(九)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その二(後)



    4

 さて、前回の文章を書いた後で、私は亀山郁夫の「解題」をまたぱらぱらとめくっていて、こういう記述 ── これのせいで、今回の文章がこうまで長くなってしまったんですね ── を見つけたんでした。イワンとスメルジャコフとの対面についてです。

 三度目の、最後の対面 ── 。これは『カラマーゾフの兄弟』全体のなかでも、存在論的な観点に照らした最高のクライマックスである。その対面の前に、ひそかにドミートリーを脱走させる計画が進んでいると書かれている。その目的でイワンは三万ルーブルものお金を出すというのだが、ここでは彼の複雑な心情が説明される。
「彼はふと、自分が逃亡を助けたいと思っているのは、たんにこの三万ルーブルの金を犠牲にして傷を癒すばかりでなく、なぜかほかにも理由があるような気がしてきたのだった。《心のなかでは、おれも同じような人殺しだからじゃないのか?》」
 まさしくフロイト的である。
 ……(中略)……
 二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」が、いったい何を意味し、どのような経緯によって生じたか、イワンはこの時点で気づいている。「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。
 ……(中略)……
 スメルジャコフの「殺したのはあなたですよ」は、アリョーシャが以前にはなった暗示的な言葉、「殺したのはあなたじゃない」と、化学反応にも似た強烈な相乗作用をひき起こしながら、イワンを狂気へと駆り立てはじめた。その狂気は、イワンがいま、他者の死を願うという欲求の根源性に気づき、現実にそれに加担していたという意識が生成したことに由来する。それ以上に、おそらくは遺産、金への執着が、その「父殺し」の欲望を現実化していたことに気づいたからにほかならない。
 ……(中略)……
 三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である。絶対的な安全を確保しようとするイワンの地位は、すでに完全に揺らぎかけていた。
 イワンは、確実に父親の死に対する願望があったことを、今はっきりと覚った。翌朝のモスクワ行きを決意した夜、得体の知れぬすさまじい好奇心にかられた彼が、階下にいる父親の一挙一動に耳を傾け、その様子を盗み聞きしたその行為の「卑劣さ」の意味を、イワンは完全に理解したのである。
 イワンに狂気が訪れてくる。まず、その最初の兆しが正確に書きとめられている。
「じつはだな、おまえが夢なんじゃないかと、気がかりでな。そこにいるおまえが、幻じゃないかって?」

亀山郁夫「解題」)


 では、またこれまでと同じように、小説の辿り直しをしてみましょうか。

 イワンは父の死の五日後に帰ってきました。

 この町では最初にアリョーシャに会ったが、話してみて、相手がミーチャを疑おうとさえ思わず、犯人としてずばりスメルジャコフを名ざし、それがこの町のほかの人たちの意見に真向から反するものだったことにひどくおどろいた。そのあと郡署長や検事に会って、容疑や逮捕の詳細を知るにおよんで、彼はいっそうアリョーシャに対するおどろきを深めたが……

(同)


 イワンは、ミーチャにも会い、それからスメルジャコフのところに向かいます。

 すでにモスクワからとんでくる車中で、彼はスメルジャコフのことや、出発の前夜、彼と交わした会話のことを、ずっと考えていた。多くのことが心をかき乱し、多くの点が疑わしく思われた。しかし、予審調査に証言する際、イワンはその会話のことはしばらく黙っていることにした。スメルジャコフに会うまで、すべてを延ばしたのである。

(同)


 イワンはモスクワで、父の死ばかりでなく、兄の逮捕のことをも知らされていたでしょう。ここで、考えてみてほしいんですが、もしミーチャが逮捕されていなかったら、ミーチャに嫌疑すらかかっていなかったら、あるいは、イワンが父の死だけを知らされて、ミーチャに限らず他の誰の逮捕をも知らされていなかったら、どうでしょうか? 「多くのことが心をかき乱し、多くの点が疑わしく思われた」どころじゃなかったんじゃありませんか? しかし、ともあれ、イワンはミーチャが逮捕されていることを知っていましたし、この表面的事実に頼ることができたんです。そうして、「その会話のことはしばらく黙っていることにした」イワンは、スメルジャコフとこんなやりとりをします。

「こんな結果になる、だと? ごまかすんじゃない! 現にお前は穴蔵へ行けばとたんに癲癇が起きると、予告したじゃないか? ずばり穴蔵と、場所まで言ったんだぞ」
「そのことを、尋問の際にもう証言なさったんですか?」スメルジャコフが落ちつきはらって探りを入れた。
 イワンはふいにかっとなった。
「いや、まだ証言していないが、必ず証言するさ。お前は今すぐにいろいろのことを釈明せにゃならんぞ。俺に対してふざけた真似は許さんから、承知しておくんだな!」
「ふざけた真似なぞ、なんでするはずがありますか。もっぱら神さまに対するように、あなたに期待をかけているというのに!」

