『蟻の兵隊』

池谷薫 新潮社)


 この本の「序章 蟻の兵隊たち」にはこうあります。

 一九四五(昭和二十)年八月、ポツダム宣言を受諾した日本は連合国に対して無条件降伏した。これにより海外に派遣された帝国陸海軍の将兵たちは、すみやかに武装を解除され、家族の待つ祖国へ帰国することになった。しかし、中国山西省に駐屯していた北支那方面軍隷下の北支派遣軍第一軍の将兵約二六〇〇人には、その喜びは無縁だった。
 中国国民党軍閥の部隊に編入された彼らは、戦後なおも三年八カ月にわたって中国共産党軍と戦い、五五〇人余りが戦死した。生き残った者も七〇〇人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国することができたのは昭和三十年前後になってからからのことだった。
 ところが、帰国した彼らを待ち受けていたのは逃亡兵の扱いだった。日本政府は、残留将兵たちが「自らの意思で残留し勝手に戦争をつづけた」とみなし、彼らが求める戦後補償を拒否しつづけたのである。
 二〇〇一(平成十三)年五月、元残留将兵ら一三人が原告となり軍人恩給の支給を求めて国を提訴した。しかし、一審判決では国側の主張が全面的に認められ、原告側は敗訴した。
 山西省残留問題は歴史の闇に葬り去られようとしていた。

池谷薫蟻の兵隊』 新潮社)


 彼らが「中国国民党軍閥の部隊に編入」されたというのは、日本軍としてでした。日本軍の命令によって残留したのであって、中国の傭兵としてではなかったんです。これが訴えを起こした彼らの主張です。
 いったいなぜそのような残留が起こった・ありえた(本来ありえないはずなんです)のか? この本はそれを明らかにしていきます。

 日本軍が無条件降伏によって撤退すると、中国に残されたのは、蒋介石の国民党軍と毛沢東共産党軍との内戦でした。このとき山西省にいた国民党軍の将軍閻錫山は、日本軍を残留させることによって共産党軍との戦闘に備えようとし(彼は「一〇万の中国人兵士よりも、一万の日本人兵士の方が優れている」と考えていました)、日本軍は日本軍で、戦犯の指名を受けていた(帰国すれば裁判の待ち受けていた)司令官澄田中将がそれを逃れようとし、両者は密約を交わしたんです。外見上ポツダム宣言に抵触しないかのように偽装・隠蔽が行なわれたということです。
 しかも、この澄田というひとは一九四八年に戦犯指名を逃れ、多くの将兵を残したまま、さっさと帰国したんですね。彼がどうやって戦犯指名を逃れたかといえば、

 内戦が悪化した影響で、日本軍の戦犯指名などは現場の司令官に権限が委譲されていた。

(同)



 ── というわけです。

 それで、彼はこんなふうに自分の部下たちにいって、帰国するわけです。湯浅質治というひとが『山西残留の実相』という手記の中でこう書いているのが引用されているんですが、

<わが中隊が山砲操作の特訓中、突然軍司令官が視察に来るとの連絡をうけ整列して待っていると、随員二名を伴って澄田軍司令官が姿をみせた。僅か数分の短い訓示の要旨は、①祖国復興のために頑張れ②自分は閻将軍と台湾に同行、日本に帰って必らず二万の救援軍を連れて帰ってくる……というものであった。司令官が帰ったあと兵隊の中には「逃げた!われわれを見殺しにして!」とつぶやくものもいたが、二万の援軍に一縷の望みを托しワラをも掴む思いは偽らぬ事実であった>(『山西残留の実相』)

(同)


 さて、「序章」からずっと読み進めていき、特に後半部分のページをめくるにつれて、これは私にとって、怒りの湧き上がってくる ── 軍の上層部や日本という国に対する ── 読書になりました。
 私はここでいってしまいますが、「終章 真実」の最後はこうです。

