「勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの(2)

(この章は昨二〇一三年十一月十三日に書き上げていたものです)


 ここで、書きあげられなかった文章をいくらか修正しながら引用します。次の通りです。

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 いや、以前にくらべると、この一連の文章に手をつけないでいる日がかなり増えましたね。そうすると、ものすごく楽ちんなんですよ。もっとも、残念ながら、この問題について考えない日は一日もありませんでしたけれど。しかし、考えない日はなくとも、書かないでいることは、怠らず書きつづけることと明らかに決定的に違います。そうでなければ、私が楽ちんなどと感じるはずもありません。この次と、そのまた次とに公開する文章(『なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?』と『さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!』のこと)を読んでもらえば、この事情のいくぶんかは理解してもらえると思います。いや、私が何をいいたいかというと、そのふたつの未公開の文章を書いてから、ようやく私はこの文章をどうやって始めればいいのかがわかった、それまではわからなかったのだと、ある程度の言い訳をしたいということです。
 いや、本当にわかったのか? わかっていないのじゃないか?
 いま私にわかっているのは、たとえば最先端=亀山郁夫の翻訳に対する批判を読んで、それが正しいかどうかを理解するためには「勇気や信念」 ── いまのところ、私にはこういう曖昧な表現しかできません ── が必要だということです。それはつまり、「勇気や信念」を欠いた視点の陥りがちな理解のしかたをいうなら、たとえば、問題を翻訳者Aと批判者Bとの対決ととらえて、両者の利害を考慮し、最終的に馬鹿げた「Win Win」(いわゆる「自己啓発」本のお得意のやりくち)に落とし込むやりかたです。最先端=亀山郁夫問題に関する限り、そのような「Win Win」などありえません。最先端=亀山郁夫を批判する者のひとりとして、私はこの問題を私自身と最先端=亀山郁夫との対決だなどと考えたことはありません。私は単純に「正しさ」を問題にしているだけです。最先端=亀山郁夫による翻訳はでたらめだから、回収・絶版すべきだといっているだけです。でたらめだけれども、他方では素晴らしいといっているひとたちもいるからいいじゃないか、などということで妥協するというような問題じゃないんです。最先端=亀山郁夫の翻訳を素晴らしいといっているひとたち ── たくさんいます ── そんなひとたちは正しくないというだけでなく、間違っているのだし、さらにいえば、悪いことをしているんです。それはもう確実に「悪」をなしています。最先端=亀山郁夫の翻訳そのものが「悪」であるのはいうまでもありません。そこで、私が批判しているのは、最先端=亀山郁夫の翻訳の「悪」と、それを素晴らしいということ・いうひとたちの「悪」との双方ということになります。のん気なひとは「大げさな」といって笑うでしょうが、笑っている場合ではないんです。私はいいますが、いまここで文学の片隅でただの一スキャンダルが持ち上がっている程度の認識しか持てないでいるひとは、いつか本当に大変なこと ── 自分の生死のかかった ── が起こったとき、それがまさかこの最先端=亀山郁夫問題を軽視したためにそうなったのだなどと、絶対に気づきもしないでしょう。この最先端=亀山郁夫問題をきちんと検討していれば、そのような不幸が避けられるかもしれないんです。
 そのことを知らないひとたちがあまりにも多すぎる。この問題について「大げさな」といって笑うひとたちについて理解するために、私がどれほどの時間を必要としたことか。そうして、私がようやく気づいたのは、読書する ── いかなる読書であろうとも ── ためには「勇気や信念」が必要なのであり、その「勇気や信念」を欠いたまま読書するひとがいかにたくさんいるか、ということでした。いいですか、これはごく普通に、単純に、誰もが読書するという、その読書に「勇気や信念」が必要なのだと私はいっているのであって、「勇気や信念」を必要とするような読書が特別なものなのではない、ということです。そうして、「勇気や信念」を欠いたひとが読めば、最先端=亀山郁夫の翻訳もまともなものだということになってしまうんですね。べつのいいかたをしましょうか? 多くの読者には、自分の読解に「勇気や信念」が必要なのだということなど思いもよらず、しかも、自分の読解の表明に「他者に対する責任」が生じるだなどとまったくわからないのだ、ということです。
 最先端=亀山郁夫批判をちらりと見て、「どっちもどっち」だとか、批判者に品性がないなどと感想を持つ読者は、どのみち『カラマーゾフの兄弟』やドストエフスキーなんかどうでもいいという読者なんですよ。そのひとたちには、たとえばペレズヴォンがジューチカと同一の犬であるのかなんて知ったことじゃないわけです。そうしてまた、両者が同一の犬であると読み取るためにも実は「勇気や信念」が必要であるということがわからないんです。同じことが『悪霊』におけるマトリョーシャ=マゾヒスト説にも当てはまります。最先端=亀山郁夫によるマゾヒスト説に可能性を感じるような読者には「勇気や信念」が決定的に欠けています。こういうひとたちは、そのまんまで今後いくらどんな数の読書をしたって無駄です。まあ、このひとたちは、いわば「おしゃれ」のために読書しているだけなんですね。「文学」といわれているものを身にまとっている彼らの「私」が大事なのであって、「文学」を大事にしているわけでは全然ないんです。この「おしゃれ読み」のひとがいるとは前々から認識していましたが、まさかここまで深く冒されているひとがここまでたくさんいるとは思ってもみませんでした。でも、現実だからしかたがありません。そして、こういうひとたちが「人間」を確実に駄目にしていくんです。そうして、こういうひとたちは自分たちがこのように批判されると ── 私には理解しがたい思考経路を経て ── 、そんなむずかしいことはわからない、自分には「教養」がない、きちんと教えてもらわないと右も左もわからない、などといいだすわけです。さらには、最先端=亀山郁夫もきっと自分たちと同じような「弱者」なのだから、やはり同様に罵倒の対象にされるようなことがあってはかわいそうだ、などといいだすわけです。つまり、彼らは最先端=亀山郁夫批判を読んでいて、まるで自分たちまでもが罵倒されているような感じがするんですね。ここでも自分たちと最先端=亀山郁夫とを区別するために、彼らには本当は「勇気や信念」が必要なんですが、それがありません。困ったことです。「真実」がどうかということより、彼らの「私」が傷つけられないようにすることの方が大事なんですよ。そうして、この点にこそ最先端=亀山郁夫の仕事はつけこんで ── 世間的に ── 、成功していくわけです。
 ── というわけで、こんな馬鹿なことから自分の身を守るために「勇気や信念」が必要なんです。

 この「勇気や信念」は、実はこの世のなかのありとあらゆることに必要なものです。どんなことも、「勇気や信念」をもって対さなければならないんです。しかし、では、この私がこの世のなかのありとあらゆることに「勇気や信念」をもって対処しているかというと、全然そんなことはありません。のんびりだらだらしている怠惰な私にそんなことはできません。ただ、私は『カラマーゾフの兄弟』について、あるいはドストエフスキーについて、あるいは「文学」についてだけにはどうしても許せないことがあるので、延々とこの一連の文章を書いているんです。それでも、あるときこのブログ「連絡船」に ── この一連の文章とは離れたところで ── 書いたんですが、こうは思っています。

 もちろん最先端=亀山郁夫批判は反戦争であり、反原発でもあるわけです。つまり、最先端=亀山郁夫を批判することが、結局のところ、反戦争・反原発の運動をすることと同義だということです。

(二〇一二年三月九日 http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20120309


 そうすると、私のところに「非国民」だの「国賊」だのという匿名のメールが送られてくるわけですが、まあ、それはいいです。

 (── 以上、加筆しつつの引用終わりです。)

(つづく)