東京書籍にメールを送りました。

 おさらいですが、まず、問題のこやま峰子の文章を再掲しておきます。

清らかな魂の天使はいずこ
 一八六〇年代のロシアの地方都市に暮らす父親フョードルは財を築き、美女・グルーシェニカと酒に溺れて暮らしている。長男ドミートリーは父親ゆずりの放蕩者で父親が夢中になっているグルーシェニカに執心し許嫁を放り出してしまう。父親を殺したいほど憎む半面、高潔な精神を持つ。次男イワンは父親と同様に人を蔑視し神を否定し兄ドミートリーの許嫁カテリーナに激しい思慕を抱く。三男アリョーシャは心優しく、愛の教えを説くゾシマ長老を尊敬している。彼は父親をはじめ誰からも愛されているがカラマーゾフの血が流れていることを強く意識している。読者は父親フョードルの殺害犯を捜しつつ、厖大な小説の世界に迷いこむ。カラマーゾフ家の料理人スメルジャコフはフョードルが白痴女に産ませた子で癲癇の病を持つ。まわりから差別されているので父フョードルを憎む気持ちが強い。グルーシェニカはフョードルと組んで悪事を企み、自分に夢中になっている父親と息子を手玉に取る。スメルジャコフはイワンにそそのかされて父親を殺害。判決の前日、彼はイワンを訪ね、結局、父親を殺したのはあなただ、と言い残し自殺する。公判の席で、証人のイワンは「わたしがスメルジャコフをそそのかし殺させた」と叫ぶ。
[メッセージ]
カラマーゾフの兄弟』は、すべての年代の人々が各々の人生体験で理解し味わえる作品。それが古典といわれる理由でしょう。かなりの長編作品だけれど、カラマーゾフ家の父親の殺害事件をめぐる犯人を探しながら容易に読み進んでいくことができます。私たちはお金を全く無視して生きていくわけにはいきません。上手につきあっていくしか道はないでしょう。カラマーゾフ家の人々は父親の遺産問題から罪深いドラマにはまりこみ、物語は一層混沌としてきます。金銭が人の欲望と複雑に絡んだとき、悲劇が生まれるとドストエフスキーはいいたかったのではないでしょうか。諸悪の根源は金銭にあるので、地獄の深みにはまらず生きていかなければなりません。ゾシマ長老とイワンの間でたたかわされるキリスト教無神論の対話はこの小説の核であり難解な部分でもありますが読み進んでいくうちにみえてくるものがあります。不朽の名作物語の中で光を探してください。奇蹟と神秘に出会えるかもしれません。

(こやま峰子『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』 東京書籍)


 さて、以下が東京書籍へのメールです。

「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる東京書籍編集部の方々に申し上げます。私は、先日御社から出版された『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』における、こやま峰子大先生の書かれた『カラマーゾフの兄弟』の紹介文章がめちゃくちゃであるとお電話した者です。

 直接編集部にお電話したにもかかららず、当該文章の誤りの指摘はメールで送れということでしたので、ここにお送りします。ここでわざわざ書くことの時間と労力とをぜひとも考慮していただきたく思います。私にとって、これは非常に苦痛であるとともに、非常に迷惑です。特に電話に出ていただき、応対してくださったウエクサさんには、よく理解していただきたく思います。

 当初、私は、こやま峰子大先生の文章がめちゃくちゃであることは、『カラマーゾフの兄弟』の読者には一目瞭然であると思っていました。直接の編集者**さんが『カラマーゾフの兄弟』をお読みでないことを聞き、では、周りにいらっしゃるはずの、お読みの方々に当該文章を読んでいただき、その感想をお聞かせください、とメールしたのでした。私としては、「えっ、何これ?」とか「こんなものを出しちゃったの?」、「まずいだろう、これ?」とかいう反応が即座にあり、編集部で検証がなされるのは当然と思っていたのです。また、内容としての個々の誤りが正されればいいというだけではなく、こやま峰子大先生の文章全体のひどさが問題にされなければならないはず、ということもあって、具体的な誤りを指摘しないでおいたんです。つまり、私の具体的指摘を待つまでもなく、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる東京書籍編集部の自浄努力があるだろうと思ったんですね。ところが、ウエクサさんによれば、御社のスタッフ(複数)がこやま峰子大先生の文章を妥当だと判断したとのことです。御社には、そんな低レヴェルのスタッフ(複数)しかいないんですか?(しかし、私はウエクサさんのいうのが嘘ではないかと疑ってもいます。いくらなんでも、そんなことはありえないだろう、と)。さらに、ウエクサさんの「誤りを指摘してくれないと、答えようがない」という返事です。呆れました。繰り返しますが、ウエクサさん、本当に苦痛なんですよ。

