(一〇)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その三(前)





「その三」は二回に分けてUPします。


    1

 ここまで、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』について ── 基本的にはアリョーシャの「あなたじゃない」を巡って、その周辺だけを、ですが ── もうだいぶしゃべってきたわけです。私がこの翻訳の「あなたじゃない」の部分と、「解題」のある箇所を読んで「ええっ」と声を出してしまった ── この箇所については、まだしゃべっていないんです ── のが七月六日でしたから、もうひと月以上が過ぎているんですね(前回(=「その二」)の文章を公開してから、私はようやく「解題」の全文と「訳者あとがき」とを読みました)。その間に、私のなかでの亀山郁夫への評価は下がる一方で、ドミートリイ・カラマーゾフの台詞をもじっていえば、「こんな男がなぜ訳してるんだ!」という具合にまでなってしまいました。もう彼の文章を読みたくないんですよ。あまりにひどすぎて、批評にも値しないように思われるんです。前回私は「『カラマーゾフの兄弟』に限らず、彼にはどんな文学作品をも読み解く力がない」といいましたが、彼の文章がまた読むに耐えないレヴェルなので、実は、それを根拠に批判すること自体がばかばかしいんです。それにもかかわらず、なぜ私がここで批判をつづけるかというと、これが『カラマーゾフの兄弟』に関わるからです。私は『カラマーゾフの兄弟』が亀山訳および彼の「解題」によって大きく損なわれて多数の読者(現時点で、この文庫は全五巻累計で九〇万部を刷っています)に受容されていることが許せないんですね。とんでもないことをしてくれた、と思います。「解題」についていえば、こんなものでも、ありがたがって読む読者が大勢いるんですよ。私が見つけたあるネット上の文章では、アリョーシャの「あなたじゃない」の意味が「解題」を読んでよくわかった、などというものさえあるんですね。恐ろしいことだ、と思います。
 それにしても、こうまで原作を読み取れていない人間による翻訳が成立してしまっていることが、私をある種の感心に導くのでもあるんです。できるものなんだなあ、と思うんです。誤読の累積がありながらも、原作の一文一文を辛抱強く訳していけば、終わりまで行き着くものなんだなあ、と。このことから、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』にさして問題はないのだ、と主張するひとのあることも想像できます。しかし、それは誤りです。そんなことを主張するひとには「文学」がまったくわかっていません。
「文学」がまったくわかっていない、そういうひとたちの恐ろしい数を私は承知しているつもりです。自ら「多読家」を称しながら、「文学」の「ぶ」すらわからず、そうして、自らそれでいいと考えているひとたちの割合も相当なものになるでしょう。それも私は承知しているつもりです。そうして、私は、自らそれでいいと考えないひとたちのことを頼みにするんです。つまり、「背伸びする」つもりのあるひとたちですね。私はこのことを考えるときに何度か「大審問官」を引用してきましたっけ。私には、「大審問官」が何を考えているかがよくわかります。
 以前に私は大江健三郎ノーベル文学賞を受賞したときのことをしゃべりました。「大江健三郎の作品であればなんでもいい」という客が私の勤める書店に押し寄せたんですね。それで、店にある大江作品がすべて売り切れるということがあったわけです。そのときに、私は、そうやって「大江作品であればなんでもいい」といって買っていった客のほとんどが、いざ読みはじめて「なんだこりゃあ?」といって本を投げ出すことになるだろう、とあるひとにいいました。つまり、彼らに大江作品を読み解く力のあるはずがないからだ、と。すると、相手は私にこう問いました。「で、お前にはその大江作品を読み解く力があるってわけだ?」。そのときに私はこう答えたんですね。「その通りです」。この「その通りです」を、私はそれから何度口にして徒労感に襲われてきたでしょうか。
 また、ここ最近でも、私は自分の勤める書店で、かなり売れている小説のいくつかを立ち読みしながら、あらためてくらくらしたのでもありました。
 あらためて、というのはこういうことです。以前にも引用しましたが、

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。そういう読者にだけ照準を合わせて「なにが」だけを提示しているにすぎない自称「作品」がどれだけ売れているかを考えるとくらくらします。私が疑うのは、単に「なにが」だけしか提示していないものを読むときに、多くの読者が勝手に作家の非力を、いかにもありがちなイメージで ── すぐにわかる、わかって安心できる、すでに自分のなかにある安手なあれ・それを当てはめながら ── 補ってやっているのではないか、最近の傾向でいえば、読んで泣こうとして、泣く方向にねじまげて読むから、だめなものでも泣かずにはいないということがあるのではないか、ということですね。しかし、ちゃんとした作品、「どのように」のきちんとできている作品はもっと自立したものであるはずです。泣くことが目的の読者のごまかしに手伝ってもらう必要など全然ありません。
 しっかりした「どのように」がともなってはじめて可能になる「なにが」の表現ということを考えてほしいんです。つまり、読者がいまだ知らないなにか、名前をつけようと考えたこともないなにか、自分のすでにもっている(そしてすぐに取り出せる)どの観念にも落とし込むことのできないなにか、それが、作品の「どのように」に支えられてのみ、その作品一回きりの「なにが」として立ち上がってくるということがあるはずなんです。そういうことの実現こそがほんものの作家の仕事じゃないでしょうか? そして、そういう作品を読むことこそがほんとうの読書なのでは?

