最先端=亀山郁夫の『これからどうする』(4)

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)


 しかし、驚くのはまだ早いです。最先端=亀山郁夫がこの後どうつづけてこの文章全体を結んでいるか?

 問題は、私たち文学者が、いま欧米中心型の教養知の再生のために何ができるか、ということである。再生のための努力を怠れば、私たち団塊の世代とともに、古典同様、教養知そのものもいずれ滅びゆく運命にある。教養は、とりもなおさず世代間戦争であり、おのれの陣地を守るには、それなりの手立てが不可欠である。『カラ兄』は、幸い、マスメディアの圧倒的な力でつかのまの蘇りを遂げたが、かといって、今後、ドストエフスキーの小説が永続的に読まれる保証はどこにもない。欧米中心型などという形容詞は取り去り、教養知そのもののサバイバルのために、それを担う私たちの闘争心が試されている。若い世代には、若い世代なりのソフィスティケートされた知的戦略があり、彼らが『カラ兄』に挑戦するのは、まさに戦略の一環である。そんなしたたかな相手との闘いで、少なくとも、『カラ兄』を、「未来永劫、金輪際手にとろうとしない」世代に勝ち目はなく、教養の再生を語る資格もないということだけは肝に銘じておきたい。

亀山郁夫「教養知の再生のために」 『これからどうする』岩波書店 所収)


 さて、

 問題は、私たち文学者が、いま欧米中心型の教養知の再生のために何ができるか、ということである。再生のための努力を怠れば、私たち団塊の世代とともに、古典同様、教養知そのものもいずれ滅びゆく運命にある。

(同)


 何ですか、こりゃ? 何でいきなりこんな話になるの? 意味がわかりませんが、解読してみましょう。「私たち文学者」というのはどうやら「文学者」全体ではなくて「団塊の世代」の「文学者」に限られているんですね。それで、「欧米中心型」(さっきまでは「西欧」といっていたじゃないですか?)の「教養知」がいま「再生」を必要としているらしいんですが、ということは、いま「欧米中心型」の「教養知」は死んでいるんですか? でも、どうやら「私たち団塊の世代」にはまだ生きていて、この世代が死ねば、「欧米中心型」の「教養知」も死ぬんですね。いやいや、生きているのか、死んでいるのか、はっきりしなさいよ。まあ、おそらく「欧米中心型」の「教養知」は、「私たち団塊の世代」には生きているけれど、それより下の世代では死んでいるってことなんでしょう。それにしても、「古典同様、教養知そのものも」というからには、「古典」と「教養知」とはべつのものなんですね。ドストエフスキーシェークスピアは「古典」じゃないらしい。

 教養は、とりもなおさず世代間戦争であり、おのれの陣地を守るには、それなりの手立てが不可欠である。『カラ兄』は、幸い、マスメディアの圧倒的な力でつかのまの蘇りを遂げたが、かといって、今後、ドストエフスキーの小説が永続的に読まれる保証はどこにもない。

(同)


 何をいっているか、さっぱりわからないです。「教養は、とりもなおさず世代間戦争であり、おのれの陣地を守るには、それなりの手立てが不可欠」っていいますが、もし「私たち団塊の世代」に『カラマーゾフの兄弟』が「教養知」として生きているとしてですよ、それを自分たちより下の世代に「再生」させようとすることをかりに「世代間戦争」と無理やり呼ぶとして、どうして「おのれの陣地を守る」って表現になるんですか? もし『カラマーゾフの兄弟』を「教養知」として下の世代に「再生」させることを願うなら、それだけを願えばいいんです。「おのれの陣地」なんかどうだっていい。ここでは「相手の陣地」のために献身すべきでしょう。なぜなら『カラマーゾフの兄弟』は必ず「相手の陣地」にも大きい恵みをもたらす作品だからです。これではまるで『カラマーゾフの兄弟』が「私たち団塊の世代」の占有物ででもあるかのようじゃないですか。そんなことではなく、誰もが『カラマーゾフの兄弟』という作品に奉仕しなくてはならないのじゃないですか? なのに、最先端=亀山郁夫にかかると、そんな視点はまったくどこにもありません。いったい、『カラマーゾフの兄弟』という作品のために働くときに、なぜ最先端=亀山郁夫の「おのれ」なんかがべったり貼りついてなくちゃならないんですか? 私はいいますが、最先端=亀山郁夫はそのように、必ず自分が貼りつかないと我慢ができないんです。自分、自分、自分、です。このひとには下の世代の「教養知」なんかどうだっていいんです。ただ、もし下の世代が『カラマーゾフの兄弟』を読むのなら、そこに「最先端=亀山郁夫」という印がべったりついていないと気がすまないんです。だから、それが「おのれの陣地を守る」という表現になってしまっているんでしょう。そうして、「私たち(団塊の世代の)文学者」というのは、だから、最先端=亀山郁夫自身(とその周辺一部)のみを意味してもいるでしょう。

 で、「『カラ兄』は、幸い、マスメディアの圧倒的な力でつかのまの蘇りを遂げた」というんですが、最先端=亀山郁夫訳での『カラマーゾフの兄弟』が大きい話題になって売れたことが「つかのまの蘇り」なんですよね。つまり、最先端=亀山郁夫の新訳が出るまで『カラマーゾフの兄弟』は死んでいたわけですよね。でたらめです。書店員の私がいうのだから、間違いないですが、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』の読者は常にいたし、現に増えつつもあります。おまけに最先端=亀山郁夫の翻訳はいいかげんのでたらめだらけで、とても『カラマーゾフの兄弟』と呼べないほどの代物です。それで、何ですか?「かといって、今後、ドストエフスキーの小説が永続的に読まれる保証はどこにもない」ですって? 実際は、最先端=亀山郁夫こそ、いいかげんのでたらめだらけの翻訳および解説なんかを出すから、ドストエフスキーの評判が損なわれているんじゃないですか?