(同)


 そうして、この最初の対面の終わりはこうです。

「俺はお前を全然疑ってなぞいないし、お前の罪と認めるのをこっけいとさえ思っている……むしろ反対に、俺の気持を落ちつかせてくれたことを、感謝しているんだ。今はこれで帰るが、また寄ってみるよ。じゃまた、早く癒れよ。何か必要なものはないのか?」
「何から何までありがとうございます。マルファ・イグナーチエヴナがわたしを忘れずにいてくれて、何か必要なものがあると、今までどおり親切にいろいろ助けてくれますので。親切なひとたちが毎日、見舞いに来てくださるんですよ」
「じゃ、またな。もっとも、仮病が得意だってことは、言わずにおくよ……お前も供述しないほうがいいだろう」突然、イワンはなぜかこう口走った。
「よくわかっております。あなたがそれを証言なさらないのでしたら、わたしもあのとき門のわきでした話を、全部はいわずにおきましょう……」
 イワンはここでふいに部屋を出た形になったが、もう廊下を十歩ほど行きすぎたころになってやっと、スメルジャコフの最後の一句に何か無礼な意味が含まれていたことを、突然感じた。引き返す気になりかけたが、ちらとそう思っただけで、『ばかばかしい!』と言いすてるなり、いっそう足早に病院を出た。何より、彼は本当に気持ちが落ちついたのを、それも本来なら反対の結果になるのが当然という気がしそうなものなのに、犯人がスメルジャコフでなく、兄のミーチャであるという事態によって安心したのを、感じていた。なぜそうなったのかを、そのときの彼は分析しようと思わなかったし、自分の感じ方を掘りさげることに嫌悪さえおぼえていた。できるだけ早く、どうにかして何かを忘れたい気持だった。

(同)


 イワンはそうして、

 その後数日の間に、ミーチャを苦しくしたすべての証拠をさらにくわしく、徹底的に知りつくすに及んで、彼はもはや兄の有罪をすっかり信じた。

(同)


 しかし、

 が、それでも一つだけふしぎなことがあった。ほかでもない、アリョーシャが頑なに、殺したのはドミートリイではなく、《十中八、九》スメルジャコフだと、主張しつづけていることだった。イワンはかねがね、アリョーシャの意見が自分にとって大切なものであることを感じていたので、今度は非常に不審でならなかった。また、アリョーシャが彼とはミーチャの話をしようとせず、自分からは決して切りださずに、イワンの質問に答えるだけなのも、ふしぎだった。そのこともイワンは強く気にかかった。

(同)


 さらに、

 一口で言うなら、彼は一時スメルジャコフのことをほとんど忘れていた。しかし、最初の訪問から二週間ほどすると、またしても以前と同じ奇妙な考えが彼をさいなみはじめた。つまり、何のために俺はあのとき、出発前の最後の夜、フョードルの家で、泥棒のようにこっそり階段に出て行って、階下で父が何をしているか、きき耳をたてたのだろう、なぜそれをあとで思いだしたとき、嫌悪にかられたのだろう、なぜ翌朝、道中であんなに突然、気が滅入り、モスクワに列車が入る頃になって、「俺は卑劣な人間だ!」と自分自身に言ったのだろう、などとたえず自分に問いかけるようになった、とだけ言えば十分だろう。

(同)


 そのイワンは道でアリョーシャに出会うと、

「おぼえているだろう、いつか食後ドミートリイが家にあばれこんできて、親父をたたきのめしたとき、そのあと庭で俺が《期待の権利》は留保しておくとお前に言ったっけな。あのときお前は、俺が親父の死を望んでいると思ったかい、どうだ?」
「思いました」低い声でアリョーシャが答えた。
「もっとも、実際そのとおりだったんだから、べつに勘ぐることは何もないわけだ、しかし、あのときお前は、《二匹の毒蛇が互いに食い合いをする》ことを、つまり、まさしくドミートリイが親父を、それもなるべく早く殺してくれることを、この俺が望んでいるとは思わなかったかい……しかも俺自身、それに協力することさえいとわない、と?」
 アリョーシャは心もち青ざめ、無言のまま兄の目を見つめていた。
「さ、言ってくれ!」イワンは叫んだ。「あのときお前が何を考えたか、俺は心底から知りたいんだ。俺は知らなきゃならない。さあ、本当のことを、ありのまま言ってくれ!」
「赦してください、僕はあのときそれも考えました」アリョーシャはささやき、《事態を和らげる》言葉一つ付け加えずに黙った。
「ありがとう!」イワンは語気鋭く言うと、アリョーシャを置き去りにして、ひとり足早に歩み去った。このとき以来アリョーシャは、兄のイワンがなにか露骨に自分を避けるようになり、きらうようにさえなったらしいのに気づいたので、やがて彼の方も兄を訪ねるのをやめた。ところが、そのとき、アリョーシャと会った直後に、イワンは自宅にも寄らないで、だしぬけにまたスメルジャコフのところに足を向けたのだった。

