(五)ハロルド・ピンター『何も起こりはしなかった』



 昨二〇〇七年三月発行のこの本を、つい先日ようやく自分の勤める書店で立ち読みした(それまでこの本を知りませんでした)のは、これと同じ集英社新書でのノーム・チョムスキーの数冊を確認しようとしているときだったんですね。私はまだまともにチョムスキーの本を読んでいないんです。『精神のたたかい』(立野正裕 スペース伽倻)で彼について書かれていたことに非常な感銘を受けていたにもかかわらず、です。ともあれ、ピンターの本を棚から抜き取ったのはほとんど偶然でした。
 それで、私の開いたページが「メディアの実態を暴く」という章だったんですね。

 そこで私は詩を『ガーディアン』へ送った。すると当時の文藝主任が私に電話をかけてきて、「やれやれ」と言った。「ハロルド、これはまったく……この詩はまったく頭痛の種だよ」「個人的には、私は全面的に同感なんだよ」と彼は言った。私の記憶によれば、電話でのやりとりはこうだった。「しかし、いいかい、まさかこんな……ああ、とても困ったことになると思うよ、もしもこれを『ガーディアン』に載せたら」そうかい(と私は無邪気に訊ねた)、なぜなんだい?
 彼は答えた ──「だってね、ハロルド、うちは一般家庭向きの新聞なんだ」その通りの言葉を彼は使った。「おや、それは残念だ」と私は言った。「真面目な新聞だという印象を受けてたんだがね」すると彼は言った ──「そう、もちろん真面目な新聞でもある。でもね、ここ数年の間に『ガーディアン』では少し事情が変わったんだ」

ハロルド・ピンター『何も起こりはしなかった』 貴志哲雄訳 集英社新書


 立ち読みした時点で、私はこの文章の冒頭に掲げられている問題の詩を読んでいませんでしたけれど、すぐにその詩がどういうものであるか・この文章がなにを扱っているのかがわかりました。それで、この本を購入したんです。
 というのは、つまり、私自身が長らく ── いま私は主に書店員としての自分を考えています ──、ここでの『ガーディアン』の文藝主任と同じふるまいをしていることを自覚していたからです。もちろん、私の勤める書店が『ガーディアン』のように世間への影響力を持っているとは考えませんけれど、しかし、同じことだ、と思うんですね。「私自身はそれをやりたいと思っている。しかし、店がね……」── こういういいわけをどれだけ私はしてきたでしょうか。

 ちょっとトルストイを引用してみます。

「何という不思議なことだろう?」と一人の客が言った(彼はしじゅう口をつくんでいた)。「何という不思議なことだ! みんなが口をそろえて、神のみ旨にかなった生活をするのはいいことだ、われわれはよくない生活をしている、霊魂も肉体も苦しんでいる、などといっているくせに、いざ実行という段になると、子供に打撃を与えてはいけないから、神の命令によらないで、昔どおりに教育しなければならない、ということになってしまいます。若いものは両親の意志にそむかないで、神のみ旨に添わぬ昔どおりの生活をしなくちゃならない。妻を持った男は妻子に打撃を与えないために、神のみ旨に添わぬ昔どおりの生活をしなくてはならない。老人はやれ長い間の習慣だの、やれあと二日しか寿命がないのと言って、何一つ始めてはいけないことになる。結局、だれ一人としていい生活をすることはできない、ただそれを談ずるだけならさしつかえないわけなんですね。」

トルストイ『光あるうちに光の中を歩め』 米川正夫訳 岩波文庫


 私はうめいてしまいます。こういう問いを突きつけられると、私はなんとかそれをかわして、いまの自分の立場を正当化する理屈をうろたえながら探すわけです。これからもどれだけこういう作業を続けることになるのか、わかりません。しかし、一方で、その問いに対して強い反発も感じてもいます。「あれかこれか」という形の問いは、なにか大事なものを欠いているのではないか、と考えもします。そう考えることがやはりいいわけにすぎないのかどうか、それにも自信がありません。
 おそらく、私は、まず、この私自身を確保したいんです。私は自分を失いたくはない。私は自分が自分でなくなることを拒否します。そうして、私が私のままでいながら、先の問いにも答えうるための方策を考えるんですね。それが実際にうまくいくのかもわかりはしませんが、それを軌道に乗せようとして、それまでの間まだしばらく、なおいまの自分の生活を ── たとえそれが非難されるものであれ ── 維持しようとし、それを自分で了承しようとするわけです。その維持が、いったいいつまでのものなのか、これもわかりませんけれど。