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)


 そうして、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』にしても、その大方の読者が「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」でもあるだろうと私は思っているんです。また、亀山訳がそういう読者に「照準を合わせ」た翻訳でもあるだろうと思うだけでなく、そもそも亀山郁夫自身が「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」であるだろうと思うんです。
 既存の、たとえば原卓也訳を読もうとして挫折を経験したひとが、亀山訳をこなれていて読みやすいなどといって、とにかく最後まで読み切る、しかも、感動までするという例も、ネット上ではたくさん読むことができます。しかし、原卓也訳はけして古くさくなっていないし、優れた訳だと私は思います。これは、原訳を読みこなせないひとの方がおかしいのじゃないかと思います。

 ここで、いささか乱暴なことをいいますけれど、つい最近に、あるひとが「翻訳作品というのは、どうして売れない・読まれないんだろう?」といい、「あの翻訳調というのが理由だろうか? それはたしかに自分にも苦手であるのだが」といったのに対して、私はこう答えたんですね。なぜ、翻訳作品が売れない・読まれないかというと、それは日本人作家による日本語作品よりも、翻訳作品の日本語の方がしっかりしているからだ。日本人作家による作品の売れているものの多くが、実はしっかりしていない日本語で書かれている。そうして、しっかりした日本語を読み取る力のない読者が多すぎるために、しっかりしていない日本語の作品がどんどん読まれる。そこで、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読みやすいなどといってしまう読者は、亀山郁夫のしっかりしていない日本語に惹かれるわけだ、と。乱暴ですけれど、的外れではないと私は思います。

 いや、実際にどうなんでしょうか? 亀山訳で初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとにも、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンに図星だったというふうに受け取られるものなんでしょうか? 気にかかるところです。そんなことをいっても、お前自身が亀山訳全編を読んでいないじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、私は絶対にそれをしません。



    2

 さて、いらだちと嫌悪感に包まれたこのひと月あまりですが、この一連の文章を書いてきて、ひとつよかったと思うことがあります。『カラマーゾフの兄弟』のほんの一部分についてとはいえ、私がかなりしゃべることのできたことですね。こんな機会でもなければ・こんな馬鹿な読みかたの見本さえなければ、私がこの作品についてここまであれこれしゃべることはなかっただろうと思うんです。もっとも、これは未読のひとを対象にしての「読書案内」にはなっていませんけれど。しかし、既読のひとに再度『カラマーゾフの兄弟』について考えてもらうきっかけにはなりうるのじゃないかと思うんですね。再読の薦めにはなっているのじゃないか、と。
 ともあれ、私はまだしばらく『カラマーゾフの兄弟』を自分がどんなふうに読んできたかということをしゃべりつづけます。そうすると、お前の読み取りだって、亀山郁夫と同じように誤読の累積じゃないか、呆れてしまうよ、という声の出てくることももちろん予想できます。しかし、だからこそ、私はとにかく自分の読み取りを話さなくてはならないんです。単に亀山郁夫を批判するだけでなく、私の手の内をすっかり明かしておかなくてはならない、私の読書の限界を示しておかなくてはならない ── そうでないと、亀山批判にもならない ── んです。また、それでこそ「読書案内」あるいは「再読の薦め」になるはずだと私は信じます。

 それとともに、私はこの機会に『カラマーゾフの兄弟』以外の作品の「案内」までしてもいいんじゃないか、と思います。なにしろ時間はたっぷりあります。
 そんなふうで、私はここでまた脱線して、いくらか余計なことをしゃべります。「大審問官」へとつながる話のなかで、イワンがこんなふうにいうんでした。

「俺は、やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や、斬り殺された人間が起き上がって、自分を殺したやつと抱擁するところを、この目で見たいんだよ。何のためにすべてがこんなふうになっていたかを、突然みんながさとるとき、俺はその場に居合わせたい。地上のあらゆる宗教はこの願望の上に創造されているんだし、俺もそれを信じている。しかし、それにしても子供たちはどうなるんだ。そのときになって俺はあの子供たちをどうしてやればいいんだ? これは俺には解決できない問題だよ。百遍だって俺はくりかえして言うけれど、問題はたくさんあるのに、子供だけを例にとったのは、俺の言わねばならぬことが、そこに反駁できぬほど明白に示されているからなんだ。そうじゃないか、たとえ苦しみによって永遠の調和を買うために、すべてのひとが苦しまなければならぬとしても、その場合、子供にいったい何の関係があるんだい、ぜひ教えてもらいたいね。何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか、何のために子供たちが苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるきりわからんよ。いったい何のために子供たちまで材料にされて、だれかの未来の調和のためにわが身を肥料にしたんだろう? 人間同士の罪の連帯性ってことは、俺にもわかるし、報復の連帯性もわかる。しかし、罪の連帯性なんぞ、子供にあるものか」


 そこで、私はこの部分の影響を直接に大きく受けたべつの作家のある作品を引用します。
 ある幼い子どもが病気によってひどく苦しんで死ぬんですね。しかも、その苦しみは長くつづきました。なぜかというと、この少年はこの病気に対抗するワクチンを注射されていたからです。ワクチンがある一定の効力を発揮してしまったために、本来もっと早く死ぬはずだった彼の存命時間が引き延ばされたんです。ということは、それに伴う苦しみもまた引き延ばされたんですね。しかも、結果として、このワクチンは彼を助けませんでした。この少年を助けようとしていたひとたちは、自分たちがよかれと思ってやったことが、彼の苦しみを引き延ばすことにしかならなかったことに絶望します。