(同)


 ここでも、イワンは三度めのときと同じように、アリョーシャと話した直後にスメルジャコフを訪問するわけです。アリョーシャは、いわばイワンの良心 ── の番人、いや、証人なんですね。彼はイワンの良心の存在をいつでも証言する用意があります。イワンには「自分のために祈ってくれる」人間がいるんです ── なんですね。ここで読者はゾシマ長老の「神秘な客」(亀山訳では「謎の訪問客」)を思い出してもいいでしょう。イワンは心の底では、最初から真実を知っていましたが、先にもいいましたように、ミーチャが犯人だという表面的事実に頼ることで、自分を正視していなかった・しないでいられたんですよ。しかし、遅かれ早かれ、彼は真実に突き当たったはずです。ともあれ、彼にはまだスメルジャコフという表面的事実があるので、そこに当たってみるんです。

 というところで、ちょっと横道に逸れます。いま、「神秘な客」について触れたので、それに絡めて話します。
 前回、私は亀山郁夫の「解題」におけるいくつかの主張をでたらめだといいましたが、それは、たとえば、他にこんなところ ── この箇所も私はたまたまちらっと見かけただけです ── にも見出すことができます。亀山郁夫はこう書いています。

 その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……

亀山郁夫「解題」)


「その彼」というのはゾシマなんですが、彼が修道院への道を踏み出したのは、「謎の訪問客」に出会う以前なんですよ。「謎の訪問客」は、決闘を放棄して、軍籍を離れ、修道僧になろうとしている奇妙な人物ゾシマの評判を聞きつけてやって来たひとたちのひとりなんです。それなのに、なぜ亀山郁夫は「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんて書くんでしょうか? もうこれが理解できない。めちゃくちゃです。あまりに杜撰です。雑に過ぎる。わざとやっているのか? それとも、彼は本当にこの小説を訳したのか? でなければ、「解題」を誰かべつの無能な人物に代筆させているのか? 最悪なのが、小説を訳した人物と「解題」を書いた人物とが同一である場合です。最悪なのか? 最悪なんだろうなあ。 ── とまあ、こういうことです。

 ともあれ、ついでに、また、私はこういう文章を引用しておきます。これも、以前に私が引用した際に、こういう人物が『カラマーゾフの兄弟』にいないでしょうか、といった文章です。

 ところで最後に、自分のなかに閉じ籠もっている人間 ── 彼は閉鎖性のなかで足踏みしている ── の内部をもう一度少しばかりのぞいてみることにしよう。この閉鎖性が絶対に保たれている場合には、あらゆる点において絶対的に完全に omnibus numeris absluta 保たれている場合には、彼に最も近く迫っている危険は自殺である。自己自身に閉じ籠っている人の内面に何が秘められてありうるかということについて、大抵の人達は無論何の予感も持っていない、── もしも彼らがそれを知ることがあったら、きっと驚愕するであろう。それに反しもしそういう状態にある人が誰かに、たった一人の人にでも、ことをうちあけるとしたら、彼はきっとそのために緊張がぐっと弛むかぐったりと深く気落ちするかしてもはや自殺というような行為を遂行する力がなくなるであろう。絶対の秘密に比較すれば、一人でもそれを一緒に知ってくれる人のある秘密というものは一音階だけ調子が柔らかくなっている。そこでおそらく彼は自殺をまぬかれることでもあろう。けれどもその場合絶望者は自分がほかの人に秘密をうちあけたというちょうどそのことに絶望することがありうるのである。もしも彼がずっと沈黙を守りつづけていたとしたら、きっとその方が、いま一人のそれを与り知っている人をえたよりも遥かに限りなく良かったのではないか? 自分のなかに閉じ籠っていた人が、自分の秘密を与り知っている人をえたというそのことのために絶望がもたらされたといういくつかの実例がある。そこでまた結局帰するところ自殺ということになる。詩人はこのような破局(詩の主人公はたとえば国王とか皇帝である)を、主人公が自分の秘密を与り知った人を殺させるといったふうに描きだすこともできよう。このようにして我々はいま自分の秘密を誰かにうちあけたいという衝動を感じている悪魔的な暴君を想い浮かべることができる、彼は次から次と一群の人間を殺すことになる、── というのは彼の秘密を知るに至る者は必らず死ななければならないのである、── 暴君が誰かに自分の秘密をうちあけるやいなやすぐにその人間は殺されてしまうのである。このような結末に終る悪魔的な人間の苦悩に充ちた自己矛盾 ── 自分の秘密を知っている人を持たないでいることも持っていることもどちらも耐えられないというような ── を描写することはけだし詩人に課せられた一つの仕事であろう。