 ともあれ、これから私は ── ウエクサさんの要請にしたがって ── こやま峰子大先生のめちゃくちゃについて具体的に指摘します。

 一八六〇年代のロシアの地方都市に暮らす父親フョードルは財を築き、美女・グルーシェニカと酒に溺れて暮らしている。


 さて、これを「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる東京書籍編集部の方々は、どう読むのでしょうか? これを読んで、「フョードルがグルーシェニカと一緒に暮らしていて、毎日 ── どころか四六時中 ── 飲んだくれて生活している」と思わないひとがいますか? 事実は、フョードルはグルーシェニカと同棲などしておらず、恋愛の対象にもしてもらえずにいて、たしかに酒は好きで飲んでいるにしても、始終酩酊してなどいません。それどころか、彼はこと金にかけては非常にシビアなので、商売を怠ったりなどは絶対にしません。その辺の抜け目はないんです。
 ここで、まさか「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる東京書籍編集部の方々は、右の文について、まさか「フョードルは財を築き、美女・グルーシェニカと酒に溺れて暮らしている」のうちの「溺れて暮らしている」ということばが「美女・グルーシェニカ」と「酒」との両方にかかるもので、文の全体としては、フョードルとグルーシェニカの同棲を意味していない、などといいださないでしょうね? つまり、間違ってはいないから、このままでいい、などといいださないでしょうね? もう一度確認しますが、あなたがたは「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるんですよね? まさか、そういうひとたちが、「10代の人たち」に容易に誤解されるかもしれない文を容認などしないですよね?
 さらに、「地方都市」ということばですが、これは適当ですか? どういう根拠で「地方都市」というんですか? ここでも、繰り返しますが、「10代の人たち」が「地方都市」と聞いて、どういうものを想像するかということを最優先に考えてもらわないと困ります。つまり、私はこの小説の舞台が「地方都市」というほど大きくはないんじゃないか、と疑っているんです。まさか、そういう規模の感覚はひとそれぞれだから、これも間違ってはいない、などといわないでしょうね?「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるひとたちなら、「10代の人たち」がどう読むことになるかを最優先にするはずですよね?
 そうして、「暮らす父親フョードルは……暮らしている」というこの日本語は、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々には、まったく違和感がないんですか? ないんでしょう。違和感があったら、そもそも直しを入れているはずだものなあ。

 次。

 長男ドミートリーは父親ゆずりの放蕩者で父親が夢中になっているグルーシェニカに執心し許嫁を放り出してしまう。父親を殺したいほど憎む半面、高潔な精神を持つ。次男イワンは父親と同様に人を蔑視し神を否定し兄ドミートリーの許嫁カテリーナに激しい思慕を抱く。三男アリョーシャは心優しく、愛の教えを説くゾシマ長老を尊敬している。彼は父親をはじめ誰からも愛されているがカラマーゾフの血が流れていることを強く意識している。


