(一八)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇



   5

 朝日新聞の夕刊一面で連載されている「人脈記」における「感染症ウォーズ」の三、「「知識ワクチン」を接種せよ」(中村通子)をたまたま読みました。

 病原性大腸菌O(オー)157の嵐が日本を襲ったのは、96年だった。5月末に岡山県の海辺の町で子どもら約470人が発病、2人が翌月、死亡した。
 ……(中略)……
 この年の5月の連休明け、大阪大学微生物研究所の教授、本田武(63)の手元に、病死した兵庫県の女の子の腸の一部があった。病院からの死因解明の依頼だった。大腸は赤黒く変色し、傷んでいる。「O157ではないのか」
 O157は、83年に米国で確認された新しい菌だった。腸に病気を起こす細菌が専門の本田は、その直後に米の研究者から菌株をもらい、研究していた。
 治療に大量の抗菌薬を使ったため、女の子の腸から菌は見つからなかった。だが、菌に対する抗体の数値が異常に高く、O157の感染によって死亡した可能性が強かった。妹も同じ症状で入院しているという。
 すぐ主治医に連絡した。「O157が疑わしい。保健所に届けた方がいいと思います」
 返事はそっけなかった。「菌が出なかったのなら、届け出義務はないでしょう」。そんなものなのか。本田はそれ以上言葉を重ねなかった。

朝日新聞 二〇〇九年三月九日 夕刊)


 これで思い出すのはカミュの『ペスト』── この文庫をもアルジェリアへの旅に携えていたことを前回に書き忘れていました ── でのこの場面です。

 リシャールは、しかし、事態は結局つぎのように要約されると考えて、こう指摘した ── この病いを終息させるためには、もしそれが自然に終息しないとしたら、はっきり法律によって規定された重大な予防措置を適用しなければならぬ。そうするためには、それがペストであることを公に確認する必要がある。ところが、この点に関して確実性は必ずしも十分でないし、したがって慎重考慮を要する、と。
「問題は」と、リウーは主張した。「問題は、法律によって規定される措置が重要かどうかということじゃない。それが、市民の大半が死滅させられることを防ぐために必要かどうかということです。あとのことは行政上の問題ですし、しかも、現在の制度では、こういう問題を処理するために、ちゃんと知事というものが置かれているんです」
「それはそうです」と、知事はいった。「しかし、私としては、それがペストという流行病であることを、皆さんが公に認めてくださることが必要です」
「われわれがそれを認めなかったとしても」と、リウーはいった。「それは依然として市民の半数を死滅させる危険をもっています」
 リシャールが、幾分神経をいらだたせた調子で、口をはさんだ。
「ありていにいえば、リウー君はペストだと信じているんだ。さっきの症候群の説明ぶりがそれを証明してるよ」
 リウーはそれに答えて、自分は症候群などと説明したのではない、自分の見たままを説明したのだ、といった。そして自分の見たものは、リンパ腺腫であり、斑点であり、錯乱性の高熱であり、それが四十八時間以内に死をもたらすのだ。そもそもリシャール氏は、この流行病が厳重な予防措置を用いずして終息するだろうと断言する責任をとってもいいというのか?
 リシャールはためらい、じっとリウーの顔を見た ──「ほんとうのところ、君の考えをいってくれたまえ。君はこれがペストだと、はっきり確信をもってるんですか」
「そいつは問題の設定が間違ってますよ。これは語彙の問題じゃないです。時間の問題です」
「君の考えは」と知事がいった。「つまり、たといこれがペストでなくても、ペストの際に指定される予防措置をやはり適用すべきだ、というわけですね」
「どうしても私の考えを、とおっしゃるんでしたら、いかにもそれが私の考えです」
 医者たちは相談し合い、リシャールが最後にこういった ──
「つまりわれわれは、この病いがあたかもペストであるかのごとくふるまうという責任を負わねばならぬわけです」
 この言いまわしは熱烈な賛意をもって迎えられた。
「これは君の意見でもあるわけですね、リウー君」と、リシャールは尋ねた。
「言いまわしは、私にはどうでもいいんです」と、リウーはいった。「ただ、これだけはいっておきたいですね ── われわれはあたかも市民の半数が死滅させられる危険がないかのごとくふるまうべきではない、と。なぜなら、その場合には市民は実際そうなってしまうでしょうから」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫


