(四)マーラー『交響曲第七番』


 私がここしばらく繰り返し聴いているのが、マーラー交響曲第七番の第三・第四・第五楽章(バーンスタインの指揮によるニューヨーク・フィルの演奏、一九八五年録音)── つまりは、この二枚組CDの二枚目 ── なんですが、およそ三十五年間聴きつづけているこの作曲家の作品のうちに、私がこれまであまりなじんでいなかった曲がいくつかはあって、たとえば、第四交響曲の全体、それと、この第七番の最後の三楽章なんですね。番号のついていない交響曲大地の歌』だって、素晴らしいと思うことができたのは四十歳を過ぎてからのことでした。
 第七交響曲は、ずいぶん長いこと第一楽章(次いで第二楽章)ばかりを聴いてきました。そうして、最も苦手にしてきたのが、終(第五)楽章でした。あの突然の大騒ぎについていく気にはとてもなれなかったんですね。それが、やっといま受け入れられるようになってきているわけです。

 話は逸れますけれど、もしかすると、自分の人生の非常に早い時期(十歳ちょっと)からマーラー交響曲を聴いてきたということが、それ以後の、ヘッセの『車輪の下』を中学生で読んで以来、現在まで ── 地つづきに ── 続いている読書に、非常に大きい影響を及ぼしているのじゃないか、と私は思うんですね。たとえば、長さということへの感受性です。大学浪人時代にようやくロックを聴きはじめた私が、それに惹かれつつも、いまだに拭えないでいるのが、その一曲の短さへの疑念(それでも、たとえばドアーズ ── 私は一九八八年、最初の会社を辞めた後、パリで、ジム・モリスンの墓の前に立ちましたっけ ── には比較的長い曲「The End」、「When the music’s over」などもありますけれど)なんですね。

 あれは私が高校二年か三年のとき ── おそらく、まだマーラーの第七交響曲を知る以前 ── でしたが、同学年のべつのクラスの生徒 ── 在学中に彼と口をきいたのは数えるほどだったろうし、このときの会話のみを断片的だけ憶えているんですが ── と、おそらくは帰宅の京成電車のなかで話したことがあって、彼はブルックナー交響曲をよく聴くといい、「マーラーの曲って、聴いていて眠くならない?」と私に尋ねたんでした。たぶん、私は「眠くなる」、あるいは「眠くならなくはない」みたいな答えかた ── 事実よくレコードを聴きながら私は眠ってしまっていました ── をしたんでしょうが、それで逆に思ったのが、ブルックナーは眠くならないんだ? ということだったんですね。そのブルックナーの曲をいまだに私はよく聴いていません。数枚のCDを持ってはいるんですけれど。

(二〇〇八年三月十三日)

マーラー:交響曲第7番「夜の歌」