「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々には、右の文がすんなり読めますか?「長男ドミートリーは父親ゆずりの放蕩者で父親が夢中になっているグルーシェニカに執心し許嫁を放り出してしまう」ですけれど、どうしてひとつも読点がないんですか? こやま峰子大先生の文章の読点のなさに独特の味わいやら深みやらがあるからですか? これ、「10代の人たち」がどう読むと思っているんですか? さらに、いまの文のつづきが「父親を殺したいほど憎む半面、高潔な精神を持つ」ですが、これを読んで、「父親を殺したいほど憎む半面、高潔な精神を持つ」のが「長男ドミートリー」のことだ、とわかるためにちょっと時間を必要としませんでしたか? 必要としたはずです。これを、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々はどう思うんですか?「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる方々なら、訂正の必要を感じますよね? それとも、まったく違和感がないのかな? 読みづらいけど、間違ってはいないからいいのかな? 恥ずかしくないですか?
 ここでこやま峰子大先生は、なんとか「カラマーゾフの血」が兄弟各人に行き渡っているという事情を説明しようとしています。それはわかります。しかし、だからといって、こういう文章は困ります。「次男イワンは父親と同様に人を蔑視し神を否定し兄ドミートリーの許嫁カテリーナに激しい思慕を抱く」という、この文にも読点なし。しかも、誤りがあります。「父親と同様に人を蔑視し神を否定し」って、こんなことをいわれたら、イワンが泣きますよ。父親フョードルはべつに ── 少なくともイワンのようには ── 人を蔑視していませんし、神を否定などしていません。こやま峰子大先生はでたらめを書いています。フョードルは神を恐れていますよ。彼は死んだらどうなるのか、心配でしかたがないくらいなんです。そうして、イワン自身ですら、神を信じているんです。信じているからこそ、この世の悲惨を盾にして神に反抗するんです。イワンは無神論者ではありません。
 それで、イワンが兄の許嫁についてどう思っていたかというと、これは『カラマーゾフの兄弟』では、ほとんど直接・詳細な記述がありません。まあ、これはいいとしましょう、いいだせば、きりがない。
 で、「三男アリョーシャは心優しく、愛の教えを説くゾシマ長老を尊敬している」ですが、これは読点からして、「心優しく」はアリョーシャにかかるんでしょうが、ゾシマ長老にかかると読む「10代の人たち」を心配しなくて大丈夫ですか? ここまでこやま峰子大先生の読点なしの非常に美しい文章を読まされた「10代の人たち」は、逆に緊張してしまうのじゃないでしょうか? 老婆心でいいますが、こやま峰子大先生は「心優しい三男アリョーシャは、愛の教えを説くゾシマ長老を尊敬している」とでも書けばよかったんじゃないですか? 
 それに、「彼は父親をはじめ誰からも愛されているがカラマーゾフの血が流れていることを強く意識している」というのは、この一文で「10代の人たち」は正しく理解できるんでしょうか? つまり、もちろんこやま峰子大先生の意図としては、「放蕩者」であること、「人を蔑視し神を否定」することなどが「カラマーゾフの血」のゆえだ、ということを表現したいんでしょうが「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々は、ここで唐突に「カラマーゾフの血」なんていわれて、未読の「10代の人たち」にどこまで通じると考えているんでしょうか? 間違ってはいないから、それでいいんですか?「カラマーゾフの血」はたしかに重要だと思いますが、その持ち出しかたがこやま峰子大先生の手にあまるんです。雑で、乱暴すぎる。そこに、すでに書いたような誤りが堂々と含まれてもいる。どうしてこんなことになるか? こやま峰子大先生に『カラマーゾフの兄弟』が読めていないからです。
 
 次。

 読者は父親フョードルの殺害犯を捜しつつ、厖大な小説の世界に迷いこむ。カラマーゾフ家の料理人スメルジャコフはフョードルが白痴女に産ませた子で癲癇の病を持つ。まわりから差別されているので父フョードルを憎む気持ちが強い。


 ここでの「カラマーゾフ家の料理人スメルジャコフはフョードルが白痴女に産ませた子で癲癇の病を持つ。まわりから差別されているので父フョードルを憎む気持ちが強い」を、いったい、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々は、危険だと思わなかったんでしょうか? まず「白痴女」。何ですか、これは? こんな表現がそのまま通るんですか? あのねえ、右の文章から読み取れるのはこういうことです。「スメルジャコフが父フョードルを憎む気持ちが強いのは、母親が白痴女だからであり、自分が癲癇の病を持っているからであり、そのふたつのことのために自分がまわりから差別されているからだ」(もちろん、ここにフョードル自身の罪を責める気持ちもあるでしょうが、それは置いておきます)。つまり、この文章は、対象読者である「10代の人たち」に、白痴女の息子で、癲癇まで病んでいては、まわりから差別されても当然だよね、と暗黙の了解を求めているんです。ひどいんじゃないですか? これが小学校・中学校・高等学校の教科書を出版しているひとたちに許容されることなんですか?
 また、右の文章を読んで、「あ、それじゃ、スメルジャコフもカラマーゾフの兄弟のひとりなんだ!」と理解できる「10代の人たち」がどれだけいて、しかも、なぜスメルジャコフだけは「料理人」なんだ? と疑問に思うんでしょうか?
 しかし、いっておきますが、『カラマーゾフの兄弟』のどこにもスメルジャコフの父親がフョードルだと断定する記述はありません。しかも、こやま峰子大先生が推す、光文社古典新訳文庫の翻訳者である最先端=亀山郁夫大先生は、スメルジャコフの父親がグリゴーリーだなどといいはっているくらいなんですけれどね。
 どうですか? これでも、こやま峰子大先生の文章はちょっと問題があるかもしれないが、必ずしも間違ってはいないのだから、いいじゃないか? ですか?

