最先端=亀山郁夫の『これからどうする』(3)

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)


 では、次。

 教養が教養であるには、何より、それを共有することの価値が認識されなくてはならない。かりに、教養知のシンボルの一つとされるシェークスピアを読んだ経験があるとして、その話に何ら人間的なぬくもりが感じられなければ、およそ人を惹きつける何か足りえないし、同志愛や援護射撃なども期待できないだろう。「共有」の観点から見るなら、むしろ、英語の翻訳も出ている東野圭吾伊坂幸太郎の読者であることのほうがはるかに有益だと思う。

亀山郁夫「教養知の再生のために」 『これからどうする』岩波書店 所収)


 意味がわかりましたか? やはり私にはわかりません。しかし、頑張って意味を汲み取ってみましょう。

 教養が教養であるには、何より、それを共有することの価値が認識されなくてはならない。

(同)


 ええと、この文章では、もともとこう書かれていたんですよね。

 ことによると、その自信と満足こそが、「教養」を、「共有」に値する知の体系へと押し上げている力そのものなのではないだろうか。

(同)


 右の文について「おぼえておきましょう」と私は書きましたよね。「教養」が「共有に値する知の体系」の下位にあるのだと、最先端=亀山郁夫はいっていたんですよ。ところが、「共有に値する知の体系」の下位にある、とした「教養」について、最先端=亀山郁夫は今度は「教養が教養であるには、何より、それを共有することの価値が認識されなくてはならない」といいだしました。何ですか、こりゃ? 「共有に値する知の体系」の下位にある「教養」も「教養」であるには「何より、それを共有することの価値が認識されなくてはならない」って、これは「教養」に対するいじめですか? 

 かりに、教養知のシンボルの一つとされるシェークスピアを読んだ経験があるとして、その話に何ら人間的なぬくもりが感じられなければ、およそ人を惹きつける何か足りえないし、同志愛や援護射撃なども期待できないだろう。「共有」の観点から見るなら、むしろ、英語の翻訳も出ている東野圭吾伊坂幸太郎の読者であることのほうがはるかに有益だと思う。

(同)


 どうして「シェークスピア」にしたんですかね? なぜ「ドストエフスキー」じゃないのか? こういうところが最先端=亀山郁夫の間抜けなところです。それはそれとして、ここで最先端=亀山郁夫のいっているのは、おそらく、「教養が大切、教養の復権をといったお題目」を「百年一日のごとく唱え」ている「一部の有識者」なんかが「教養知」のひとつとして「シェークスピア」を連呼している、という図なんですね。それに対して、いまの読者が「シェークスピアを読んだ経験があるとして、その話に何ら人間的なぬくもりが感じられなければ、およそ人を惹きつける何か足りえないし、同志愛や援護射撃なども期待できない」というのは、つまり、ビジネスにならない、お金にならない、ということですね。ということは、「シェークスピア」の研究も翻訳も「虚学」だということなんです。ここで、いまの読者に「シェークスピア」の読書で「何ら人間的なぬくもりが感じられな」かったとして、逆にそれこそが「人間的に」問題なのだ、という視点が最先端=亀山郁夫にはまるっきりありません。

 そうして、

「共有」の観点から見るなら、むしろ、英語の翻訳も出ている東野圭吾伊坂幸太郎の読者であることのほうがはるかに有益だと思う。

(同)


 ── と最先端=亀山郁夫がいうとき、「英語の翻訳も出ている東野圭吾伊坂幸太郎」は、最先端=亀山郁夫にとって、およそ「教養」とはまったく縁のない、「教養」の対極にある作品の書き手としての恰好の実例なんです。そうして、英語作品の読者を相手にビジネスをするなら、「英語の翻訳も出ている東野圭吾や井坂幸太郎」を読んでおいた方が話題にもできるし、仲良くなれるし、ってことは金になるってことだぜ、といっているわけです。

 つづけて最先端=亀山郁夫の文章はこうなります。

 話は変わるが、今や、グローバル・ビジネスの関心は、アジア、アフリカである。近い将来、とくに東南アジア、インド地域への関心が、ユーロ諸国をはるかに上回る時代が来る(いや、現に来ている)。また、いわゆるBRICSの一角を占めるブラジルやロシア、南アフリカといった地域も、私たちの将来を左右する一大市場となるにちがいない。面白いことに、それと並行して、私たちの心のなかにひそかに進行しつつある現象がある。それが、一種の西欧蔑視である。かりに、蔑視の目が、それぞれの地域の文学や文化にまで及ぶとしたら、何とも由々しい話ではないか。教養知もまた市場原理と無縁ならず、ということの証となるからである。他方、BRICSはともかくも、アジアの他の周辺地域の文化伝統を掘り起こし、それを教養知のレベルにまで引き上げるとなると、それこそ世紀単位の時間が必要になる。要するに、教養知の領域に、一種のエアポケットが生まれようとしているのだ。

(同)


 ここでも商売の話です。西欧以外の地域がいま大きい市場になりつつあるが「それと並行して、私たちの心のなかにひそかに進行しつつある現象がある。それが、一種の西欧蔑視である」と最先端=亀山郁夫はいうんですね。さっきの「火を見るよりも明らか」と同様、ここももっと具体的な説明が必要じゃないでしょうか? 私には何のことだかわかりません。この出来損ないの文章から察すると、「グローバル・ビジネスの関心」が西欧以外の地域に向かうのと「並行して」「西欧蔑視」が進行しつつあるんですから、やっぱりこれは金の話ですか? 「金の切れ目は縁の切れ目」ってことで、西欧相手の商売より西欧以外の地域を相手にした商売の方が儲かるから、もう西欧なんか蔑んでいいよ、という現象が進行しているってことですか?「かりに、蔑視の目が、それぞれの地域の文学や文化にまで及ぶとしたら」とつづけるからには、そもそもその「蔑視」は「それぞれの地域の文学や文化」以外のものに向けられているわけですよね。

 それにしても、

 かりに、蔑視の目が、それぞれの地域の文学や文化にまで及ぶとしたら、何とも由々しい話ではないか。教養知もまた市場原理と無縁ならず、ということの証となるからである。

(同)


 え?

 かりに、蔑視の目が、それぞれの地域の文学や文化にまで及ぶとしたら、何とも由々しい話ではないか。教養知もまた市場原理と無縁ならず、ということの証となるからである。

(同)


 え?

 かりに、蔑視の目が、それぞれの地域の文学や文化にまで及ぶとしたら、何とも由々しい話ではないか。教養知もまた市場原理と無縁ならず、ということの証となるからである。

(同)


 は?

 ここまで読んできたのは「教養知もまた市場原理と無縁ならず」を「由々しい」と考えているひとの文章だったんですか? 全然そんなふうには読めませんでしたが?

(つづく)