前をあげると、長谷は、
 「青木さんならあそこにいるよ」
 と指さしてくれた。私はその方へそっと近付いて行った。


 「あなたは青木さんですね。ぼくは中支那江西省××に駐屯していた第×中隊で、小隊長だったあんたに初年兵教育を受けた昭和十七年兵の井上俊夫という者です」


 「そうか、君は俺が小隊長として教育した初年兵か。今日はほんまによう来てくれた。伊勢へ行く電車に乗ったら、俺の横にすわれ。そこでゆっくり話をしようや」


 青木は「あなたの颯爽とした将校ぶりは、われわれ初年兵の憧れの的でした」という私の言葉に随分と気をよくしたらしく、車内を廻ってきた若い女性の売り子から缶ビールを二本買うと、一本を私にあてがい、自分もその口を開けた。


 そうして、


 私は青木とひとしきり思い出話に花を咲かせたあと、わざとさりげないふりをして、私が最も知りたいと思っている話題の中へ彼を引き込んでいった。
 「ところで青木さん、私たち初年兵はあんたの命令で、中国兵の捕虜を楠の木に縛りつけて銃剣で突かされたことがありましたね」
 と、私にとって一番大事な質問をすると、とたんに青木のふやけた顔には、さっと警戒の色が浮かんだ。なんでお前はそんなヘンなことを聞くんやと、その顔は言いたげだ。私は、しまった! ここで青木に話をそらされたら、万事休すだと思った。
 「いやね、私には忘れられないショッキングな事件だったもんですから、ちょっとおたずねしただけですよ」
 私はわざと頭をかいてみせた。すると、青木はニヤリと笑って、急に私にすりよってきたかと思うと、私の肩に手をかけ、媚びるような口調で、
 「そうやがな。そうやがな。お前たちにやらせたあの五人の中国兵(ツンコピン)は、俺が連隊本部でもろてきたんや。お前ら、順番に銃剣で突いたのやったなあ」
 と言った。私が捕虜虐殺の話を持ちだしたとたん、なぜ青木が俄かにかくも卑屈でかくも馴れ馴れしい態度をとったのか、私には見当がつきかねたが、とにかくこれで彼は特別私を警戒しているわけではないことがわかった。


 このまま長い引用をつづけます。

 ところで、私をふくむ二十三名の初年兵が殺した中国兵捕虜は、青木の言うように五人ではなく、一名だった。では青木はなぜこんな間違ったことを言ったのか。要するに彼の記憶は曖昧なのだ。彼は何度も同じようなやり方で、何人もの中国兵捕虜を部下に殺させているので、どれがどれだかわからなくなっているのだ。
 「青木さん、私たちが殺した中国兵捕虜はあなたが連隊本部からもらってきていたということですが、捕虜はみんな本部に集められていたんですか」
 「うん、そうや。連隊本部では作戦の都度つかまえてきた捕虜や密偵を取り調べたり、収容したりするところがあったんや。そやけど、建物が狭もうて収容しきれんようになると、こいつらを各中隊に配給して処分させていたんや」
 「配給? 処分? つまり手分けをしては殺してしまうんですね」
 「まあ、そうや。しかし、ただ無闇に殺すんやなくて、将校になる一歩手前の見習士官には軍刀による斬首訓練を、兵士には銃剣による刺殺訓練を施すために、我が軍としては有効適切に殺していたわけや」
 「当時は国際的なとりきめで、捕虜をそういう形で殺してはいけないことになっていたのと違いますか」
 「そんなに言うたかて君、われわれ皇軍には、国際条約もへちまもあるかいな。捕虜や密偵を大事に扱こてたら、しまいでこっちがやられてしまうがな」
 と青木は言って、びっくりするような高笑いをしてみせた。
 「で、私たち初年兵に捕虜を銃剣で突き殺させた本当の目的は何だったんですか」
 「もちろん、君たちを一人前の兵隊にするためやないか。初年兵教育の総仕上げにこれをやって、それから作戦に連れ出すわけや。この特別訓練をやっとくと、兵隊に度胸がついて、敵と遭遇した時に落ちついた行動がとれるようになるんや。俺が教育した初年兵にはみんなこの訓練をほどこしたはずや」
 「では、青木さんご自身の初年兵の時は、どうやったんですか」
 「もちろん、俺かて初年兵の時、上官の命令で捕虜を銃剣で殺す訓練を受けてるがな」
 「うちの部隊だけでなしに、支那派遣軍のどの部隊でも、こうした訓練を兵隊にほどこしていたのでしょうか」
 「うん、どこでもやってた。われわれ将校の立場から言うと、第一、この訓練をやらんことには強い兵隊、安心して前線に連れていける兵隊ができへんもんな」


 いかがでしょうか?

 さて、いまあらためて引用しながら、私の気づいたことなんですが、私の祖父というのがその戦争中に中国で病死した将校だったんですね。彼もそういうことをしていただろうか、といま初めて考えました。で、その彼の祖父(ということは私のひいひいじいさん)というのが、こちらは十六歳かそこらで自分が斬首された人間なんですけれど(しかし、そんなに若くても、すでに子どもはつくっていたために、いまの私にまでつながっているというわけです)。

 ともあれ、この青木という元将校も、バリアフリーの展示会に妻の車椅子を捜しに来ていた長谷という老人も、この著者井上さんも、みな中国人捕虜を相手の「刺突」訓練を経験しているということです。