いつも、まぢかにひかえた戦いには

 知識人にとってなすべきことは、生存の問題を超えて、政治的解放の可能性を問うことであり、指導層に批判をつきつけることであり、代替的可能性を示唆することである ── たとえ、この代替的可能性が、いつも、まぢかにひかえた戦いには無関係なものとして周辺化されたり一蹴されるとしても。

 いいかえると、なるほど知識人が民族存亡の危機に瀕した共同体を支援することには、測り知れない価値があるにしても、知識人が生存のための集団闘争に忠誠をつくすことは、批判的感覚の麻痺や、知識人の使命の矮小化につながりかねないので避けるべきなのだ。知識人にとってなすべきことは、生存の問題を超えて、政治的解放の可能性を問うことであり、指導層に批判をつきつけることであり、代替的可能性を示唆することである ── たとえ、この代替的可能性が、いつも、まぢかにひかえた戦いには無関係なものとして周辺化されたり一蹴されるとしても。

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』 大橋洋一訳 平凡社ライブラリー