 欧米中心型などという形容詞は取り去り、教養知そのもののサバイバルのために、それを担う私たちの闘争心が試されている。若い世代には、若い世代なりのソフィスティケートされた知的戦略があり、彼らが『カラ兄』に挑戦するのは、まさに戦略の一環である。そんなしたたかな相手との闘いで、少なくとも、『カラ兄』を、「未来永劫、金輪際手にとろうとしない」世代に勝ち目はなく、教養の再生を語る資格もないということだけは肝に銘じておきたい。

(同)


 もう読んでいて頭がおかしくなりそうです。「欧米中心型などという形容詞は取り去り」って、じゃあ、最初っからそうすべき問題を扱っている文章じゃないの? 馬鹿なの? 馬鹿ですが。「教養知そのもののサバイバルのために、それを担う私たちの闘争心が試されている」って、最先端=亀山郁夫には「教養知そのもの」が大事なのか、それとも「私たち」が大事なのか? そりゃ、「私たち」でしょうねえ! 最先端=亀山郁夫は最初っから「教養知」が大事なんて露ほども思っていなかったでしょうに!
 何なんですか、「若い世代なりのソフィスティケートされた知的戦略」って? 意味がわかりません。ここでふつうの読者なら意味がわからないはずだということをわからずにいられる神経がわかりません。何が「そんなしたたかな相手」なんでしょう? どう「したたか」なんですか? まったく意味不明です。

 少なくとも、『カラ兄』を、「未来永劫、金輪際手にとろうとしない」世代に勝ち目はなく、教養の再生を語る資格もないということだけは肝に銘じておきたい。

(同)


 さっぱりわかりません。「『カラ兄』を、「未来永劫、金輪際手にとろうとしない」「世代」など現在のところ存在しません。それに、「勝ち目」って何ですか? 何の「勝ち目」ですか? それに、「教養の再生」って、ついさっきまで「教養知の再生」といっていたんじゃないですかね! いやはや、「教養の再生を語る資格もない」のは、当の最先端=亀山郁夫自身でしょうに! 加えて、どうするんですか? ついさっきまで「一概に教養知といっても、グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなかで、その概念自体、著しい変容にさらされていることは火を見るよりも明らかである」といっていたのは、最先端=亀山郁夫自身なんですよ!

 もう一度整理しますよ。
 まず最先端=亀山郁夫は、『カラマーゾフの兄弟』を例に挙げつつ、「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足」(そんな中学生程度の自信と満足でいいわけです)についていい、さらに、「教養」というものが「共有」に値する知の体系」とはべつのところにあり、しかも下位にある、といいました。
 次に、『カラマーゾフの兄弟』という「数千頁におよぶ膨大な小説を読みあげたという自信と満足」を「共有」する者たちの「秘密結社めいた同志愛を育む力」が金儲けにつながる、といいました。しかし、『カラマーゾフの兄弟』を読む価値も「グローバル化時代の凄まじいテンポ感のなか」では、いつどう下落するかもわからない。下落したら読む意味もないのに、そういうことを考えずに「百年一日のごとく」に地道な研究をしている馬鹿な学者どもがいる。また、「共有」に値する知の体系」の下位にある「教養」も「教養」であるためには「共有するための価値が認識され」なくてはならないんだそうです。で、価値の下落した『カラマーゾフの兄弟』を読むくらいなら、「英語の翻訳も出ている東野圭吾伊坂幸太郎の読者であることのほうがはるかに」金儲けにつながる。金儲けにつながる学問が「実学」であり、そうでないものは「虚学」だ、といっています。
 そうして、金儲けをしたいひとびとのターゲットが「西欧」を離れつつあり、それとともに「西欧蔑視」が生じている現在にあって、最先端=亀山郁夫は突然「教養知もまた市場原理と無縁ならず」を「由々しい」といいだしたわけです。ここまでの流れからすると、絶対にいうはずもないことをいいだしたんです。
 そうして、突然この文章全体が「私たち団塊の世代」を主体に書かれていたことが明らかになります。さらにその「私たち団塊の世代」の意味が実は最先端=亀山郁夫自身(とその周辺一部)のみであることもわかってきます。最先端=亀山郁夫訳のヒットによって、『カラマーゾフの兄弟』は「つかのまの蘇りを遂げた」らしいです。それまでは死んでいたらしい。嘘です。そんなことはありません。最先端=亀山郁夫はあくまで自分の功績を主張したいらしいです。若い世代の心配よりも、自分の翻訳が売れつづけるかどうかの心配しかしていません。
 最先端=亀山郁夫のいう「教養の再生」とは、金儲けできるかどうかという視点からのものです。そうして、自分の翻訳が売れつづけるかどうか、というただその一点だけをいっています。
 まったく、『これからどうする』という本のなかで、若い世代のことをひとつも思いやらず ── むしろ敵対するものとしてとらえ ── 自分のいんちき翻訳と論文とによる金儲けのことだけを考えているという、こちらの開いた口がふさがらない文章なんです、これは。

(二〇一三年十一月十八日)