「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 さて、「ある空漠たる恐怖に捕えられ」 ── です。

 私はここで大西巨人の『神聖喜劇』から長い引用をします。その前にちょっとだけ説明(そしてまた引用)しておきますが、この作品の主人公=語り手である東堂太郎は、軍隊の初年兵教育のはじめに経験したある出来事において上級者に「なぜお前はこれをしなかったのか」と問われ、「知らなかったからだ」と答えるんですが、上級者はその返事を認めないんです。下級者は上級者に対して、「知らなかった」とか「教えられていない」などと返答してはならない。下級者のすべき返答は、ただ「忘れました」だけだ。責任は上級者でなく、下級者にある。なぜ「忘れました」と返事しないのか、というわけです。

 ……私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むにちがいなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数数の愚劣、非合理の一つに過ぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。……だが、違う、これは無条件に不条理ではないか。……虚無主義者に、犬に、条理と不条理の区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声吠えろ。それがいい。 ── 私は、「忘れました」と口に出すのを私自身に許すことができなかった。顔中の皮膚が白壁色に乾上がるような気持ちで、しかし私は相手の目元をまっすぐに見つめ、一語一語を、明瞭に落着いて、発音した。
「東堂は、それを、知らないのであります。東堂たちは、そのことを、まだ教えられていません。」
( ── それが当日私が思ったより以上の事故であり、そのような言明は現場の誰しもの想像を超えていたろうことを、のちのち私は知ったのであるが、その朝も)、言い終わった私は、私の躰が俎板に載ったと感じた。四人の偽証者を、私は必ずしも憎みもさげすみもしなかった。午前半ばの光の中で進行しているこの些事が、あるいは私の人生の一つの象徴なのではあるまいか。


 そうして、右を踏まえて次の文章を読んでみてください。

── 私は、「法律ヲ知ラザルヲ以テ罪ヲ犯ス意ナシト為スコトヲ得ズ。」という『刑法』条項との関連において、「知りません」禁止、「忘れました」強制という不文律の成立事情を推理し、私なりの一定結論を出した。それとともに私は、もう一つ別の推論をも行なっていた。この推論の基礎に私が置いたのは、これも刑法学上の「責任阻却」という考え方であった。というよりも、この場合には、主として「責任阻却」という術語のみを私が利用したのである。──「責任阻却」とは、違法行為者も特定事由の下では(その責任が阻却せられて)刑法的非難を加えられることがない、「責任なければ刑罰なし」というような意味である。……あの不文法または慣習法を支えているのは、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理ではないのか。……もしも上級者が下級者の「知りません」を容認するならば、下級者にたいする上級者の知らしめなかった責任がそこに姿を現わすであろう。しかし、「忘れました」は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには下級者にたいする上級者の責任(上級者の非)は出て来ないのである。言い換えれば、それは、上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる。しかし下級者は上級者の責任を微塵も問うことができない、というような思想であろう。……この(下級者にたいする)上級者責任阻却あるいは上級者無責任という思想の端的・惰性的な日常化が、「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習ではあるまいか。
 このように私は私の推理もしくは想像を進めたのであった。── もとより各級軍人の責任は、たとえば『軍隊内務書』ないし『戦陣訓』においても力説強調せられてはいる。それは、あるいは「職務ノ存スル所責任自ラ之ニ伴フ。各官宜シク其ノ職責ノ存スル所ニ鑑ミ全力ヲ傾注シテ之ガ遂行ニ勉ムベシ。」のごときであり、あるいは「任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。」のごときである。とはいえ、この責任とは、詮ずるところ、上から下にたいして追及せられるそれのみを内容としているのであって、上が下に負う(下から上にたいして問われる)それを決して意味しないのであろう。……しかし下級者Zの上級者Yも、そのまた上級者Xにとっては下級者である。ZにたいしてYの責任は阻却せられていても、そのYはXによってほしいままに責任を追求せられねばならない(このXは、Zの「忘れました」についても、そのZにしっかり覚え込ませなかったYの責任を追求するであろう)。そしてXとそのまた上級者Wとの関係も、同断なのである。かくて下級者にたいして上級者の責任が必ず常に阻却せられるべきことを根本性格とするこの長大な角錐状階級系統(Wからさらに上へむかってV、U、T、S、R、Q、P、……)の絶頂には、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」の唯一者天皇が、見出される。
 ここに考え至って、私は、ある空漠たる恐怖に捕えられたのであった(芥川龍之介の「理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負はぬことである。即ち理想的兵卒はまづ無責任を好まなければならぬ。」〔『侏儒の言葉』〕という「警句」なんかは、やはり気楽な才走りでなければならない。)── この最上級者天皇には、下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無際限に阻却せられている。この頭首天皇は、絶対無責任である。軍事の一切は、この絶対無責任者、何者にも責任を負うことがなく何者からも責任を追求せられることがない一人物に発する。しかも下級者にたいして各級軍人のすべてが責任を阻却せられている。……かくて最下級者Zにとっては、その直接上級者Yが、絶対無責任者天皇同然の存在であり、その間接上級者Rならびに間接上級者Q、P、O、N、M、L、……が、絶対無責任者天皇同然の存在でなければならない。なるほど最上級者および各上級者は全下級者の責任をほしいままに追求し得るにしても、さりながら上級者の絶対無責任(に起源スル軍事百般)にたいして下級者が語の真意における責任を主体的に自覚し遂行することは、本来的・本質的には不可能事ないし不必要事であろう。……このことは、同時に次ぎのようなことをも意味する。上からの命令どおりに事柄が行なわれて、それにもかかわらず否定的な結果が出現する、というごとき場合に、その責任の客観的所在は、主体的責任の自覚不可能ないし不必要なZからYへ、おなじくYからXへ、おなじくYからWへ、おなじくWからVへ、……と順送りに遡ってたずね求められるよりほかはなく、その上へ上への追跡があげくの果てに行き当たるのは、またしても天皇なのである。しかるにその統帥大権者が、完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に雲散霧消し、その所在は永遠に突き止められることがない(あるいはその元来の不存在が、突き止められる)。……それならば、「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構ということになろう。

(同)