(二八)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六




   3

 これまでに私は何度も、自分の最先端=亀山郁夫批判にうんざりしていると書いてきました。でも、この批判はつづけなきゃいけない、とこれも同じく繰り返し書きました。しかし、私は停滞してしまいました。その理由のいくつかを書いてみます。
 まず、私が批判をつづけている間にも、最先端=亀山郁夫が愚劣な活動を進めている ── あろうことか『悪霊』の翻訳まで開始している ── こと。そうして、最先端=亀山郁夫の読者が ── 無知ゆえに ── まだまだ増えつつあること。また、先に挙げた村上春樹ら ── ドストエフスキーをよく読み込んでいるはずであるのに、最先端=亀山郁夫を称揚してしまうのは、実はそもそもよく読み込んでなどいなかったのか、嘘をついている(控えめにいって、正視していない)のかのどちらかとしか考えられない ── の発言のあること。それらのいちいちに私は怒りとやりきれなさとを溜め込むことになりました。正直、これが結構しんどいんですね。まったく、きりがないんです。もっとも、村上春樹が最先端=亀山郁夫訳を否定しさえすれば、最先端=亀山郁夫批判にとって大きい前進になるなどと考えていた私が甘かったんですね。
 村上春樹についてもう少しいえば、あれだけの ── つまり、私は彼の翻訳を素晴らしいと思っているわけです ── 翻訳をしているひとに最先端=亀山郁夫の実質がわからないはずはありません。逆に、わからないであれだけの翻訳をするということはありえません。だから、実は、村上春樹はインタヴューではやんわりと皮肉をいったのだ、と私は考えないでもないんです。しかし、彼ほどに自分の発言の影響力を承知しているはずのひとが、そのような曖昧ないいかたをしてはなりません。彼は、最先端=亀山郁夫よりも、『カラマーゾフの兄弟』という原作(とその読者)を大切にすべきでした。この点でも、彼には本当にがっかりしました。いや、もしかすると、皮肉でも何でもなく、彼は最先端=亀山郁夫の仕事を賞讃したのかもしれません。そうだとすれば、いまや村上春樹には重大な何かが欠け落ちてしまっているのじゃないでしょうか? それはどうあれ、私は彼に対する大きい失望を繰り返しておきます。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についての村上春樹の発言は、はっきり誤りです。

「でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりのよい、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です」

村上春樹「沈黙」 『レキシントンの幽霊』所収 文春文庫)


 私は「誰の前にひれ伏すべきか?」(「大審問官」)と並んで、この村上春樹の文章が現在の「最先端=亀山郁夫問題」をよく表現していると思っていたんですけれど、いま、右の「青木」を「最先端=亀山郁夫」に読み換えてみてください。「誰か」を『カラマーゾフの兄弟』という作品だと、あるいは最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の読者だと読み換えてみてください。いまや村上春樹は「青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中」のひとりじゃないでしょうか? いやはや、「本当に怖い」です。

 これもまたいっておきますが、たとえ最先端=亀山郁夫訳であろうとも、それでドストエフスキーを読むきっかけになれば、いいじゃないか? などという考えは絶対に駄目です。また、これだけ最先端=亀山郁夫訳が読まれて、その多数の読者たちが感動し、満足しているのなら、それでいいじゃないか? などという考えも絶対に駄目です。みんながいいといっているんだから、それでいいじゃないか?  ── 絶対に駄目です。

 また、こういうことも考えます。作家、翻訳者、編集者、書評家、研究者らは、それぞれがもっと孤立すべきで、各人がもっと重い責任を持つべきじゃないでしょうか? 彼らの誰かが駄目な仕事をしたなら、べつの誰かがそれをきちんと指摘すべきです。ところが、彼らは自分たちの責任を読者に押しつけているように思われてなりません。多数の読者が喜ぶ、本が売れる、それならそれでいいじゃないか? というふうに。そのくせ、彼らは多数の読者を自分たちの権威や情報や宣伝によって操作しているつもりもあるんじゃないでしょうか?
 右のことは、最先端=亀山郁夫問題をももちろん含んで、書店に勤める私には以前からずっと気になっていたことです。いや、書店に勤める前からですね。しかし、書店に勤めていっそう、そうして、『白い犬とワルツを』の件以降さらに意識が強まったでしょう。私が自分の勤める書店でPOPを書くのをやめてしまい、引きこもって個人でこの「連絡船」を始めたのも、その意識のせいですね。