 はい、次。

 グルーシェニカはフョードルと組んで悪事を企み、自分に夢中になっている父親と息子を手玉に取る。


 私は笑っちゃったんですが、これ、「グルーシェニカはフョードルと組んで悪事を企み、自分に夢中になっているフョードルとドミートリーを手玉に取る」ってことですよね。いいんですか、こんな文で? わけがわからないでしょうが? 『カラマーゾフの兄弟』をまだお読みでないというウエクサさんには意味がわかりましたか? もっとも、御社のスタッフでは、かりに『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのあるひとでも、これはこのことだよ、なんて答えることができないでしょう。ここ、『カラマーゾフの兄弟』を何度も読んでいる私には、こやま峰子大先生が何をいおうとしているか、ものすごく寛大な気持ちになろうとしてなら、わかりますよ。でも、これは『カラマーゾフの兄弟』をまだ読んでいない「10代の人たち」に、これから読んでもらおうという主旨の文なんですよね? そういう「10代の人たち」にはまったく意味不明な文じゃないですか? まさか「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々は「そんなことはない」などといいだしませんよね? 

 んで、次。

 スメルジャコフはイワンにそそのかされて父親を殺害。判決の前日、彼はイワンを訪ね、結局、父親を殺したのはあなただ、と言い残し自殺する。公判の席で、証人のイワンは「わたしがスメルジャコフをそそのかし殺させた」と叫ぶ。


 ひどすぎる。これではまるでスメルジャコフがイワンにそそのかされたためだけでフョードルを殺したかのようじゃないですか。いいのか、そんなことで? スメルジャコフにはスメルジャコフの意図があったんですよ。彼はイワンを利用しただけです。もちろん、イワンなしに殺人はできなかったでしょうけれど。
 それで、「判決の前日、彼はイワンを訪ね、結局、父親を殺したのはあなただ、と言い残し自殺する」ですが、でたらめです。逆ですよ。スメルジャコフがイワンを訪ねたんじゃない。イワンがスメルジャコフを訪ねたんです。おまけに、こやま峰子大先生が今回あらためて読んだという最先端=亀山郁夫大先生訳でも、当該箇所の章題は「スメルジャコフとの最初の面会」、「二度目のスメルジャコフ訪問」につづく「スメルジャコフとの、三度目の、最後の対面」なんですよ。
 ここで、いっておきます。「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部は、こやま峰子大先生が今回の執筆のためにあらためて最先端=亀山郁夫大先生訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだかどうか確認するときに、私のクレームについてきちんと説明したんでしょうか? つまり、「大先生の文章がめちゃくちゃだという読者がいるんですが」といったんでしょうか? それとも、怖くていえませんでしたか? まあ、いったんでしょう。そうして、当のこやま峰子大先生は自分の書いた文章を読み返さなかったんでしょうか? 読み返して、間違いがないかどうか確認したんでしょうか? 確認したんでしょう。まさか確認しないほど無責任じゃないですよね? 確認して、なお、「判決の前日、彼はイワンを訪ね、結局、父親を殺したのはあなただ、と言い残し自殺する」の誤りに気づきもしなかったんでしょう。そうでないはずはないですよね、ウエクサさん? つまり、こやま峰子大先生は、「スメルジャコフとの最初の面会」、「二度目のスメルジャコフ訪問」、「スメルジャコフとの、三度目の、最後の対面」とつづく小説の記述をまるっきり読めていなかったってことなんじゃないんですか? だから、こやま峰子大先生は数十年前に読んだときのおぼろげな記憶だけをもとに、今回の原稿を書いたっていうんですよ。あらためてちゃんと読んだなんて大嘘だ、って。
 また、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々は、いま私が指摘した誤りだけを誤りだと認めることにする、なんて判断をしないでしょうね? その点だけは「間違ってはいない」ということができないから、訂正もやぶさかじゃない、なんて判断をしたりはしないですよね?なにしろ、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる方々なら、こやま峰子大先生のここまでの文章全体が必ず一から書き直さなければならない文章だと判断するはずですものね?