 というところで、では、話を戻します。

 スメルジャコフとの二度めの対面では、


「それじゃ、お前はあのとき、俺がドミートリイと同様に親父を殺したがっていると思ったんだな、卑劣漢め?」
「あのときのあなたの考えがわからなかったんです」スメルジャコフが恨めしげに言った。「だから、そこのところを探ってみるために、あのとき、あなたが門に入ろうとするところをよびとめたんです」
「何を探るんだと? 何をだ?」
「つまり、その辺の事情をですよ。お父さまが少しでも早く殺されることを、あなたが望んでらっしゃるか、どうかをです」
 何よりもイワンを腹立たしくさせたのは、スメルジャコフが頑なにやめようとしない、このねちっこい、不遜な口調だった。
「お前が親父を殺したんだな!」だしぬけに彼が叫んだ。
 スメルジャコフはばかにしたようにせせら笑った。
「殺したのがわたしでないことくらい、あなただってちゃんとご存じでしょうに。わたしはまた、賢い人間ならこんな話はもう二度とするにあたらない、と思ってましたのに」

(同)


 さらに、

「おい、俺は我慢してきいてやっているんだぞ! いいか、悪党、かりに俺があのときだれかを当てにしていたとすれば、もちろんそれはドミートリイじゃなく、お前だよ。誓ってもいいが、お前が何か汚い真似をしそうな予感さえしたんだ……あのとき……俺はその印象をおぼえている!」
「わたしもあのとき、ほんの一瞬間、あなたがわたしのことも当てにしてらっしゃる、と思いましたよ」スメルジャコフが嘲るように笑った。「ですから、そのおかげであなたはあのとき、わたしに対していっそうはっきり本心を暴露なさったんです。だって、わたしに対して何か予感なさりながら、同時にお発ちになったとすれば、つまりそれによってわたしに、親父を殺してもいいぞ、俺は邪魔だてせんからと、おっしゃったも同然ですからね」
「卑劣漢め! そんなふうにとったのか!」

(同)


「いいか、悪党」イワンは目をぎらぎらさせ、全身をふるわせた。「俺はお前の言いがかりなんぞこわくない。俺に関して何とでも証言するがいいさ。俺が今お前を殴り殺さずにおいたのは、今度の犯罪でお前をクロとにらんで、法廷に引きずりだすためにほかならないんだ。この先お前の罪をあばきだしてみせるからな!」
「でも、わたしの考えでは、黙ってらっしゃるほうがようございますよ。だって、まったく無実のわたしを、どうして犯人よばわりできますか、それにだれがあなたの言葉を信用してくれます? あなたがはじめたら最後、わたしもすべて話しますからね。なぜって、わたしだってわが身を守らにゃなりませんでしょうが?」
「俺がいまさらお前をこわがる、とでも思ってるのか?」
「今あなたに申しあげたわたしの言葉が、すべて法廷で信用されなくたってかまやしません、その代り世間では信じてくれますから。そうすれば、あなたもいい恥をかくことでしょうよ」
「それもやはり、『賢い人とはちょっと話してもおもしろい』という意味なのか、え?」イワンは歯ぎしりした。
「まさにそのとおりですとも。賢くなってくださいまし」

(同)