 いや、私はまた例の ──「はじめに」でも触れた ── 陥穽にはまり込んでいるでしょう。

 この事情をまた、べつの作品から引用してみます。

アデレード、全世界が戦争の炎に包まれているのがわからないのか。これまでも、現在も、これからもだ。過去何年間もわたしが何をしてきたと思う? レインジャー号を造る助けをしたのは何のため? チェサピーク湾の上に観光用の飛行機を飛ばすためかね。何のために空母ヨークタウンを建造したと思ってるんだ。それにエンタープライズも。なぜこれからホーネット号を造るんだろうね。こんなふうに限りもなく続いてゆく(アド・インフィニトゥム)。合衆国政府が何百万ドルという金をこうした空母につぎ込んでいるのは、ただ美しく現代的なかっこいい海軍をつくるためだと思う? ちがうんだ、ねえ、きみ」いつもはとても優しい「きみ」がはげしく嘲笑する調子を帯びている。「これらの船は戦争をするためのものだ。実際に戦争をするだろうし、ヴァージニア半島に住むきみもわたしも友だちもみな、いまでさえその恩恵を受けている。ここナンセモンド郡はこのとおりひどい貧乏なのに、わたしたちはオールズモビルに乗っている。ここで見せてくれたように欠陥のあるオールズモビルだが、経済崩壊のさなかでほんのわずかな人しか乗る特権を持たない種類の車だ。こうした矛盾が見えないほどきみは盲目なのかね。簡単なことだよ、ねえ、きみ。わたしたちは戦争の機械を造って得た利益で食っている少数の幸運な者なんだ」父は一瞬言葉を切って、それから続けた。「それに、ラングリー空軍基地から飛び立つあの〈空の要塞〉はなんだね、アディー。ほとんど毎日、爆音がうるさいときみが不平を言うあれは? それもなにかの遊びの一部にすぎないと思うのかね。また、ノーフォークから飛ぶ海軍戦闘機はどうだ。ヨークタウン基地から出る機雷敷設艦は? フォート・ユースティスを毎日出発するあのトラック護衛隊は? もちろんこういうものはみんな実際に使われなきゃならない! きみにはわからないのか……」

ウィリアム・スタイロン「ラヴ・デイ」 大浦暁生訳 『タイドウォーターの朝』所収 新潮社)


 これを、また以前に引用した文章に結びつけますが、

「われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえないのだ。まったく、僕は恥ずかしく思いつづけていたし、僕ははっきりそれを知った ── われわれはみんなペストの中にいるのだ、と」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫


 以前の引用時に、私はこういいましたね。

 死刑制度をもつ日本という国の国民 ── あなたです ── は、死刑囚の死に間接的に同意しています。イラク戦争に協力する日本という国の国民 ── あなたです ── は、イラクでの膨大な数の人間の死に間接的に同意しています。


 私が考えているのは、たとえば、自分が日本人としていまの生活を送っているというそのことが、どこか他の国々の(日本国内でもいいんですが)飢えて、あるいは、戦火のために死んでいくひとたちの上に成り立っているのだということです。とりわけ、この二十年間は ── アルジェリアを含めた私の短期間のヨーロッパ旅行以来 ── そう考えてきたんです。