 さあ、それから次。

カラマーゾフの兄弟』は、すべての年代の人々が各々の人生体験で理解し味わえる作品。それが古典といわれる理由でしょう。かなりの長編作品だけれど、カラマーゾフ家の父親の殺害事件をめぐる犯人を探しながら容易に読み進んでいくことができます。


 はいはい、もう面倒くさくなってきました(いいですか、ウエクサさん、もううんざりなんですよ。わかっていただけてますか?)。「犯人を探しながら」ですが、さっきは「殺害犯を捜しつつ」と書いていましたよね。「探す」と「捜す」 ── これは意図的に使い分けているんですか? そうじゃないですよねえ?

 次。

 私たちはお金を全く無視して生きていくわけにはいきません。上手につきあっていくしか道はないでしょう。カラマーゾフ家の人々は父親の遺産問題から罪深いドラマにはまりこみ、物語は一層混沌としてきます。金銭が人の欲望と複雑に絡んだとき、悲劇が生まれるとドストエフスキーはいいたかったのではないでしょうか。諸悪の根源は金銭にあるので、地獄の深みにはまらず生きていかなければなりません。


 おいおい、いきなり何の話だよ? 馬鹿じゃないの?『カラマーゾフの兄弟』を書きながら、ドストエフスキーがそんなことをいいたかったのかよ? それとも、これも間違ってはいない、なのかな? こんな「教訓」を伝えるために、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる方々は『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』を刊行したのかな? これさあ、「10代の人たち」にも笑われますよ。「諸悪の根源は金銭にあるので」って、ドストエフスキーが泣きますよ。何だよ、「地獄の深みにはまらず生きていかなければなりません」って。これ、こやま峰子大先生の「人生体験」から、こうなったの? あんまり素晴らしくって、涙が出ちゃうよ。

 次。

 ゾシマ長老とイワンの間でたたかわされるキリスト教無神論の対話はこの小説の核であり難解な部分でもありますが読み進んでいくうちにみえてくるものがあります。不朽の名作物語の中で光を探してください。奇蹟と神秘に出会えるかもしれません。


 またも読点なし。何でこれを変だと思わないのかねえ? しかも、これさあ、「大審問官」のことをいっているんじゃないの? たしかにゾシマ長老とイワンとがしゃべる場面はべつにありますよ。でも、こういう短い作品紹介文で、わざわざ思わせぶりに「この小説の核であり難解な部分でもありますが読み進んでいくうちにみえてくるものがあります」なんて断わるのは、「大審問官」でしょう? そうして、「大審問官」でイワンと話すのはアリョーシャなんですよ。ゾシマ長老じゃありません。繰り返しますが、だから、こやま峰子大先生が今回あらためて『カラマーゾフの兄弟』をちゃんと読んだなんていうのはでたらめなんですよ。そもそも、こやま峰子大先生には『カラマーゾフの兄弟』という作品なんかどうでもいいんでしょう。作品への愛もないし、理解もない。そんなひとにこの作品を紹介する ── しかも「10代の人たち」に ── 資格などありません。読者と作品とが不幸になるだけです。
 さらに、とってつけたような最後のふたつの文は何なんですかね?「もう説明するのが面倒だからいうけど、とにかくこれは不朽の名作物語なのよ」って、大急ぎでここまでの不備を取り繕っているようなもんですね。で、「奇蹟と神秘に出会えるかもしれません」って、おい、「奇蹟と神秘(と権威)」なしに生きる人間の自由と苦しみの小説なんだよ! まるっきりでたらめじゃないか!