 ずっと漆喰の壁に沿って、光線は薔薇色から黄色に変っていった。窓ガラスの向うには、炎熱の朝がはためきはじめていた。グランが、また来てみるといいながら帰っていったのも、誰も聞いたか聞かないくらいであった。みんなじっと待っていた。少年は相変らず目を閉じたまま、少し静まった様子であった。まるで鳥の爪のようになった手は、静かに寝台の両側をかき撫でていた。その手がもとへもどり、膝のあたりの毛布をかきむしったと思うと、突然、少年は足を折曲げ、両腿を腹のそばまで引きつけ、そして動かなくなってしまった。彼はそこではじめて目を開き、目の前にいたリウーの姿を見つめた。今はもう灰色の粘土に凝固してしまったその顔のくぼみのなかで、口が開いたかと思うと、ほとんど直ちに、単一の持続的な悲鳴 ── ほとんど呼吸による抑揚さえ伴わず、突如、単調な不協和な抗議で部屋じゅうを満たし、そしてまるで、ありとあらゆる人間から同時に発せられたかと思われるほど非人間的な悲鳴 ── が、その口からほとばしり出た。リウーは歯を食いしばり、タルーは顔をそむけた。ランベールはカステルのそば近く寝台に進み寄り、カステルは膝に広げたままだった本を閉じた。パヌルーは、病に汚染され、このあらゆる年齢に満たされた、あどけない口を見つめた。そして、彼がぱったりひざまずいたかと思うと、やや圧し殺したような声、しかし絶えようともせぬ無名の悲鳴の陰にはっきり聞きとれる声で、こう唱えるのを一同自然なこととして聞いた ──「神よ、この子を救いたまえ」
 しかし少年は叫びつづけ、そしてその周囲では、患者たちが興奮しはじめた。さっきから部屋の向う端で叫びをやめないでいた患者は、そのうめきのリズムを早め、ついにはこれまたまったくの悲鳴を発するに至り、その間、ほかのものはますます激しくうめきはじめた。潮のようなすすり泣きが室内に打寄せつつ、パヌルーの祈り声をおおい、そしてリウーは、寝台の横木にすがりついたまま、疲労と嫌悪に酔ったようになって目を閉じた。
 ふたたび目をあけると、タルーがいた。
「とてもこれ以上、僕はいられない」と、リウーはいった。「もう聞いてられないんだ」
 ところが、突然、ほかの患者たちが沈黙した。リウーはそのとき、少年の悲鳴が弱まっていたこと、それがさらに弱まり、そして今途絶えたことに気づいたのであった。彼の周囲では、うめき声がまた始まった ── しかし忍びやかにあたかも今しも終りを告げたその戦いのはるかな反響のように。なぜなら、戦いは終りを告げたのである。カステルは寝台の向う側にまわり、そしてもう終ったといった。口をあけたまま、しかも声はなく、少年は、乱れた布団のくぼみに急にちっちゃくなり、涙の名残りをとどめて横たわっていた。
 ……(中略)……
 しかしリウーはすでに部屋を去りかけ、しかも恐ろしく急ぎ足で、ひどく気色ばんでいたので、彼がパヌルーを追い越していこうとしていたとき、パヌルーは腕を伸ばして引きとめようとしたほどだった。
「まあ、ちょっと、リウーさん」と、彼はいった。
 同じ激した身ぶりで、リウーは振向くと、激しくたたきつけるようにいった──
「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存じのはずです!」
 それからまた顔をそむけると、彼はパヌルーより先に部屋の出口を通り抜けて、校庭の奥のほうへ行った。彼は埃だらけの小さな木立の間にある一つのベンチに腰を下ろし、すでに目に流れそうになっている汗をふいた。彼は心臓もはりさけんばかりにしめつける激しいしこりを、今こそ解きほぐすために、まだもっとわめきたい気がした。暑さが、無花果の枝々の間に、徐々に降り注いできた。朝の青空はすぐにもう白っぽいくもりにおおわれてきて、それが大気を一層息苦しくした。リウーはベンチの上でぐったり身を休めた。じっと木の枝や空をながめながら、徐々に呼吸を取りもどし、少しずつ疲労をほぐしていった。
「どうして私にあんな怒ったようないい方をなすったのです」と、うしろで声がした。「私だって、あの光景は見るに忍びなかったのですよ」
 リウーはパヌルーのほうを振向いた。
「ほんとにそうでした」と彼はいった。「悪く思わないでください。なにしろ、疲れたときは気違い同然になってますからね。それに、この町では、僕はもう憤りの気持しか感じられなくなるときがよくあるんです」
「それはわかります」パヌルーはつぶやいた。「まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」
 リウーはいきなり上体をぐっと伸ばした。彼はそのとき身のうちに感じえたかぎりの力と情熱をこめて、じっとパヌルーの顔を見つめ、そして頭を振った。
「そんなことはありません」と、彼はいった。「僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫


