卑怯者=野崎歓の醜悪(1)



 先の松岡正剛が「馬鹿」であるなら、こちらの野崎歓は「卑怯者」で、その文章は醜悪の極みです。信じられないくらいです。もちろん、この野崎歓はあの野崎歓 ── 例の『赤と黒』の翻訳者です。

 光文社古典新訳文庫から野崎歓訳で『赤と黒』の新訳が出た(上巻二〇〇七年九月、下巻同年十二月刊)。結論を先に述べると、前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本である。仏文学関係の出版物でこれほど誤訳の多い翻訳を見たことがない。訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純ミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり、まるで誤訳博覧会である。それだけではない。訳文の日本語も、漢字の間違い、成句的表現の誤り、慣用から外れた不自然な語法等様々な誤りが無数にある。フランス語学習者には仏文和訳の、日本語学習者には日本語作文の間違い集として使えよう。しかし、不思議なことに野崎訳を批判する声がどこからも聞こえてこない。駄本の批判もスタンダール研究者の責務の一つと考えここで俎上に載せる次第である。

(下川茂「『赤と黒』新訳について」 「会報」第十八号
http://www.geocities.jp/info_sjes/newpage3.html


 この野崎歓が最先端=亀山郁夫の『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』(新潮文庫 二〇一三年五月刊)の「解説」を書いたんですね。素晴らしい人選です。野崎歓、まさにうってつけです。
 で、この『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』というのは、『ドストエフスキーとの59の旅』(日本経済新聞出版社 二〇一〇年)の文庫化なんですね。これを思い出します。中村文則と最先端=亀山郁夫との対談です。

中村 亀山さんの新訳は読みやすい翻訳といわれているけれども、当然ながら読みやすさだけでなくリズムがあって、リズムから熱が生まれてくる印象がありました。僕はロシア語が全然わからないですが、この熱は恐らくドストエフスキーそのものの熱なのではないかと感じました。本当にすばらしいお仕事です。相当な労力ですよね。そのことが最新刊『ドストエフスキーとの59の旅』にもたくさん書いてありました。すごく興味深かったです。亀山さんのこれまでのドストエフスキー研究の成果も書かれていますし、人生の洞察や知への思いとか、様々に深くて人と文学のかかわりにしみじみ感じ入りました。
亀山 どうしよう。今日は僕のほうが聞きたいことが山ほどあるのに(笑)。

(「「悪」とドストエフスキー」 「群像」二〇一〇年十月号)


 中村文則、このひとは全然駄目です。こういうドストエフスキー好きは相当数います。私には、ドストエフスキー好きを名乗るひとがなぜ最先端=亀山郁夫のでたらめにすぐ反応できないのかが不思議でしようがありません。「馬鹿」なのか、「卑怯者」なのか? ともあれ、「勇気や信念」が決定的に欠けていることは確かで、マス・メディアに顔を出す人間がこんな体たらくではいけません。あ、いい忘れていましたが、私はこの『偏愛記 ドストエフスキーをめぐる旅』=『ドストエフスキーとの59の旅』の最先端=亀山郁夫の文章なんか読んでいません。私はただ野崎歓の文章を批判するためだけにこの文庫を購入したんです。

 さて、では野崎歓の文章です(もういいかげんうんざりしてきたので、全文の引用はしません)。

 文学の翻訳とは、外国語で書かれた作品を自国語で読めるようにするというだけの作業ではない。ときにそれは時空の隔たりを超えて、原著にみずみずしい生命を吹き込み、若さを取り戻させる手段ともなる。亀山さんが『カラマーゾフの兄弟』を皮切りに推し進めているドストエフスキー新訳の仕事は、まさしくそうした、蘇りの術の実践そのものである。

野崎歓「解説」 亀山郁夫『偏愛記』新潮文庫


 野崎歓は「文学の翻訳とは、外国語で書かれた作品を自国語で読めるようにするというだけの作業ではない。ときにそれは時空の隔たりを超えて、原著にみずみずしい生命を吹き込み、若さを取り戻させる手段ともなる」を自分自身の翻訳についても語っているんでしょうか? 当然そうですよね。でも、「ときにそれは原著にみずみずしい生命を吹き込み、若さを取り戻させる手段ともなる」だから、そういう類の翻訳もあって、自分のはそうではないのかな? 私が思うのは、こういうことを書くのなら、自分の翻訳がそうであるのかないのか、自分の翻訳にもそういうことがままある、あるいは、そういう翻訳が自分にもできたらいいな、などを書くか、あるいは、読み手にそれらの問いをまったく起こさせないだけの書きかたをするか、でなくてはならないのじゃないかということです。かりにここで、自分の翻訳も「原著にみずみずしい生命を吹き込み、若さを取り戻させる手段」である(なにせ「古典新訳文庫」の翻訳者だから)ということにすると、面白いのは、「亀山さんが『カラマーゾフの兄弟』を皮切りに推し進めているドストエフスキー新訳の仕事は、まさしくそうした、蘇りの術の実践そのものである」というのが、いかにいいかげんのでたらめだらけであるかの証言ともなるわけです。つまり、俺たち、いいかげんのでたらめだらけの翻訳をしてるけど、これって「時空の隔たりを超えて、原著にみずみずしい生命を吹き込み、若さを取り戻させる手段」だよね? ってことです。
 まあ、そんなことはどうでもいいです。