 そうして、

 イワンは怒りに全身をふるわせながら、立ちあがり、外套を着ると、それ以上スメルジャコフに返事をせず、見ようともしないで、足早に小屋を出た。すがすがしい夜気が気分をさわやかにしてくれた。空に月が明るくかがやいていた。さまざまな思いと感覚の恐ろしい悪夢が、心の中でたぎり返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えに行こうか? しかし、何と言って訴えよう。あいつはとにかく無実なんだからな。あべこべに、あいつが俺を訴えることになるだろう。実際、何のためにあのときチェルマーシニャへ行ったりなんかしたんだ? なぜ、何のために?』イワンは自分に問いかけた。『そう、もちろん、俺は何事か期待していたんだ。あいつの言うとおりだ……』と、これでもう百遍目にもなるのだが、またしても、あの最後の夜、階段の上から父の様子にきき耳をたてたことが思い起された。だが今はそれを思いだすなり、ひどい苦痛をおぼえたため、突き刺されたようにその場に立ちすくんだほどだった。『そうだ、俺はあのときあの事態を期待していたんだ、たしかにそうだ! 俺は望んでいた、殺人を望んでいたんだ! 俺が殺人を望んでいたって? ほんとに望んでいたのだろうか? ……スメルジャコフのやつを殺さなけりゃいけない! もし今スメルジャコフを殺す勇気もないんなら、これから生きゆく値打ちもないんだ!』イワンはそのとき、自分の家へ寄らずに、まっすぐカテリーナのところへ行き、その姿で彼女をびっくりさせた。まるで狂人のようだったのである。彼はスメルジャコフとの話を、細かい点にいたるまで残らず伝えた。どんなに彼女が説得しても、イワンは気を鎮めることができず、のべつ部屋の中を歩きまわって、きれぎれに異様なことを口走っていた。やっと腰をおろしたものの、テーブルに肘をつき、両手で頭を支えて、奇妙な警句めいた言葉をつぶやいた。
「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると、もちろんそのときは僕も共犯だ。なぜって僕はたきつけたんだからね。僕がたきつけたのかどうか、まだわからんな。しかし、殺したのがドミートリイでなく、あいつだとしたら、もちろん僕も人殺しなんだ」

(同)


 いいですか、「あいつはとにかく無実なんだからな」なんていうのはイワンのごまかしですよ。そうして、先にもいいましたが、「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると」という条件づけは、まだイワンが自分を正視していないということを示します。しかし、それよりも、彼がそう考えながらも、「狂人のよう」になってしまったことの方に注目してください。この動揺がイワンです。イワン・カラマーゾフなんです。

 カテリーナはミーチャの手紙をイワンに見せました。


 イワンはこの《文書》を読み終ると、確信にみちて立ちあがった。つまり、殺したのはスメルジャコフではなく、兄なのだ。スメルジャコフでないからには、つまり、彼イワンでもない。この手紙が突然、彼の目に数学のようにはっきりした意味を持ってきた。もはや彼にとってはこれ以上、ミーチャの有罪に対していかなる疑念もありえなかった。
 ……(中略)……
 イワンはすっかり安心した。翌朝、スメルジャコフや、その嘲笑を思いだしても、軽蔑をおぼえただけだった。数日後には、どうしてあんな男の疑いにあれほど苦悩して腹を立てたのか、ふしぎな気さえした。彼はあの男を軽蔑し去って忘れようと決心した。こうして、ひと月過ぎた。かれはもはやスメルジャコフのことなぞ、だれにもたずねなかったが、二度ほど、あの男が重い病気で、頭がおかしくなっていることを、ちらと耳にした。「結局、発狂するでしょうよ」── 一度、若い医師のワルヴィンスキーがこう言ったことがあり、イワンはそれを記憶にとどめた。その月の最後の週に入ると、彼自身もひどく身体具合が悪いのを感ずるようになってきた。裁判の直前に、カテリーナから招かれてモスクワから来た医者にも、もう診てもらっていた。

(同)


 最後の「モスクワから来た医者」に、イワンは(悪魔の)幻覚のことを話しているんですね。どうですか、これをどう読み取りますか? イワンは「すっかり安心した」のだから、そこからひと月以上も彼は平気なままでいられたんだ、そこでなぜか突然、身体に変調が起こったのだ、と読むんですか? そうして、アリョーシャの「あなたじゃない」を受けるまで、イワンが「自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つ」ことがなかったと読むんですか? そうじゃないでしょう? イワンはまたしても、ただ表面的事実に頼っただけですよ。またしても自分を正視するのを避けた・ごまかしたんです。しかし、彼の内心はこの間もずっと自分が人殺しだと知っていたんですよ。だから、ついにそれが身体の変調として現われてきたんです。とはいえ、語り手はここでイワンが表面的事実に頼っていることそのままに自身も表面的事実を語りつづけるんです。

 それにしても、やれやれ、なんだって私はこんなにも長々とたくさんの引用をしてこなければならないんですかね? しかし、もうひと息です。

 ここで、ある箇所 ── 語り手が表面的事実を中心に語りながらも、さりげなくそこに忍び込ませたような箇所 ── について、久々に亀山郁夫訳を引用してみます。

 もうひとつ特筆すべきことは、ミーチャに対する憎しみが日に日に募っていくのを感じながら、同時に彼は、自分がミーチャを憎んでいるのは、カーチャの気持ちの「再燃」のせいではなく、ほかでもない、ミーチャが父親を殺したせいだということがわかっていた。彼は自分でもそのことを感じ、自覚していた。


 同じ箇所の原卓也訳はどうか?