 私はこんなふうにも考えます。ロシア文学の研究者たちや多くの出版社、新聞社、テレヴィ局などが、もしどうしても亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の非を問題にしなければならなくなる日が来るとして、そのときも彼らはまずこんなふうないい回しを用いるのだろうな、と。「つまりわれわれは、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』があたかもでたらめであるかのごとくふるまうという責任を負わねばならぬわけです」。

 先の「「知識ワクチン」を接種せよ」の後段には、こうも書かれています。

 研究者が社会の人々に分かってもらう努力を怠ると、悲劇の種になることを、兵庫の子の死に学んだ。「あの時、もっと強く危険性を主張していれば、広く警告できただろう」。10年以上が過ぎた今も、悔やむ。以来、説明する言葉は一切惜しまない。「分かってもらう『知識ワクチン』が、なにより効くのですから」

朝日新聞 二〇〇九年三月九日 夕刊)


 また、これも最近に読んだ記事です。PHP研究所による「文蔵」── 私は以前、この雑誌に短い原稿を書いたことがあります。しかもドストエフスキーの!『罪と罰』の! ことで ── の最新三月号。
「特集『人間失格』『蟹工船』から『カラマーゾフの兄弟』まで リバイバル・ブームを読む!」なんですが、そこに「仕掛け人が明かす「ヒットの理由」」というのがあります。

 昨今の「リバイバル・ブーム」の中で、象徴的ともいえる存在が、『カラマーゾフの兄弟』『蟹工船』『人間失格』の三作品であろう。では、これらの本はなぜヒットしたのか。その裏側にはどんな仕掛けがあったのか。そこから見えてくる、リバイバルを成功させる条件とは何かをさらに探るべく、各社の担当編集者に話を伺った。

(取材・文=杉山直隆・須貝俊 「文蔵」二〇〇九年三月号 PHP研究所)


 ここで採りあげられた『カラマーゾフの兄弟』は、もちろん亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫。インタヴューに答えるのも、もちろん ── 、

「“再読”したいという団塊の世代から火が付き、流行に敏感な十〜二十代の若者が追随。最近では、本の購入に比較的慎重な三十代女性の読者が増えてきました。自信のある本でしたが、ここまで早く百万部に到達するとは予想外でした」と話すのは同社の川端博氏。
 ヒットの導火線は、複数のテレビ番組で取り上げられたことだ。古典新訳文庫シリーズを認知してもらうために、同社ではマスコミ各社へのPRを大々的におこなっていた。
「最初にフジテレビの夕方のニュースで取り上げていただき、そこから他の番組へも連鎖したようです。それだけ関心をもたれたのは、軽薄なモノが多い風潮を苦々しく思っているテレビ番組制作者の方が多いという表れかもしれません」
 ただ、テレビで取り上げられるだけで、百万部も売れるとは思えない。なぜこの本は広く受け入れられたのだろうか。

(同)


 まず、この「リバイバル・ブームを読む!」という企画が、以前に私が引用したこれと同じ視点からのものですよね。

 若い世代が古典に親しめるような工夫が必要だ。
 今年、夏目漱石森鴎外の小説を収めた文庫本が、現代の人気漫画家らによるカバーに変わったことで若者の目を引いた。
 海外の古典では、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が計一〇〇万部を超えるベストセラーになった。
 古典に現代の光を当てることで新たなファンを呼ぶのだろう。

(読売新聞 社説 二〇〇八年十一月二日)


 この視点で特におぞましいのは、たとえ全五巻の累計であろうが、「一〇〇万部」を超えるベストセラーを無邪気に「よい」としていることです。一〇〇万人に受け入れられたからには、「よい」ものだ、というわけです。「一〇〇万部」と口にしたくてたまらないんですよ、こんなことをいうひとは。そんなことじゃ駄目です。もっと警戒すべきなんですよ。恐れるべきなんです。いいですか、私はもうこれまでに何度いったかわかりませんが、「一〇〇万部」単位のベストセラーなんかが成立するような世のなかじゃ駄目なんです。もう一度かつての私の文章を引用します。