 リウーは医師です。そうして、パヌルーは神父。そうして、この後 ── べつの場面、教会での説教において ── でパヌルーはこういうことをいうんですね。

 たしかに、善と悪というものはあり、また一般に、両者を区別するところのものは容易に説明される。しかし、悪なるものの内部の世界で、困難が始まるのである。たとえば、一見必要な悪と、一見無用な悪とがある。地獄に落とされたドン・ジュアンと、子供の死とがある。なぜなら、遊蕩児が雷電の一撃を受けることは正当であるとしても、子供が苦しむということは納得できないのである。そして、じつに、この地上における何ものも、子供の苦しみと、この苦しみにまつわるむごたらしさ、またこれに見出すべき理由というものほど、重要なものはないのである。

(同)


 私はまた後で、こうした幼い子どもの苦しみについて触れた、これまたべつの作家の作品を引用することになりますが、いまはこれくらいにしておきます。

 それから、私はまたこういう文章も紹介しておきましょう。

 さて、今こそ私の信条を告白して、はっきり確認しておくべきときであるが、この疑いもなくニーチェの「生」のロマン主義を源泉とする唯美主義は、私がものを書き始めた頃大流行であったが、私は、これとほんの僅かでも関わりを持ったことは、ただの一度もない。
 ……(中略)……
 確かに、普通なら軽蔑するにはあまり向かない年頃に、私は、自分の周囲をとりまいていたルネサンスニーチェ主義を軽蔑していた。それは、ニーチェを子供っぽく誤解して模倣しているように私には思えたのである。彼らはニーチェの言葉だけを捉え、それを字句どおりに受け取っていた。彼らが体験したのは、ニーチェその人ではなく、ニーチェ的自己否定のあらまほしき姿であり、この姿を、彼らは機械的に作り上げたのである。彼らは、ニーチェが自ら称した「悖徳者(イモラリスト)」という名前を単純に信じこんだ。このプロテスタント牧師の息子がかつてないほどに鋭敏な倫理家(モラリスト)であったこと、倫理に憑かれた人、パスカルの兄弟であったことに気がつかなかったのである。だが、彼らはそもそも何に気がついたというのだろう! 彼らは、ニーチェの本質が誤解の機会を与えるところは何ひとつ逃さず、すべて誤解した。ニーチェのエロスのなかにあったロマン主義的イロニーの要素、── これを感受する器官などは、彼らにはそのかけらもなかった。そして、彼らがニーチェの哲学的思考に感激して生み出したものといえば、全く興ざめな美の饗宴であり、高校生的な色情幻想に満ちた小説であり、何ひとつ欠落のない悪徳のカタログであった。

トーマス・マン『非政治的人間の考察』 青木順三訳 新潮社)





    3

 さて、私が亀山郁夫の「解題」をぱらぱらと読んでいて、「ええっ」と声をあげてしまった ── やっとこれについてしゃべることになります ── のは、「大審問官」についてのこういう文章でした。

 問題は、その「キス」の意味するところとは何か、その「キス」をどのような意味として大審問官は受けとめたのか、という点である。「彼」はその「キス」で、キリストみずからの絶大な力を、表明しようとしていたのか。大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言の代替行為だったのだろうか。それとも、歴史は動かせない、だからあなたの好きなようになさるがよいという、承認と、ことによると「祝福」のキスだったのか。

亀山郁夫「解題」)


 大審問官の「受けとめた」ものを、こんなふうに受けとめるひとがいるなどとは、これまで想像したこともありませんでした。なんですか、この選択肢は? しかも、これだけなんですか? それで「ええっ」と声が出てしまったんですね。いや、本当にびっくりしました。

 亀山郁夫はこうつづけます。

 何よりも、この物語詩がイワンによる創作であるとの前提をふまえなくてはならない。言い換えるなら、これは無神論者イワンがみずからの世界観を補強する物語詩なのである。そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる。

(同)


 そして、アリョーシャのキスについては、こうです。

 このキスは、たんなる「盗作」と軽々しく扱うわけにはいかない。なぜなら、キスの理解は、イワンとアリョーシャとでは百パーセント異なっていたはずだからである。イワンは、おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。つまり、キリストに擬せられたアリョーシャが自分の世界観を承認した、ととらえたにちがいない。しかしアリョーシャは、おそらくそれとは逆の意味を施していたにちがいない。
 ……(中略)……
 かりにアリョーシャのキスが「承認」を意味し、イワンがそれを感じたとするなら、「大審問官」の最終的な結論はどのようなものになるのか。「彼」すなわちイエス・キリストは、大審問官が行ってきた事業を承認する、という意味に変わる。つまりイエス・キリストは無力だという、イワンの認識そのものである。

(同)


 私の反応はどうだったか? 私は、開いた口がふさがらない、といった状態になりましたよ。なんだこれは? そう思いました。いやはや、まさかこんなふうに考えているひとがいるとは信じられませんでした。(数日後に、ようやく気がつきました。イワンのこの「物語詩」(原卓也訳では「叙事詩」)を最後までおとなしく黙って聞き、その後に「そのキスは、大審問官の事業を承認する、という意味なんですね?」と真面目に質問するかもしれない人物を私はひとりだけ知っていました ── スメルジャコフ!)