 さらにもう一つ注目すべきことは、彼がミーチャへの憎悪が日ましに強まるのを感じながら、同時に一方では、自分が兄を憎んでいるのは、カテリーナの愛の《再発》のためではなく、まさに兄が父を殺したためであることを理解していた点であった。


 亀山郁夫の訳文に傍点はありません。ちなみに、彼は「あなたじゃない」にも傍点をふっていませんでした。原文ではおそらく斜体の活字が当てられていたと思われる部分なんですが、亀山訳はそれを反映しない方針なんでしょう。しかし、傍点を施さないで、この部分を読者にわからせる・引っかけることがどこまでできるんでしょうか? そう思います。

 それにしても、この「まさに兄が父を殺したためである」(亀山訳では「ほかでもない、ミーチャが父親を殺したせいだ」)は、どんなふうに読めばいいんでしょうか?
 私はこう読みました。
「まさに兄が父を殺したためである」というのは、「まさに、自分イワンではなく、兄ミーチャが父を殺したためである」ということです。つまり、イワンは、一方で父を殺したのが自分でなく、ミーチャであることに「安心」していながら、他方では「父を殺したのが、自分であればよかったのに」と考えているんです。兄に手柄を横取りされたとでもいい換えましょうか。なぜ、そんなことを彼が考えるでしょうか? 私は次の文章を前回に引用しました。

 絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、── いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って凶暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、── それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。このことが最後には非常に深く彼の脳裏に刻み込まれるので、彼は全く独自の理由からして永遠の前に不安を抱くことになる、── 永遠は彼が他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。


 イワンについては、しばらく後でこういう記述があります。

 何よりも、このひと月の間、彼のプライドはひどく苦しみつづけていた、だがその話はあとにしよう……


「このひと月の間」に何があったんでしょうか? 悪魔ですよ。悪魔の幻覚です。イワンは、最初から、心の奥底では「犯人は自分だ」と知っていました。しかし、現実には ── 表面的事実としては ── ミーチャが逮捕されました。それでも、イワンは犯人がスメルジャコフではなかろうか、と考えつづけています。ですが、彼はとにかく表面的事実に頼ります。ところが、やっぱり、彼は真実を知っているんですよ。そして、その真実が何に由来するかを承知していたんです。何に由来するか? 彼の思想 ── すべては許される ── ですよ。もし犯人がミーチャだとしたら、彼の思想は形無しじゃありませんか。その思想を抱いていた彼自身もみっともないことになるじゃありませんか。もちろん、私だって、イワンが本当に自分の思想から導き出せる結論として「すべては許される」、したがって、父親を殺すことがあっていい、などと信じていなかったと考えてはいます。でも、イワンはこれに足を取られてしまうんですね。イワンはこういう人間なんですよ。悪魔はイワンのこの点を刺激しつづけてきたわけです。事情は複雑ですが、それが「プライド」の問題です。彼は誰にも頭を下げたくはありません。彼には「謙遜な勇気」がありません。ただただ、自分の「プライド」にしがみつくんです。自分には「カラマーゾフ的な力」があるじゃないか、と彼は思いますが、限界はもうすぐそこです。先の『死に至る病』の文章を使っていえば、こういうことです。犯人がイワンでなく、ミーチャであるということは、イワンが「他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。」こうして、イワンのこの二か月間の語り直しによって、語り手はイワンの思想の決着を語るべく進んでいるのだと私は考えます。

 さて、

 それにもかかわらず、彼は公判の十日ほど前にミーチャを訪ね、脱走の計画を、それも明らかにだいぶ前から考えぬいた計画を提案したのだった。この場合、彼にこのような行動をとらせた主要な原因のほかに、兄を有罪にするほうが得だ、そうなれば父の遺産の額が彼とアリョーシャにとって、四万から六万にはねあがるからだ、と言ったスメルジャコフのあの一言によって、心に癒えることなく残された爪痕も、責任があった。彼はミーチャの脱走をお膳立てするため、自分が三万ルーブル提供しようと決心した。が、その日、兄のところから帰る途中、彼はひどく心が滅入り、乱れていた。突然、自分が脱走させようと望んでいるのは、それに三万ルーブル出して爪痕を癒やすためばかりでなく、ほかにも何か理由があるような感じがしはじめたからだった。『心の中では、俺も同じような人殺しだからではないだろうか?』彼は自分にたずねてみた。何か間接的ではあるが、焼きつくようなものが心を刺した。

(同)


 どうですか?「それも、明らかにだいぶ前から考えぬいた計画」です。



    5

 さて、やっと、亀山郁夫の「解題」に戻ることができます。さっきも私は「なんだって私はこんなにも長々とたくさんの引用をしてこなければならないんですかね」とぼやきましたが、それは、亀山郁夫がこの「解題」において、イワンとスメルジャコフの対面の一回めと二回めとを軽く流してしまっているからなんですね。それはないだろう、と私は思ったわけです。というわけで、ここまで長々と引用してきました。というわけで、私はお断わりしておきますが、三回めの対面についての引用はごくわずかにします。