 そもそも私がPOPを書きはじめたのは、ベストセラーを中心とした本の読まれかたへの反感もあってのことだった(にもかかわらず、自分の書いたPOPの関わった本がベストセラー入りしたというのは皮肉なものだが)。いったい、広告も誇らしげな「一〇〇万部突破!」を歓迎できるか? 一〇〇万人がいっせいに同じ本を読むなどというのは異常な・おかしな・ばかげたことではないだろうか。他にもっと読まれていいはずの、埋もれている本がたくさんある。また、誰にも自分に ── もしかすると自分ひとりだけに ── にぴったりくる本があるはずなのだ。「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」と私は『〈子ども〉のための哲学』(永井均)のPOPに書いているのだが、「自分だけの本」(それは自分だけの感動であって、周囲とお揃いの都合のいい涙なんかではない)というのがあっていいし、そういう本を持たないひとはいつまでも自分で本を選ぶことができないだろう。
 POPは、書店店頭で、いまの主流ではないべつの読書モデルを提出するにすぎない。発行から時間のたってしまった本、読者に背伸びを強いる本(背伸びなしの読書をつづけていても「自分だけの本」に出会うことはない)の負のイメージを軽減し、読書の選択肢を増やす、少なくとも実物を手に取って立ち読みしてもらうために書く。そのページを指定もする。真剣ささえ伝われば、POPの書き手によるコピーの秀逸さなど本当はどうでもいい。いちばん重要なのは、本の重さや厚みごと作品の文章にじかに触れてもらうことだ(そして、多くの書評で私が不思議に思うのは、本文からの引用がほとんどないことだ)。

(「文藝」二〇〇四年秋号 河出書房新社


 私が右の文章を河出書房新社の雑誌に書いたのは、同社刊行の『蹴りたい背中』(綿矢りさ)── いまだに私はこれを読んでいません ── が一〇〇万部を超えた後だったと思います。
 繰り返します。もうこの「一〇〇万部」ということばの大好きなひとが駄目なんです。「一〇〇万部」が自分の読書を正当化してくれると思っているんです。

 しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。


 しかし、たしかに実際、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』全五巻が累計一〇〇万部を超えたわけで、そういう現象を単に採りあげただけだ、と先の「視点」の持ち主らはいうかもしれません。それでも、彼らはこの「一〇〇万部」について、なぜこれほどまでに馬鹿な現象が起きているのか、と思わないでいられるんです。しかも、その『カラマーゾフの兄弟』が実は『カラマーゾフの兄弟』を僭称したものにすぎないことをも知りません。「一〇〇万部」万歳! それだけしか彼らの意識にはありません。

 それにしても、川端博の「それだけ関心をもたれたのは、軽薄なモノが多い風潮を苦々しく思っているテレビ番組制作者の方が多いという表れかもしれません」は、よくもまあ、こういうことがいえたな、という発言です。「テレビ番組製作者の方」は、結局ただの「軽薄な」視点からいつもと同じことをしただけですよ。なぜなら、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』こそ当の「軽薄なモノ」に他なりませんから。まったく、いまだに自分の担当した『カラマーゾフの兄弟』がでたらめであるという認識もなく、こういう発言をするからには、川端博はこの仕事をするまで『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがなく、亀山郁夫の訳稿で初めて読んだ・読まされた・読まざるをえなかったのに違いないんですね。もし彼が既訳の ── たとえば原卓也訳 ── をきちんと読んだことがあれば、必ず亀山郁夫のでたらめがわかったはずです。亀山郁夫が「訳者あとがき」で書いたように、自分と川端博との「原稿の受け渡しのたびに交わしあう『カラマーゾフの兄弟』論は、それだけでも優に新書二冊分ぐらいの中身の濃いものだったはずである」も、それを裏付けますね。川端博は、訳稿を渡されるたび、「最先端」を吹き込まれ、ありがたがりながら、丸め込まれてしまったんですよ。そうでなかったら、彼も「最先端」です。まあ、こんなひとのこともどうでもいい。