 そして平成十七年九月三十日、最高裁は審理を一度も開くことなく上告を棄却した。
 上告人には代理人を通じて次のような極めて簡単な判決文が渡された。

 主文
 本件上告を棄却する。
 本件を上告審として受理しない。

 祖国復興をかけ敗戦後も戦争をつづけた残留将兵たちは、長い抑留生活を経て再び日本の土を踏んだとき、すでに軍籍を抹消されていたことを知らされた。それから半世紀以上が過ぎた裁判で、彼らは再び同じ屈辱を味わうことになったのである。
 この判決は、彼らが二度にわたって国に棄てられたことを意味していた。

(同)


 以前にこの場所で『私は「蟻の兵隊」だった』(奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)を紹介して、私はこういいました。

 この『私は「蟻の兵隊」だった』という本は、いまも公開中の映画『蟻の兵隊』をすでに観たひと、これから観ようとするひとのための本だという気がします。映画を抜きにはできない性質の本ですね。この映画がいつまで公開されるのかわかりませんから、いまのうちに映画館に足を運んでください。絶対に観た方がいいといっておきます。

(二〇〇六年九月)


 そうして、今度書籍としての『蟻の兵隊』── 映画『蟻の兵隊』の監督が書籍『蟻の兵隊』の著者です ── を読んで、私はこういいます。

 書籍『蟻の兵隊』は、映画『蟻の兵隊』から独立している。しかし、映画『蟻の兵隊』を観たひとのかなりの数がこの書籍『蟻の兵隊』を読むことになるだろうし、逆に、書籍『蟻の兵隊』の読者は、もし映画『蟻の兵隊』を観たなら、非常な衝撃を受けることになるだろう。だから、なんとしても映画『蟻の兵隊』を観てほしい。

 これは、書籍『蟻の兵隊』が映画『蟻の兵隊』ほどの魅力がないといっているのではありません。ふたつは、いまいったようにそれぞれに独立した作品なんです。もう少し具体的にいえば、映画『蟻の兵隊』が奥村和一さんの現在を追うことによって山西省残留問題を扱った作品(近景)であったのに対して、書籍『蟻の兵隊』は、奥村さんたちの集めた史料などによって、彼ら「蟻の兵隊」たちを戦後も残留させ、戦わせていた上層部の、いわば裏の事情を明らかにする(遠景の)作品なんですね。

 奥村さんたちの現在の訴えを大きく阻むことになった事情に、一九五六(昭和三十一)年に行なわれた衆議院での「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」での澄田中将、山岡少将の陳述があります。そうして、この委員会の開催に合わせて、この問題に関する政府の見解が下されてもいます。

つまり、日本人将兵の残留は、戦勝者である山西軍が敗戦者である第一軍に一方的に押し付けたものであり、第一軍として残留せよとの命令を下したことは一度もなかったという見解である。
 帰国命令、説得を経てもなお残留を希望する者に対しては、軍の規定に基づき現地除隊の処置をとったのだから、残留した将兵はすでに日本軍隊の軍籍を抹消されており、内戦へは山西軍の傭兵として参加したというのである。



 さて、澄田中将は委員会で、自分が「終始一貫して全員帰国の方針を堅持した」由を陳述したんですね。

「私どもといたしましては、特別の事情がない限り、山西側のいろいろ要求、希望があるにもかかわらず、できるだけの人数を完全に復員させるためにあらゆる努力をしたつもりでおります。ただ、私は、十一月になりまして、戦犯の容疑者として、軟禁状態に移されました。事後は、参謀長を当時しておられました山岡君が、私にかわりまして、前述の方針に基いていろいろ苦心指導をされました」

(同)

 約十五分と制限された陳述の中で、澄田は自分が戦犯容疑者であったと六度にわたって発言し、軟禁中の身であったため詳しい事情を知る立場になかったと逃げの姿勢に終始した。

(同)


