「勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの(3)

(この章は昨二〇一三年十一月十三日に書き上げていたものです)


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 この後、私は右に絡めて、昨二〇一二年九月に出版された『構造災』(松本三和夫 岩波新書)から長々と引用しているんですが、あまりに長すぎるので、多くをカットします。ほんの一部だけ引用します。 ── と思ったんですが、やはり、そのまま当初の引用をそのままに残しましょう。次の通りです。

 以上のように、この本でいう構造災とは、つぎの五つの特性が状況に応じて複合的に関与する、科学技術と社会との境界で発生する複合境界災害である。

 (1)先例が間違っているときに先例を踏襲して問題を温存してしまう。
 (2)系の複雑性と相互依存性が問題を増幅する。
 (3)小集団の非公式の規範が公式の規範を長期にわたって空洞化する。
 (4)問題への対応においてその場かぎりの想定による対症療法が増殖する。
 (5)責任の所在を不明瞭にする秘密主義が、セクターを問わず連鎖する。

 「よい人」の担う構造災
 ところで、この定義は、構造災は構造災を担う「よくない人」によってもたらされる、ということをかならずしも含まない。それどころか、構造災の担い手は「よい人」であることの方が多いと考えられる。
 なぜなら、先例が間違っているときに先例を踏襲してしまったり、問題を増幅したり、公式の規範を長期にわたって空洞化したり、その場かぎりの想定をもとにした対症療法が増殖したり、責任の所在を不明瞭にしているにもかかわらず、構造災ともいえる状態が久しく続いているとすれば、それは、「よくない人」が多くの人の意思に反してそうなっているというよりは、どちらかというと「よい人」が多くの人の総意を体現しているとみるほうが無理がないからだ。
 たとえば、先例が間違っているときに先例を踏襲して問題を温存してしまうのは、それが特定の範囲の人にとって局所的に心地よい状態であるからだとみるほうが説明に無理がない。
 はたして、前記のスペースシャトル・チャレンジャー号爆発において、一〇年近くに及ぶ「逸脱の常態化」によってNASAの部局と契約業者とのあいだに工業基準に違反した部品の品質検査を見逃す関係が形成されてきた事実は、見逃すという行為が両者の個別利害にかなう状態であったことを示唆する。
 別の角度からいいかえると、最初は工業基準に違反した部品の品質検査を見逃す人が逸脱者であったはずだ。それが、工業基準に違反していることを指摘する人が逆に逸脱者になってゆくということにほかならない。
 このように、構造災が特定の業界や組織にとって局所的に心地よい状態だというときの「心地よい」には、すくなくともふたつの意味が存在する。ひとつは、規則や倫理からの逸脱行為が特定の業界や組織全体の利害にかなっており、結果として当該業界や組織の構成員をそれなりにうるおす効果をもつ。
 いまひとつは、そのような逸脱行為を規則や倫理に違反していて問題であると指摘する人がいても、たとえば「空気を読める」かどうか等々といった別だてのカテゴリーのもとでそうした指摘が読み換えられ、特定の業界や組織全体の逸脱という事実のもたらす鋭い緊張関係が緩和される。
 このように実利と心の緊張緩和の両面において「心地よい状態」が局所的に成立した暁には、たとえ間違っていても、あるいは間違っていればいるほど、先例は当該業界や組織の内部で忠実に踏襲される可能性が高い。そして、その状況で先例を忠実に踏襲する、または率先して踏襲するリーダーは、どちらかというと、当該業界や組織全体に貢献する功労者、すなわち「よい人」と認知されるはずである。
 他方、そうした局所的に「心地よい」均衡状態は、逸脱のもたらす過誤や間違った先例のもたらす問題を消滅させることはない。その結果、そのようにしてセクターを問わず複数の業界や組織において事実上の逸脱行為が重なる場合、社会全体の公益を不断に損ない続ける。そして、どこかで秩序の著しく失われた状態があらわれることになる。