 イワンとスメルジャコフの最初の対面で、スメルジャコフは彼に「私は殺してない」と語った。しかし、二回目では、同じく殺害の事実を認めないながら、スメルジャコフは「チェルマーシニャーに行ってください」とイワンに言った自分の言葉を、イワンがどういう意味で受け取ったか知ろうとして躍起になる。イワンの理解力、意思を探ろうとして、彼は「殺したのはぼくじゃありません。それは、あなたがちゃんとご存じのはずです」と主張するのである。
 実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である。そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。

亀山郁夫「解題」)


 なんですか、これは?「実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である」って、亀山郁夫は本当に理解できないんですか?
 スメルジャコフはフョードル殺害を、イワンから直接指示されたわけじゃありませんでした。彼はイワンとの会話を「賢い人」との会話だとみなすことによって、イワンからの許可を得たつもりでいたわけです。そうして、いざ殺害を実行した後で、彼がまず確かめようとするのは、イワンが「賢い人」として自分に接してくるかどうかじゃないですか。一回めの対面でも彼はイワンに「もっぱら神さまに対するように、あなたに期待をかけている」とはっきりいっているじゃないですか。二回めでは、もうどうやらイワンが「賢い人」として自分に接することのないようなのを看取しつつも、まだいくらかの希望をかけて、「賢くなってくださいまし」というじゃないですか。イワンが最初から「賢い人」としてスメルジャコフに接していれば、彼だって殺害の事実を認めますよ。そうじゃなかったから ── 主犯であるイワンがとぼけはじめた・裏切りはじめた、と彼には思えたわけです ── 否認するんじゃないですか。スメルジャコフはイワンに合わせているんですよ。そうして彼の態度は、つまり、イワン自身が真実にどれだけ向き合うことができているかの度合いを、鏡のように正確に映し出しているんじゃないでしょうか? イワンが真実に近づくほど・自分自身を正視しようとすればするほど、スメルジャコフも真実を口にしていくことになるわけです。
 こういうことがわかっていないから、亀山郁夫はまたしても無理やり珍妙な理屈をひねり出さなくてはならなくなるんです。

 そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。

(同)


 つまり、亀山郁夫はこういっているんです。ポリフォニーの小説である『カラマーゾフの兄弟』では、登場人物たちが作者の都合によって、本来彼らがいうはずのないことをいわされることはない・登場人物は本来彼らのいいそうなことしかいわない ── それだけ彼らは個性的であり、独立した声を持って相互に掛け合いを行なう ── のだが、なかには例外もあって、このスメルジャコフの「セリフ」は、彼自身は殺害の事実を述べるはずのところが、なぜか作者ドストエフスキーのよくわからない創作上の都合で、否認することになったのだ、 私・亀山にはそうとしか理解できない。
 はっきりいいますが、「実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である。そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。」というのは、でたらめです。亀山郁夫に読解力がないだけのことです。

 次です。三度めの対面の前についての記述 ──

「彼はふと、自分が逃亡を助けたいと思っているのは、たんにこの三万ルーブルの金を犠牲にして傷を癒すばかりでなく、なぜかほかにも理由があるような気がしてきたのだった。《心のなかでは、おれも同じような人殺しだからじゃないのか?》」
 まさしくフロイト的である。

(同)


 はいはい、「まさしくフロイト的である」ですか。ここでやっと亀山郁夫はイワンの心の内側が理解できかけたらしいです。遅すぎます。事件を知らされた直後から、これまでさんざんイワンの心理が描かれてきたのを、いったい、どう読んできたんですか?

 そして、次。

 二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」が、いったい何を意味し、どのような経緯によって生じたか、イワンはこの時点で気づいている。「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。

(同)


「二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」」って、それ、本当にそう思っているんですか? 本当にそう思っているんだろうなあ。でなければ、「「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。」なんて書かないものなあ。それ、『カラマーゾフの兄弟』ではなくて、もしかすると単純にフロイトなんじゃないですか? イワンはそんなことを考えていたんじゃありません。イワンはそんな悠長な、抽象的な、他人事のような理解なんかしている場合じゃなかったと思いますよ。彼は自分の全存在の存亡のかかった、ぎりぎりの、ひどく具体的・即物的な危機にあったでしょう。