 さて、「一〇〇万部」を無邪気に「よい」とする、その「視点」で取りあげられる『カラマーゾフの兄弟』というのが私の気に入りません。「あのカラマーゾフの兄弟』が一〇〇万部!」ということですよね。「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあのカラマーゾフの兄弟』が!」ですよね。「東大教授が学生に読ませたい作品第一位の! 『カラマーゾフの兄弟』」ですよね。いい加減にしろ! と思います。いいですか、そんなレッテルなんかどうだっていいんですよ。そんなレッテルがあるからこそ『カラマーゾフの兄弟』が読まれるということはわかります。しかし、そんなものはどうでもいいんです。
 実際はこうです。あなたが『カラマーゾフの兄弟』を ── 亀山郁夫訳以外で ── 読むとき、その『カラマーゾフの兄弟』は「あのカラマーゾフの兄弟』」、「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあのカラマーゾフの兄弟』」なんかじゃありません。ただの『カラマーゾフの兄弟』なんです。ただの一作品、ただのひとつの小説にすぎません。それは、あなたが自分ひとりの力で読み解くただの小説なんです。他人(世間)がどんなレッテルを貼っていようが、どうでもいいんです。ここにあるのは、もうただの小説『カラマーゾフの兄弟』対あなたというその関係だけです。そうして、あなたが自力で『カラマーゾフの兄弟』をどう読むか、しかないんです。

 しかし、「文蔵」にせよ、読売新聞にせよ、『カラマーゾフの兄弟』を「いわゆる世界文学の最高峰にして難解・深遠なあのカラマーゾフの兄弟』」というレッテルを貼りつけることで悪用しています。レッテルでものを語ってはいけません。

 同様に、レッテルで大方のひとを押さえつけようとするのが、次の文章ですね。

 ドストエフスキー研究の権威、亀山郁夫氏による新訳も、読者層を広げた要因になった、と川端氏はいう。読者の感想は「読みやすくて驚いた」という声がもっとも多いそうだ。

(「文蔵」二〇〇九年三月号 PHP研究所)


「権威」なんかどうだっていいんですよ。繰り返しますが、あなたの前にあるのはただのひとつの小説にすぎません。どんな「権威」が訳していようが、結局その作品を読み解くのはあなたなんです。あなたしかいません。あなたの読んだその作品があなたにとってどうだったか ── それだけが問題なんです。
 しかし、あなたの読んだものが偽物の『カラマーゾフの兄弟』であったら、どうでしょう。亀山郁夫訳は、その偽物です。
 いったい、亀山郁夫を「ドストエフスキー研究の権威」なんていいだしたのはどこの誰なんでしょうか? こんな「最先端」が「ドストエフスキー研究の権威」のわけもありません。

 川端博はさらにこう語ります。

「亀山先生にお願いしたのが、日本語が本来持っているリズムを重視することと、登場人物の口調を特徴的にし、個性を際だたせること。その難題を見事にクリアしていただきました。しかし、新しく訳し直す行為は、訳者の先生はもちろん、編集者にとっても大変な作業だと改めてわかりました。制作期間は二年以上。他の本の十倍以上は苦労しました」

(同)


「他の本の十倍以上は苦労しました」って、そのあげくがこのでたらめ『カラマーゾフの兄弟』であるからには、まったく「他の本」 ── 『カラマーゾフの兄弟』の十分の一以下の苦労 ── をどんなにいい加減につくっているんですか?

 それで思い出すのが、亀山郁夫のこの発言ですね。もちろん、ここでの「木下さん」は私・木下和郎ではなく、「ドストエーフスキイの会」会長の木下豊房です。

「木下さん主宰の“会”のサイトで私の訳本が批判されているのは存じています。初めは怒りにうち震え、ブログに反論を載せましたが、同じ土俵に上がると思ってやめました。私の人格を貶めるような誹謗中傷も散見されたからです」

ケアレスミスもありましたが、10カ所程度。その他は“たぶん”は不適切で“きっと”だとか、解釈の違いです。40カ所ほど訂正したのは、自主的な改良作業で、その一部は“会”の方々がエキセントリックなので、半ば妥協で訂正したもので、元に戻すかもしれません。勢いと感性で書かれた『カラマーゾフ』は時代背景や宗教、他作品などを総合的に考察し、登場人物に深く入り込まなければ読み取れないニュアンスが多く、自分なりの解釈が必要で、しかし原文と離れてもいけない。そこで最大限に努力した結果があの訳です。こういう大作は何年もかけて訳を直して作っていくものだと思います」

(「週刊新潮」二〇〇八年五月二十二日号)