 ── というわけで、私はなんと「大審問官」についてしゃべらなくてはならなくなったわけです。笑ってしまいますが、しかたがありません。なんでこんなことをいわなくてはならないのか、と真面目に思いますよ。しかし、誰もいわないのだから、しかたがありません。とはいえ、かつて『カラマーゾフの兄弟』に深く感動したことのあるひとなら、私が前々回(=「その一」)で、実はしきりにこの「大審問官」とその周辺のイワンの思想について触れていたのがわかっていただろうとも思います。

 彼は以前からある思想を抱いており、その思想からは、理論上、この殺人の肯定も可能 ── 「すべては許される」 ── いや、実は彼にもそこまでは不明だっただろうと思いますが ── なんです。


 同じことですが、これをアリョーシャの立場からいい換えてもみました。

「あなたは、あなたの思想から導き出せる可能性のなかから、すべては許される、したがって、父を殺すことがあってもいい、それは許される、と考えていたけれども、しかし、それを本当に信じていたのではなかったし、事実、それを実行してもいない」


 それぞれに私はある留保をつけました。傍線部「いや、実は彼にもそこまでは不明だっただろうと思いますが」と「しかし、それを本当に信じていたのではなかった」です。さらに、こんなふうにもいいました。

 こうして、イワンは再び強引に自らの「カラマーゾフ的な力」に頼むわけです。しかし、彼にはわかっています。アリョーシャにはなにもかもわかっている、ということが。だから、もし自分をいまの状況から救い出してくれる存在があるとすれば、それはアリョーシャだけだ、ということがわかっています。これをさらにいえば、ある意味では、こうなります。もし、自分がここで素直にアリョーシャに助けを求めることができたら、どんなにいいだろう。自分をさらけ出して、身を投げ出すことができたらどんなにいいだろう。しかし、彼は傲然とその望みを断ち切ります。誰にも頭を下げず、自分の力だけでなんとかやってやる、ということです。だから、彼はアリョーシャに「絶交」をいい渡しました。しかし、いいですか、それは、彼イワンが、アリョーシャを完全に信頼しているからこその「絶交」なんですよ。アリョーシャにすがってしまえば、自分が救われてしまうことを知っているからこそ、彼は「絶交」を選択するんです


 こちらでも傍線部に注目してください。私は、これがイワン・カラマーゾフという青年(数えで二十三歳)だと思っているんです。
 もしかすると、がっかりされた方があるかもしれません。それは、イワンを過小評価しているよ、それだと、『カラマーゾフの兄弟』の全体まで小さく思われてくるよ、という方があるでしょう。イワンがもっと悪魔的な異形の人物であった方がよかったと考えている読者ですね。そういう読みかたをするひとのあるのを、私は承知しています。しかし、私はそういう読みかたから、イワンをもっとこちら側へと引き戻したいんですね。イワンをもっとふつうの人間として考えたいんです。
 私はこう考えているんです。作家は、自分の書いている作品で、登場人物にある思想を語らせることがあるでしょうが(私はここで「登場人物」と「思想」のことだけをいいます)、彼のすべきことは、まずその登場人物を読者の前に存在させることです。作家がどうにかこうにか、その登場人物を描き、読者の前に存在させることに成功したとします。ところが、出来上がったその登場人物では、当初作家の考えていた思想を語るには十分でない、とてもその登場人物がその思想を語るとは思えない、というふうになってしまったとき、作家は、その登場人物にその思想を語らせてはいけません。まず、登場人物です。思想はその次になります。つまり、登場人物は思想の発現する「場」なんですね。その「場」なしには、思想もなにも生じることがありません。作家はなによりもまず「場」を存在させなくてはならないんですよ。そういうことです。むろん、作家は、その思想に合わせた造形をその登場人物に与えようとはするんでしょうけれど……。
 何がいいたいのかというと、こうです。イワンの思想は、必ずイワン自身の生身の身体のうえに成り立っていなくてはなりません。いいですか、イワンが(存在して)いて、そのうえで彼の思想が描かれるというのでなければなりません。イワンが先です。彼の思想 ── ということは「大審問官」も含まれます ── はその次です。
 私は、アリョーシャのこのことばをそのまま受け取っていいだろうと思っているんです。

「つまり、兄さんもやっぱり、世間の二十三歳の青年とそっくり同じような青年だっていうことですよ。やっぱり若くて、ういういしくて、溌剌とした愛すべき坊やなんだ、おまけに嘴の黄色い雛っ子でね!」


「大審問官」の直前における、アリョーシャを前にしてのイワンの上機嫌が、実はイワン本人を、他のどの場面よりよく表現しているだろうと思うんです。
 私はイワンの「無神論」が、彼の生身の身体のうえに、どのように成立していたかを問題にするんです。
 結論からいえば、こうなります。イワンは神を信じているんですよ。彼の「無神論」の基盤は、彼の信仰にあります。彼は神を信じていて、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」に大きい信頼と期待を寄せているんです。ところが、現実には、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」には、イワンが絶対に同意できないような矛盾点があります。だから、彼は神をなじることになるんですよ。彼は裏切られたというふうに感じるんです。神が……してくれない、……もしてくれない、……もしてくれない、そんなことってあるか、と彼は主張してやまないわけです。これが彼の生身の身体のうえに成立していた「無神論」なんだ、と私は考えているんです。

「じゃ、何からはじめるか、言ってくれよ。お前が注文するんだ。神の話からか? 神は存在するか、というところからかい?」
「何でも好きなものから、はじめてください。《反対側》からでもかまいませんよ。だって、兄さんは昨日お父さんのところで、神はいないと断言したんですから」アリョーシャは探るように兄を眺めた。
「俺は昨日、親父のところで食事をしながら、そう言ってお前をわざとからかったんだけど、お前の目がきらきら燃えたのがわかったよ。でも今はお前と話す気は十分あるんだし、とてもまじめに言ってるんだ。俺はお前と親しくなりたいんだよ、アリョーシャ。俺には友達がいないから、試してみたいのさ。だって考えてもみろよ、ひょっとすると俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」イワンは笑いだした。「お前にとっちゃ、思いもかけぬ話だろう、え?」

