(三)短く簡潔な文章・「速読」・「多読」のばからし

 それで、この「読書案内」の文章は、こういう内容の一般的なものに較べるとかなりの長文になることもいっておきます。しばしば私の文章は長すぎる(ついでにいえば「説教くさい」)と批判を浴びるんですが、「短く簡潔に」ということで書いた文章こそがよい、などということを私は信じません。それは、文章を読んだり書いたりするのが不得手のひとたちを対象に掲げられた標語にすぎないと思いますから。しかし、文章の読み書きが不得手でないひとにとっては、「短く簡潔に」では損なわれるものがあって、実はそれこそが大事である場合が多いのじゃないでしょうか?
「短く簡潔に」という考えかたは、つまり、自分の書きたいことよりも読み手の読みたい・読めることを書け、すでに読み手の持っている観念や語彙で語れ、即座に伝えろ、といっているんです。べつのいいかたをすれば、これはある意味、貧弱な読み手に合わせて書け、ということです。それがいちばんうまい情報の伝えかただということです。「文章を読んだり書いたりするのが不得手の」書き手や読み手に対してのアドヴァイスとしてはもちろんそういうしかない、という事情は理解できますけれどね。しかし、そのやりかたは、「文章を読んだり書いたりするのが不得手」でない書き手や読み手の考えていること・考えつづけるというその姿勢・いままで誰も考えたことのないことを考えるということを否定します。もしこの書き手あるいは読み手が、ありがちな型にはまらない考えかた、── もっと仰々しくいえば ── いまだに誰も知らない思考法とか観念を持っていたら、どうなんでしょう? 彼が、たいていの読み手や書き手の無自覚に当然のように持っている観念や語彙を否定することなしに入っていけないほどのなにかを伝えよう・受け入れようとしていたら、どうなんでしょう? 彼が、たいていの書き手や読み手の当然与える・与えられるとばかり思っている、いわゆる「結論」というものを否定してかかっていたら、どうなんでしょう?
 それとともに、「短く簡潔に」という考えかたは、ことばを疑う・ことばの限界を知るということがなくて、つまりは、ことばによってなんでも伝えられる(ことばにできないものは存在しえない)という無邪気な信仰に支えられているものだということも指摘しておきましょう。
 文章を書くひとは、ことばの限界を知っておかなくてはならない、ことばの非力を意識しておかなくちゃならない、と私は考えています。そもそもそういう障害を抱えたものとしてのことばによって表現を試みる、障害に抗って書くという書き手を私は信用します。

誰でも、何でもいうことができる。だから、
何をいいうるか、ではない。
何をいいえないか、だ。

長田弘「魂は」 みすず書房『一日の終わりの詩集』所収)


 重ねていえば、「だから・要するに・結局、なんなんだ?」という問いを発する考えかたよりも、堂々巡り・保留に次ぐ保留・優柔不断・遅延のまた遅延・のんびり・じっくり・だらだらに私は味方するんです。

 ついでにいいますが、「文章を読んだり書いたりするのが不得手の」ひとたちは、自分より力のある書き手によってなされる、いわゆる文章添削ということの効果を信じてありがたがっているだろうと思うんですが、これもおかしいんですよ。文章添削の効果を信じているひとたちは、「なにを描くか」と「どのように描くか」を別々に考えているんです。これが切り離せないものだということがわからない。もし、あなたの文章を誰かに徹底的に添削してもらったとしますね。そうすると、あなたが描こうとした「なにを」までもが徹底的に変更を加えられることになるんですよ。しかし、添削された自分の文章を読んで、感心なんかしているあなたは、そのことに気づかないかもしれないんです。そういうことがあります。そういうひとたちがたくさんいるので、「文章の書きかた」についての本が後を絶たなくて、しかも売れているわけです。
 私はかつて仕事で、ある翻訳作品の文章をまるまる一冊添削したことがあるんですが、途方に暮れました。駄目な作品はいくら表面上の添削をしたところで駄目なんですよ。添削者が表面のある部分ををいじるということは、書き手の内側(彼がなにを・どのように描きたいのか)の変更を要請する ── そうなると、表面のべつの多くの部分、さらに全体を変えなくてはならない ── のに、書き手の内側がだらしのないものはどうしようもないんです。もうこれは、最初から全部書きなおしてもらわないとなりません。添削者にはどうしようもない。つまり、添削を受けて、よくなる文章というのは、書き手の内側が堅固なものである場合 ── 添削者がその文章の書き手に、あれこれ問い質して、明確な回答の返ってくる場合、つまり、文章の書き手に確固とした核・芯のある場合 ── に限るということです。その場合にのみ、添削者による、ある程度の添削が有効になります。書き手がいいかげんで、核・芯がぶれていたり、あやふやであったりすれば、もう無理なんです。これを、文章を書くことを生業にしているひとたちでさえ、わかっていないのじゃないかと私は疑うことがあります。覚えておいてほしいのは、文章において「なにを描くか」と「どのように描くか」とは切り離すことができないんです。これを理解できないひとは、まだまだ読む力が足りていないと思ってください。しかし、楽観的に、あまりに楽観的にいえば、いまは足りてないにしても、いずれ足りるようになるでしょう。「背伸び」して、のんびり、だらだらと読書を重ねていけば……。そこにしか希望がありません。