「こういう大作は何年もかけて訳を直して作っていくものだと思います」というのは何ですか? たしかにガルシア=マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳)が同一の訳者によって改訳されましたし、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳)も同様です。そういう例はたくさんあるでしょう。しかし、それらはいったん提出した自分の訳に ── それは、むろん誤訳の修正もあるでしょうが ── 磨きをかけたんですよ。亀山郁夫がそれらと自分の仕事とを同レヴェルに考えていいわけがない。彼は自分の訳に磨きをかけたのではなくて、欠陥を一部修正した ── 表面的に ── にすぎません。だいたいが、たちまち四十箇所も訂正せざるをえないようなものを最初から出版してよかったんですか? そもそもがいいかげんな仕事だったということじゃないんですか?
 何が「“たぶん”は不適切で“きっと”だとか、解釈の違いです」ですか? 実際を知らない一般読者に自分の訂正が些細なレヴェルのものでしかないと思わせようとする言い訳じゃないですか。
 それに、何ですか、「半ば妥協で訂正したもので、元に戻すかもしれません」というのは? 『カラマーゾフの兄弟』を訳すのに、「半ば妥協で」なんて仕事をしていいとでも思っているんですか?

 野崎は人から指摘されるたびに一部ずつ手直ししていくつもりなのか(しかも改版とせず、初版第三刷として訂正したことを隠蔽している)。読者は新刷が出るたびにそれを買い続けなければならないのか。

(下川茂「『赤と黒』新訳について」 「会報」第十八号)


 この「野崎」を「亀山」に換えてみてほしいですね。

 さらに、「勢いと感性で書かれた『カラマーゾフ』は時代背景や宗教、他作品などを総合的に考察し、登場人物に深く入り込まなければ読み取れないニュアンスが多く、自分なりの解釈が必要で」って、いったい誰が「登場人物に深く入り込」んだんですか? これこそ私は怒りとともに強調したいですが、いい加減にしろ! ってことです。アリョーシャもイワンもイリューシャもゾシマもキリストも泣いていますってば! 「勢いと感性で書かれた」なんていわれたら、ドストエフスキーも泣きながら身もだえしていますって!

 さて、先に引用した「文藝」への私の原稿ですが、あれが前段(「POPと私」というほどの意味の文章)で、その後に、私の推す三つの作品を私のPOP(画像)とともに紹介する ── 全四ページ ── という形になっていまして、つづく二ページで、私は『フランスの遺言書』(アンドレイ・マキーヌ 星埜守之訳 水声社)と『フォー・レターズ・オブ・ラブ』(ニール・ウィリアムズ 石川園枝訳 アーティストハウス)について書きました。

フランスの遺言書
 二〇〇〇年からこちら、これ以上の翻訳作品に出会っていない。これまでに私は四回読み、四回めも感嘆して読み終えた。発売以来五年間一度も切らさずに店に平積みし、何度もPOPを書きかえている。いつもうまく書けない。
 ロシア革命の混乱期からずっと、二〇世紀のほとんどを、この広大な国に閉じこめられてしまったままのフランス女。彼女が「ぼく」の「祖母」シャルロット。この魅力的な女性を「お婆さん」として思い浮かべることはできない。「ぼく」の語る彼女はいつまでも、たくさんの危機をくぐりぬけてきた、若いときのままのすがすがしさを維持していて、めくってゆくページに彼女が現れるたびに、なにか美しい音楽が聴こえてくるような感じがする。ソヴィエト生まれの「ぼく」に「接ぎ木」されるフランス。彼女のフランス語で考えると自然に思われる同じことがらが、ソヴィエトのロシア語で考えようとすると、異様に響いてくる ── そういう発見を「ぼく」は重ねていく。「彼女のフランス」への憧れが言葉・想像力・自由・文学などの問題に結んでいく。といっても、芯の強い、ていねいな美しい文章で。POPに指定した立ち読みページは、数年ぶりの夫婦再会の場面。
「けれども彼はずっと遠くのほうにあらわれて、そしてそれが少しずつ夫の顔になっていった。妻はそのあいだ、ひとりの男のシルエットのせいで通りが見知らぬ道に変わってしまうのに目を馴らしてゆきながら、男がぼんやりとした微笑みを浮かべているのにもう気づいていた。ふたりは駆け寄りもしなかったし、言葉も、抱擁も、交わしはしなかった。お互いに向かって永遠に歩きつづけてきたように思えたのだ」。
 この読書体験に定価二七三〇円(税込)はけして高くない。