 こんな証言が後々までずっと生きてしまい、現在の奥村さんたちの進路を阻んでいるわけです。

 彼の「軟禁」が実際にどういうものであったかといえば、彼自身の自伝『私のあしあと』が引用されていますが、

〈私と三浦中将との二人は、閻将軍の特別の厚意によって、各々住むには一軒の家 ── 元独逸人技師のために建てた家 ── 出るには一輌の乗用車を提供され、生活に何等の不自由もなく、俘囚としての苦痛も味わず、昼は晴るれば鮒釣り、夜は、囲碁、麻雀、果ては玉撞きなどを嗜みつつ、無聊を慰めることができたのは幸であった〉(『私のあしあと』)

(同)


 この陳述以前のことですが、

 その澄田に直接会って、軍命による残留を証明してもらおうとした元残留兵がいた。太原総攻撃の二カ月前、帰国直前の澄田から「祖国復興のために頑張れ。自分は日本に帰って援軍を連れてくる」という訓示を聞いた湯浅質治である。
 昭和二十九年に帰国した湯浅は、他の将兵と同じく軍人の身分を抹消されていたことを知り、厚生省と交渉を重ねる一方、澄田のもとを訪ねた。
〈「われわれが最後まで軍人として闘ってきた」旨の司令官の証言が必要で、なんとか救済の道を探ろうと面会を求めたところにべもなく断わられた。「貴方たちは自分の希望で残ったのだから私には関係ない」「他に何もいうことがないから帰ってくれ」という取り継ぎの従業員の一言の伝言で追い返された。途方に暮れた私たちは、ここではじめて「売軍の元凶」の正体を見たような思いに浸った。そして私は、不遇な一生を澄田に捧げた多くの亡き戦友たちの心情を思うとき涙を押さえることができなかった〉(『山西残留の実相』)

(同)



 どうですか? 

 途方に暮れた私たちは、ここではじめて「売軍の元凶」の正体を見たような思いに浸った。そして私は、不遇な一生を澄田に捧げた多くの亡き戦友たちの心情を思うとき涙を押さえることができなかった。

(同)


 たしかにこの湯浅さんは「涙を押さえることができなかった」ろうと思うんです。

 ……不遇な一生を澄田に捧げた多くの亡き戦友たち……


 そうしてこれを引用した後、池谷さんがそのままつづけるのは、

 シベリアに抑留された将兵たちが日本に帰国する日まで軍籍を認められたのに対し、山西省に残留した彼らは、内戦に巻き込まれて戦闘に明け暮れた期間も、捕虜となって抑留された期間も、国の補償の対象にはならなかった。
 強い憤りを感じた元残留将兵たちは、厚生省や各都道府県庁に陳情をつづけた。しかし、まずは当面の生活を優先させる必要があったため、彼らの活動は個人の範囲にとどまり、結束力を持った団体が組織されるには至らなかった。

(同)


 ── ということなんですね。奥村さんたちの訴えが二〇〇一年になる ── 戦後半世紀以上たっています。彼らの年齢を考えてみてください ── のには、こういう理由があります。

 しかし、きりがありません。彼ら「蟻の兵隊」たちが日本軍として残留したことの証拠史料をはじめ、山西省での激戦の様子や複雑な諸事情などは、実際にこの本を読んで確認してください。

 それにしても、映画『蟻の兵隊』を観て、『私は「蟻の兵隊」だった』を読み、「座談会 戦争とは何か、戦争を語り継ぐとは何か」(奥村和一・池谷薫・田辺菜奈 「世界」二〇〇六年九月号 岩波書店)を読み、映画『蟻の兵隊』公式サイト中の「監督日記」をたびたび読んできた上で、この書籍『蟻の兵隊』を読んだ私が、ここでそのいずれにも触れていないひとたちにいうべきことは、繰り返しになりますが、とにかく映画『蟻の兵隊』を観てほしいということです。