 で、どうせ「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられる御社編集部の方々は、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」おられるにもかからわず、そういうのは「解釈の問題」だから、こやま峰子大先生がおっしゃる通りでいい、必ずしも間違ってはいないから、それでいい、というんでしょう?

 さて、ここまで書いてきて「みえてくるものがあります」。つまり、東京書籍編集部の「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いる、という主張が嘘っぱちだってことです。あんたらは、全然そんなことを考えちゃいません。自分たちの商売しか考えてないですね。「10代の」読者よりも、こやま峰子大先生とのおつきあいの方が大事だし、会社の面子やら資金やらの方が大事なんですよ。

 というわけで、ウエクサさん、もうくたびれました。これだけ罵るのは、本当に疲れることなんですよ。それでも、もうちょっとだけ書いてみます。

 御社編集部にいて、『カラマーゾフの兄弟』をすでに読んだことがあり、しかも、こやま峰子大先生の文章を読んで、妥当であるなんてことを口にした複数のスタッフは大馬鹿か腰抜けかのどちらかです。どちらにしても、出版社編集なんて仕事は辞めた方がいい。こやま峰子大先生のいいかげんな仕事を批判できなくて、どうして10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるなんて口がきけるでしょうか? 駄目なものは、駄目といいなさいよ。ついでにいえば、同じ『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』中の、こやま峰子大先生による『赤毛のアン』の紹介文を読んだ私の周りの者 ── 『赤毛のアン』を読んだことのある者二名、読んだことのない者一名 ── は失笑していましたよ。私を含めれば、全部で四名ね。

 さて、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いる志の高い編集部員であれば、私に、「本書の姿勢は、作家の姿勢や作品解釈を問うことではけっしてありません」などとはいいません。いいですか、「作家の姿勢や作品解釈を問わないで」いながら、どうして誰かにその作品を薦めたりできるでしょう? それでは、あなたがたはどういう基準で今回の推薦図書を選定したんですか? まさか、それもこやま峰子大先生に丸投げなんじゃないでしょうね? で、あなたがたは、ただもうこやま峰子大先生のいうがままに働いて、中身をまったく確かめもせず、そのまま印刷に回したんですか? 編集者というより、印刷業者の役に徹したというわけですか? それでいて、自分たちは「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるだなんてよくもいえましたね。
 あなたがたは、自分たちが「10代の人たち」にとんでもなくひどいものを送りつけているのかもしれない、紹介した個々の作品をとんでもなく傷つけているのかもしれない、という意識を常に持たなくてはならないんですよ。執筆者がとんでもなくひどいことを書いているかもしれない、と常に恐れなくてはならないんですよ。そうして、もし、これはひどい、と感じたなら、即座に執筆者と討論しなくてはなりません。出版社は、自分のところの出版物の内容に責任を持たなくてはならないんですよ。わかっていますか? もし執筆者がいいかげんなことを書いたら、それを一般読者に届ける前に止めなくてはなりません。あなたがたがしなくて、誰がするんですか? あなたがたは出版する以上、執筆者の原稿の内容にも文章にも責任を負わなければなりません。

「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いる志の高い編集部員は、作品の選定から、執筆者の選定から、原稿の内容から、またその文章から、「10代の人たち」に向けて最良の本をつくろうとしなければなりません。そのとき、必ず、誰かに作品を薦めることの責任の重さを痛感していなければなりません。

 誰かにある作品を薦めることの責任について、私はずっと考えつづけています。そうして、御社に限らず、多くの出版社の無節操・無責任なやりかたを、さんざん目にし、批判しつづけているんです。それが、私個人の企て、ブログおよびホームページの「連絡船」です。
 たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を誰彼に薦めたい私は、最先端=亀山郁夫大先生の翻訳や作品論があまりにもでたらめなので、こんなものを読まされる読者が不幸だと思い、また作品も不幸だと思うから、執拗に批判をつづけているんです。誰かに「書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるならば、このくらいの努力をしなくてはならないでしょう。いいですか、これは本当に苦痛なんですよ、御社のために書いているこの文章同様。