(同)


 これがイワンの本音ですよ。この本音が、アリョーシャ以外の誰の前にも出てくることはありません。これは、アリョーシャがそういう本音を引き出すことのできる人間であるということでもあります。イワンにとってのアリョーシャは特別です。だから、後に同じふたりの会話のなかに「あなたじゃない」が出てきてもおかしくないわけです。

「ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのところを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。断わっておくけれど、俺は赤児のように信じきっているんだよ ── 苦しみなんてものは、そのうち癒えて薄れてゆくだろうし、人間の矛盾の腹立たしい喜劇だっていずれは、みじめな幻影として、あるいはまた、原子みたいにちっぽけで無力な人間のユークリッド的頭脳のでっちあげた醜悪な産物として、消えてゆくことだろう。そして、結局、永遠の調和の瞬間には、何かこの上なく貴重なことが生じ、現われるにちがいない。しかもそれは、あらゆる人の心に十分行きわたり、あらゆる怒りを鎮め、人間のすべての悪業や、人間によって流されたいっさいの血を償うに足りるくらい、つまり、人間界に起ったすべてのことを赦しうるばかりか、正当化さえなしうるに足りるくらい、貴重なことであるはずだ。しかし、たとえそれらすべてが訪れ、実現するとしても、やはり俺はそんなものを認めないし、認めたくもないね! たとえ二本の平行線がやがて交わり、俺自身がそれを見たとしても、俺がこの目でたしかに見て、交わったよと言うとしても、やはり俺は認めないよ。これが俺の本質なんだ、アリョーシャ、俺のテーゼだよ。俺はまじめに話したんだぜ。俺は、これ以上愚劣な切りだし方はないといった感じで、お前との話をはじめたけれど、結局は俺の告白になっちまったな。それというのも、お前に必要なのはそれだけだからさ。お前に必要なのは神についての話じゃなく、お前の愛する兄が何によって生きているかを知ることだけなんだよ。だから俺は話したのさ」

(同)


 イワンは、実はとても「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を認めたいんですよ。でも(だからこそ)、どうしてもそれを「認めないのだし、認めることに同意できない」んです。

「兄さんはなぜ《この世界を認めないか》を、僕に説明してくれる?」アリョーシャはつぶやいた。
「もちろん、説明するとも。秘密じゃないし、そのために話をしてきたんだから。俺の望みはべつにお前を堕落させることじゃないし、お前を基盤から引きずりおろすことでもない。ことによると、お前の力をかりて俺自身を治療したいと思ってるかもしれないんだしな」ふいにイワンは、まるきり幼いおとなしい少年のように、にっこりした。アリョーシャはこれまで一度として、兄のそんな笑顔を見たことがなかった。

(同)


 これがイワンですよ。しかし、多くのひとが ── 一時期の私も例外ではありません ── この場面以外の、特にもっと後のイワンの印象に圧倒されるために、このことをすっかり忘れてしまうことになるんです。でも、おぼえておいてください。イワンは「まるきり幼いおとなしい少年のように、にっこり」することのできる若者なんです。

 そもそも彼は小説のはじめにこんなふうに紹介されていました。

 もっとも、ごく最近になって、彼はずっと広範囲な読者層から、ふいに一種特別な関心をよせられる機会にたまたま恵まれたため、このときにきわめて多くの人たちが一度に彼に目をとめ、おぼえたのである。それはかなり興味のある出来事だった。すでに大学を卒業したあと、例の自分の二千ルーブルで外国に行ってくる準備をすすめるかたわら、彼は、専門家でない人たちの注意まで集めた、そして何よりも、彼は理科を出たのだから明らかにまったく門外漢と思われる問題に関する、風変わりなある論文を大新聞の一つに発表したのである。論文は当時いたるところで持ちあがっていた教会裁判をめぐる問題について書かれたものだった。この問題に関してすでに出されているいくつかの見解を分析しながら、彼は自分の個人的見解をも表明してみせた。肝心なのはその論調と、目をみはるばかりの結論の意外性だった。一方では、教会派の大多数がこの論文の筆者をはっきり味方とみなした。ところが、彼らとならんで今度はだしぬけに、市民権派ばかりでなく、無神論者そのものまで、それぞれの立場から拍手を送りはじめたのである。結局、ごく一部の明敏な人たちが、この論文全体が不遜な悪ふざけと嘲笑にすぎぬと結論を下したのだった。わたしがこの出来事に言及するのは、教会裁判をめぐって持ちあがった問題に概して関心をよせていた、この町の郊外にある有名な修道院にも、この論文がさっそく広まり、すっかり面くらった思いをひき起こしたからである。筆者の名前がわかると、それがこの町の出身者で、《ほかならぬあのフョードル》の息子であるということにも、興味がよせられた。まさにその矢先に、当の筆者がわれわれの前にふいに姿をあらわしたのである。

(同)
(傍線は私・木下による)