 この二十年間でいえば、私はこういうことをしてきました。
 私は何度も自分の勤める会社のビルから浮浪者を追い出してきました。彼らが屋内ベンチに失禁した尿を掃除もしましたし、大便の処理もしました。臭いからという理由で女性の浮浪者を追い出しもし、そのときには、「そんなことをいわれたのは生まれて初めてだよ」といわれもしました。店内で大声を出す障害者に「しーっ」と合図をして、そばにいた彼の父親が私を横目にしながら彼に「こんな嫌なところはもう出ようね」というのを聞きもしました。浮浪者が「あんたにはわかりゃしないだろうが、おれは明日自分が生きていなくてもいいと思っているんだよ」というのを聞きもしました(もっとも、このときばかりは、私が内心でこういい返していたこともいっておきましょう ── 明日の自分が生きていなくてもいいと考えているのは、あんただけじゃなくて、このおれもだよ、それも、あんた以上にそう考えているかもしれない)。こういうことは数え切れません。こういうことがこの世なんだと私は考えてきましたし、いたしかたない、と考えてもきました。
 べつの側面からいうと、同時にこういうことでもあったんです。書店(=接客業)で働くようになって初めて私の認識したのは、世のなかのひとたちのかなりの多くが、いかに接客業従事者を見下しているかということでもありましたね。いやはや、世のなかを見る目がまったく変わりましたっけ。それまでの自分がいかに善良であったか、世間知らずであったか、思い知らされました。そうすると、いわゆる「差別」ということへの認識も変化しました。それに、また、日常的な万引きの多さなんかは私を打ちのめすんですよね。
 ある時期の私はこうも考えていました。人間なんかひとり残らず滅びてしまえばいい。
 そういうあれやこれやをひっくるめたうえで、私は、いまでもまだ店内・ビル内の秩序維持の名目では、自分の行為への嫌悪感は増してはいるとしても、同じことをするだろうと思います。

 その私が、しかし、こうしてこの「連絡船」を ── 遅々とした歩みであるとはいえ ── 継続しています。

 またしても『神聖喜劇』(大西巨人)からいつもの箇所を引用しますが、

 私の当代の思想の主要な一断面は、これを要約すれば次ぎのようであった。世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)、── それは、若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)である。人生と社会とにたいする虚無的な表象が、そこにあった。時代にゆすぶられ投げ出された(と考えた)白面の孤独な若者は、国家および社会の現実とその進行方向とを決して肯定せず、しかもその変革の可能をどこにも発見することができなかった(自己については無力を、単数および複数の他者については絶望を、発見せざるを得なかった)。おそらくそれは、虚無主義の有力な一基盤である。私は、そういう「主観的な定立(テーゼ)」を抱いて、それに縋りついた。そして私の生活は、荒んだ。 ── すでにして世界・人生が無意味であり無価値であるからには、戦争戦火戦闘を恐れる理由は私になかった。そして戦場は、「滑稽で悲惨な」と私が呼んだ私の生に終止符を打つ役を果たすであろう。


 その「私」=東堂太郎が、あるときこう考えます。

 私は、奥底の自己が『おれの個性が消えてなくなってたまるか、消えてなくなりはしないぞ。』と力んでいるのに気づき、愕然として不愉快になった。もしも今日より私が、このような理念に従って生きて行なって動くことを欲するとすれば、世界現実にたいする過去何年来の私の考え方・やり方は、相当の転回を必要必然とするのではなかろうか。

(同)


 彼が「愕然として不愉快になった」のは、「世界現実にたいする過去何年来の私の考え方・やり方」=「世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)」を「奥底の自己が『おれの個性が消えてなくなってたまるか、消えてなくなりはしないぞ。』と」裏切っていたからです。
 もっとくだいていいますか?
「本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい」とほんとうに考えていた人間ならば、「おれの個性が消えてなくなってたまるか、消えてなくなりはしないぞ。」なんて思うはずがないんです。いまさらなにをいっているんだ、ということです。それが、しかし、現実には、彼はそう「力んで」しまったわけです。それで、彼は「愕然として不愉快になった」。

