「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 つづけます。

「勝手にわたしを見るがいい、とあなたはおっしゃっている。それじゃ、あなたご自身は、どんなふうにその人たちをごらんになるのです?」

ドストエフスキー「チーホンの庵室で」 亀山郁夫
現代思想」四月号増刊「総特集=ドストエフスキー」 青土社 所収)


「勝手にわたしを見るがいい、とあなたはおっしゃっている」。「おっしゃっている」じゃなくて、「おっしゃる」にできないのか? 「勝手に」って本当にそのことばがあるのか? 江川訳では「自分のことを見るがよい、とあなたは言われるが、あなた自身は、その人たちをどのような目でごらんになるのです?」。
 私が最先端=亀山郁夫の「勝手にわたしを見るがいい」を疑うのは、この訳がおそらく「わたしのことをどうとでも見るがいい」、「好きなようにわたしを判断するがいい」、「わたしのことを何とでも思ってくれ」 ── 「わたしを憎むがいい」に結ぶはずの ── という意味を含ませていると思うからです。それは間違いではないか? 単に「わたしを見よ」なのじゃないか? チーホンは、単に「わたしを見よ」としかいわない(と彼に思われる)スタヴローギンに、「あなたご自身は、どんなふうにその人たちをごらんになるのです?」と問うわけです。そこでの「どんなふうに」こそ、先の「懺悔なのかどうか=キリスト教の思想なのかどうか」という問いの再現じゃないんですか? スタヴローギンが謙虚に頭を垂れて「わたしを見よ」というのであれば、彼の文書は懺悔であり、キリスト教の思想なんですよ。チーホンはそこを問うているんです。それなのに、その問いの手前でチーホンが「勝手にわたしを見るがいい」なんていうはずがない。「勝手にわたしを見るがいい」が意味するのは、スタヴローギンの文書が懺悔ではない、キリスト教の思想ではないということだからです。というわけで、そこのところをまったく理解できていない ── ということは、単にこの文章はおろか、ドストエフスキーにとってのキリスト教の意味・位置などもまったく理解できていない ── ということは、ドストエフスキー研究者として致命的欠陥を抱えた ── 最先端=亀山郁夫が「勝手に」を勝手につけ加えている・捏造しているだろう、と私は思います。この点、私はいつもの友人に問い合わせていません。しかし、原典に「勝手に」はありません。もしあったとしたら、それはドストエフスキーの誤りです。

 これがどんなにひどいことか、わかりますか? これは些細な間違いなんかじゃありませんよ。「勝手にわたしを見るがいい」という、その「勝手に」を翻訳者が勝手につけ加えることによって、読者はもうこの場面を読み解くことができなくなるんです。余計なところをうろうろして、あげく、迷ってしまうことになるんです。読者はスタヴローギンに行き着くことができなくなります。チーホンの問いが曖昧になり、ここでのふたりの対話がぼかされます。ここで問題になっていることが何であるかが、読者にはわからなくなります。読者は最初から、自分で考える材料を奪われることになるんです。こんな翻訳があっていいはずがない。
 いいですか、これは翻訳作品につきものの表面的誤訳なんかじゃないんですよ。本質的・構造的誤訳です。翻訳者が最先端=馬鹿=低能であるために、読者はとんでもない不幸に遭遇することになるんです。

(つづく)