 まず、八十歳を越えた彼らの生身の姿・現在のたたかいを見てほしいということがあります。映画では、特に奥村和一さんということになりますが、彼の姿、彼の身体、彼の声、彼の眼を確かめてほしいんですね。この一個の身体が過去にどんな体験を経てきた身体であるのか。いまこの一個の身体が日本という国に対して何を求めているのか。
蟻の兵隊」たちが、ずっと日本という国からひどく不当な扱いを受けているというのは、単に「軍籍」の問題だけなのではないと私は思います。そうして、これから私のいうことは、なにも「蟻の兵隊」たちに限定されません。つまり、書籍『蟻の兵隊』では、ちらりとしか書かれていませんが、この「蟻の兵隊」たちは、中国人たちに対して相当に残虐な行為を働いてきたひとたちでもあります。たとえば、奥村さんは、木に縛りつけられた中国人を「訓練」で刺し殺した経験があります。「訓練」です。彼はそれを強制された、命令に従ってやったわけです。「怖かった」と奥村さんはいっています。彼は映画のなかで、六十数年ぶりにその「訓練」の行なわれた場所に立つことになります。この「刺突」と呼ばれる「訓練」は、肝試し(これを通過すれば、殺人のできる人間・一人前の兵士になっているはず、という理屈です)として当時の日本軍のなかではかなり一般的なものだったらしいんですね(井上俊夫『初めて人を殺す』(岩波現代文庫)を読んでみてください)。逆にいえば、そんなことのために殺された中国人が数多くいたということです。そのことも考えつつ、いまは、加害者である日本人のことだけをいいますが、これは、日本という国が個々の自国民に何をさせていたのか、という問題であるはずです。もちろん、個々の日本兵について、何の責任もないなどと私は考えませんけれど、しかし、最も罪深いのは日本という国です。国というものは絶対に自国民にそんなことをさせてはならないんです。

 いったん戦争になってしまえば、そんなことまでは国の知ったことではない、つまり、平時と戦時とは違うんだ、戦争とはそういうものなんだ、などということじゃ駄目でしょう。そんなことの起こり得る戦争だからこそ、はじめからやってはいけなかったんです。戦争というのは、国家が選択肢に入れてはならないものなんですよ。政治とか経済とか、国際情勢などを持ち出しながら、戦争はそういう諸条件からの必然だ、などと説明をするひとがいますが、違います。繰り返しますが、選択してはならないのではなくて選択肢に入れてはならないものなんですよ。
 それで、先の戦争については、日本は、相手の国々にもそうですが、自国民に対してもきちんとした認識を公表しなくてはなりません。そう私は考えます。
 そういうことまでを含めて戦争というものが何であったのか、軍隊というものがどういうものであったのか、日本人であることはどういうことなのか、現在の彼らがそのことをどう考えている・考えつづけてきたのであったのか、を映画『蟻の兵隊』は描いています。


 書籍『蟻の兵隊』が見据えているのは ── ここで大西巨人のことばを借りますが ──「一大重罪<歴史の偽造>」(「世界」二〇〇七年八月号)なんですね。

 奥村さんたちは、なにも軍人恩給がほしくて訴えを起こしたわけじゃありません。軍人恩給というのは、国に彼らが日本軍として残留したことを認めさせるための、裁判の名目として持ち出されたにすぎません。彼らは日本という国が行なっている「歴史の偽造」を正そうとしているんです。
 奥村さんはこういいます。

「司法は自らの国家の犯罪を暴露して裁くことはない。ならば、なぜ我々は蟻の兵隊として敗戦後も戦闘をつづけなければならなかったのか。なぜ多くの戦友たちは死ななければならなかったのか。これは国家の本質とは何かを問う闘いなのだ」

(同)


 しかし、いったいどうしたら・どういう条件を満たしたら、奥村さんたちの残留が日本軍としてのものであったと認められることになるんでしょうか? この書籍『蟻の兵隊』にまとめられている史料では駄目なんでしょうか?