 そうして、彼は自分以外の誰彼への期待をも見出しつつ、こう考えるのでもあるんですね。

 ……広大な客観的現実の様相は当面さもあればあれ、「微塵モ積モリテ山ヲ成ス」こともいつの日かたしかにあり得るのではないか、── もしも圧倒的な否定的現実に抗して、あちらこちらのどこかの片隅で、それぞれに、一つの微塵、一つの個、一つの主体が、その自立と存続と(ひいては、あるいは果ては、おそらくそれ以上の何物かと)のための、傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような格闘を持続するに耐えつづけるならば。

(同)


 以前に私はこういうことをいいました。

 最近も、あるひとが書店の現在の苦境を思いやるという話のなかで、ミリオンセラーの必要性(それがあれば多くのひとが書店に足を運ぶことになる)に言及したときに、私がミリオンセラー(「みんな」が一斉に同じ本を読むこと)のばからしさ・否定をいい、……


 右の引用での「ミリオンセラーの必要性」を説く「あるひと」というのは、ある種の困窮にあえぐひとたちを救済する仕事をしているんですが、私との会話では、彼の著作の総部数がミリオンセラーか、あるいは、それに近いものだということをいっていたわけです。自分がこの苦境にある書店業界に貢献している、と。もちろん、それは、彼の書店に対する社交辞令でもあったでしょうし、実際、彼の著作もかなりの規模で私の勤める書店の売上に貢献しているに違いありません。それに対して私がミリオンセラー批判をいいだしたわけです。彼には意外であったかもしれません(ついでにいえば、このとき同席していた出版社社員は、私が彼に対して非常に怒っていると感じたようです。他の話題でも、私は彼のいうことを社交辞令的に聞き流したりせず、反論しもしていましたから、なおのことかもしれません。私自身はこの会話をとても楽しんでいたんですけれど)。その会話の後になってから、私の考えたのは、「ある種の困窮にあえぐひとたちを救済する仕事」をしている彼の真に戦わなくてはならない相手が、実は他ならぬ「ミリオンセラーをつくりあげているような社会・そういう社会を構成しているひとびとの心性」じゃないのか、ということでしたっけ。そういう「ミリオンセラーをつくりあげているような社会・そういう社会を構成しているひとびとの心性」こそが彼の救済するひとたちを、救済しなくてはならないような位置に落とし込めてしまっているのだ、と考えたんです。

 繰り返します。

 その私が、しかし、こうしてこの「連絡船」を ── 遅々とした歩みであるとはいえ ── 継続しています。

 ここに来て、やっと、私の動揺がおさまってきたようにも思います。私は、これまで自分のいってきた「のんびりだらだら」を思い出すべきだし、また、次のことばを肝銘すべきなんですね。

「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に我慢して踏ん張って考えつづけなければいけないんだな、これが」


 だから、── もうひとつ引用しますが、

 みぞれの降る中を、二頭立ての荷馬車で百姓が彼を運んでゆく。十一月初め、ミーチャは寒いような気がする。びしょびしょした大粒の雪が降っており、地面に落ちると、すぐに融ける。百姓は鞭さばきも鮮やかに、威勢よく走らせる。栗色の長い顎ひげをたくわえているが、老人というわけではなく、五十くらいだろうか、灰色の百姓用の皮外套を着ている。と、近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見える。ところが、それらの百姓家の半分くらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのだ。部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列に並んでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりだ。特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十くらいに見えるが、あるいはやっと二十歳くらいかもしれない。痩せた長い顔の女で、腕の中で赤ん坊が泣き叫んでいる。おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出さないのだろう。赤ん坊はむずかり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった小さな手を、固く握りしめてさしのべている。
「何を泣いているんだい? どうして泣いているんだ?」彼らのわきを勢いよく走りぬけながら、ミーチャはたずねる。
「童(わらし)でさ」馭者が答える。「童が泣いていますんで」馭者がお国訛りの百姓言葉で、子供と言わずに《童》と言ったことがミーチャを感動させる。百姓が童と言ったのが彼の気に入る。いっそう哀れを催すような気がするのだ。
「でも、どうして泣いているんだい?」ミーチャはばかみたいに、しつこくたずねる。「なぜ手をむきだしにしているんだ、どうしてくるんでやらないんだい?」
「童は凍えちまったんでさ、着物が凍っちまいましてね、暖まらねえんですよ」
「どうしてそんなことが? なぜだい?」愚かなミーチャはそれでも引き下がらない。
「貧乏なうえに、焼けだされましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」
「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」
 そして彼は、たしかにこれは気違いじみた、わけのわからぬきき方にはちがいないが、自分はぜひともこういうきき方をしたい、ぜひこうきかねばならないのだと、ひそかに感じている。さらにまた、いまだかつてなかったようなある種の感動が心に湧き起り、泣きたくなるのを感ずる。もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒けな童の母親が泣かなくてもすむよう、今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんなのために何かしてやりたくてならない。