(「文藝」二〇〇四年秋号 河出書房新社


フォー・レターズ・オブ・ラブ
 二〇〇一年発行。廉価の「新装版」が出たばかり。旧版の売れ行きの悪さにもかかわらず、出版社が「新装版」に踏み切った根拠のひとつに私の勤める店での数字がある。二年半で約一二〇冊の売上。ずっとPOPをつけて平積みにしつづけた。小さな数字だが、同じ結果を百軒の書店が出せば、何度かの増刷ができたはずだった……。「新装版」の帯には私のPOPからの引用もある。
「FOUR LETTERS OF LOVE」四通の愛の手紙。LOVEの四文字。この作品を建造物にたとえると、建材が通常のものとは異なるために工法もまた特殊なものになった、という印象を受けた。つまりは文体が成功しているということだ。そして、この成功は当の作者自身にも今後容易に超えることのできないほどのものではないかと思った。しかもデビュー作。
 立ち読み部分 ── 冒頭の三ページ ── は「ぼくが十二歳のときに、父さんは初めて神様の声を聞いた」という書き出しと、その父親が寒中水泳をする姿など……。「からの衣装ケースのなかでからみ合った針金のハンガーみたいなあばら骨をした父さんは、凍えるような寒さに爪先を丸め、両腕を体から離して歩いているので、両手に見えない鞄を持っているみたいに見えた」。
 この作品をあからさまな愛の讃歌として読み終えるひとの多いことは予想できる。しかし、作者は「神様」とか「愛」などというものをまともに語りだせば笑われてしまうことを十分に承知した上で、周到にこの物語世界を構築している。これはとても大事なことだ。若い主人公たちの「愛」の行方よりも、彼らの生きる「世界」を描ききることの方に作品の成否がかかっている。そしてこの作品の全体はその「世界」へ向けてのラブレターになっていると思う。

(同)


 以上につづいて、私はこの作品について書きました。松沢呉一『魔羅の肖像』(新潮OH!文庫)です。

魔羅の肖像
 この本も二〇〇〇年の発売時からずっとPOPをつけ、平積みにしてきた。先に触れた「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」というPOPを書きながら、私の思い浮かべていた何人かの一人がこの『魔羅の肖像』の松沢さんだ。この本は彼のたたかいの記録である。
「『いいチンポ・悪いチンポ』があるのかないのかを探し求めて幾千里」の松沢さんは他の誰かに気をつかって口をつぐんだりしない。あくまで真実を追求していく。たとえば、挿入された芝居調の部分 ── ここはそれまで提起された問題点の整理・まとめの役を見事にはたしている ── を読んでほしい。「医者 : ええい、忌ま忌ましい、そんな愛のない女と付き合うお前が悪い。愛さえあれば、女はそんなものを気にしないのだ。/ 患者 : 愛はありました。 “愛しているけど、チンポが小さい”って言われたんです。/(看護婦鈴木、遠くを見る目をして呟く)/ 鈴木 : 愛で乗り越えられるものと、乗り越えられないものがあるのよ。それに、いいチンポだと、愛がなくても楽しめるのよねえ」。
 問題を隠すな目をそらすな他のものと混同するなすり替えるな。これが松沢さんの一貫した態度で、「チンポ」の真実を追求することが、それを隠蔽する大きなものとの数知れぬたたかいになる。こちらは爆笑しつつ読みながらも、彼の嗅覚や思考、また方法、あるいは怒りや情熱に感動する。その一方で、発表の場を転々とし、読者のあまりの少なさに、しばしば消沈して嘆く松沢さんの姿もある。小説ではないが、悪漢小説(ピカレスク・ロマン)「魔羅をめぐる松沢呉一の冒険」というふうにも読めるほど、著者自身の声にあふれている。痛快な一冊。

(同)