 次。

 スメルジャコフの「殺したのはあなたですよ」は、アリョーシャが以前にはなった暗示的な言葉、「殺したのはあなたじゃない」と、化学反応にも似た強烈な相乗作用をひき起こしながら、イワンを狂気へと駆り立てはじめた。その狂気は、イワンがいま、他者の死を願うという欲求の根源性に気づき、現実にそれに加担していたという意識が生成したことに由来する。それ以上に、おそらくは遺産、金への執着が、その「父殺し」の欲望を現実化していたことに気づいたからにほかならない。

(同)


 どうやら亀山郁夫は、スメルジャコフの「殺したのはあなたですよ」を読んで、やっとアリョーシャの「あなたじゃない」に反応できたらしいんですね。

「あなたは何も心配なさることはないと、そう申しあげているんですよ。わたしは何一つあなたに不利な証言はしませんし、証拠もありませんからね。おや、手がふるえていますね。どうして指をそんなにひきつらせているんです? 家へお帰りなさいまし。殺したのはあなたじゃないんですから」
 イワンはびくりとふるえた。アリョーシャの言葉が思い出された。
「俺じゃないことくらい、わかってる……」彼はまわらぬ舌で言いかけた。
「わかっているんですか?」すかさずまたスメルジャコフが言った。
イワンは跳ね起き、相手の肩をつかんだ。
「すっかり言ってみろ、毒虫め! すっかり言え!」
 スメルジャコフは少しも怯えなかった。狂気のような憎しみをこめた目を、相手に釘付けにしただけだった。
「でしたら言いますが、殺したのはあなたですよ」怒りをこめて、彼はささやいた。


「ああ、なるほど、このスメルジャコフのことばに対応しているのか、アリョーシャの台詞は! いや、ここまでわからなかったよ」と亀山郁夫は思ったに違いありません。ここを見つけたときに彼がどれほど安心したか、目に浮かぶようです。しかし、逆ですよ。スメルジャコフのことばがアリョーシャのことばに対応しているのであって、アリョーシャが先で、アリョーシャの方が強烈な意味を込めていたし、私がいったように、彼の「あなたじゃない」の方が、それを相手に告げるということに恐ろしく勇気を必要とすることばでした。作品中の位置づけということからしても、アリョーシャの「あなたじゃない」の方に、はっきり重量が置かれてもいるんです。

 次はどうですか?

 三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である。絶対的な安全を確保しようとするイワンの地位は、すでに完全に揺らぎかけていた。
 イワンは、確実に父親の死に対する願望があったことを、今はっきりと覚った。翌朝のモスクワ行きを決意した夜、得体の知れぬすさまじい好奇心にかられた彼が、階下にいる父親の一挙一動に耳を傾け、その様子を盗み聞きしたその行為の「卑劣さ」の意味を、イワンは完全に理解したのである。
 イワンに狂気が訪れてくる。まず、その最初の兆しが正確に書きとめられている。
「じつはだな、おまえが夢なんじゃないかと、気がかりでな。そこにいるおまえが、幻じゃないかって?」

(同)


 遅すぎます。しかも、読みが浅すぎる。浅いどころか、全然読めていない。誤読の累積です。

「あなたじゃない」に反応できなかった ── 致命的です ── 亀山郁夫には、もうこの小説について行くことができませんでした。彼はイワンとスメルジャコフとの最初の二回の対面を軽く素通りしようとしました。彼は、イワンの表面上の安心だけを読み取り、ぎりぎりまでイワンの本当の苦悩を理解することができません。というか、彼の文章からは、イワンの本当の苦悩ではない、空疎なことしか、私には読み取れません。スメルジャコフがどういう人間であるかも彼にはわかっていません。それで、三回めの対面でのスメルジャコフとアリョーシャのことばの対応に ── しかも、それぞれのことばの重量を逆に解釈して ── やっと気づいた亀山郁夫は、とにかく苦しまぎれのどうでもいい説明を書き散らしました。
 それがこの「解題」におけるこの一連の文章になります。繰り返しますが、そうでなければ、あの訳にはならないし、また、「解題」の文章がこのようになるわけもありません。

 笑いごとじゃありません。

 めちゃくちゃです。こんなひとが『カラマーゾフの兄弟』を訳したんですよ。個々の誤訳がどうとかいう以前の問題でしょう。そもそも、亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』が全然読めていません。いや、『カラマーゾフの兄弟』に限らず、彼にはどんな文学作品をも読み解く力がないと私は思いますね。彼には、それぞれの登場人物も理解できていませんから、当然、彼らの関係もわかっていません。彼らが何をやりとりしているのかもわかっていません。そんなひとが訳したら、どういうことになるでしょうか?

 些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。

(「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」)


 いや、読者は、最後には、恐ろしく遠くまで原典から遠ざけられてしまったはずです。あまりのことに、私はそれこそ呆然とします。