 私にわからないのは、日本という国の態度です。『私は「蟻の兵隊」だった』のなかで、奥村さんはこんなことをもいっていました。

酒井 奥村さんがそういう調査を始めるまで、山西残留に関してそんなにしつこく防衛庁に史料請求をした人はいなかったのですか。
奥村 いません。相当しつこくやったから、向こうの注意を引いたでしょうね。その当時は全部コピーを請求すると余計に警戒されるので、手書きで写したものもありました。それが、五年ぐらい前に裁判準備のためにもう一度コピーの請求をしに行ったら、閲覧史料のなかから一部削除されていたのです。いわゆる情報公開法が施行されたあとのことでした。だから、日本という国は恐ろしい国だと思いましたよ。これから公開しなくてはならないのに、逆に全部隠してしまうのですからね。
酒井 その史料がどういう状態になっていたのか、具体的に話してください。
奥村 ふつうだったら削除するのであれば、その史料すべてをシュレッダーか何かで切り裂くわけでしょうが、ところがきちんと製本し直されているのですよ。閲覧させてはいけない部分を全部抜き出して、新しく製本しているわけです。元の史料から抜き出した、隠しておきたい部分はべつに保管しているのでしょう。

(『私は「蟻の兵隊」だった』)


 もしこれがその通りだとしたら、奥村さんたちはどうしたらいいんですか?

 裁判というのは、訴えた側がとにかく証拠を提出しなくてはならない ── 訴えられた方は、それについて反証しさえすればいい ── のでしょうが、その証拠の持ち主がこのような隠蔽をしているとすれば、どうやって対抗したらいいんですか?
 とにかく公正な裁判というものがなければなりません。

 その「公正」とは ──、

 再び大西巨人からの引用になりますが、

 宗昔の「むかし話」の内容は、おおむね左のごとくであった。
 ── 四十三、四年前〔一九五四年?〕のある日あるとき、当時しばらく某文学団体に所属し・そこの常任運営委員であった宗昔(三十代前半)は、その某文学団体本部事務所の「松川事件」関係担当事務書記(二十代半ば)にむかって、「もしも新たに明白な不動の証拠が見つかり、為に被告人二十名全員が有罪になったならば、君は、どのように思うか。」と質問した。熱心な担当者である青年事務書記は、「〝われわれは、二十名から裏切られた。われわれの運動は、まるで無意義な徒労であった〟というように思うでしょう。」と返答した。……
 ……宗昔は、「君の思いは、てんでまちがっている。君は、そのように思うべきではない。われわれの運動は、公正裁判を要求しているのであり、〝現在までの一審および二審判決は、不公正な審理・疑わしい証拠によって行なわれた。したがって二十名全員は、無罪 ──『<法律上>無罪』── だ〟というのが、われわれの主張である。もしも新たに明白な不動の証拠が見つかり、為に二十名全員が有罪になったとしたら、それは、取りも直さず公正裁判の実現を指示するから、われわれの運動は、ずいぶん有意義な仕事だった。むろんわれわれは、誰からも裏切られはしなかったのだ」と事を分けた。……

大西巨人『深淵』 光文社)


 ── というものでなくてはなりません。

 そうして、むろんのこと、日本という国がきちんと調べもしないで、「はいはい、わかりました、わかりましたよ。あなたたちは軍の命令で日本軍として残留したんですね。それならそれでいいですよ、お金なら払いますってば」なんてことでいきなり軍人恩給を支給してきたりしたら、奥村さんたちは激怒することになるでしょう。

 国は自らをあらためて調べなくてはならないのじゃないでしょうか? その調査を奥村さんたち(訴えた側)にだけやらせていていいものでしょうか? それこそ、青くなって調べるべきなんじゃありませんか? そうして、ありのままを正確に公表すべきなのでは? つまり、国とは、常に公正さを第一義としなくてはならないものじゃないんですか? 国があっての国民じゃないんですから。国民あっての国なんですから。しかし、そのことを、国も国民も忘れているのじゃないかと疑います。



 以上、いったん私の勤める書店のホームページに掲載した文章(二〇〇七年八月)を改稿しました。


蟻の兵隊―日本兵2600人山西省残留の真相私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵 (岩波ジュニア新書 (537))