『魔羅の肖像』には、著者松沢呉一がある雑誌の女性編集者へ送った手紙が引用されているんですね。

 さて、あなたが書いた「彼とのセックス、結婚したらどうなるの?」という記事ですが、悩み相談の回答はいいとしましょう。でも、「好きなら相性なんてない」なんつうのはウソです。これについては3名の先生方が正しい(この悩み相談は、3人の医者や心理学者が回答していて、彼らは「セックスには相性がある」としているにもかかわらず、編集部は「好きなら相性なんてない」との結論を書いている。なんのための回答者か)。いくら好きだって、よくないものはよくない。そして、よくないことは断固解消すべきです。長い人生ですから。
 しかし、ここはたいした問題ではありません。問題はこの次です。こういう企画(「男はこんな女が嫌い」)って大嫌いなんですよ。男性誌でも「女はこんな男を求めている」といったような特集がありますが、こういう発想って人間をつまらなくする。ここに出ている男の意見そのものをすべて否定したいし、こんなものを読んで、納得するような女も否定したい。ここに出ている男の意見は、編集部の「つくりもの」なのかもしれないが、こんなヤツらまとめて全否定してやる。
 ……(中略)……
 とまあ、こういうことです。そして、この特集全体が、男が望むかわいい女という像を自分にあてはめ、そのために自己を喪失しようが、自分のやりたいことを捨てようが、それこそが女の幸せだと主張している。ああ、気持ち悪い。
 ……(中略)……
 20代後半から昨年まで、ほとんどセックスレスで過ごした僕があえてこの時期に無謀とも言えるセックス讃歌を何故打ち出したかといえば、恐らくこの国では、反動的な動きが今後強まるであろうとの予感がしたためです。日本にだって、常に性を規制し、性を悪であるとしたい人々はたくさんいるんですよ。エイズの問題で彼らが力を得ることは間違いなく、この約20年、30年の間に築いてきたものが一挙に後退するかもしれない。だからその前に、エイズへの対策をしっかり各々がやり、その上であくまでセックスを楽しみ続けようではないかということです。そして、これは個の自由を断固確保し続けるというところにまで至ります。

松沢呉一『魔羅の肖像』 新潮OH!文庫)


 思い出しましたが、この「文藝」への原稿依頼があったときに、私は編集者に『魔羅の肖像』について書きたいが、それでもいいか、と訊いたんですね。いま考えると、わざわざそんなことを訊いた私自身が笑えますが(同様に、私自身の文章の当時のレヴェルにも笑えます)。

 松沢呉一は世間の「レッテル」好きを徹底的に批判しているんです。彼は「ひれ伏すな」のひとです。彼が一貫して書きつづけているのは「個の自由」の問題です。私は繰り返しますが、「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」んです。「あっていい」どころか、「あるべき」、いや、「なければならない」んですよ。

 私は『魔羅の肖像』を読んで感動し、著者松沢呉一がネット上で「黒子の部屋」を書きつづけているのを読んでいました。その後、彼は有料のメルマガ「マッツ・ザ・ワールド」 ── 購読希望の方はここ(http://www.pot.co.jp/matsukuro/)をチェックしてください ── を発行することになるんですが、私もその購読者のひとりです。毎年購読の更新手続きがあって、振込みしたことを彼にメールで通知するんですが、その際、私はもう半年以上つづけているこの亀山郁夫批判のことを書き、「松沢さんには興味がないかもしれませんが」と断わりつつ、「連絡船」とこの一連の文章をまとめたPDFファイルのアドレスを伝えました。

 松沢さんが「マッツ・ザ・ワールド」の「まつわる便り」(読者からのメールを紹介し、松沢さんのコメントを添えたもの)において、私のメールについてどう書いたか? これは、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのない、しかし、出版業界で仕事をしつつ、この業界の先行きについて非常に悲観的な見かたをしているひとの「一般論」になりますが、

