「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」


 六月からずっと停滞しているこの最先端=亀山郁夫批判ですが、いま、昨年に書いた『カラマーゾフの兄弟』についての文章のつづきに手をつけようとしながら、その前に予定外の文章を書きつつあるのに、ここでまたさらに予定外の一文を書かなければならなくなりました。
 まず、昨八日に最先端=亀山郁夫訳『悪霊』の第一巻(全三巻)が光文社古典新訳文庫として発売されたことですね。これ、私の勤める書店への配本数からして、かなりの部数を刷っていますね。古典新訳文庫の他の作品の約五倍程度でしょうか。しかし、まあ、それはいいです。
 ここで書かなければならなくなったのは、その前日七日に発売された雑誌「群像」の十月号のことです。「「悪」とドストエフスキー」というタイトルでの対談で、最先端=亀山郁夫の相手は作家中村文則。つまり、高村薫につづいて、今度は中村文則ということです。

 のっけから、こうです。

中村 亀山さんにお会いすると、緊張してしまいます。なぜかというと、僕にとってドストエフスキーという作家はすごく大きくて、ドストエフスキーが実際に書いた創作ノートなども含め徹底的に研究している方は、ドストエフスキーの半身に感じてしまうんです。
 亀山さんの場合、『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』を翻訳なさっていて、ドストエフスキーが書いた原文にじかに触れて、かつ作品としてつくり上げていく。それを経験し、達成された方は、僕の中ではもう普通の人ではないというか、畏怖を感じます。だから、お会いするとなると、非常に緊張するわけです。
亀山 お会いするのは三度目ですね。
中村 『カラマーゾフの兄弟』は、大学生のときに新潮文庫で読みました。あのときのイメージがとにかく強烈な体験で、自分の中で余りにも大き過ぎるんです。亀山さんの新訳が出たとき、当然興味はあったのですが、最初に読んだときの印象がどうなるのかと、手にとるのがすごく怖かったんです。
 でも、そうはいっても気になるので手にとって読んだら、『カラマーゾフの兄弟』にもう一回初めて出会えたような新鮮な感じを受けました。ドストエフスキーと最初に出会ったときに体験する喜びって格別だと思うんです。一気に読んで、それをもう一回体験することができました。きょうは本当にお礼をいおうと思ってきました。
亀山 そういっていただけると、とても嬉しいです。
中村 亀山さんの新訳は読みやすい翻訳といわれているけれども、当然ながら読みやすさだけでなくリズムがあって、リズムから熱が生まれてくる印象がありました。僕はロシア語が全然わからないですが、この熱は恐らくドストエフスキーそのものの熱なのではないかと感じました。本当にすばらしいお仕事です。相当な労力ですよね。そのことが最新刊『ドストエフスキーとの59の旅』にもたくさん書いてありました。すごく興味深かったです。亀山さんのこれまでのドストエフスキー研究の成果も書かれていますし、人生の洞察や知への思いとか、様々に深くて人と文学のかかわりにしみじみ感じ入りました。
亀山 どうしよう。今日は僕のほうが聞きたいことが山ほどあるのに(笑)。

(「「悪」とドストエフスキー」 「群像」二〇一〇年十月号)


 私はどう反応すればいいんですか? 爆笑すればいいんですか? じゃあ、爆笑しましょう。

中村 ドストエフスキーはかなり意識的に構成を、数字にもこだわってつくり上げています。僕も色々とやってみたのですが、やはり神秘的なものも加えたいと思いました。
罪と罰』は本当にしかるべき筋を通って老婆を殺してしまう。最後は神の存在が見え隠れする。僕は信仰を持たないので、神秘的ではあるけれども、同時に違和感も覚えるところです。「運命の書」ということが自分の主観から確信に変わったのが、亀山さんがすでにお書きになった『『罪と罰』ノート』の「黙過」の問題を読んだ時です。ラスコーリニコフの犯罪が神の黙過で行われたということから見えてくる「ラザロの復活」の発見がある。『罪と罰』の中で引用されているラザロの復活は結局、自分の奇跡を見せるためのキリストの黙過 …… 。それがこの小説の裏テーマというか、やっぱりこれは間違いなく「運命の書」だと思ったんです。
亀山 「黙過」の問題ですが、『掏摸』の木崎は根本的に不作為というか、みずから手を下すことの快感よりも、直接的なものではない、神的な自由というか、神が経験しているある種の絶対的自由というものを人間が人間の身において経験することが最高の快楽だというふうにいっている。それはドストエフスキーがつかみ取った一つの究極の真理であり、そのニヒリズムをどう乗り越えるかが大きな課題になったと思いますね。

(同)


 ここも爆笑ですか? 爆笑しましょう。

亀山 経験を積むことだけでいえば、現代はインターネットでほぼすべて経験できてしまう。いま作家はどういう形で経験を書けるのか。経験というと、ドラッグとか、セックスとか、そうなってしまうような気がするんです。それは大きいけれども、そうではなく人間としての生の経験を積んでいってほしい。僕自身、大学時代にドストエフスキーにあれほどかぶれながらも、ドストエフスキーという作家を語れるだけの経験も能力もないとわかって、アヴァンギャルドの研究をはじめました。少くともこの領域は経験が要らないからです(笑)。その後、スターリン時代の文化研究に移った。これも経験が要らないからでした。だって、スターリン時代を経験しろといっても経験のしようがありませんもの(笑)。でも二十年間かけて小さな体験を積み上げていきました。そこで、ようやくドストエフスキーに接近できるような気になったんです。五十代に入ってはじめて …… 。
中村 僕もまだ、これからいろいろな経験をして、僕なりの『異邦人』『嘔吐』を書いてみたいと思います。
亀山 それにしても、中村さんがここまでドストエフスキーに精通しているとは思いもよりませんでした。作家っていうのは、本当に獰猛で貪欲な生き物だと思います。僕は、泡を食いました(笑)。

(同)


 やっぱり爆笑 ── ですか? そうですよね。本当は、いま引用したところだけじゃなくて、全編爆笑なんですけれど、興味のある方は、ぜひ「群像」十月号をお読みください。

 そういうわけで、私は中村文則という作家がまったく信用できません。哀れにすら思えてきます。これまでも彼の作品を読んだことはないし、これからも読みません。

(二〇一〇年九月九日)