 ともあれ、私の考えているのは、できるだけ手がかりを大量に残したい、ということなんです。そのために、紹介する作品の本文からの引用をできるだけ多くするつもりでもいます。新聞や雑誌の書評欄の貧しさのあらわれは「短く簡潔に」と結んで、本文引用の乏しさにあるでしょう(それだけが解消されればいいというのでもないんですが)。

 さらに、ここにまとめた諸論説を芸術家の作品たらしめているのは、それらが他に依存するところ多く、援助や典拠を必要とし、強力な宣誓補助者や「権威」を蜿蜒と引用し、引合いに出している点にある ── これは、受けた恩恵に対する深い感謝の表現であり、自分が読んで慰められたものをすべて読者に言葉どおり押しつけようという子供っぽい衝動の表現であって、自分が読みとったものを、自説のための物言わぬ背景に仕上げるような真似はできないのである。ついでに言えば、こうした欲求はとめどもないものでありながら、それを充足させるにあたっては一種の芸術的な節度と趣味が働いていた、と思われる。つまり引用は、物語のなかに会話を折りこむ技術にも似た技術と感じられ、同じようにリズミカルな効果をあげる狙いがあったのだ……

トーマス・マン『非政治的人間の考察』 森川俊夫訳 新潮社)


 いかがでしょう?

 これは、受けた恩恵に対する深い感謝の表現であり、自分が読んで慰められたものをすべて読者に言葉どおり押しつけようという子供っぽい衝動の表現であって……


 そのまま私の考えていることです。おそらく本の紹介というのはこうでなくてはならないのではないでしょうか?

 これに絡めての余談ですが、私はしばらく前(二〇〇五年)、あるサイトから毎月読書案内を書くことを依頼されて、はじめは引き受けていたものを直前になって断わりました。その理由が制限文字数の大幅な縮小で、八〇〇字から最大八五〇字といわれていたものが、最後になっていきなり四〇〇字以内にされてしまったんですね。なぜそれほどに分量が縮小されたのかといえば、その文章をパソコンだけでなく「ケータイ」でも閲覧できるようにしたいからということで、私はうんざりしてしまいました。「結局そっちへ走るわけか」と思い、「だから駄目なんだ」と思いました(「ケータイ」でも読めるようにするということは、単に文字数の問題だけでなくて、書きかたにも ── そうであれば内容にも ── 大きい制限が設けられたということです。その書きかたをも私は拒んだということになります)。
 それにしても、そのサイト運営者とのそれまでのやりとりのなかで、私が文字数はできるだけ多い方がいいといったのは珍しがられて、私と同じようにその仕事を依頼されているひとたち(これは、ひとりが月にひとつの原稿を書くんですが、そういう数名の書き手を起用して、実際のサイトでは週ごとの更新が行なわれます)のなかには「文字数はできるだけ少なくしてほしい、八〇〇字も書くとなると、ちゃんとその本を読み込んでいなくてはならないから」などと口にしたひともいたと聞きました。ちゃんと読み込みもしない本をどうして紹介できるのか、私には到底理解できません。ある作品について、後で自分の読み込みがあまかったと考え直すことがあるとしても、紹介するときには、私はその時点での自分の読みを信じています。そうでなくてはならないでしょう。
 しかし、仮に八五〇字でも私は引き受けなくてよかったのかもしれません。八五〇字でどうやって『魔の山』(トーマス・マン)を紹介すればいいのかわかりませんから。

 以前であれば、機会さえあるのなら、それがどういう主旨のものであれ、とにかく作品を紹介する ── その書名を出すだけのことにせよ ── ということに意味がある、というふうに私も考えていました。しかし、それでは結局ちゃんとしたことは全然伝わらない、手軽な情報を得たがっているだけのひとたちを対象にすることによって、肝心なことを全然いえなくなる、といまは考えています。