 さて、先月私はあるテレヴィ番組の取材を受けました。この十年間の「ベストセラー」をいろんな切り口で採りあげるという企画です。書店員の手書きPOPから生まれた「ベストセラー」ということで『白い犬とワルツを』が扱われるわけです。私はここしばらくそういった取材を基本的には断わってきていましたが、新潮社がこの九月にあの作品を絶版にするつもりだった(これは土壇場で回避されました)のを知っていたので、愛着のある作品のために何かしておこうと思ったんです。絶版の件がなければ、受けなかった。それでも、私は番組制作側に、自分が「ベストセラー」というものに否定的であること、『白い犬とワルツを』の総部数(一八八万部)をよくないと思っていることを理解してほしいといい、さらに条件をつけました。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』も採りあげるのか、と訊ね、まず最先端=亀山郁夫自身への取材のないことを確認、さらに(数日かかって)、光文社編集部への取材のないことをも確認しました。もし、そのどちらかでもがあったら、私は取材を受けない、なぜなら「あんなでたらめなものと一緒に並びたくないから」と告げたんです。ただ、それでも「新訳ブーム」という切り口からは、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の書名だけは挙げざるをえないので、それは了承してほしいといわれました。
 それにしても、収録で ── 小一時間ほどカメラの前でしゃべったんですが ── 、私は「ベストセラー」を否定し、出版社や書店や読者を批判し、「本屋大賞」をも否定しましたから、実際に番組で使えそうな発言はほとんどないだろうと思います。ただ、「昔話」として、自分がかつて村上春樹の作品にどんなPOPを書いていたかをしゃべったのが、村上讃美として扱われなければいいな、とも思います。