 それを、飛ばし読みしかしていないにもかかわらず、「木下様のブログを拝読し、ひとつの精緻な論考としてたいへん参考になりました。/この度の木下様のご意見は、日本で翻訳された古今のドストエフスキー作品に精通されている研究者のご指摘として、真摯に受け止めさせていただきます」なんていいかげんに片づける厚顔無恥な返事をよこすウエクサさんは最低ですね。何の責任感もない。適当にあしらっておけばいいさ、ってことでしょう? それで、私が直接電話をすれば、「もう、いいですか?」ですからね。

 あなたがたはいったい何を自分たちの責任だと思っているんですか?こやま峰子大先生に傷がつかないようにすることですか? あなたがたの出版物や会社に傷がつかないようにすることですか? そのとき、想定読者たる「10代の人たち」はあなたがたの頭にあるんですか? ないよねえ?

 そうだ、これを訊き忘れていましたが、あなたがたは、もし私が最初からこやま峰子大先生の文章について具体的誤りを指摘したとして、いったいどういうふうに検証するつもりだったんですか? まさか、こやま峰子大先生に問い合わせるだけなんじゃないですよね? 

 あなたがたは対象読者である「10代の人たち」に対してあまりにも無責任です。

 いや、もう本当に疲れてきた。くたくたです。しかし、もう少し。

 この『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』の執筆者たち=岩辺泰吏、児玉ひろ美、小林功、渡部康夫の四名にいいます。あなたがたは、こやま峰子大先生のでたらめを知りながら、この仕事をしたのか? もし、あなたがたが「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるなら、こやま峰子大先生に抗議するか、この仕事を降りるか、どちらかをしたはずだと私は思うんですが、どうでしょう? つまり、自分はきちんと仕事をしているのに、こやま峰子大先生が編著者では、自分の仕事までがでたらめ・いいかげんとみなされてもしかたがないということになる、ということを考えたのか? そのとき、「10代の人たち」のことを考えたのか? ともに考えてなんかないよねえ?

 さて、それから。

 ウエクサさんのこの文章 ──

木下様のご意見は、作家論や解釈論ともいうべき、深遠な文学的視点からのご質問であるとうけたまわりましたが、本書の姿勢は、作家の姿勢や作品解釈を問うことではけっしてありません。ましてや、文学論争をのぞむものでもありません。


 ── ですが、私はものすごく似ている文章を知っているんですよね。

 一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。

産経新聞 二〇〇八年六月八日)


 ウエクサさんも、駒井稔のように腐っています。自社の利益と著者・翻訳者の利益とだけを最優先にし、作品と読者とを蔑ろにしているんです。最悪です。

 出版社が「本書の姿勢は、作家の姿勢や作品解釈を問うことではけっしてありません。ましてや、文学論争をのぞむものでもありません」なんていっていいはずがない。そんなことをいえば、その意味は、「10代の人たち」に偽物やクズを読ませたっていい、それが偽物だろうとクズだろうと、その判断は自分たちのすることじゃないから、ということになります。最先端=亀山郁夫大先生の『カラマーゾフの兄弟』こそ偽物でありクズなんですよ。それを推しつつ、また、こやま峰子大先生の紹介文が最悪。しかも、出版社は何の責任も取るつもりがない。ふざけるな、って話です。それでも、「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いるんだって? いいかげんにしろよ。

 というわけで、もし「10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼とし」、「海外の翻訳作品および、国内作品が今後も広く読み継がれていくことを願って」いる志の高い編集部員がそちらにおられるなら、『10代をよりよく生きる読書案内 海外編』の即刻の回収・絶版をすべきでしょう。

 私は誠実に書きました。そうして、誠実なお返事をお待ちします。

木下和郎


 こうして、出版業界では、ろくに出版物の検証もしないまま、垂れ流しのようにでたらめを世間にふりまきつづけているわけです。

 私は繰り返します。

「じゃ、誰だ、誰なんだ、結局のところ、最先端=亀山郁夫の仕事が素晴らしいなんていっているのは?」
 そうして、みんながこういうんです。
「私じゃない!」
「《私じゃない!》私じゃないとは、どういうことだ?」

(二〇一〇年四月十二日)