 どうですか? それで、ゾシマ長老のところで、これに関する話題が出てきます。その後でミウーソフが最近のイワンの発言についてしゃべり、長老がイワンにたずねます。

「ほんとうにあなたは、不死という信仰が人間から枯渇した場合の結果について、そういう信念を持っておられるのですか?」ふいに長老がイワンにたずねた。
「ええ、僕はそう主張してきました。不死がなければ、善もないのです」
「もしそう信じておられるのなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなければ非常に不幸なお人ですの!」
「なぜ不幸なのですか?」イワンが微笑した。
なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです
「ことによると、あなたのおっしゃるとおりかもしれません! しかし、それでも僕はまるきり冗談を言ったわけでもないのです……」突然イワンは異様な告白をしたが、みるみる赤くなった
「まるきり冗談を言われたわけでもない、それは本当です。この思想はまだあなたの心の中で解決されておらないので、心を苦しめるのです。しかし、受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。今のところあなたも、自分の弁証法を自分で信じられず、心に痛みをいだいてひそかにそれを嘲笑しながら、絶望のあまり、雑誌の論文や俗世の議論などで憂さを晴らしておられるのだ……この問題があなたの内部でまだ解決されていないため、そこにあなたの悲しみもあるわけです。なぜなら、それはしつこく解決を要求しますからの……」
「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさりませ。『高きを思い、高きを求めよ、われらの住み家は天上にあればこそ』です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!」
 長老は片手をあげ、自席からイワンに十字を切ろうとしかけた。だが、相手はふいに椅子から立って、長老に歩みより、祝福を受けると、その手に接吻して、無言のまま自席に戻った。顔つきはまじめな、毅然としたものだった

(同)
(傍線は私・木下による)


 これがイワンです。彼はふざけていたわけじゃありません。この若者は、ごく少数の、彼以上に考え、彼の考えていることを理解することができ、彼の抱えている問題に精通している相手であって、しかも、彼の問題を「肯定的なほうに」解決する立場の相手には、正直で誠実な敬意を表わすことができます。そうでない大多数の相手に向かっては、彼は自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分を取り出して、偽悪的・断定的にしゃべります。ここで、では、アリョーシャがどういう位置にいるかといえば、おそらく、彼はイワンにとって、単に「彼以上に考えている相手・彼の考えていることを理解することのできる相手・彼の抱えている問題に精通している相手」としてのゾシマ長老につづくはずの人間であって、イワンの理論のいちいちを長老ほどに理解できるのではなくても、しかし、現実に彼の問題を「肯定的なほうに」解決する形での生をすでに実践している ── それも、何も考えていないから・愚かだからというのとは正反対の意味での実践なんですよ。アリョーシャは非常に賢くて、もしかすると、イワンとまったく同じ苦悩を抱えていたかもしれないにもかかわらず、たまたまそうならずにすんでいる・すれすれのところにいるんです ── 人間なんですね。だから、アリョーシャはイワンにとっての希望です。アリョーシャゆえに、イワンも自分の問題を「肯定的なほうに」解決することができるかもしれないんです。

「ことによると、お前の力をかりて俺自身を治療したいと思ってるかもしれないんだしな」ふいにイワンは、まるきり幼いおとなしい少年のように、にっこりした。

(同)


 それで、この「肯定的なほうに」ということをもっとよく考えるために、「否定的なほうに」ということを想像してみてほしいんです。こういう存在を仮定してみてほしいんです。つまり、問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老 ── という存在です。

 ここで、私はまたトーマス・マンを引用してみます。

「ぼくは発見した」と彼は言った、「あれは在ってはならないのだ
「何が、アードリアーン、何が在ってはならないのだ?」
「善であり高貴であるものだ」と彼は答えた、「人が人間的なるものと呼ぶものは、善であり高貴であるにもかかわらず、在ってはならないのだ。そのために人類が戦い、そのために圧政の城を襲撃し、そして遂に戦いに勝ったものたちが歓声を挙げながら告知したもの、それはあってはならないのだ。それは撤回されるだろう。ぼくがそれを撤回しよう」
「ぼくには、アードリアーン、君の言うことがよくわからない。君は何を撤回しようというのだ?」
「第九交響曲」と彼は答えた。

トーマス・マンファウストゥス博士』円子修平訳 新潮社)


 この『ファウストゥス博士』を私はこれまでたびたび引用してきましたが、この部分は初めてです。説明が必要だと思いますが、簡単にします。これは副題が「一友人によって物語られた ドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯」となっています。主人公の作曲家は、悪魔と契約して創作のインスピレーションを得ることになる ── 彼はイワン同様に悪魔と会話することになります。むろん、これはゲーテの『ファウスト』のみならず、『カラマーゾフの兄弟』を踏まえているわけです ── んですが、その契約には、こういう条項がありました。彼は「愛してはならない」んです。そうして、彼が愛を注ぐ相手は次々に死んでいくんですが、最後に彼が愛したのは幼い子どもだったんですね。恐ろしく苦しんで、この子どもは死にます
 次に引用する場面で、この子どもの名まえが「ネポムク」=「エヒョー」であることだけをいっておきます。