 私がここでやろうとしていることはきっと「短く簡潔に」とのたたかいでもあるだろうと思います。私自身の文章の形がまず「短く簡潔に」に反しているでしょうし、その内容も同じく「短く簡潔に」では損なわれてしまうものの擁護であるはずです。ということは、私は「短く簡潔に」が世のなかの現在の主流だと認識しているということでもあります。それはまた、世のなかの読書の主流がどんなレヴェルのものであるかについての私の判断を示しもします。

 もうひとつここでいっておきますが、いわゆる「速読」・「多読」ということを私はとてもばからしいと思っています。
「速読」ですが、大勢のひとがなぜ「速読」をしたがっているのか私には理解できません。それは、作品を読み解く力のない・浅いひとたちに、単純にその劣等感を埋め合わせるための、なにか憧れのようなもの(単なる幻想・錯覚ですが)として広く受けとめられているのかもしれません。さっきもいいましたが、そういう幻想・錯覚につけこむようにして書かれたたくさんの本があるだろうと思います。
 それと結んでの「多読」を、また私はあきれたことのように思っています。特に、出る新刊出る新刊を始終追いかけているひとたち、「ヨーイ、ドン」で「新刊チェックを入れている」ひとたちの努力をはっきり無駄だと思っています。自分の読む本の選択を「新しさ」に拠っては駄目です。これは読む作品を自力で選び取ったことには全然ならないでしょう。量に関していえば、どこかで、「月に数十冊も読んでいるひともたくさんいるのに、私なんかまだまだだなあと思います」というような若いひとの発言を読んだことがありますが、そのひとはまったく間違っていますね。そんなペースで読みつづけられるような作品 ── おそらく「チューニング」のいらない作品 ── を読むことに、いったいなんの意味があるんでしょうか? そんなペースではとてもじゃないが読みこなすことができないような作品 ── まずは「チューニング」にも、さらには、読み終えるまでにも相当に時間がかかるし、ようやくのことで読み終えてみると、もうしばらくは他の本に手を伸ばす気にはなれないほどの作品をこそ読むべきなのじゃないでしょうか? 私は「多読」・「速読」を信条としているひとたちに訊いてみたいんですが、いったいいつあなたは『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)や『戦争と平和』(トルストイ)を読むことになるんでしょう? あるいは、『神聖喜劇』を? もしもこれらの作品を読んだなら、もはやまったく読むに耐えなくなるはずの本があなたのこれまで実に多読していたものではないのか、と私は疑います。この点に関しては、いろいろなメディアが商売に「読書推進」という名目を絡ませて新刊を紹介するやりかた ── 特に優れたものがなくても時評として無理やりそのときどきの新刊を採りあげる ── まずコーナーありきという形 ── も大いに問題があるでしょう。

 いまの世のなかの読書というのは、「新刊」と「速読」と「多読」、これらがひとつになっているといっていいくらいの事態になっているでしょう。それに連動しての「短く簡潔に」。そうして、いま私の頭に次々に浮かんでくることばには、「情報」とか「娯楽」とか「消費」、あるいは、「涙」とか「感動」とか「お手軽」とか「暇つぶし」とか「その場だけ」などなどですね。

 もう二十年ほども前になるんですが、私は毎週「ビルボード」や「キャッシュボックス」なんかのチャートを追いかけていましたっけ。アメリカのロックのチャートですね。あのころは「第二次ブリティッシュ・インヴェージョン」などという現象もあって、MTVなどが盛んでした。私はできる限りそういうものをチェックしておこうとしていました。それで、どうなったか? 私はくたびれてしまいました。次から次へと新しいものを押さえておこうとするなんてばかげていることを痛感しました。そんなことより、自分が特に関心をもったミュージシャンたちの過去の作品をさかのぼってじっくり聴き込んだ方がいい。いま私の気に入った作品がどういう流れでできあがったものであるのか、それに影響を与えた作品なりバンドなりがどれであるのか、などなどを追っていった方がいい ── そう思いましたっけ。どのバンドのものは聴く必要がなく、そんな暇があるなら、このバンドの旧作を聴いた方がいいとか、そういうことです。あるいは、あるバンドの、大ヒットしたアルバムよりも、実は直前の、商業的には成功していないにもかかわらず、それがあったからこそ次回作のブレイクにつながった、試行錯誤のよく聴きとれるアルバムを評価することなどを、そんな経験から学びましたっけ。また、愚鈍に、いつまでも同じ単純なスタンスを崩さないでやりつづけているバンドへの評価とか。……

 私は単純なことをいっているにすぎません。世のなかでもてはやされているもの・新しいものを読むのでなく(それはまったくの無駄だから)、自分が ── それが自分だけかもしれなくても ── 必要としている作品を読むべきなんです。あるいは、自分を必要としている作品を。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)