 次。

 古典としてあがめられながら遠ざけられがちだった作品が、亀山さんの日本語によって新たな表情を帯び、そのいきいきした魅力が百万人を超える読者たちを引きつけた。十九世紀ロシアの小説が、二十一世紀日本の現在を生きるわれわれにとってアクチュアルな意義をもつことが俄然、明確になったのだ。高野史緒の『カラマーゾフの妹』や、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国』といった話題作が登場し、さらには『カラマーゾフの兄弟』がテレビドラマ化されるなど、亀山訳からの刺激をきっかけとして新たな創作が続々と企てられている。一個人の訳業がこれほどめざましい反響を引き起こした例は、近年ほかにないだろう。

(同)


 野崎歓、いいましたよ、「古典としてあがめられながら遠ざけられがちだった作品が、亀山さんの日本語によって新たな表情を帯び、そのいきいきした魅力が」って。「亀山さんの日本語」っていうのがどういうものか、ちゃんと理解しているのか? もうこれだけで野崎歓の日本語のセンスがいかにひどいものかがわかります。というより、野崎歓にはここで自分が口にしている日本語表現のことなんか、全然興味がないんでしょう。野崎歓にとってそんなことより重要なのは理由より結果です。理由は結果からの後付けです。つまり「百万人を超える読者たちを引きつけた」ということが最も重要で、「百万人を超える読者たちを引きつけた」からには「亀山さんの日本語」に「魅力」があったからに違いないというわけです。こうやって、「売れた」ことを逆手にとって、どんなでたらめも正当化できるという論法を野崎歓は用いているんです。いいですか、「売れた」からといって、その作品が「よい」ということにはなりません。むしろふつうは「悪い」ものこそが「売れ」るんです。ということは、世のなかの本の購買者たちの大部分の読書が「悪い」ということを私はいっています。こういうことをいうと、すぐに怒るひとたちがいるのは承知していますが、事実だからしかたがないです(私は書店員ですが、それが事実であることを知っていて、なおかつ、それを口にします)。それよりも、野崎歓のこのレトリックが嘘の上に成り立っていることに触れておきましょう。野崎歓、「百万人を超える読者たちを引きつけた」って、でたらめを書いちゃいけません。あのね、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を仰々しく飾る「百万」っていう宣伝フレーズは、全五巻の総刷り部数が「百万」を超えたということなんですよ。もし野崎歓のいう通り「百万人を超える読者たちを引きつけた」なら、この本の総刷り部数は五百万部を超えていなくてはなりません。それくらい確認してからこの文章を書いたらよかったんじゃないですか?
「十九世紀ロシアの小説が、二十一世紀日本の現在を生きるわれわれにとってアクチュアルな意義をもつことが俄然、明確になったのだ」って、最先端=亀山郁夫のいいかげんのでたらめだらけの翻訳を待つまでもなく、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)は十分に売れていましたよ。最先端=亀山郁夫訳はちょうどその流れにうまく乗っかっただけのことです。でも、野崎歓には最先端=亀山郁夫訳が突然奇跡を起こしたというストーリーを事実だというふうにすればするほど好都合なんですよ。「高野史緒の『カラマーゾフの妹』や、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国』といった話題作が登場し、さらには『カラマーゾフの兄弟』がテレビドラマ化されるなど、亀山訳からの刺激をきっかけとして新たな創作が続々と企てられている」という事実を並べ、自分自身のそれらへの評価を口にせず、「一個人の訳業がこれほどめざましい反響を引き起こした例は、近年ほかにないだろう」というんです。「一個人の訳業がこれほどめざましい反響を引き起こした例は、近年ほかにないだろう」と読者に思ってもらえばいいわけです。野崎歓は、一見事実だと思えてしまうことだけを口にしているわけです。その内実に触れる気はさらさらありません。
 あのね、いっておきますよ。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はいいかげんのでたらめだらけの訳で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とは似て非なるもの、はっきりいえば偽物なんです。ところが、卑怯者=沼野充義を(おそらく)頂点に、これが「本物」として喧伝されてしまったんです。それゆえ、「一個人の訳業がこれほどめざましい反響を引き起こした例は、近年ほかにないだろう」なんてことは、とんでもない罪悪なんですよ。いまだに、「批判はあるけれど、亀山訳とか亀山解説は素晴らしい」なんてことをいう呆れたひとが後を絶ちません。惨憺たる有様です。

(つづく)