 それでも彼は、診断の確定のために必要であったし、それが患者の苦痛をやわらげる唯一の手段でもあったので、脊髄穿刺は自分でやることを引き受けた。シュヴァイゲシュティル夫人は蒼ざめてはいたが、気丈に、そしていつものとおり人間的なものに忠実に、すすり泣いている子供の身体を、ベッドの中で、顎と膝とがほとんど触れ合うように折り曲げて押えた、キュルビスが間隔のあいた脊髄骨の間から脊髄管に針を刺した、そして脊髄管から液体が滴り出てきた。ほとんど即座に無慙な頭痛がやわらいだ。今度頭痛が現われたら、と医師は言った ── そして彼は数時間後には頭痛が再発することを知っていた、脳室液の抽出による圧迫の除去はそれぐらいしかもたないからである ── 、不可欠な氷嚢の他にクロラール剤を与えてください、彼はその処方を書き、それは郡役所のある市から取り寄せられた。
 穿刺のあとぐったりして昏々と眠り続けていたネポムクが、再び嘔吐、その小さな身体の全身痙攣、頭蓋の割れるような頭痛によって目覚めると、またしても悲痛きわまる哀泣と劈くような悲鳴が始まった、── それは典型的な『脳水腫の悲鳴』であった、この悲鳴はかろうじて医師だけが、これを典型的なものとして受け取るために耐えうるのである。典型的なものは人を冷静にする、個人的なものとして理解されるものだけが度を失わせるのである。これが科学の冷静である。科学はその片田舎の弟子が、最初に処方した臭素剤とクロラール剤に代えて、たちまちモルヒネを使うのを妨げなかったが、モルヒネは多少は効果をあげたのである。彼は搾木にかけられている子供を不憫に思ったためばかりではなく、一家の人々のためをも考えて ── わたしは特にその中の一人を念頭において言っている ── モルヒネを使う決心をしたのであろう。脊髄液の抽出は二十四時間ごとでなければ行なってはならなかった、そして苦痛が軽減されるのはそのうちの二時間にすぎなかった。一人の子供の、震える手を合わせて吃りながら「エヒョーはかわいらしくするよ、エヒョーはかわいらしくするよ!」と叫ぶこの子供の悲鳴をあげて抵抗する拷問の二十四時間。つけ加えて言うが、ネポムクを見ていた人々にとっては付随兆候がおそらく最も恐ろしいものであった。顎部硬直とともに現われる眼筋麻痺によって説明されるものであるが、天上の光をたたえていた彼の眼が次第に斜視になって光を失って来たのである。そのためにあの甘美な顔が思いもうけぬぞっとするほど醜悪な顔に変り、間もなく始まった歯ぎしりと相俟って、悪魔にとり憑かれたような印象を与えた。

(同)


 その後で、主人公が先ほど引用した「ぼくがそれを撤回しよう」をいうんですね。「第九交響曲」はもちろんベートーヴェンのそれです。そうして、彼は「ファウストカンタータ」という、最後の作品を作曲します。

 終楽章は純粋に管弦楽的である、これは交響的アダージョ楽章で、地獄のガロップのあとで力強く始まる歎きの合唱が次第にこれに移行する、── これはいわば裏返しにされた『歓びに寄せる歌』、交響曲のヴォーカルの歓呼へのあの移行の等質的陰画である、これは撤回である……
 わたしのかわいそうな偉大な友よ! 彼の遺作、他の多くの破滅を予言的に先取りしている彼の破滅の作品を読みながら、幾度わたしは、彼が子供の死に際して言ったあの痛ましい言葉、それは在ってはならない、善、歓び、希望、それは在ってはならない、それは撤回されるだろう、ぼくがそれを撤回しよう! という言葉を思い出したことであろう。この「ああ、それは在ってはならない」は、ほとんど音楽的な指示や記号のように、『ファウストゥス博士の嘆き』の合唱楽章、器楽楽章を支配している、それはこの『悲しみに寄せる歌』のあらゆる拍節と抑揚の中に含まれている! これは疑いもなくベートーヴェンの『第九』を念頭において、言葉の最も暗鬱な意味において、その対蹠物として書かれたのである。

(同)


 どうでしょう?「問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老」から、いまの引用へと私が連想したのがおわかりいただけましたか? 「等質的陰画」、「撤回」、「それは在ってはならない」、「言葉の最も暗鬱な意味において、その対蹠物として」ということばをよく噛みしめてほしいんです。

 さらにまた私は大江健三郎を引用しましょう。

 ── いや、これを話さなければ、なにも話さないことだから、とギー兄さんは固執した。自分の見た夢は、Paradisoそのものの夢じゃなくてね、テン窪の人造湖の夢なんだよ。水がいっぱいにたまっていて、そこに小さな舟を浮かべてね。ボートならこの前から、実際に準備してあるんだ…… 夢で小舟に乗っていて、その自分の合図で、堰堤が爆破される。川下の反対派が惧れたとおりにね。そこで真黒い水ともども、自分が鉄砲水になって突き出す。その黒ぐろとしてまっすぐな線が、つまり自分の生涯の実体でね、世界じゅうのあらゆる人びとへの批評なんだよ。とはまさに逆の……

大江健三郎『懐かしい年への手紙』 講談社文芸文庫


 いかがでしょう? トーマス・マンの文章と合わせて、何度も何度も、この逆転・反転・裏返しのイメージがわかるまで読み返してみてほしいんです。

 私は大審問官そのひとを「問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老」のように考えているんです。これは、将来的に自分がそうなるかもしれない、と考えているイワン・カラマーゾフですね。だから、私は亀山郁夫の「イワンは、おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。」には同意します。でも、まったく逆の意味でなんですけれど。

(二〇〇八年八月二十九日 加筆訂正)