(二)「読書案内」をする

 数か月以内に立ち上げるつもりのホームページをいま制作中なんですが、その中心となるのが「読書案内」になります。つまり、私の紹介する作品を誰かに読んでもらうためのものです。
(そのホームページへの原稿をまずはこのブログに載せていくことにします。本拠地としてのホームページが立ち上がっても、そちらの更新と同時にここへも同じ文章を載せるというやりかたを考えています。)

 そこで、実際に個々の作品の「読書案内」をする前に、そのための指針をいくらか書いておこうと思います。

 新刊やベストセラーを中心に採りあげることはしません。新しかろうが古かろうが「よい作品」を採りあげます(作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない、というのが私の考えです)。
 多数のひとには知られていない・知られていても読まれてはいない、というもののうちに、しかし「よい」という作品はあります。これを採りあげます。
 また、多くの読書家にとってあまりにも基本的であるはずの作品、いまさら大真面目に紹介するのがためらわれるような作品をも、あくまで愚鈍に採りあげてみます。

 現在、ネット上で非常に多くの書評・感想の類が書かれているはずですが、しかし、私が検索してみると、私の考える「多数のひとには知られていない・知られていても読まれてはいない、というもののうちに(ある)、しかし「よい」という作品」も「多くの読書家にとってあまりにも基本的であるはずの作品」も意外にヒットしないんです。検索のしかたが下手なのかもしれませんが、私程度のやりかたで簡単に見つけられないのはやはり問題じゃないでしょうか?
 それらがかろうじて扱われていたとしても、教科書的な、なにかの引き写しのようなものでしかなかったり、書き手本人だけ・小さい仲間うちだけに通じるような書きかたでしかなかったり、あるいは、あまりにも読者としての自分を卑下しているせいなのか、頼りない・自信のない表現だけでしかなかったり、逆に書き手のあまりにも頭のよすぎるためか、単に自明の情報・知識のひとつとしてしか問題にしない ── 書き手の情報の処理のしかたが「うまく」て、彼の頭のよさをひけらかす結果にしかならない(これが非常に問題で、こういうタイプのひとは何も伝えないんです。敢えて愚鈍を選択しなくてはならない、愚鈍を恐れちゃいけないんですよ。それにもかかわらず、その頭のよさそうなものいいに感心してわかったつもりになる読み手もかなりの数になるでしょう。) ── 書きかたであったりするために、まともにこれからその作品に触れようとするひとには非常に不親切な記述ばかりだと感じるんですね。

 おそらくネット上の書き手の誰にも、作品を読んで考えたことはあるけれども、それを他人にもあるレヴェル以上に伝えるほどの文章として書いていくことが少ない(あるレヴェル以上に伝えようとすると、ある型にはまり込んでしまう)のではないかと思うんです。そうして、その他のたいていの記述はどうしても一種のメモのようなものになりがちです。そういう記述を読んでなにごとかを汲みとる(「ははあ、なるほど」ぐらいには)ことのできるひとは、たぶんある程度の読書経験を積んでいるんですね。つまり、そのひとは読みながら自分の読書経験に照らして、その記述を補ってやることができているわけです。

 しかし、私が作品を紹介しようとして想定するひとたちは、いまだその経験を積みきれていない・いまこれからまさに積みあげようとしているひとたちです。そういうひとたちにわかるように書きたい。しかし、手取り足取りというふうにはやらない。誰にも彼にもそこらじゅうのひとみんなに案内をしたいのじゃありません。
 私が読書案内をしたいのは、いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたちです。いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち。いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたちです。この「背伸びをする」ということを私は大事だと考えていて、「背伸び」なしに読める本を一年に三百六十五冊読んだって、まったく無駄なんです。

 私が考えているのは、こうです。作品は読者に合わせてつくられているわけではない読者こそ作品に合わせなければならない。だから、個々の作品を読んでいくためには、読者がそのつど(保坂和志さんのことばを借りると)「チューニング」をしていかなくちゃならない。この「チューニング」を私はラジオのそれ ── いまどきそんなラジオも一般的でないのかもしれません ── でたとえますが、その作品の声がいちばんはっきり聞こえるところまで、ダイヤルを動かして、微調整までしていく。いつも自分が聞いている局の周波数を変更して、その作品の局まで目盛りを動かしていかなくちゃならないんです。楽じゃありませんよ。そうやって、いろんな「チューニング」を経験としてたくさん蓄積していけばいくほど、読者は腕を上げていくことになります(読書というのは「腕を上げる」ものです。── といって、それが読書の目的なのではない、というのももちろんです)。そのうちに、次第に読書の質が変化していくことになるはずです。そうなるまでに、たしかに量は必要になるでしょうが、いったんこの質の変化が起こりはじめたなら、そのあとは量なんか大した意味をもたなくなるんですね。で、それまでの量も、だから必ず「チューニング」に苦しまなくてはならないような作品での量だけが問題になるでしょう。これは、しゃかりきになって読書しろ、というのでは全然ないんです。しゃかりきになったって駄目です。それどころか、しゃかりきになっちゃいけません。
 たぶん、こういうことなんです。だらだらと読みつづけていくことが大事なんです。ただ「背伸び」だけは忘れずにいながら、個々の読書には楽なものを拒むということだけをして、大いにのんびりと、休み休み、だらけながらでも、これをつづけられたひとにだけ、いつのまにか読書の質の変化が起こっているんです。また、同じ作品を繰り返し読むことも大事です。ということは、繰り返し読むことに耐えうる ── 十年後に読んでも「よい」と思うことのできる ── 作品を読むということでもありますね。年齢の重なっていくことも大いに関係するでしょう。ある年齢にならないと読み取りのできない作品というのがあるでしょうし、年齢を重ねることでその深みのわかってくる作品というのがあるでしょう。これについていうと、のんびり読んでいけば、そのまま歳もとっていくでしょうから、心配には及びません。無責任に聞こえるかもしれませんが、そうなんです。そうして「背伸び」には、「〈みんなが読んでいる本〉ではない本」を読むという姿勢も含まれるでしょう。「背伸び」をするひとを私は子ども扱いしません。

 そうして、「読書案内」の方法として、たとえば、まずあらすじを紹介して、それから作者の経歴をあれこれ述べたてたうえで、「この作品からの教訓は」などというふうな形にするつもりはありません。そんなことなら、誰か他のひとがやってくれるでしょう。私は、ふだんの生活のなかでその作品を思い出すのはどんなときか、とか、思い出すときにまず浮かんでくる作中のことばとか場面がなにか、とか、そういうことを書くつもりなんです。できるだけ自分の読書体験に即して書くということにします。なぜその作品を読んだか、なぜ読みつづけられたか、読みながら思い出した・連想のはたらいた作品は何だったか、読み終えて次になにを読もうと思ったか、などを書きます。書いていくうちに、ある記述が以前の記述を踏まえてのものになるということはあるでしょうが、できるだけいつも、初めて私の文章を読むというひとにもわかるように書きましょう。ということは、逆に、もしこれを読みつづける方がおられるとすれば、しばしばふりだしに戻る・先へ進まないという印象を持たれることになってしまうかもしれませんけれど、しかたがありません。どこにも同じ足場・とっかかりを用意したいと考えています。それでも、その作品をすでに読んだことがあるというひとにもおもしろがってもらえるような文章にしたくもあるんです。というか、そうでなければ未読のひとの信頼も得ることができないはずだとも思っています。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)