(松本三和夫『構造災』 岩波新書
 


 さらに引用をつづけます。

 学セクターと自己運動する制度
 このメカニズムの及ぶ範囲は、官セクターにかぎらない。学セクターにおいても、想定できる。
 たとえば、序章でふれたSPEEDIの不具合に原子力工学者が向き合うとすると、大きくふたつの立場が想定できる。ひとつは、技術が人びとに貢献するまでを見届けることが技術の専門家の目標だという立場である。いまひとつは、技術の専門家はSPEEDIのシミュレーション精度の向上や適用限界の指摘のような、技術の信頼性の基礎づけをきちんと行うべきとする立場である。
 前者の立場に立つなら、技術の専門家の仕事は人工物をつくりだすことではおわらない。つくりだした人工物が社会に導入され、普及し、思いがけない不具合を生むことまでを含む過程全体にかかわる。
 たとえば、申し分ない性能のSPEEDIをつくったとしても、適用制度の不具合により人びとの「避難」にさきだって「予測」が提供できないという不利益が発生したのなら、そのような適用の不具合を生んだ制度の責任を公にし、運用の不具合を是正する手当てを抜きにしてさきにすすむことは専門家として許されない。
 他方、後者の立場に立つなら、たとえば初期値に実測データを用いないままシミュレーションの結果を「予測」の名のもとに公にするのに慎重になるはずだ。
 前者をクライアント志向、後者を学術志向とかりに呼ぶと、クライアント志向と学術志向が互いに緊張をはらみつつ、ともに必要とされるのが技術の営みだ。クライアント志向にこたえる場合、技術の職能団体、学術志向にこたえる場合、学術団体の様相を呈する。日本原子力学会の定款には、「原子力の平和利用に関する学術および技術の進歩」といった玉虫色の目的が掲げられる。
 その内実は、職能団体と学術団体の両面の適切なバランスによって決まる。ところが、国策との過度な抱きあわせによりいったん適切なバランスが崩れると、一般に学会は業界団体としてもっぱら資金配分に与る機関と化すことが多い。
 その種の業界団体に、公共性の高い社会的機能を期待することは困難だ。自己運動する制度のメカニズムに照らすかぎり、制度としての学会の存続をはかる業界団体としての機能が「賞賛」の的になる一方で、職能団体としても学術団体としても社会的機能を発揮しないという可能性もゼロではないからである。
 他人事ではない。文系の学会にも、あるいは学会の連合体としての日本学術会議にも、相似の可能性は存在する。たとえば、当該問題のほんとうの専門家とは思えない人によって占められる委員会が福島原発事故に象徴される科学技術と社会の複合境界災害について、第三者が検証しようのない、つまり学術的根拠の不明瞭な評価や声明をあと知恵的に開陳し続けるなら、その可能性は現実になりかねない。
 自己運動する制度のメカニズムの前記の見本例が示すとおり、これは担い手が「よい人」であることとじゅうぶんに両立する。

(同)


 そのままこうつづきます。

 専門知の信頼性を見極めるには
 問われているのは、専門知をめぐるつぎのような問題だ。いっぽうで、市井の日常生活を送る民セクターの非専門家のくらしは専門家の仕事に信をおき、そのような専門家の専門知に依存することなしにはとうてい成り立ちえなくなっている。他方で、構造災にかかわるなんらかの理由で専門知の品質が市井の日常生活を送る民セクターの非専門家のくらしに不都合をもたらす程度に劣化したとしても、その事実は非専門家の眼にふれることはほとんどない。
 けれども、その瞬間、専門知はそれ以上に発展する芽がつまれ、あたかも発展しているようにみせることに資源が費やされはじめる。つまり、専門知は非専門家にとって信頼できる場合もあるし、かならずしも信頼できない場合もある。では、どのような場合に信頼でき、どのような場合にかならずしも信頼できないのだろうか。
 この問いに対し、信頼できる場合とそうでない場合を非専門家が判別する基準は見いだされていない。構造災についての叙述と筆者の経験則をふまえていえそうなことは、つぎの一点だ。
 専門知とは、特定の事柄についてみかけと中味原文ママの区別の可能にするはらたきをもつ知のあり方のひとつにほかならない。そして、受忍限度ぎりぎりのところでなされる専門知への苦情申し立てをめぐり、みかけと中身原文ママを区別するはたらきが専門知にも適用されるような自己点検回路が開かれている場合、信頼できることが多い。はじめからその回路が閉ざされている場合、そうでないことが多い。
 いいかえると、専門知はあらかじめ結果が定まっていない事柄を探求する知的営みの所産である。それに対し、あらかじめ落としどころとなる結果が定まっていて、その結果を正当化するためになされる営みは、それらしい装いを備えていても、専門知とはおよそ無縁の代物である。

(同)


 右の引用を通じて私が何をいいたいか ── 私が右の何を何に読み換えているか ── 、もちろんわかっていただけると思います。

 とはいえ、私はいまだにこの『構造災』の全体を読んではいません。そうして、もしかすると、私はこの本全体の主張とは(おそらく)べつのこと、つまり、最先端=亀山郁夫のやっていることの擁護の責任を、彼の擁護者個々人に帰すことを考えているのかもしれません。わかりません。ともあれ、この後のいくつかの文章に書きますが、私には沼野充義辻原登松岡正剛野崎歓など ── このひとたちが私の直近の標的です ── を許すことはけしてできません。私にはとにかく、彼らの非常識・不誠実・悪、あるいは、彼らの「自尊心の病」を批判することしかできません。いまからいいますが、沼野充義辻原登松岡正剛野崎歓 ── このひとたちは最低です。こんなひとたちをありがたがっている読者たちも最低です。

(つづく)