 それはともかく、私が停滞してしまった理由の二つめ。これもまた「怒り」についての話です。私のなかで「怒り」というものがいまどんな大きさになっているか、どんな位置にあるか、というようなことです。
 私は「その一一」で、自分が喧嘩を止めさせた話と客を怒鳴りつけた話とを書きました。あれからどうも自分のなかで怒鳴ることが解禁されたとでもいう感じがして、困惑しています。私はあれ以降、実際に何度もひとを怒鳴りつけ、詰問しつづけています。相手は私の勤める書店で万引きをした者たちです。揉みあいになることもあります。大暴れする身体の大きい十代をふたりがかりで押さえつけながら怒鳴りもしました(このとき周りのひとたちが何をしていたか、後できかされたんですが、何人かは「写メ」していたそうです)。以前の私にはこういうことはできませんでした。それがなぜかいまはできている。万引きの発見についても同様の変化があります。つまり、以前の私なら、防犯カメラのモニターで万引きを目撃しても、「たしかにいま自分はそれを見た。見たが、それは本当だろうか? 見間違いではないだろうか?」というような躊躇の一過程があり、それを引きずったまま動いていたのに、いまではそんな思考・感情の手続きを全然踏まずに、もう先に身体が動いているという具合です。瞬時に怒りが沸騰する感じなんですね。おそらくこれによっても、発見数が激増してきました。月を追うごとに逮捕数も上がっています。「おそらくこれによっても」というのは、私の勤める書店での万引き件数が現実に増えてきているのか、ずっと変わらぬペースなのか、ひょっとしたら減っているのか、確認のしようがないからで、確かなことは、発見する私の目が肥えて・鋭くなってきているということです。いまや、私は毎日万引きを見つけるためだけに出社しているような感じなんです。毎日、です。仕事になりません。くたくたです。万引きする者、しようとする者の数がどれだけ多いか、これはふつうのひとには到底わかってもらえないでしょう。彼らは十代から六十代 ── この六十代(まるで鋭敏な兵士のごとく、周囲の一瞬の隙をついて二度も大量に万引きした)は所持金三十円でした ── まで男女問わずです。うんざりするとともに、私は困惑しています。私は彼らに「絶対許さないからな」といい、これは、いえばいうほど私自身を痛めつけている感じなんですね。「お前、そんな偉そうなことをいえた柄か?」という自分の声が常にします。これらのすべてがまた正直、しんどい。
 私は最先端=亀山郁夫問題に対する自分の怒りと万引き犯たちへの怒りとを明確に区別できていないと思います。最先端=亀山郁夫問題への怒りについては、これまでの人生で最大のもの ── というか、これまでの私はほとんど怒らない人間でした ── です。しかも、それがここまで持続している。この怒りなしに、私が万引き犯たちへのいまの怒りを持ちえただろうか、と思いもします。この怒りと私は憎悪と、あるいは軽蔑の区別もついていません。私は自分のこうした感情を恐れます。私のなかのこうした感情の増殖に怯えてもいます。私は狂っているのじゃないでしょうか? 狂っていますね。
 これを書いているいま ── 休日です。万引きを見つけなくてもいい一日です ── 私はとても穏やかな気持ちでいました。前夜には先の「かめ」氏の新たな書き込みに怒りに満ちた対応なんかしていたんですが、今日は穏やかでした。ぐっすり眠りもしました。そうして、『ガープの世界』(ジョン・アーヴィング 筒井正明訳 サンリオ文庫新潮文庫)での「ベンセンヘイパーの世界」や「ひきがえるの習性」などを思い出していました(私はこの翻訳に不満はありますが、未読の方はどうぞ読んでみてください)。それで、ついさっき、「こころなきみにも」の最新記事を読んだところです。

「きょうは犬の日で紅茶をサービスしまーす。紅茶の日でもあるし」
犬の日?」
「11月1日は、ワンワンワンってことでみたい」
「ほー、知らなかったなぁ」
「でも11月11日のほうが、ワンワンワンワンって多くていい気もするが・・・」
「そういえば、なんででしょうね?」
「?」
「?」
「あ! ほえすぎると、うるさいからかも?」
「えー」

『Fonte』(元『不登校新聞』)No.277(2009/11/1)
(「こころなきみにも」十一月十一日 http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20091111


 私は「ほえすぎ」ていました。私は狂っていました。

 私が停滞してしまった理由の三つめ。
 私は自分の『カラマーゾフの兄弟』の読み取りを公開しつつ最先端=亀山郁夫の読み取りを批判していたわけですけれど、最初のうちは、まず最先端=亀山郁夫の読み取りを採りあげ、それについてあれこれしゃべっていたんですが、これが難しくなりました。最先端=亀山郁夫の読み取りがあまりに馬鹿馬鹿しいので、いつからか、自分の読み取りの方を優先するようになっていました。これでは直接の批判にならないのではないか? と私は考え込んでしまったんです。しかし、やはりそんなことはないんですね。こう考えるまでに時間がかかってしまったんです。

 私が停滞してしまった理由の四つめは、この後、べつの文章で書きます。

 いまの私はこう考えています。とにかく私は自分の読みをどんどん語っていきさえすればいい。いささか遠回りになろうとも、それは最先端=亀山郁夫批判として有効だ。私はもうこの問題に関する新情報をいちいちチェックするよりも、私の文章に対するちゃちゃなんかに対応するよりも、とにかく『カラマーゾフの兄弟』という作品に潜り込むことだけに専念すればいい、と。


(追記)右の「ちゃちゃ」というのは萩原氏のことを指しているのではありません。先の「かめ」氏や村上春樹ファンとおぼしき読者からのコメントを、私は思い浮かべているのです。