「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 さて、「順応の気構え」のできたふつうのひとたちにとっては、この最先端=亀山郁夫問題が単に「表面的な(つまり、些細な)誤訳」問題としか受け止められていないんですね。彼らは、個々の誤訳さえ正されれば、それでいいというくらいにしか思っていないんです。誤訳の箇所だけ示してもらえば、「読みやすい訳」の方がいいから、というわけです(しかし、最先端=亀山郁夫の訳文を「読みやすい」なんて思ってしまうひとは、そもそも日本語感覚がおかしいんですけれどね。でも、こういうひとたちが大多数なんでしょう。だから、最先端なんかに騙される)。
 この「読みやすい」というのが曲者なんです。「誤りが多数あろうとも、読みやすければそれでよい」というひとたちは、結局のところ、「作品に自分を合わせる」のでなく、「作品を自分に合わせる」ということしかできないわけです。つまり、「作品」というものがそもそもどういうものなのかということがわからないんです。また、「読みやすい」ということが本来どういうことなのかということもわからない。反対に、これがわかるひとには、「こころなきみにも」で萩原俊治が繰り返し ── 幾重にも ── 指摘していること、つまり、原文の段落を勝手に分割して改行を施した最先端=亀山郁夫の行為がどれほどひどいことかがわかるはずです。

 最先端=亀山郁夫訳を「読みやすい」といってしまえるひとたちには、そもそも文章というものがどういうものであるかがわかっていないんです。読み書きの苦手なひとたちです。