 ── をけして忘れてはいませんけれど、私は「今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに」を厳しい認識として留めざるをえないし、しかたがないと思っています。

 さて、『何も起こりはしなかった』には、たとえば、こういう文章があります。

 世界史上、最も強力な国家が、事実上、残りの世界全体を相手に戦っているのです。「あなたが私たちの味方でないのなら、あなたは私の敵だ」と、ブッシュ大統領は言いました。大統領はこうも言いました ──「我々は世界最悪の武器が世界最悪の指導者たちの手中にあるのを許しはしない」もっともです。鏡を見てごらん、相棒。それはおまえさんだ。
 アメリカは今この瞬間も高度な「大量破壊兵器」を開発しており、必要と認めたらそれを使うつもりでいます。アメリカが保有している大量破壊兵器は、世界のそれ以外の国が保有している大量破壊兵器の合計よりまだ多いのです。アメリカは生物化学兵器についての国際的な合意に背を向け、自国の兵器製造工場に対する査察を拒否しています。こういう公的態度表明とアメリカ自身の行動との背後にある偽善性は、ほとんど笑いの種としか言えません。
 アメリカ合衆国は、ニューヨークにおける三千人の死者だけが重要な死者なのだと信じています。これはアメリカ人の死者だからです。それ以外の死者は、非現実的で抽象的で、取るに足りないものなのです。
 アフガニスタンにおける三千人の死者は、けっして問題にされません。
 アメリカとイギリスがおこなった経済制裁によって必要不可欠な薬品が供給されなくなった結果、何十万人ものイラクの子供が死んでいますが、この子供たちのことはけっして問題にはされません。
 湾岸戦争の時にアメリカが用いた劣化ウラン弾の効果はけっして問題にされません。イラク放射能の数値は恐ろしいほど高いのです。脳や目や生殖器のない赤ん坊が生まれています。たとえ耳や口や直腸があっても、そこから排出されるのは血液だけです。
 一九五七年に東ティモールで、インドネシア政府によって(ただしアメリカの助言と支持を得て)二十万人が殺されましたが、やはりけっして問題にされません。
 グアテマラ、チリ、エルサルバドルニカラグアウルグアイ、アルゼンチン、そしてハイチでは、アメリカが支持し、資金を提供した行動によって五十万人が死にましたが、やはり問題にはされません。
 ヴェトナムとラオスカンボジアにおける何百万人もの死は、もはや問題にはされません。
 パレスチナ人が強いられている絶望的な状況は、世界不安の根源になっていますが、ほとんど問題にされることはありません。
 しかしこれは、現状についての何という判断の誤り、歴史についての何という誤解なのでしょうか。
 人々は忘れはしません。人々は仲間の死を忘れはしません。拷問や虐待を忘れはしません。不正を忘れはしません。圧制を忘れはしません。権力者たちによるテロ行為を忘れはしません。忘れないだけではありません。仕返しをするのです。

ハロルド・ピンター『何も起こりはしなかった』 貴志哲雄訳 集英社新書




何も起こりはしなかった―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)
光あるうちに光の中を歩め (岩波文庫 赤 619-4)
タイドウォーターの朝
ペスト (新潮文庫)
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)