 おっしゃる通り、『カラマーゾフの兄弟』には興味がないので、ほんの一部しか読んでおらず、私には知識もないので、木下さんが書いていることが正しいのかどうか判断もできないですが、木下さんの苛立ちは共有できます。その苛立ちがあるから、私も文章を書いているわけで。
 ただ、歳をとったせいもあって、所詮この世の中はそんなもん、正しさなんてことは求めていないのだろうという諦めもあって、世の中はどうあれ、自分がわかっていればいいやと思っていたりもします。
 ドキュメンタリーは好きなんですけど、テレビでやっているような雑学的なクイズ番組は嫌いです。ここでは一言で言える解答が正しいとされます。でも、実際にはそんなに簡単ではないことが多くて、一言で言おうとするから、間違った話が流布してしまいます。
 例えば、今度の単行本に入る「トルコ風呂の元祖は東京温泉ではない」という話も、「では、何か」というと、「わからない」と言うしかない。しかし、これでは解答にならない。
 テレビのクイズ番組では、「それを知っていることが偉い」という価値観になっていて、「それを疑うこと」「どうしてそうなのかと考えること」に価値はない。暗記能力が求められているだけ。「トルコ風呂の元祖は?」なんて問題は出ないですけど、他もすべてそういうものでしょう。
「本当は違うけど、お約束としての答えを設定しておいて、それを知っていることが偉い」ということでしかないことを踏まえて楽しめばよく、いちいちそれに噛み付くのは大人気ないのかなと思いつつ、言えばわかる人に向けて書いていけばいいやというところです。
 出版社のほとんども、正しいものを売るのでなく、正しくなくとも売れるものを出す。とりわけ昨今はそうでしょう。書評を書く人も同様。何日もかけて、その内容を検証する人はまずいない。そんなことをしていたら商売になりませんので。
 たまたまこの間、ワイレアをクビになった福田君とも話していたのですが、この世の中で、「いい書評」と言われるのは、「いい宣伝文」に等しく、著者や出版社が嫌がるような指摘をするような人は歓迎されない。内容と後書きを要領よくまとめたようなものがいい書評とされているとしか思えないです。
 所詮テレビはそういうもの、出版はそういうもの、大衆が求めているのはそういうものであることに飽き足らない人たちがわかっていればいい。
 と思っていたのですが、ネットの登場によって、少しはこれを変えられるかもしれないし、木下さんがやっていることを面白がって、本にする出版社が出てくるといいんですけどね。こういうものはもうネットからしか出てこないでしょう。

松沢呉一「マッツ・ザ・ワールド」)


「と思っていたのですが、ネットの登場によって、少しはこれを変えられるかもしれない」に私は希望を見出します。「こういうものはもうネットからしか出てこないでしょう」にも共感します。
 まったく、インターネットというものがあってよかった、と私は痛感しています。ここでは誰もが自由に発言できるんです。亀山郁夫について「王様は裸だ」といいうるんです。
 少し前にクリント・イーストウッドの『チェンジリング』という映画を観たんですね。一九二八年に実際にアメリカであった話です。ある母子家庭から息子がいなくなり、五か月後に戻って来るのですが、それが実は別人なんですね。偽の息子は本人だといいはります。母親は彼を別人だと訴えるんですが、ロサンジェルス警察は彼女を逆に精神病院に収監してしまいます。当時汚職にまみれていたロス警察の名誉挽回の事件だったために、警察は事実を捻じ曲げます。しかし、母親を支援するひとたちがいました。ある牧師は自分のラジオ番組(あるいは、自分が放送機材を揃えていた ── 自分の局 ── のかもしれません)を持っていました。彼はこの事件での警察のでたらめを糾弾しつづけます。やがて市民のデモなども起き、母親は解放されます。そうして市警と対決することになるんですね。
 私はこれを観ながら、まるっきり『カラマーゾフの兄弟』じゃないか、と思ったのでした。ある日、偽物の『カラマーゾフ』が本物と自称しながら市場に出回り、それを偽物だと指摘したひとたちが非難される(あるいは相手にされない)という図ですね。しかし、一九二〇年代に先の牧師が持っていたラジオ番組以上の道具 ── インターネット ── がいまの私たちにはあります。
 映画は、しかし、あまりにも悲惨な内容ですが、私は勇気づけられました。

 さて、ここしばらく『カラマーゾフの兄弟』そのものから離れた記述ばかりがつづいていますが、次回もこの延長です。そこでは、もう一度「些細なことながら、このようなニュアンスの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く」の表題をはずれます。そうして、「これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読むひとのために ── 亀山郁夫訳による新訳がいかにひどいか」の反復、あるいは、ここまでの批判のまとめのような文章を、私は提出することになると思います。形式としては、あるひとへの公開書簡という形をとるはずです。



 PDFファイルも更新しました。http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.html
 これで文庫の字詰めにして約550ページ。