「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 またも、おさらいです。
 この一連の文章の最初で、私は光文社文芸編集部編集長駒井稔を「大馬鹿者」といい、こう書いたんでした。

 それとも、彼はこう考えているんでしょうか?
 読者なんてどうせ馬鹿だから、誤訳だらけの新訳であろうが、彼らが喜んでいるんなら、それでいいんだよ。そもそも、彼らが喜んでいるというのが、彼らの馬鹿さ加減を大いに明かしているじゃないか。だから、こんなときに大真面目に正しさを振りかざして抗議してくる輩こそ、野暮なんだよ。もともと商売にもならない「古典」なんかにいまこれだけ光が当たってきているのは、誤訳だらけとはいえ、うち(=光文社)の商売のおかげじゃないか。正しさなんかにこだわっていた日には、いつまでたっても「古典」なんかに陽は当たらないんだよ。これまでの正しい訳が望んでも得られなかったヒットがこうして実現しているじゃないか。肝心なのは、「新しさ」ということ、その売り込みのしかたなんだよ。これまでの翻訳は、正しさに拘泥していたからこそ、(誤解にすぎないにせよ)古くさくて読みにくいということで、読者に敬遠されていたんだよ。新訳は、実際には読みにくさが倍増しているかもしれないけれど、新しくて読みやすいという評判が立ちさえすれば、どうせきちんと本なんか読めない馬鹿な読者連中は、その評判だけで「なるほど読みやすい」と信じ込んでしまうんだよ。まったく、評判だけで十分なんだよ、あいつらに喜んでもらうためには。実質なんかどうでもいいんだよ。ああ、もちろん、正しい訳の方が実は読みやすいはずだし、翻訳の質も高いだろうけれど、商売にはならないんだね。商売になるっていうのは、馬鹿を喜ばす・馬鹿に自分が喜んでいるって思わせることなんだよ。つまり、これが読者に合わせた翻訳っていうことさ。
 これは、あまりにひどい想像でしょうか?

(二〇〇八年六月十九日)


 いやいや、この通りでしたとも。右の文章を書いて、ほぼ一年半がたちましたけれど、まったくこの通りでした。「あまりにひどい想像でしょうか?」なんて遠慮していた自分が馬鹿に思えます。

 その私は、もっと以前に、こうも書いていたんでした。

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。そういう読者にだけ照準を合わせて「なにが」だけを提示しているにすぎない自称「作品」がどれだけ売れているかを考えるとくらくらします。私が疑うのは、単に「なにが」だけしか提示していないものを読むときに、多くの読者が勝手に作家の非力を、いかにもありがちなイメージで ── すぐにわかる、わかって安心できる、すでに自分のなかにある安手なあれ・それを当てはめながら ── 補ってやっているのではないか、最近の傾向でいえば、読んで泣こうとして、泣く方向にねじまげて読むから、だめなものでも泣かずにはいないということがあるのではないか、ということですね。しかし、ちゃんとした作品、「どのように」のきちんとできている作品はもっと自立したものであるはずです。泣くことが目的の読者のごまかしに手伝ってもらう必要など全然ありません。
 しっかりした「どのように」がともなってはじめて可能になる「なにが」の表現ということを考えてほしいんです。つまり、読者がいまだ知らないなにか、名前をつけようと考えたこともないなにか、自分のすでにもっている(そしてすぐに取り出せる)どの観念にも落とし込むことのできないなにか、それが、作品の「どのように」に支えられてのみ、その作品一回きりの「なにが」として立ち上がってくるということがあるはずなんです。そういうことの実現こそがほんものの作家の仕事じゃないでしょうか? そして、そういう作品を読むことこそがほんとうの読書なのでは?

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)
(<『カンバセイション・ピース』(保坂和志 新潮文庫)>解説)


 つまり、「ふつうのひとたち」=「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」たちということになりますね。世のなかに「ベストセラー」というものを成立させてしまうひとたちです。

 いいですか? 世のなかの「ベストセラー」というものも、「権威」をありがたがるひとたち ── 自分の読む本を自分で選ぶことのできないひとたち ── がつくりあげています。そのひとたちにはとてつもない「永遠の悩み」があるんですよ。これです。

その悩みとは《誰の前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。


 そうして、「権威」をありがたがるひとたち ── 自分の読む本を自分ひとりで選ぶことのできないひとたち ── に向かって、「権威」とされているテレヴィだのラジオだの新聞だの雑誌だののマスメディアのひとたちがこうしゃべります。彼らは次の引用における「天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たち」の味方だと主張するんです。

 お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間たちで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てば、それでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。

(同)


 世のなかの「ベストセラー」について考えるとき、結局必ず右の視点をはずすことはできないんですね。

 また、これも引いておきましょう。

 ここで私が、「成功」についてなら経験で、ささやかな経験で物が言えると言い添えても、少々自惚れているなどと思わないでいただきたい! 私は成功を、数ある人生体験のひとつと見ている、そして、成功は成功した者をかなり曖昧な形で性格づけることも知っている。ありていに定義すると、成功とは、この男は馬鹿者たちさえ味方にしたかったのだ、ということを意味している……

(トーマス・マン『非政治的人間の考察』 森川俊夫訳 新潮社)


 私は以前に「ベストセラー」というのは「蔑称」だといいました。つまり、「ベストセラー」をつくりあげているのは「《誰の前にひれ伏すべきか?》」に頭を悩ますひとたち、「天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たち」であり、「馬鹿者たち」だということです。そうして、このことに触れるのをためらうひとたちがいます。「それをいっちゃ、おしまいよ」というひとたちですね。「それをいえば、この私が他人を見下す傲慢な人間ということになってしまう」と恐れるひとたちもいるでしょうし、また、その構造の上で商売をしているひとたち ── たとえば、出版社社員とか書店員(私だ!)ですね。やれやれ。